第4話
「……」
月明かりに照らされた縁側に腰掛け治した颯斗は、薄闇の中で静かに夕暮れ時に二宮優春の祖母と話した内容を思い出していた。
「何を聞きたいのかしら。若き禍日主さん?」
二宮を病室から追い出して、室内のベッドの上で上体を起こした二宮の祖母に改めて向き合うと、彼女は静かにそう言い放ってこちらに笑みを向けてきた。とても穏やかで優しげな微笑み。だが、その微笑みはまるで、感情の読み取りを許さないかのような鉄壁の仮面に感じて、颯斗は微かに眉間にしわを寄せた。
「単刀直入に伺いたい」
「なんでしょう」
それに構わず目の前の老婆にそう問いかけると、彼女はゆっくり首をかしげてきた。それに言葉を続ける。
「あんたの孫、二宮優春という娘は一体何者だ」
「……」
疑問に思っていたことを口にすると、彼女は静かに目を細めた。
「何者、とは?」
「あの娘……先程、死霊の童に清めの能力のようなものを使って強制的に成仏させたのを見た。術を使う禍日主ならともかく、たかが隠り世の世界を目視できるだけの一般人が使える能力には思えん。あの娘について何か知っているなら話せ」
二宮を病室の外に出してまで聞きたかったことがこの質問だった。直接本人に聞いてもいいと思っていたのだが、あの娘は己の能力について聞かれるのをあまりよく思っている様子ではなかった故、この二宮の身内であり保護者の彼女に聞けば、その確かめたいことがわかると思ったのだ。
「あの能力を、見たのですね……」
それに彼女は何故か辛そうに目を伏せると、小さく嘆息を漏らす。
「分かりました。あなたは優春を悪しき物の怪から救ってくださった命の恩人、そして今あの子を守って下さっている護衛の方なら、少しお話ししても構わないでしょう……」
そう呟いた彼女は静かに窓の外に目を向けた。美しい茜色の空を眺めながら、開け放った窓から微かに入り込んでくるそよ風に、白髪の髪を靡かせてゆっくりと目を瞑る。
「あの力は、優春が物心ついた時にはもう既に存在しておりました。傷ついた者を癒し清める能力。人々はそう呼んでおりました。最初は他人の切り傷を治す程の些細な力でした、ですが……次第に成長と共にその力は増していき、あの子は他人の骨折や、頭痛や腹痛も治せるようになっていました。その癒しの力は止まることを知らず、ついには現在の医療では難しいとされている癌や結核、更には失明した目を元に戻したり、聞こえなくなった耳も治し、脳死の人の脳を再び再生させてしまったりと、更には事故で失った腕を見事再生させてしまう程に、あの子の力は強まっていったのです。その人知を超えた力を見た者たちは口々に、彼女を神と崇めました」
「……」
そこで話を一旦区切ると、彼女は近くの棚の上に置かれていた二宮の写真が収まった写真立てを手に取った。それを大事そうに撫でながら言葉を続ける。
「それだけではありません。あの子の能力は何も人体の回復だけに止まらなかったのです。それは人のストレス、憎悪などの邪な感情の緩和、心の傷や病すらも治す事が可能でした。あの子に癒し清められぬ事が出来ないものなど、存在しなかったのです」
「心の傷や病、ストレスに感情の緩和だと?」
それに思わず口を挟んだ。心の傷や病を癒す、それはつまり精神病などの事だろう。精神疾患から起こる、うつ病などの様々な病気があるが、それを治す医療技術は確かに今のところ存在しない。それに邪な感情まで癒せるとは驚きだった。それはもはや魂そのものを癒し清めているようなものだ。しかも、それには思い当たる節がある。先程の荒ぶる死霊を成仏させた力、あれが正しく感情、魂その物を癒し清めたということではないだろうか。
「それは、人間以外にもか?」
その真意を確かめる為、恐る恐る老婆に問うと、彼女は静かに頷いてみせた。
「えぇ、その通りです。それは人間だけではなく、植物や動物、昆虫に魚類、更にはこの世ならざるものである妖や霊など物の怪の者達も対象です」
それを聞いて納得する。やはり、だから先ほど二宮は死霊を成仏させたのだ。死霊となって彷徨うことになった霊の心の深い傷、未練そのものを癒すことによってあの霊を成仏させた、といったところが妥当だろう。まさしく神の領域の力だ。
それに彼女は目を細めて頷く。
「あの子に清められぬ物はありませんよ。この世全てを癒し清める力を有しております」
「まるで神だな。それほどの清めの力、禍日主である我々でも不可能だ。霊術にも限度というものがある」
恐らくあの二宮という娘、霊術という存在を初めて見て興奮している様子だったが、何も霊術は万能ではないのだ。自然の力、霊力を操って術を施しているだけ故、人の痛みや苦しみを取り除けるほどの力はない。治癒関連の術は一応存在するが、せいぜい、人が使う薬の強化版を術式を駆使して生成するだけであって、感情や魂そのものに作用する物は作ることはできない。
それに老婆は内心の思考を読み取ったかのように頷いた。
「そうでしょう……。あの子の力はあなた方、禍日主さん達が扱う霊術とは違う分類の物なのだと思います。言うならば、感情や魂そのものを癒す力、《神力》とでも言っておきましょうか。ですが、その力には……」
そこまで言って彼女は不意に口ごもってしまった。まるで、そこから先を語るのを躊躇っているかのように思えた颯斗は、代わりにこちらから口を開く。
「リスクがあった。と言ったところか?」
「……」
それに彼女は険しい顔で静かに頷いた。
確かに神の力と言っていいほどの強力な力だ。しかし、そんな万能すぎる能力になんのリスクもないのはいささか疑問が湧く。強大過ぎる力には必ずリスクが付き物である。
「えぇ、その通りでございます。それがあの子を自罰的な性格に変えてしまいました……。あの能力のことをもっと知っていれば、こんな事には……。あの頃の未熟な己が悔やまれます……」
「何があったんだ。あの娘に」
歯を食いしばり俯向く彼女に問いかける。それに二宮の写真立てを眺めながら彼女はぽつりと呟いてみせた。
「今からもう数十年前となりましょうか、あの子の力が暴走したのです」
「暴走、だと?」
その思わぬ言葉に眉間にしわを寄せる。それに彼女は話を続けた。
「あの子の力は他者を癒し清める能力……。ですが、それには大きなリスクがあった。力の暴走で、当時あの子が住んでいた町の多くの人間が亡くなってしまったのです」
「っ!?」
一体どういうことだ……。
