婚約破棄
「アレクシア・ヴァン・クロスライト」
この国の王宮の大広間にある豪華な舞台の上で、王位継承の儀を終えたばかりの第一王子・ノーラント・ヴァン・オーフェンが放った鋭い声に、客席にいる彼の婚約者、アレクシアは硬直した。
この瞬間が来ることは早くから分かっていた。だから覚悟は疾うの昔にしていたが、やはりこの冷たい声を聞くと足がすくむ。
ふう、と大きく息を吐いてアレクシアは目を閉じた。
憎んでいるなら早く切り捨ててくれと婚約破棄を申し出ていたのに、待たされて待たされて、遂に婚約破棄をされる時が来た。
長かった。
アレクシアはこんなに大勢の来賓客の前で、盛大に婚約者に捨てられるのだ。
国賓や国の幹部クラスの人たちだけではなくて、公爵令嬢であるアレクシアのクラスメイトの顔もちらほら見える。
「はい」
アレクシアはゆっくりと返事をして立ち上がった。アレクシアの深紅に光る髪が揺れた。
周りの客たちが何事かと顔を見合わせ、第一王位継承者と、その婚約者の女性を見ている。
…最後まで怯まず凛と立って居よう。婚約者から疎まれた私には、それしかできることはない。
アレクシアは目を開けて、目の前の舞台から自分の方へ向かってくるノーラントを見つめた。
彼女の果てしなく静かで深い夜のような藍色の瞳が、ノーラントの焼け付くような夕焼け色の瞳を捕らえた。
…こんなにちゃんと目が合ったのはいつぶりだろうか。
大好きだった婚約者のノーラントが断罪の言葉を述べるまでに、果てしない時間が流れた気がした。
久しぶりに見た彼の目に、記憶の奥深くに埋めたはずの思い出が迂闊にも転がり出てきて、止まらなくなった。
これはもしかして死ぬ間際なのだろうかと思うほど、たくさんの美しい思い出が脳裏によぎる。
まるで走馬灯のように。
花で冠を作ってくれた幼いノーラントの綺麗な顔。アレクシアが悪戯をしてノーラントを酷く怒らせた時の眉間にしわを寄せた顔。武術の稽古で負けて悔しそうな顔。誕生日プレゼントをあげた時の嬉しそうな顔。足を折った時にお見舞いに来てくれた心配そうな顔。
そして、『この国で一番のお嫁さんが貰える僕は幸せ者だ』と心から笑ってくれたノーラントの顔。
「婚約破棄をして欲しいなどとは、もう言うな」
アレクシアの目の前に立っている彼の声で、誰かがそう言った気がした。
ああこれは幻聴だ、とアレクシアは呆れたように笑った。
どれだけ覚悟していようと、どれだけ望んでいたものだったとしても、辛いものは辛いらしい。
幼い頃から己の半身のように愛してきた彼との関係が――最後は書面上だけの関係だったが――無くなったのだ。
吹っ切れたと思っていたのに、私は今でも幻聴も幻覚も見える程辛いらしい。とことん救えなくて笑ってしまう。
いくら刺すような言葉で気持ちをボロボロにされても、何の感情もないガラスのような眼で見つめられてもう愛していないと伝えられても、嫌いも通り越して無関心になられても、やっぱり好きだったことを思い知る。
大好きだった、ことは思い知る。
でもそれは悟られてはいけない。
それに流されてはいけない。
その為にこの半年準備してきた。
これからは愛するリナリー嬢とお幸せに、と言って笑うんだ。
笑え、笑え、笑え。
必死に言い聞かせたのに喉から出かかったのが祝福の言葉ではなく、嗚咽だったことにアレクシアが愕然とした時。
…え?
アレクシアはハッと顔を上げた。
幻覚とは思えない、目の前のノーラントの手が彼女の頬に触れていた。
今までアレクシアに向けてきた虫でも見ているかのような顔とは全く違う、優しい顔でノーラントが目の前にいる。
「…………」
そして本物のノーラントが、再度、はっきりと何かを言ったが、
今度は突然、雨が打ちつけるように何発も発砲された銃声により、彼のその声が何を伝えようとしていたのか、
アレクシアの耳にその言葉は届かなかった。