踏切の前で
遮断器の向こうを一台の電車が軽快な音を立てながら走り抜けていき、少しだけ遅れて夏特有の生暖かい風が吹き抜けていく。風に煽られた長い髪を手で梳かしかながら、美音は踏切警報機へと向ける。警報灯にはまだ赤い矢印が映されたまま。カンカンとけたたましい音だけが静かな田んぼが広がる場所に虚しく響き渡っている。
「今何時?」
いつの間にか自動販売機から戻ってきた武雄が、自転車に跨った状態のまま美音に尋ねる。武雄が乗る自転車のかごには二つのペットボトルが入れられていて、表面にはうっすらと水滴がついていた。武雄の制服の袖は捲し上げられていて、Yシャツの第一ボタンは外されている。襟元からのぞく鎖骨部分には、うっすらと日焼けの跡ができていた。
「もう9時半」
「じゃあ、もう一時間半経ってんのか」
武雄がかごに入れていたペットボトルを美音に投げ渡す。自転車から降り、スタンドを立てて自転車を停める。美音は武雄から受け取ったペットボトルを開け、一口だけ口をつけた。乾ききった喉にぬるくなった水分がゆっくりと流れ込んでいく。それと同じタイミングで今度は逆方向から電車がやってきて、美音の髪がふわりと揺れる。警報機の音はまだ、止まない。
「なんでこんな田舎の踏切がこんなに長い時間開かないんだろうね。夏期講習をサボる言い訳になるから別にいいんだけどさ」
「さあな」
二人は木陰になっている虎縞模様のフェンスに腰掛ける。先に座っていた武雄が横にずれ、美音のために空間を開けてあげる。
「他の踏切で捕まってた真奈たちはもう勝手に家に帰ってるらしいよ」
美音が手で風を送りながら武雄につぶやく。
「お前だけでも家に帰れば」
「武雄はどうすんの?」
「俺はもうちょっとだけ待って、それでも駄目そうなら自転車に乗って迂回路を回ろっかな」
「……じゃあ、私ももうちょっとだけ待つ」
踏切の音に混じってセミの鳴き声が聞こえてくる。茅葺屋根の家々の向こうには緑が茂った山が連なり、その上には肥えた入道雲が浮かんでいる。地面に浮かび上がる点々とした木漏れ陽は、二人の後ろを電車が通り抜けていくたびに小刻みに揺れていた。
美音は手に握りしめていたスマホから顔をあげ、隣りに座る武雄のほうへと目を向ける。そして、武雄の耳からイヤホンを引っこ抜き、「なんか面白い話してよ」と話をふっかける。
「何だよ面白い話って」
「初めてクラスが別々になってからもう四ヶ月近くなるんだからさ、私の知らない話の一つや二つくらいできたでしょ」
「ないよ、そんなもん」
「ないなら、嘘でも冗談でも昔話でも作り話でもいいから。暑さには耐えられるけどさ、退屈だけはどうしようもないの。じゃあ、せっかくだしさ、お互いが今まで内緒にしてたことを交互に話し合うなんてのはどう?」
美音の提案に武雄が眉をひそめる。二人の後ろを電車が駆け抜けていく。
「何だよ、内緒にしてたことって」
「いくら幼馴染って言っても、秘密にしてることくらい一つや二つくらいあるでしょ。はい、決定。じゃあ、武雄からね」
武雄がもう片方のイヤホンを外し、考え始める。
「うーん。今まで黙ってたことねぇ……。まあ、一つだけあるけどさ」
「何?」
「実は、俺。地球人じゃなくて、土星人なんだよね。地球を侵略するための調査のためにこの地球にやってきたの」
「……」
「驚いた? まあ、無理もないよな」
「……あんたは藤井武文と藤井理香子の子供で、生まれた病院だって私と一緒だったじゃん。それに小中高と一緒の学校に通ってきたし、何言ってんの?」
「えーと、それはあれだよ。SFとかでよくあるだろ。それは記憶が改ざんされているからそう思い込んでるだけで、実は俺は数年前に地球に初めてやってきた宇宙人で、存在しない藤井武雄っていう実在しない人間を演じてるってことなんだよ」