思わぬ発言に目を見開いた。
他者を癒し清める能力。それが暴走して何故、多くの者たちが死んでしまったのか。癒しの能力の暴走ならば、分け隔てなく多くの者たちを逆に癒し清めてしまいそうなものだが……。その内心の疑問をまるで見透かしたかのように彼女はこちらに視線を向けてきた。
「疑問に思うのも無理はありません。あの子の能力が癒しと言うなら、その力が暴走して人が亡くなるなど、まずあり得ないことでしょう」
そう言うと彼女は、写真をもとに棚に戻してこちらに視線を向けた。
「一ノ瀬さん、あなたもあの能力に薄々疑問を感じていらしたのでしょう? だから、優春を外してまで私に聞いておきたかったのではないですか?」
「……」
どうやら、この老婆は自分がなぜ二宮の能力を聞いてきたのか最初から分かっていたらしい。彼女の言う通りだった。癒しというのは最初から分かっていたし、癒すというそれだけの能力なら、わざわざ時間をとってまで能力の詳細を聞き出したりはしない。自分は護衛役として雇われた身。それ以上でも以下でもない。故にあの娘の私情に首をつっこむ気など毛頭なかったのだが、
「あの娘、二宮優春が能力を使用した直後、娘は苦痛に顔を歪めていた。この真意が聞きたくてあんたにあの娘の能力について聞いたんだ」
本当は私情には関わりたくなかったのだが、守るべき対象が苦痛に顔を歪めていては流石に放ってなどおけなかった。
そこまで言うと、老婆が強く目を閉じて辛そうに口を開いた。
「やはり、気づいていらしたのですか……」
「教えろ。あの娘の能力は一体なんなのだ。いや、本当は清めの能力などではないんじゃないか?」
言葉をつまらせる彼女に畳み掛けるように問いかける。それに祖母は必死に首を振ってそれを否定した。
「いえ、あの子の能力は、紛れもなく癒しの能力です。ですが……使えば清めた者の痛みや苦しみ、想いがダイレクトに体内に伝わってしまうのです」
「っ!?」
その告発に一瞬言葉を失った。
「能力を使えば、その者の痛みが実際に伝わってくるのか?」
「そうです。骨折した者を癒せば、その者の骨折の痛みを。頭痛の者を癒せば、その者の頭痛の痛みを。腹痛の者を癒せば、その者の腹痛の痛みを。あの子は他者を癒す度にその痛みを受ける事になる」
「他者の痛みを引き受ける。それが癒しの能力の代償か……」
そこまで聞いて疑問も生じる。
「だが、今まで治してきた者の中で、骨折や癌、結核や脳死なども治したと言っていたな。ならば、痛みや苦しみだけではなく、骨折をしたり結核や癌に掛かる事になるんじゃないのか?」
その者の痛みを引き受ける。それは丸々その者の病や傷の状態も引き受けるということではないのか。そう思って問うた疑問に老婆は静かに首を振った。
「いえ。あの子が受けるのはあくまで痛みや苦しみだけです。症状そのものをもらうわけではありません。症状は綺麗に癒し清められ消失します」
「……」
それを聞いて少し安堵する。痛みだけならば、能力を使い命を落とすということにはならないだろう。しかし、そう思った颯斗に彼女は厳しい眼差しをこちらに向けてきた。
「一ノ瀬さん、痛みや苦しみだけ背負うだけだとしても、他者の痛みや苦しみを背負うことが一体どれだけの負荷になるか、あなたはご存知ですか? 」
「っ?」
それに彼女は言葉を続けた。
「例えばあなたは、交通事故で瀕死の重症を負った者の痛みや苦しみを受け入れることができますか?」
「……」
そこまで言われて、はたと気づく。何も症状や傷をそのまま貰わずとも、痛みだけでもそれは死へと結びつく。死ぬほどの重症を負った者の傷を癒すということは、己の身体の中に死ぬほどの痛みが伝わるということだ。それを経験して、平然と入れるわけがない。
「そんなことをしたら、普通なら耐えられない。死ぬほどの痛みを受けて精神が持つわけがない、だろうな……」
だから、二宮は他者を癒す度に苦痛に顔を歪めるのだ。いや、それで普通は済む筈がない。精神ダメージは尋常ではないはずだ。それに老婆は頷いて視線を外す。
「そうです。ですが、あの子はそれを幼い頃からずっと行ってきた。数え切れない程の者達の痛みや苦しみを一身に背負って、あの子は生きてきたのです」
「……」
そんなこと、普通なら不可能だ。一人癒して限界だろう。それをあの娘は今まで何十人、いやそれ以上の者たちを癒してきた。神社で傷を負った様々な物の怪たちに今でも能力を使っているのを知っている。一体今、あの娘が背負っている痛みや苦しみはどれほどの量なのか……。
それに彼女は話を続けた。
「ですが、あの子も神ではなく人間。そんなことを続けて精神が保てるわけもなく、数十年前、力が暴走……己の中に蓄積されていた痛みや苦しみが一気に外へ放出されました」
「っ?」
放出?
その言葉に眉間にしわを寄せる。
「いわば逆流です。他者から吸収して蓄積された痛みや苦しみが今度は耐えられずに他者に放出されたのです」
そこまで語ると彼女は咳き込みながら窓の外に目を向けた。
「さっき一ノ瀬さんもおっしゃっていましたよね。他者の痛みを受け入れることは普通は耐えられないと。その通りです。蓄積された膨大の痛みや苦しみが一気に周囲の者達に放出された。それは絶大な量だったでしょう。もちろん、そんな痛みや苦しみの量に耐えられる者はいませんでした。優春から痛みや苦しみを放出された者達はその膨大な量の痛みに耐えることができず、死んでしまった。いわゆるショック死というものです」
「……それが、力の暴走か」
「強大な力にはリスクが付き物、まさにその通りです。その代償に当時あの子が住んでいた小さな町は壊滅してしまいました。町に住んでいた全ての者達に膨大な量の痛みや苦しみが分け与えられ、それに耐えることができずに皆死んでしまった」
「……」
「これが、私が知るあの子の能力の真実です。そのせいであの子は生き残った者達に魔女や化け物と罵倒され、独りぼっちになってしまった。そんなあの子を私が引き取って今まで育ててきたのです」
「どうして、それを分かっていながらあんたは、あの娘に能力を使わせているんだ。神社で多くの物の怪を今でも癒し清めているんだってな。そんなことをすれば再び……」
「体内に蓄積された膨大な痛みや苦しみが外へ放出される……」
「そうだ。一つ一つの痛みや苦しみの量は微量でも、集まれば死ぬほどの痛みへと変わってしまう。それが今の町、京都中の者達に放出されれば、皆がその痛みに耐えることができずに一斉に死ぬことになる」
