それを拾って
そして。
父に期待ができなくても大丈夫、と言ったアレクシアのもう一つの考えていたこと。
この日、彼女は朝学園に登校してきたかと思ったら、階段を一つ上がった先にある二年生の教室に現れていた。
そこで強く床を踏みしめて、一人の女子生徒の前に立っている。
例の、ノーラントに愛される花のように可憐なリナリー・ミュンヘルの目の前に。
こんな朝から何事かと沢山の生徒が見守る中で、アレクシアは腕を大きく上に上げる。彼女の燃え上がるような深紅の髪が一束ふわりと宙に舞う。
そして、アレクシアはこれで最後だとばかりに大きく振りかぶって、白い手袋をリナリーの顔面に投げつけていた。
「リナリー・ミュンヘル、決闘よ。私が負けたら私はもうノーラントと貴方には必要最低限しか近づかない、話しかけない」
アレクシアなりに考えた。
…この決闘で負ける。
本来ならば、決闘は勝ち取りたいものを巡って自身の大切なものを懸けて戦う、一対一の誇り高い貴族の戦いだ。
だがアレクシアは負けるつもりでいる。
敗者に適用される決闘の誓約の効力を利用して、ノーラントが早く婚約破棄をしやすくなる状況を作ろうと考えたのだ。そして同時に強制的に自分の気持ちをノーラントから決別させたいとも思っている。
これはアレクシアがノーラントにしてあげられる最後のこと。
婚約破棄はもしかしたら明日にでもされるかもしれないが、アレクシアの父であったり政治的なものであったり、いろいろなしがらみがあって時間がかかっているのなら、これはノーラントに非常に有利に作用するはずだからだ。
馬鹿な婚約者が破天荒な決闘を申し込んで負けて、自ら勝手にもう話しかけないだの近づかないだの言っているならば、ノーラントはクロスライト家との婚約破棄の交渉もしやすくなるはずだ。
そしてこれはアレクシアが、無残にボロボロになるまで頑張った自分にしてあげられる最初のこと。
自分のため、もう泣き腐ったままでいないために。
前に進むために。
無様に未練たらしく彼に付きまとう私を嫌悪するあの顔を、これ以上見ないために。
私が『何をしたいのか何をしたらいいか分からない』と泣きごとを言ってしまわないために。
幼い彼と私の幸せな思い出を、冷徹な眼差しで私を見る彼の顔で塗りつぶしてしまわないために。
そして最後は、彼に笑ってリナリーと結婚おめでとうと言ってあげられるようになりたい。
アレクシアは自分なりに腹をくくったつもりだ。
これでも貴族の娘として、決闘の誓約を守り切る自負と誇りくらいはある。
生半可に覚悟したわけではない。
あとで父にはなんて馬鹿な真似をしたのか、と怒られるかもしれない、と思う。
母には、折角王妃になれたかもしれないチャンスを、と泣かれるかもしれない。
そうしたら、ノーラントを取り戻したくて全力でやったけど負けました、としょげ返って見せればいい。
このまま私の愚行を武器にノーラントが婚約破棄を押し切ってしまえば、たとえ私との婚約が王位継承争いの為の重要な政略だったとしても、そしていくらクロスライト家に力があると言っても、その婚約破棄は最終的に受け入れられるだろう。
そう。あの頃は幼くてこの婚約を受け入れざるを得なかったノーラントも、今なら上手に周りを説得して、波風立たせずに結婚したい相手と結婚する権利を自分で掴み取るだろう。
そして、欲しいものをすべて手に入れた上で、王位継承権も掴み取るのだ。
そういう面でも、ノーラントはもう昔のノーラントではないのだ。
アレクシアも、少し前までの抜け殻のようだった自分ではもうない、と思いたい。
「リナリー・ミュンヘル。それを拾って」
それ、とはアレクシアが投げつけた白い手袋のことだ。
「いえ、遠慮しておきます。私ではどうあがいてもアレクシア様に勝てないでしょうから」
リナリーは間髪入れずにそう言った。
リナリーのクラスで、仁王立ちで決闘を申し込む凛々しい赤髪のアレクシアとは対照的な、短めの薄青色の髪を持つ、物静かな雰囲気のリナリーはこてんと首を傾げて儚げに笑っていた。
リナリー・ミュンヘル。
ミュンヘル侯爵家の令嬢。この学園の二年生の生徒。アレクシアの一つ上の学年でノーラントやライドルトの一つ下の学年だ。
聡明そうな印象に違わず、座学の成績は学年で常にトップ。