「ふーん。じゃあ、武雄が小5のときに、運動場でおもらしして号泣したってのも作られた記憶ってわけ?」
「……ほら、そういう恥ずかしい思い出とかあったほうがリアリティが出るだろ? それとあれは別に漏らしたんじゃなくて、漏らしそうになったの間違いだから」
カンカンと電車が音を立てて走っていく。遮断器の音が蝉の音に紛れて響く。
「他にもおかしい点がありますけど? そもそもなんで地球を侵略しにきた宇宙人がこんな田舎を調査しているわけ? 調査するんだったら普通首都の東京を選ぶはずだし、私が宇宙人だったら、そもそも日本じゃなくてアメリカに調査員を派遣するけど。それに年齢だっておかしくない? いくらでも記憶をいじれるんだったら、そこらへんにいる普通の高校生なんかより、お金を持った成人男性にしたほうがずっと行動範囲も権限も広がるのに、どうして色々と成約の多い未成年にわざわざ宇宙人がなりすますわけ?」
「……今度はお前の番だぞ」
「あ、逃げた」
「逃げてない。ただ、美音じゃ相手にならないってだけ」
美音がじっと武雄の目を見ると、武雄は視線をごまかすようにペットボトルの水に口をつける。少しだけ出っ張った喉仏が上下に動く。一台のトラックが踏切の前で停まり、黒く日焼けした初老の男性が運転席から美音と武雄に話しかけてきた。武雄がまだまだ開きそうにないですと返事をすると、運転手は大声で笑いながらトラックをバックさせる。そして、そのまま灰色の排気ガスを吐き出しながら、トラックは通ってきた道を戻っていった。トラックが舗装されていない道路の溝に嵌るたび、少しだけ間の抜けた様な音がかすかに聞こえてきた。
「じゃあ、私もこの際、今まで黙ってたことを話しちゃおっかな」
トラックを見送りながら美音が話を切り出す。
「実は私は今、こんな田舎に住んでるけど、本当は私はポーランド貴族の娘で、お祖父さんの政敵から身を守るために一時的に疎開しているだけなの。驚いた?」
「……ポーランドは第一次世界大戦中に貴族制度が廃止されたはずだけど」
「嘘。ポーランドじゃなくてハンガリーの間違い」
「ハンガリーもない」
「逆にどこの国ならまだ貴族がいるの?」
「確かオーストリアとか、ベルギーもまだあったっけな」
「じゃあ、オーストリアで」
「じゃあって何だよ。じゃあって」
「いいの、細かいところとかは。とにかくは私は貴族の娘で、武雄みたいな一般人がこうやって気軽におしゃべりできる相手じゃないの」
「一般人じゃなくて、土星人な」
「オーストリア人から見れば日本人も土星人も一緒です。でね、オーストリアには私より爵位の高いアルフレッドっていう名前の許嫁がいるの。オーストリアの名門大学に通っているすごく頭のいいイケメンで、私が二十歳になったらオーストリアに戻ってその人と結婚することになってるんだ」
「うーん、ありがちすぎない?」
「ありがちも何も事実なんだからしょうがないでしょ。でもね、悲劇的なことにアルフレッドには生まれたときから一緒にいる、ミーシャっていう幼馴染がいるの。二人は同じ病院で生まれて、同じ教育を受けて、お互いのことを知り尽くしていて、そして何より重要なことに、お互いがお互いに好き合ってる仲なの。ミーシャはとてもかわいくて、性格もいい娘なんだけど、アルフレッドよりもずっと身分が低い家の生まれなの。だから、いくら二人が相思相愛でも、アルフレッドのご両親は二人の愛なんて絶対に認めてくれない。これってとても悲しいことじゃない?」
「確かに絵に描いたような悲劇だけどさ。でも、しょうがないって言えばしょうがないんじゃないの?」