「えぇ。分かっています。私も何度も止めようとしました。ですが、あの子は力を使うことを止めようとしないのです」
「なぜだ」
「あの子は、死のうとしているんです」
「死?」
「数十年前に起こった力の暴走は、まだあの子が力の扱いに未熟だったことと、〝死にたくない〟と言う自己防衛本能が働いて起こった悲劇。そう思うのも無理はありません。そのまま溜め込めば、膨大な痛みや苦しみの量に耐えられず、いずれ死んでしまうからです。だから、まだ幼かったあの子は痛みや苦しみを外へ放出してしまった」
「今度は、それを放出せずに自爆しようていうのか……」
「そうです……暴走したあの時、多くの者達を死なせてしまった者たちに対する罪滅ぼしだと思っているのではないでしょうか……」
「……」
「禍日主、一ノ瀬颯斗さん。このままあの子が力を使い続ければ、あの子は近いうちに必ず死んでしまうでしょう。多くの痛みや苦しみを背負ったまま……。だからどうか、どうかあの子をお救いください。貴方にこのようなお願いをするのは場違いだということは存じております。ですが……ですがどうか、生きる希望を失い、罪を背負って死にたがっているあの子をどうかお救いください……!!」
「……」
あの時の二宮の祖母との会話を思い出しながら、颯斗は静かにその場から立ち上がった。そして、月明かりに照らされた薄暗い縁側で一人、ぽつりと呟く。
「やはり、理解できねぇよ……」
先程の優春の言葉が脳裏に過る。
『あなたには分からないです。この力は、人を不幸にしてしまうのですから』
『私は償わなければならないのです。この力で不幸になってしまった人々の為に』
「それで罪滅ぼしになるとでも思っているのか? 死ぬことで、全て解決でもすると思っているのか?」
思わずそう言い放った言葉に答える者はいなかった。
颯斗はゆっくりと目を瞑って嘆息を漏らすと、首筋を撫でながら人気が消え、静寂と闇に包まれた居間へと足を向ける。
「……」
二宮というあの娘が何故あそこまで自罰的な考えなのか、何故己を化け物と罵り、嫌っているのか。そして、何故己の命を大事にしようとしないのか。それが二宮との会話で大体理解したし、老婆との会話の裏付けも取れた。あのご老人の話は本当だったようだ。あの娘、このまま能力を使い続けて死ぬことで、殺してしまったと思っている者たちに償う気でいるようだ。全く、厄介な者と関わってしまったものである。久しぶりの京都での任務だというのに、その初っ端がそんな厄介な者の護衛とは……。本当、ついていないにも程がある。
「さて、どうしたものか……」
大きく伸びをすると、颯斗は辺りを見回した。とにかく、居間から出て行ってしまった二宮を追いかけた方が良さそうだ。そして、もう一度しっかり話して説得させた方がいいかもしれない。このまま自爆されては護衛にならない。
居間の戸を開けて廊下に出ると、そこは月明かりが差し込む居間よりも闇が深くなっていた。これはさすがに電気を付けなければ歩きづらい。そう思って壁伝いにスイッチを探そうとしてふと気がつく。こんな暗い場所で二宮は電気も点けずに台所に飲み物を取りに行ったのか?
「おい二宮、いるか?」
声を出して闇の中、護衛するはずの娘の名を呼ぶ。しかし、返事は返ってこなかった。
「……」
何かおかしい……。
それに眉間にしわを寄せて腰に下げていた刀の柄に手をかける。
台所がどこにあるか知らないが、辺りに人気がないのはおかしいだろう。それほど広い場所でもあるまいし、声を掛ければ届きそうな距離に彼女がいるはずである。そんな違和感に眉をひそめた颯斗は辺りに意識を集中させて二宮の気配を探るが、やはり、どこにも彼女どころか人の気配すら感じなかった。
「二宮……!!」
それに慌てて弾かれたように辺りを探索する。寝室、浴室、トイレ、各々の部屋を電気をつけて回っても、どこにも彼女の姿はなかった。まさか人食い天狗の襲撃にあったのかっ!? そう嫌な予感が脳裏によぎるが、それはありえないと首を振って否定する。感知のための結界は張っているはずだ。この社務所に侵入者があれば自分がいち早く気づくことができる。それに、二宮が居間を飛び出してまだ十分も経っていない。せいぜい、五分といったところだろう。なのに、二宮は社務所内から忽然と姿を消していた。最後に台所と思われる場所を見つけ、中に入ってみると、割れたガラスコップと床に飛び散った麦茶があった。
「……」
ここに二宮がいたのは間違えない……。
そう判断した颯斗は割れたコップに手をかざして瞳を光らせると、この台所内で起こった出来事を〝霊視〟した。霊視とは、その場で起こった数分前の出来事をその場の物から記憶を辿って見ることが出来る禍日主の基本能力の一つのことである。
刹那、十分前の台所の様子が脳裏に蘇る。
『あなた、何者ですか……』
怯える二宮が見える。その視線の先にある人物の姿を見て、颯斗は息を呑んだ。
『私は虐姫、主様の懐刀、〝霊刀〟の一振り……』
青白い顔に血のように真っ赤な口紅、闇を纏ったかのような漆黒に彼岸花の柄が刻まれた着物を身に纏った黒髪の日本人形のような少女。
それを見て颯斗は思わず声を上げて驚愕した。
「虐姫だとッ!?」
思わぬ人物が霊視で映し出せれて唖然とする。
何故、この女がここにいるのか……。
その彼女の背後には無数の天狗の姿が見えた。間違えなく人食い天狗だ。その天狗達が虐姫と名乗った少女の指示に従い、怯える二宮を取り囲む。記憶はそこで途切れた。
「……」
言葉が出なかった。
二宮は数分前、人食い天狗一向に連れ去られたのだ。
「どうして……」
どうして結界が発動しなかったッ!?
それに慌てて社務所から飛び出し、張った結界を確認する。しかし、結界は見事に粉砕され、微塵も残っていなかった。それを見てあの女が術で壊したのだと理解する。
「この人食い天狗の事件、あの女が関わっているのか……!?」
それに歯を食いしばって壁を力一杯殴りつけた。
「くそッ!!」
つまり、自分は二宮が襲われている最中、のうのうと居間で物思いにふけていたということか……ッ!!
己の失態が招いた事態に握りしめた拳から血がしたたれ落ちる。
最悪だ。最低だ……。守るべき者をみすみす敵に渡してしまうなど……!!
有るまじき失態ッ!!
急がなければ、二宮の身が危ないッ!!