だが、武術や魔法の成績は良くて中の上と言ったところか。
しかしそんなこともはや大切ではない。
彼女は、ノーラントがアレクシアとの婚約を破棄してでも手に入れたいと思っている女性なのだ。
そして、彼女に害をなした自身の婚約者をも嫌悪してしまうほど、ノーラントに愛されている女性。
ノーラントのアレクシアへの態度が冷たいものに変わってきた始まりは何がきっかけだったのか、曖昧でもうよく思い出せないのだが、確かアレクシアがリナリーに嫉妬し始めた時だった、とアレクシアは思っている。
ノーラントの周りにリナリーが現れ始め、アレクシアは彼に『彼女は何だ』『何故そんなに仲が良いのだ』と問い詰めたが、欲しい答えは返ってこない。
そしてやりきれなかった怒りの矛先は、徐々にリナリーに向かった。
自分の嫉妬が原因でノーラントが態度を変えたのだから、改めるべきだと理解はしていても止められなかった。
アレクシアより一つ上の学年だが、アレクシアの家より爵位の低い家出身のリナリーには『人の婚約者に手を出すな』と威嚇することから始まって、執拗に質問してみたり、不躾に睨んでみたりした。無意味にリナリーに喧嘩を売ったこともあった。
彼女の苦手な分野である武芸に秀でているアレクシアは、1、2年生合同の武術訓練で子供の喧嘩のようにリナリーに向かって行って彼女をボコボコにしたこともあった。
そんな時は決まってノーラントがリナリーの味方をする。
見せつけるようにアレクシアからリナリーを助け出す。
そして大人げないアレクシアを静かに罵倒する。アレクシアを睨むリナリーの肩を抱きながら。
確かにリナリーは賢い女性かもしれないが、王妃になる覚悟もなにもない。強くもない。それなのにノーラントの横にいることを無条件に許されているのが許せない、とその時は思ってた。
そしてそんなリナリーを婚約者がいるにもかかわらず好きになって、今までアレクシアと二人で築いてきた信頼関係を全てぶち壊しにしたノーラントも許せない、と思っていた。
以前はそんなことを思っていた。
最近では、虚しさがあらゆる感情に勝ってしまうので、リナリーに話しかけることさえなかったが。
だからアレクシアが近づかなくなるだけなんて、ノーラントからの寵愛を一身に受けているリナリーにはあまりメリットのない提案だったかもしれない。
だがこの決闘に勝てば、ノーラントが婚約破棄を押し通すいい材料になるはずなのは、この才女ならば分かっているだろう。
リナリーだって早く公私ともにきちんとした婚約者になりたいはずだ。
アレクシアは、リナリーが散々要求と条件を突き付けてきた後、決闘を承諾すると踏んでいる。
「魔法は使わない」
「もちろん、アレクシア様の魔法は無しでしょう。相手にしたら焼死もしくは蒸発、下手したら決闘場が火の海ですよ」
リナリー・ミュンヘル、先ほども言ったが戦闘能力において何も特筆すべきところがなく、魔法もろくに使えない。
この侯爵令嬢が魔法使用可の決闘でアレクシアと対峙しようものなら、骨も残らず灰になって終わりだ。
アレクシアによって投げられた白い手袋も床に落ちたまま、まだ誰にも見向きされていない。
「じゃあ、貴方の代理を立てて」
「…へえ、誰でも構わないのですか?」
先程まであまり興味がないとばかりにぞんざいな態度だったリナリーが、何かを探るようにアレクシアを見る。
「もちろん」
アレクシアを負かしてくれるなら誰でもいいなんてリナリーには言えないが、アレクシアはその代わりに強く首を縦に振った。
「アレクシア様では絶対勝てないような強いお方でも?」
「ええ。誰でも」
「ではアレクシア様のハトコ、ライドルト様でも?」
少し考えたようなそぶりを見せてから、リナリーが言った。
ライドルトはとても強い。
ここでリナリーが、ライドルトを選んできてくれたのに他意があるのか、それともただ単にライドルトが学園で最強クラスだと認識されているからなのか分からない。
分からないし、どうでもいい。
いやむしろ、都合がいい。
間髪入れずアレクシアは強い瞳で返答する。
「ええ、もちろん」
全力のアレクシアでも完全に歯が立たないライドルトに、確実に負かしてもらえるなら好都合。
願ったりかなったりだ。
弱っちいリナリーが剣を取ることになったらまずいので、腕の立つ代理は立てさせようと思っていたのだが、ライドルトが相手なら、思う存分全力で向かって行ける。