「でもさ、アルフレッドとミーシャは本当に昔から一緒に居て、お互いのことで知らないことなんてなにもないっていう関係なの。やっぱり、そういうお互いに気心のしれた相手とくっつくっていうのが一番だと私は思うし、身分が違うとか、生まれた惑星が違うとかっていうのは別に関係ないと思うけどな」
「何必死になってんだよ」
「……次は武雄の番だけど」
「え、なに。なんで急に不機嫌になってんの?」
「別に。ただ単に身分とか国籍が違うのはどうとでもなるけど、生まれた惑星が違うとどうにもならないのかもね」
美音が後ろの線路へと振り返る。そのタイミングで再び電車が踏切の前を走り抜けていった。警報機の赤いアンプはまだ消えず、耳障りな機械音だけが辺りに響き渡る。まだ開かないねと美音がつぶやくと、武雄がそうだなと相槌を打つ。
「俺の番って言われてもな」
「別になんでもいいの。土星人あるあるとか、さっき私が指摘したことへの解答とか」
「そうだな……そういえば、さっき美音がなんでこんな田舎に調査に来ているのかって言ってたよな。じゃあ、その答えを教えようか。実はな、それは美音、お前を監視するためなんだ」
「へー? 私?」
「地球に派遣されている土星人は俺だけじゃない。土星人は世界各国に散らばっていて、その中の一つがオーストリアなんだ。そして、そのオーストリアに派遣された土星人っていうのがさっき出てきたミーシャっていう女の子で、彼女は土星政府から重要な任務を任せられている。それは重要な地位にいる地球人とコンタクトを取って、和平の道を探るっていう使命で、そしてその重要な地位にいる地球人っていうのが……美音の許嫁である、アルフレッドなんだ。どうだ、これは知らなかっただろ?」
「ええ、すごいびっくり。ミーシャが土星人だったなんて思いもよらなかったな。でも、確かに腑に落ちる点もあるんだよね。アルフレッドの大学での専攻は確か、宇宙工学だったもの」
「あー……そういう設定なんだ。ま、とりあえず、土星人の中でも地球と和平を結ぼうとする勢力がいて、その中の一人が今オーストリアにいるミーシャなんだ。で、彼女が和平派の代表として、宇宙に詳しくて、なおかつ貴族という身分であるアルフレッドとコンタクトを取っているんだ」
「それでそれで。そこからどう私が関わってくるの?」
「え? えーと、ほら、美音はアルフレッドの許嫁だろ。だから、その警護とか監視をするために、俺がわざわざこんな片田舎で高校生になりすましているっていうわけ」
「えー。ちょっと動機が弱くない? アルフレッドの弱みを握るためだとしてもさ、私とアルフレッドが別に好きあっているわけじゃないってことは、近くにいたミーシャは知っているんじゃない?」
「……これは土星人あるあるなんだけどさ、土星人には恋愛とかそういうのに鈍感なんだ。だからとりあえず、二人が好きあってるって勘違いしたミーシャが本部にそう伝えてしまって、そして俺が許嫁である美音を監視するように本部から命令されたわけ」
「ふーん、土星人は恋愛ごとに鈍感なんだ。それは確かにあるあるかもね」
美音がため息をつく。風が吹いて、木漏れ日が揺れる。今日何百本目かの電車が通り過ぎていく。
「じゃあ、武雄ばっかりに喋らせてて悪いから私が説明するね。実は、私もアルフレッドから土星人の話は聞いていて、武雄とミーシャが実は土星人だって知ってたの。ごめんなさい」
「はいはい、どうもどうも」