そう思った颯斗は屋根に飛び上がると、辺りを見回し、急いで二宮の気配を探ろうと屋根の上に手をついた。まだそう遠くへは言っていないはずである。この屋根の上で霊視をすれば、敵がここからどこへ向かったのかわかるはずである。 その時、背後に誰か人が降り立った気配を感じ、颯斗は殺気を込めて素早く腰の霊刀を抜き放つと、背後の者にその刃先を押し付けた。刹那、爽やかな声が答える。
「おぉ? 突然刃を押し付けてくるのは止めておくれよ颯斗」
背後に現れたその者は、自分がよく知るお幼馴染みで同士の、西園寺翠蘭だった。刃を向けられても余裕の笑みを浮かべ美しく微笑する彼は、禍日主の正装に着替えている。それに殺気を消し、抜いた刀身を鞘に収めながら颯斗は彼を睨みつけた。
「何故、お前がここにいる……」
「どうやら、一歩遅かったようだね。その顔からして、二宮さんを敵に奪われてしまった。といったところかな」
「ッ!?」
月明かりを受け、青く澄んだ宝石のような瞳を光らせ、夜風に白銀の髪を靡かせながら穏やかな笑みを浮かべた彼の言葉に目を剥く。何故そのことを知っているのか……。
そう思った颯斗に翠蘭は困ったように首をかしげた。
「だって、そんな血相欠いて慌てている様子を見たら誰だって分かるよ?」
「血相ッ!?」
彼のそんな発言に言葉が詰まった。
そんな馬鹿な……。自分が任務で感情的になるなど有りえない。しかし、握った拳を一瞥すると、先ほど壁を殴った手が内出血を起こして腫れていた。確かに、少しは感情的になっていたのかもしれない。それに翠蘭が畳み掛けるように囁く。
「感情を殺して冷徹に今まで任務を遂行してきた颯斗が、血相を変えて慌てるなんて。よほどあのお嬢さんを気に入ったと見えるね」
「……」
沈黙し、視線をそらす颯斗に翠蘭は苦笑すると、彼はこちらに木箱を押し付けてきた。
「本当は二宮さんがまだ連れ去られていなければ、渡すつもりはなかったんだけど……」
「……?」
それを受け取り中身を確認すると、自分の禍日主の正装防具が収納されていた。
それに思わず顔を上げて微笑みを浮かべる翠蘭に目を細める。
「どういうことだ……」
護衛の任を受けている間、自分は禍日主ではなく、二宮のクラスメイトと言う設定だったはず、その為に今は二宮の学校の制服を着ている。その任務中に禍日主の防具を渡されるということは、護衛の任を降りろ。と言われているのとほぼ同じ事を意味していた。それに翠蘭は言葉を続ける。
「長様から緊急の召集が掛かってね、僕はそれを君に伝えに来たってわけ。二宮優春の護衛が失敗したのなら、今すぐ屋敷に戻るようにってね」
「なにっ!?」
驚きで目を見開く。
「本当は電話でも良かったんだけど、二宮さんの安否の確認をしなくちゃいけなかったし、この正装を渡したかったし、直接来たんだよ」
ははっと笑う彼にそんな事はどうでもいいと内心でツッコミを入れる。
任務中の緊急召集。そんなこと今までありえなかった。任務中の禍日主は今遂行している任務が最優先にされるはず、それを破ってまで長は自分に召集を掛けたというのか。信じられない状況に、防具を眺めながら彼に問いかける。
「翠蘭、緊急召集など異例過ぎるだろう。一体何があったんだ?」
「この天狗の事件、あの男が裏で動いている事が分かったんだ」
「ッ!!」
翠蘭のその言葉にとっさに顔を上げた。〝あの男〟だとッ!?
「どういうことだ……」
恐る恐る彼にそう問いかける。それに翠蘭は眉をひそめながら視線を逸らした。
「今、京都中で発生している様々な物の怪による怪事件。人食い天狗の一件もそうだけど……数刻前、僕を含めた数名の禍日主の調べで、その全ての事件の裏で〝あの男〟が動いている情報が浮上した。恐らく、今回の人食い天狗の一件もあの男が関係している。いや、その男が中心になって動いている」
その彼の話に、先ほど霊視で見た虐姫と名乗る和装の少女の姿が脳裏に過る。
「霊視で先ほど、虐姫の女を目撃した……」
〝あの男〟奴の名は誰も知らないが、その存在自体はずっと昔から知っていた。禍日主の最大の脅威と言ってもいい。奴は我らと同じ禍日主の能力や強力な霊術を操り、怨霊や悪しき妖たちを仲間に引き連れて隠り世と現世の均衡を乱さんとしている重要危険人物なのだ。その男の右腕とされ、いつも彼のそばに支えているのが、先ほど霊視で見た虐姫という少女なのである。
それに翠蘭が嘆息を漏らしながら夜空を仰ぐ。
「どうやら、自体は思っていたよりも深刻化しているようだね。なら急いで戻ろう。長様は戦闘能力の高い選りすぐりの禍日主の者達を集めて〝あの男〟の討伐会議を開くおつもりだ。颯斗にも召集が掛かっている。虐姫が人食い天狗と共にいたことを早く長様たちに報告しないと」
「おい、ちょっと待て」
そう言って先に屋敷に向かおうとする翠蘭の肩を咄嗟に掴んで止めた。それに彼は不思議そうな顔でこちらを一瞥してくる。
「何? 召集の件は伝えたよ? 他に何か聞きたいことでも?」
「違う、そうじゃない。俺は二宮の護衛の任がまだ継続中だ。それを放置することはできない。だから悪いが、召集に向かうことは出来ないと長に伝えてくれるか?」
事件に禍日主にとって脅威の存在と言われる男が関わっていることは承知した。だが、だからと言って今の任務を破棄する理由にはならない。二宮は数分前にその虐姫が従える人食い天狗一向に連れ去られてしまっている。相手が誰であろうと関係ない。一刻も早く助けださなければ、彼女の命が危ないのだ。故に今は召集に応じている暇などない……。
しかし、それを聞いた翠蘭は意味がわからないとでも言いたげな顔で首をかしげた。
「ん? 継続中? 何を言っているんだい颯斗。今しがた自分で言っていたじゃないか。彼女は連れ去られてしまったと。任務は連れ去られてしまった時点で終了。長様がそう言っていただろう? 僕だってあのお嬢さんがまだ連れ去られていない状況なら召集の件に応じろとは言わなかったよ。でも、連れ去られてしまった。それってつまり、護衛の任務失敗ってことだろう? 失敗ってことは任務の終了を意味している。あのお嬢さん、連れ去られてしまった時点でもうすでに殺されている可能性が高い。残念だけど、諦めるしかないよ」
「諦める、だと……!?」
その思わぬ言葉に驚愕する。
「まだ分からねぇだろ、あの娘はまだ生きているかもしれねぇッ!!」
翠蘭の胸ぐらを掴んでそう怒鳴るが、彼は動じる様子もなく言い放った。
「虐姫という少女、あの男の手の物だろう? 颯斗、君が乗り込んだところであの女に勝てる見込みは薄いよ。奴は強い。恐らく、あの女が天狗どもを操っているとみてまず間違えない。なら、今は一人で乗り込むのは得策ではない。早々に手を引いて、屋敷に戻り、今後の対策を練らないと……」
「つまりお前は、二宮を見捨てろと言いたいのか?」
翠蘭の発言にそう声のトーンを落として睨む。だが、彼は笑みを浮かべたまま答えた。