全力で負けられる。
魔法を使わない純粋な武芸の試合でアレクシアがライドルトに勝てたことは、今まで散々手合わせしてきたが、ただの一度もないのだ。
…ぐうの音も出ないほど、完全に負かしてほしい。
ノーラントへの未練が擦り切れるまで徹底的に打ちのめして欲しい。
今までの醜い嫉妬を償えるくらいまで完膚なきまでに叩き潰して欲しい。
変わるための贖罪はそこでさせて欲しい。
「あと、アレクシア様は誓約の期間を明言されませんでしたね。どうします?」
立っていたリナリーはアレクシアに問いながら自らの席に移動し、座り始める。
アレクシアはリナリーに磁石のように引き寄せられるまま移動し、答える。
「私の期間は貴方がいいと言うまででいいわ」
「へぇ、いいんですか?私は一生いいと言わないかもしれませんよ」
「将来私がクロスライトの当主として王族と話すのは必要最低限の業務の時だけだし、貴方にもたくさん迷惑かけたから、例え貴方が一生いいと言わなかったとしても、それは覚悟できてる」
アレクシアはゆっくり頷く。
一年か二年そこらのそんな短い期間でノーラントのことを諦められるわけがない。むしろ、ノーラントのことは生涯一番好きなままでいる自信があるのだ。一生話しかけないくらいのことをして、ようやく歯止めが利く。
この意地にも似た気持ちは、彼が好きだと言う気持ちが大きすぎることへの反動だと思う。
しかし将来特に困る事も無いだろう。
彼が王になったら尚更だ。アレクシアがいくら公爵家の人間と言えどプライベートでホイホイ会えるような相手ではなくなるのだから。
「私は、一生をかけた決闘なんて重すぎていやですけど」
「じゃあ貴方が懸けるのは、えっと、半年くらいでいいか」
アレクシアは適当に提案した。
決闘の誓約が平等である必要はもちろんない。双方の同意があれば、例え明日の昼ご飯と己の命を懸けた決闘でも成り立つ。
「そして私の誓約は、負けたら貴方がいいと言うまでノーラントに話しかけない、で大丈夫よ」
そのアレクシアの言葉に『へえ』と言うように首を傾げたリナリーは少し黙ってから、気を取り直したように『では』と言ってリナリーの席の前に立っているアレクシアを見上げた。
「決闘で負けた時に誓った誓約を覆そうと思ったら、その誓約を誓った相手が死ぬか、その相手が誓約の破棄を認めた時だけできますが…
アレクシア様の今回の決闘の場合、その相手は私。アレクシア様は私がその誓約を破棄するなんて期待してませんよね?そうなると後から私がアレクシア様に暗殺や拷問される懸念があります」
「貴方に危害は一生加えないという誓約も追加する」
「そうですね。この手の誓約であればそれが定石でしょう」
最初から暗殺を計画せずに自らの誇りをかけて決闘を申し込んでいる時点で、後から暗殺や拷問という暴挙に出る可能性は低いというのはリナリーも分かっているのだろう。事務的にそう言った彼女の薄青色の髪が揺れる。
そして彼女は決闘の概要を確認する。
「では、魔法なしの正式な決闘で、アレクシア様対私の代理でライドルト様で。
アレクシア様が勝ったら、私は半年間ノーラント様に必要な場合以外近づかない、話しかけない。
ライドルト様が勝ったら、貴方はノーラント様と私に必要な場合以外近づかない、話しかけない。そして期限は私の裁量で。私の今後の安全も保障してください。それでいいでしょうか?」
「いいわ」
アレクシアのハッキリ発音された肯定の言葉を聞いて、リナリーがふわりと笑った。
もう会話は終わりですねとばかりに教科書を机に出し始めている。
「もちろん代理の件は私からライドルト様に話しますので。決闘は3日後にしましょう」
教科書を出し終わり、机にトントンと打ち付けて整頓しているリナリーのその言葉に、アレクシアはこくんと頷いた。
これで、後戻りはできない。
後戻りはしない。
誰にも拾ってもらえない手袋が床に落ちたままだったので、仕方ない、と思ってアレクシアは自分で拾い上げた。
…確かに、この茶番は自分に決闘を申し込んで、自分で受けたようなものだ。
だがこれでいい。
今の私はこうしたいと思った。
きっと将来、私がここでこの決断をして準備をしてよかったと思える日が来るはずだ。
その、はずだ。