「地球にやっていきているのは土星人だけじゃなくて、実は水星人も地球にやってきているの。もちろん、一般の地球人には知られないようにこっそりとね。しかも、たちの悪いことに、友好関係を結ぼうとしている土星人と違って、水星人たちは地球を侵略する気満々ってわけ。で、平和を愛する土星人は地球を支配しようとしている水星人と対立関係にあるの。そういう経緯で土星人と一部の事情を知っている地球人とがタッグを組んで、悪い水星人を倒そうとしている。そして、オーストリアにいる悪い水星人の一人が、私のお祖父さんの政敵である国会議員なの」
「……勝手に設定を膨らまさないでほしいんだけど」
「最初にやったのはそっちでしょ。私のお祖父さんも大学のころは大学で宇宙物理学を学んでいて、あのアインシュタインと交友があった人だから、水星人がごろつきの連中であることも知ってるし、土星人が良い人たちだってことも知っている。だから、もちろん土星人との協力関係を結んでいるわけ。でもね、対立が激しくなるうちに水星人たちもお祖父さんに嫌がらせを始めたの。お祖父さんはいずれ彼らが可愛い孫娘である私を誘拐するかもしれないって考えたわけ。そういう理由で、ミーシャとアルフレッドと協力して私をこの場所まで疎開させることに決めたの。万が一の場合に私を守れるような護衛付きでね」
「これで一通り繋がったけど……オチはどうすんの?」
「何、オチって」
「オチはオチだよ。どうやって終わらすんの?」
「そうね。とりあえずなんだかんだあって悪い水星人は地球から追い出されることになったの。で、その後、ミーシャはアルフレッドにあたかも自分が幼馴染であるかのように記憶をいじっていたことを謝るの。でもね、確かにそれは偽りの記憶だったかもしれないけど、ミーシャが正体を明かし、それから水星人と一緒に戦う中でアルフレッドの気持ちは本物になっていたわけ。そして、エンディング。二人の思い出の屋敷の前で、幼馴染だったオーストリア人と土星人が向き合って、それからアルフレッドからミーシャに愛を告白する。それでおしまい」
「……なんで、そんな無理矢理恋物語にしたがるんだよ」
「なんでって? 決まってるじゃん」
美音が呆れ顔で答える。
「何でも恋に結びつけたがるっていうのが、オーストリア人あるあるだからよ」
美音が大きく背伸びをしながら踏切へと顔を向ける。そのタイミングでまた電車が目の前を通り過ぎていく。踏切の周りには二人の他に誰もいない。それはまるでどこか知らない場所で、たった二人でやってきたような、そんな感じだった。
「はい、武雄の番。私に黙ってたことを教えて」
「もうないよ」
「ないなら別に嘘でも作り話でもいいから」
「そうだなぁ」
二人の間に沈黙が流れる。静けさの中で警報機の音と蝉の音だけが聞こえてくる。「そういえばだけど」と、武雄が口をゆっくりと口を開く。
「これは美音に内緒にしてたことだけどさ。ずっと前から俺、お前のことが好きだよ。別に友達としてじゃなくて、本気で」
美音が武雄の顔をまじまじと見つめる。それから少しだけためらいがちに美音が口を開く。
「嘘でしょ?」
「まあ、嘘だけど」
だろうと思ったと美音がわざとらしくため息を吐く。もう冗談ごっこは終わりね。それからいたたまれない気持ちになって、意味もなく立ち上がる。それにつられて武雄も立ち上がり、地面に置いていた通学カバンを手に持った。
「嘘って言っても、ずっと前からっていう部分だけなんだけどさ」
「はいはい」
左右両方から電車が通り抜けていく。一際大きい風が二人を包み込み、美音の長い髪が踊るように舞い上がった。美音が武雄の方へと振り返る。夏の日差しに照らされたその顔は、ほんの少しだけ赤くなっていた。
「……はい?」
くすんだ薄緑色の電車が駆け抜けていき、それと同時に、踏切警報機から赤いランプが消える。それから、ゆっくり、ゆっくりと、何も言わずに見つめ合う二人の後ろで、遮断器のバーが上がっていった。