「そうだよ。でも、気にすることはない。世の中、失敗は付き物さ。颯斗は戦闘向きだし、人を守るという任務は性に合わなかったんだろう。大丈夫。 誰も颯斗を怒ったりた責めたりはしないさ。長様もみんなもきっと分かってくれる。次の任務で挽回すればいいだけさ」
「なっ……」
彼のそのありえない発言に息を呑んだ。こいつは今、笑顔で見殺しにしろと言っているのだ。なんの悪意もなく、ただ純粋に、任務と禍日主の決まりに従っての発言をしている。確かに、彼の言っている事は間違っていない。護衛の任務は失敗してしまった。なら次の任務の命を受けるのは当然のことだ。いつもそうやってきた。何十年も、何百年も……。ただなんの感情、情も沸かせずにただ無心に禍日主として任務に当たってきた。しかし……。
『ですがどうか、生きる希望を失い、罪を背負って死にたがっているあの子をどうかお救いください……!!』
「……」
夕暮れ時の二宮の祖母との会話が蘇る。それに颯斗は目を瞑って深呼吸をすると、翠蘭に向き直った。
「禍日主の正装には着替えよう。この堅苦しい服よりは動きやすいからな。
だが俺は、屋敷には戻らねぇ……」
「っ!?」
それに翠蘭が明らさまに目を見開いて驚愕した。そしてすぐさま厳しい顔つきになって詰め寄ってくる。
「まさか、あのお嬢さんに本当に情でも湧いたのかい? 颯斗、僕たち禍日主は依頼内容に深入りはしてはならないのが決まりだよ。いちいち任務で接触した人間たちに情でも湧いていたら、後で辛くなるのは颯斗、君自身だ。颯斗もそれはわかっているだろう?」
「……」
そう言ってこちらの肩を叩くと、翠蘭は笑顔で手を差しのばしてきた。
「さぁ、屋敷へ戻ろう颯斗」
だが、その手を取らずに颯斗は月が輝く夜空を仰いだ。その雲ひとつない闇に包まれた空には無数の星々が輝きを放っている。それを眺めながら、静かに口を開いた。
「あいつは……二宮は、己の犯した罪に苦しんでいる。似てるんだよ、俺に……」
「何を、言っているんだい?」
「屋敷には戻らねぇ。俺は二宮を救いに行く。そう決めたんだ。このままあの娘を殺してしまうのは、しゃくに障るからな」
そう言い放つと、彼に背を向け踵を返した。それに翠蘭が声を上げる。
「ちょ、颯斗ッ!? 待って、命令を無視する気なのかい?」
「そう言っているつもりだったが?」
「はぁ……全く君というやつは……」
振り返ってそう睨むと、彼は呆れたように嘆息を漏らした。そして、眉間を触りながら早く行けと言わんばかりにヒラヒラと手を降ってみせる。
「わかったよ。屋敷の者たちには僕が戻って事情を説明する。君は早く、あのお嬢さんを助けに行くといいよ……」
「すまんな、恩にきる」
そう礼を言うと、颯斗はもう一度、二宮の気配を探るために社務所の屋根に手を触れた。そして、瞳を光らせて霊視する。この屋根から見える景色の記憶を辿って数十分前に二宮を連れた天狗どもがどこへ向かったのか探った。刹那、意識を失った二宮を担いだ天狗を筆頭に、無数の天狗と虐姫が、社務所から飛び出すと、今いるこの屋根の上を伝って比叡山がある方角へ翼を使って飛んで行ったのを確認する。
「比叡山か……」
比叡山。その山は滋賀県と京都府にまたがる山の事だ。山中には様々な寺や神社が存在し、昔から霊力が強い場所、神々の聖域と呼ばれていた。
どうやら、あの娘はその比叡山に連れて行かれたらしい。ということは、人食い天狗の根城もそこにあるのだろう。
「颯斗、君の霊視能力は相変わらずさすがだね……」
それに翠蘭が背後でそう声を掛けてくる。それに答えずに禍日主の正装に素早く着替えると、彼が心配そうな声を上げた。
「颯斗……」
「?」
「君はきっと、京都の街を離れて今日までの長い間、それなりに強くなっているんだろうけど、気をつけて。敵は〝あの男〟の手の物、虐姫という女だ。油断すれば、死ぬことになるよ」
思わず振り返ると、翠蘭の不安そうに揺れる瞳と目があった。それに不敵な笑みを浮かべながら腰に下げた霊刀の塚に手を掛けて口を開く。
「分かっている。油断はしねぇよ、俺は目の前の敵を全力で斬り殺すまでだ」
そう言い放つと、颯斗は屋根から勢いよく飛び降り、霊視で見た天狗達の進行方向の先にある比叡山に向けて全速力で駆け出した。
「お姉ちゃんは、将来何になりたいの?」
木漏れ日がさす木の根元に腰掛け、そよ風に吹かれながら絵本を読んでいると、自分の膝の上でうたた寝をしていた二宮春樹が徐に目を開けて、こちらを見つめてきた。それに優春は読んでいた絵本を閉じながら苦笑する。
「もう、春樹? 起きているなら早く膝から頭を上げてくれない? 重いんだけど?」
「へへっ。ごめんごめん。で?お姉ちゃんの将来の夢は何?」
起き上がって胡座をかきながらこちらに問いかけてくる春樹にう〜んと唸る。
そういえば、将来の事など、考えた事もなかった。とりあえず、すぐには思いつかないので、代わりに春樹に聞き返してみる。
「そういう春樹は? 何か夢でもあるの?」
「え? オレ?」
まさか質問を返されるとは思ってもみなかったらしい。彼はしばらく小難しそうな顔で唸ると、思い出したかのように顔を上げてきた。
「オレの夢は、お姉ちゃんとこうしていつまでも一緒にいることかなっ!!」
そう自信満々に発せられたその夢に優春は思わず吹き出してしまった。それは夢と呼べるのだろうか。それに春樹が頬を膨らませながらジト目で睨んでくる。
「もぉ、なんだよ。お姉ちゃんが聞いたんだぞっ?」
「ごめんごめん。ちょっと可愛かったから」
吹き出した正直な理由を告げると、途端に春樹の顔が赤くなった。
「ば、バカじゃないの? で? オレは話したよ。お姉ちゃんの夢は何?」
照れたのをまるで隠すかのように咳払いをして話を慌てて戻す春樹のそんな姿がまた微笑ましく思えてしまい、苦笑しながら改めて考えてみる。
「そうだねぇ〜。私は……」
「うっ……」
目が覚めると、自分は薄暗いどこかの室内に寝かされていた。どうやら気を失っている間に幼い頃の夢でも見ていたらしい。全く呑気なものだと内心で嘆息を漏らしながら、優春は起き上がろうと全身に力を込めた。しかし、
「っ……!?」
体はビクとも動かない。咄嗟に自分の体に視線を向けると、腕や足が紐できつく締め付けられていた。解こうと捥くが、動けば動く程、紐は身体に食い込み、余計解けなくなってしまう。
「……」
確か、台所で日本人形のような少女と天狗達に襲われて……。ダメだ、そこから全く記憶がない。恐らく、この紐で拘束されている状況からして、気を失わされてこの知らぬ場所に連れ込まれ、監禁でもされている。といったところだろうか。なぜこんなに冷静に状況を把握できているのか、自分でも驚きだが、人は何か聞き的状況に陥ると、途端に冷静になるのかもしれない。いや、恐らくこうして知らぬ場所で目覚めたのが、昨日に続けて二回目だからということもあるのだろう。簡単に言えば、慣れてしまった。が正解かもしれない……。こんな状況に慣れてしまうのもあまり嬉しくないのだけれど、事実なのでしょうがない。
しかし、昨日と明らかに違うのは、身体が拘束され自由を制限されている点と、ここに連れ込んだのが、自分を助けてくれた禍日主ではなく、自分を殺そうとしている天狗達だということだ。昨日と状況は全く違う。一刻も早くここから抜け出さなければ、近いうちに殺されるのは明白だった。〝死〟という単語を連想させた刹那、今まで冷静に状況を分析していた自分の心臓が急激に早まり、額から冷や汗がにじみ出る。
「逃げないと……!!」
焦る気持ちを何とか抑えながら、震える体で辺りを必死に見回す。焦っている場合ではない。今出来ることは、この場所が一体どこなのかという詳しい状況の把握だ。もしかしたら、逃げ出すヒントがどこかにあるかもしれないのだ……。
「……」
そう思ってまず辺りを見回して最初に目に留まったのが、男女の無数の死体だった。年齢は皆バラバラだが、自分と同じく紐で拘束され、目を見開き、口から血と泡を吹きながら苦痛に顔を歪めたまま絶命していた。腐敗は見受けられないところからして、死んでまだそう時間は経っていないのだろう。首筋には自分と同じ天狗の歯型が刻まれている。恐らく、この者たちも自分と同じくここに連れ込まれた天狗の被害者たちだ。どうやらこの場所で、天狗たちは攫ってきた者の生き血を喰らっているらしい。早く逃げなければ、彼らと同じ末路を辿ることは明白だった。
恐怖を必死に押さえ込みながら、逃げる手段を探る為にざっと室内を見た感じからして、室内の広さはさほど広くない十畳に感じた。それに幸い……とでもいうべきか、近くには天狗の気配も無く、闇に包まれたこの場所は不気味な程静寂に包まれていた。恐らく拘束して逃げられる心配がないので、そのまま監視もつけずに放置されたのだろう。それに、室内と言っても、自分が雑に寝転がされていた場所の床は古い年季の入った木製の床板で、所々が傷んで腐っており、床が抜け落ちている箇所も確認できた。外側から杭が打たれた窓のガラスは割れ、植物の蔓が伸びている。壁には穴が開き、月明かりがそこから室内に漏れていた。その状況からして、今はまだ日が昇っていない夜で、ここが長年人の出入りが全くない、廃屋なのだと理解する。これでは声を出して助けを呼んでも、誰も来てはくれないだろう。
「……」
その時、ふと、何気なく背後を振り返ると、煤け寂れた祭壇が月明かりに照らされてぼんやりと朧げに見えた。あまりに傷んで劣化してしまっているが、所々に豪華な装飾の跡が見受けられることから、きっとこの廃屋は、昔は神社か何かの本殿だったのだろう。
神社ということは、近くに人が住まう民家などあるかもしれない……。
そう思った優春は、必死に耳を澄ましてみるが、人の声や車の音、街の喧騒などは全く聞こえなかった。ただ聞こえるのは、虫の鳴き声や風で擦れる木々の葉音、遠くから聞こえる水の音だけである。この廃神社自体、街からだいぶ離れたところに存在しているらしい。聞こえる周りの音からしてここは森、いや、山の中だろうか……。
確認すればするほど、逃げることが不可能な気がしてきて、優春は震える体と上がる心拍数を必死に抑えようと歯を食いしばった。
護衛役の一ノ瀬は今頃どうしているだろうか……。
ふと脳裏をよぎった彼の顔にそう内心で呟いた。恐らく、彼に迷惑をかけてしまったことには間違えない。せっかく護衛をしてくれていたのに、自分が不甲斐ないばかりにこんなことになってしまって、きっと怒っているのだろう。でももう、それも終わりだ。連れ去られてしまったら契約はその時点で終了だと言っていた。こんな状況、これではきっと護衛の契約は終了してしまっただろう。もう、護衛役ではなくなった一ノ瀬は助けに来ない。
そう思ってじわりと滲む涙に優春は必死に首を振ってそう思っている自分の心を切り替えた。
何を考えているのだ自分は。まるで死にたくないみたいではないか……。
そんな考え、してはならない。これは罰なのだ。多くの人々を能力で殺した罰。だからきっと、自分はここで殺されるべきなのかもしれない。
ただ……せめて、一ノ瀬には謝りたかった。最期にあんな八つ当たりみたいな別れ方をしてしまって。彼は何も知らなくて何も悪くないのに……。
「ごめん、ごめんなさい……」
ぽつりと漏れた言葉に体を丸めて蹲る。
その時、
「あら、お目覚めかしら。二宮優春さん」
「っ!!」
突如、室内に響き渡る幼い少女の声にとっさに顔を上げる。刹那、宵闇の中、月明かりに照らされて青白い少女の顔がボワっと浮かび上がり、思わず悲鳴をあげた。それに少女はゆっくりと闇と同じ着物を靡かせてこちらに近づいてくる。
「元気そうで何よりだわ。痛いところはないかしら? できるだけ寒くない場所を選んであげたのよ。気を失っている間に風邪でも引かれては堪らないから」
そう謎の配慮を語りながら、少女は横になる優春の元にしゃがみ込むと、頬に手を触れてきた。その氷のように冷たい指先に怖気が走る。
「怖がらなくていいのよ。すぐに殺してあげるからね」
「ッ!?」
その幼く可愛らしい声には到底似合わない冷徹な言葉を並べて微笑む少女に慌てて身を引く。
「ここは何処っ!? それにあなた、一体何者なのっ!?」
恐怖を何とか堪えながら、優春はそう目の前の少女に言い放った。それに少女はゆっくりと立ち上がると、真顔でこちらを見下ろしてくる。
「もう忘れてしまったの? 私の名は虐姫。主様の懐刀、霊刀の一振り。気に入っている名前なんだから、早く覚えてね」
それと同時に虐姫と名乗る彼女の背後に無数の天狗達が現れた。その数は五、六……いや、闇に紛れて正確には分からないが、それよりも多くいる。一体どこからそんな数の天狗たちが湧いたのか、彼らは自分の周りをぐるりと取り囲み、静かにこちらを凝視してきた。そんな中で虐姫は不敵な微笑を浮かべながら口を開く。
「ここは古い廃神社よ。私たちが今根城にしている場所なの。あなたの護衛役の一ノ瀬颯斗、とかいう若い禍日主だっけ? きっと助けになんて来れないわよ。彼でもここは簡単には見つけられない。だってここは、比叡山の深い深い山の中、人がそう簡単にたどり着くことが出来ない神域の中にあるのだから」
「比叡山ッ!?」
その言葉に目を見開く。
比叡山とは、神社や仏閣が多数点在する今や観光地と化した京都と滋賀を股に掛ける大きな山ではないか。そこにこんな人が長年使用していない廃神社があるとは知らなかった。
「私を、一体どうするおつもりですか……」
見下ろす虐姫を睨みつけてそう恐る恐る問いかける。それに彼女は笑みを浮かべたまま答えた。
「あなたには、その血をこの比叡山を守護する大妖怪、大天狗に捧げてもらうわ」
「っ!?」
大天狗っ?
その言葉に目を細める。
その名は聞いたことがあった。数多の天狗どもを取りまとめ、神通力を扱うとされる一部の地域では、神と崇められているとされる大妖怪だ。そういえば、昨夜、自分を襲った天狗がお前を大天狗様に捧げると言っていた気がする。
その時、ミシ、ミシ……と床板が軋む音とともに、取り囲む天狗達の背後から、大きく巨大な影がこちらに近づいてきた。
「足りぬ……足りぬぞ……ッ!!」
異様な気配。その身の毛も弥立つような低く悍ましい声音に思わず身がすくむ。一体なんだ……。声だけで禍々しさを感じた優春は恐る恐るその声のした方へ視線を向ける。刹那、言葉を失った。
「 ッ!?」
闇の中から姿を現したのは、今までに見たこともないような巨体の天狗だった。直径二、三メートルの漆黒の烏のような翼を生やし、山伏の服装に身を包み、血のような真っ赤な素肌に、逆立った長髪、般若を思わせる悍ましい真っ赤な顔には図太い鼻が付いていた。その者の大きさは軽く二、三メートルを遥かに超えた巨体で、他の天狗達と違い、額に立派な鬼を思わせるツノが生えている。そして耳元まで裂けた巨大な口には、鋭い牙が生えているのが見えた。どう見ても、他の天狗達とは一線を凌駕するその迫力に優春は恐ろしさのあまり体が凍りつく。 まさか、この天狗が……。
「大天狗……?」
思わず溢れたその言葉に虐姫が笑みを浮かべたまま平然とその天狗を振り返った。
「あら、大天狗。来るのが早かったのね」
「我らが偉大なる王、大天狗様。おかえりなさいませっ!!」
「大天狗様、おかえりなさいませっ!!」
「大天狗様、おかえりなさいませっ!!」
周りの天狗達も彼の存在に気付き、大天狗に次々とひれ伏した。やはり、この巨大な天狗が大天狗らしい……。ひれ伏した天狗達の中で踏ん反り返ったその大天狗は、そのまま虐姫に視線を向けて口を開いた
「虐姫……。お主、例の娘を捉えたとは誠か?」
それに虐姫は自慢げに鼻を鳴らすと、こちらを指差してきた。
「えぇ。これが例の二宮優春という娘よ。強い霊力を持っているわ」
「ほほぉ?」
その言葉にその巨体の天狗がこちらを鋭い瞳で凝視してくる。
その一ノ瀬とは比にならない眼力に思わず背筋が凍りついた。
「思った以上に美しい娘だな……。殺して喰らうには惜しい美しさだ……」
「この娘の霊力は絶大よ? 喰らえば、確実にあなたの力は完全に元へ戻るでしょうね……」
「ふはははッ!!虐姫、お主は本当に使える女だなッ!! 今日は獲物が大量だッ!! これで私は力を取り戻せるだろうッ!!」
そう言って大天狗は腕に抱えていた何かの塊を地面にゴトっと無造作に投げ落とした。それを見て驚愕する。
「ッ……!!」
人間だ。女子供関係なく、数名の人間の死体が目を剥き、眼や鼻、口から血を流し、絶命している。首はあらぬ方向へへし折れている者もいれば、内臓が抉り出されている者もいた。その腹わたが煮えくり返りそうな死臭に思わずその場で嘔吐する。それに大天狗は不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「今宵は多くの人間を喰えて、我は大満足だ……」
それに震えを堪えながら虐姫に問いかける。
「まさか、この人食い天狗の事件、その大天狗という大妖怪に霊力の高い人間の血を捧げる為に、天狗達は今まで人々をさらっていたというのですか?」
それに虐姫は静かに頷いて不気味に微笑む。
「そうよ? 全てはこの大天狗に捧げるためよ。私は、その天狗達のお手伝いをしているって感じかしら?」
「なぜ、なぜそんな事を!? どうして、それで多くの人々が死ななくてはならないのですかっ!?」
「これは大天狗の力を取り戻す為に必要な事なの。この比叡山を守る神様の一人として長年この山を守護してきた大天狗はここ数年、己の霊力が不足して弱ってしまったの。もう昔のように空を飛んだり、超常的な力はかなり弱くなってしまった……。どうしてか、あなたわかる?」
「……」
そう問いかけてくる彼女に沈黙で返す。
そんな事、聞かれて分かるわけがない……。
それに虐姫は眉をひそめて答えた。
「あなた達人間のせいよ」
「っ!?」
人間のせい?
とっさに顔を上げると、虐姫の光を失った暗い瞳と目があった。
「乱世の時代が終わり、平和な世となったこの現代の人々は、神や物の怪に対する畏れを忘れた。神々や物の怪、隠り世の領域となる神社や神聖な神域を、観光などという見世物にして穢し、踏み荒らし、ここ数十年で我々はその力を弱めてしまった。数多の妖や霊、神様たちが人間達に居場所を奪われて消えていったわ。この山を守護する神の一人として生きてきた大天狗も、例外ではなかった。この比叡山も近頃は人間達の観光地と化し、神域が汚されている。その影響を神域と一体となっていた大天狗もその影響を受けて、彼の霊力は弱くなってしまった」
それに虐姫の周りにいた天狗達の数名がこちらを睨みつけながら口を開く。
「お前達、人間のせいだ……」
「お前達のせいで、大天狗様は力を弱めてしまった……」
「お前達人間は、己が豊かになるために他者を蹴落とし、貶める。酷く外道で残酷な生き物だ……」
「っ……」
その彼らの発言に、優春は言葉を失った。
それに虐姫がクスクス笑いながら話を続ける。
「皮肉なものよね……。昔は神も人も物の怪も、皆共に助け合って暮らしていたというのに……。人間はその恩恵を忘れて彼らの存在を否定した」
西園寺が言っていた事を思い出す。ここ数十年の時代の流れで、霊力の濃度が高い神域は無くなってしまったと。確かにその通りだった。この科学技術が発達した現代では、神や物の怪という存在は架空の存在とされている。昔から人々に愛され、讃えられてきた神社、仏閣はただの観光の見世物と成り下がり、毎年多くの修学旅行客や観光客が後を絶たない。最近では、神社の一部を壊して、マンションやホテルにするところも増えてきた。今の人間達が、物の怪や神に対する畏れを、信仰の心を忘れて彼らにひどい扱いをしているのは確かな話だった。
「私たちの目的は、この大天狗に昔の力を取り戻してもらう事。だから、霊力を欲しているの。強い霊力を持つ人間どもの血液を摂取すれば、大天狗はまた昔のように強い霊力を取り戻す事ができる」
全く予想外の真実だった。自分は今まで、天狗達はただ何の理由もなく人間を襲っているとばかり思っていた。それにこんな目的があるとは思って見なかった。
しかし……。
優春は眉をひそめながら、周りに無残に転がる死体に視線を向けた。
「だからって、それで何の罪もない人々を襲って殺していい道理にはなりません」
天狗達の目的や事情は理解した。確かに大天狗という者の霊力が失われたのは、人々が彼らに対して信仰心や恐れを忘れてしまったせいなのかもしれない。だけど、それで人を襲って殺していいわけがない。それに虐姫が苦笑する。
「あなたに何が分かるの? たかが人間風情が……」
「どうして、人間にこだわる必要があるのですか?霊力を高めるためには、他にも方法があると出会った禍日主さんは仰っていました」
「それは、人間がこうして神域を穢したからよ」
「っ!!」
「彼らは人間を恨んでいるわ。だから、あえて人間達から霊力を奪うのよ」
そう言いながら彼女は転がる死体に視線を向ける。
「人はいつも己の事しか考えていない。醜く外道な生き物……。転がっている死体が見える?彼らはあなたがここへ運び込まれる前に血を一滴残らず吸われた者たちよ。良い顔で死んでいるでしょう? 次は、あなたの番……」
「……!!」
そう言いながら、虐姫は徐に顔を寄せてくる。次はあなたの番。その言葉が、自分の死が間近だと宣告されているようで、恐怖と絶望で背筋が凍りつくのを感じた。必死に縄を解こうと捥くが、やはり解けるわけがない……。そんなこちらの状況をまるで楽しむかのように、彼女は微笑んで首を可愛らしくかしげてきた。
「でも……。別に問題ないわよね? だってあなたは、死にたがっていたんですもの」
「ッ!!」
彼女の吐息が耳に掛かる。そのまるで氷のように冷たい吐息に身が竦んだ。
恐怖で動けずにいる優春に虐姫はそのまま畳み掛けるように囁いてくる。
「他者を癒し清める力、だったかしら? その力で大勢の人々を殺した。そうでしょう?」
「っ!? ど、どうしてそのことを……」
思わぬ発言に目を見開いた。そういえば、連れ去られる前にも彼女は自分の能力のことを、過去を知っているような発言をしていた。この少女、まさか……。
「あなた、まさか……昔の私のことを知っているのですか?」
恐る恐る聞いた質問に虐姫は肩をひそめて言い放つ。
「さぁ? どうかしら。でもそんなこと、もうあなたには関係ないでしょう? どうせもう、死ぬのだから」
「っ……」
刹那、大天狗が巨大な翼を羽ばたかせ、目の前に舞い降りた。
「さぁ、二宮優春。お主の強い霊力、我に寄越せ。その力で我は再び力を取り戻し、この山を穢して貶めた人間どもに復讐してやろう……ッ!!」
横になった自分に腹ばいに覆いかぶさった大天狗が頭を強く床に押し付けて、巨大な大口を開けると、その月夜の明かりを受けて鋭く輝きを放つ牙を首筋に押し付けて来た。
「いやぁッ!!」
必死に抵抗するが、自分を拘束する縄のせいで身動きが取れない。
「は、離してッ!! こんなこと、間違っているわッ!!」
「往生際が悪いぞ小娘ッ!! 何、すぐに終わって楽になれる……力を緩めてその身体を我に委ねろ」
「ッ!!」
今度こそ、本当に血を吸われてしまう。必死に抵抗する最中、転がる死体と目があった。苦痛にゆがんで絶命した死顔。自分もあんな風になってしまうのか……。そして、どこかの人気のない雑木林に無造作に捨てられてしまうのか……。
そう思うと、目頭が熱くなった。流れ出る涙が頬を伝う。
これが、自分の罰なのだ。何百人という人々を死なせてしまった自分への神様が下した罰なのだ。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
震える声でそう呟いたその時、
「大天狗様ッ!! 侵入者でございますッ!!」
室内に一人の小さな天狗が駆け込んでくるのが見えた。それに大天狗が手を止め、その天狗を怪訝そうに睨みつける。
「むぅ? 何ヤツじゃ……」
「朱色の瞳の若い袴姿の男ですっ!! 刀を振り上げ、仲間を次々と殺しておりますッ!!」
その言葉に、思わず目を見開いた。
朱色の瞳の若い男……。そんな人物を自分は一人しか知らない。
「一ノ瀬さん……!!」
涙を流しながら、そう笑みを浮かべると、隣にいた虐姫が不敵な笑みを浮かべてぽつりと呟く。
「あら、予想よりここを嗅ぎつけてくるのが早かったのね……」
「外で守りを固めていた数十名の天狗が次々に殺られておりますッ!! 大天狗様、増援を、どうか増援をお願い致しますッ!!」
間違えない。一ノ瀬が、自分を助けに来てくれたのだ。そう思うと自然に笑みがこぼれる自分に大天狗は眉間にしわを寄せると、その天狗を怒鳴りつけた。
「えぇい、敵は一人であろうがッ!! 今わしは取り込み中だッ!! 邪魔をするものは殺せッ!! 生きて帰すなッ!!」
「はっ!!」
刹那、
「生きて帰さねぇのは、こちらのセリフだ」
真上の天井の方から、聞き慣れた声が聞こえた。
「なっ!!」
その瞬間、天井を派手に破壊し、無数の瓦礫とともに、目の前に一人の人物が砂埃りを巻き上げて舞い降りる。茶色の短髪に、袴の袖を靡かせ、血濡れた刃を構えたその青年は、まごう事なきあの、一ノ瀬颯斗だった。その一ノ瀬は首筋を触りながら嘆息を漏らして呟く。
「あーー怠い。京都市内からここまで走ってきて、太ももがパンパンだぜ……全く、余計な手間をかけさせてくれる……」
「お主ッ!! 何ヤツだっ!!」
それに大天狗が鬼の形相で天井を破壊して舞い降りた一ノ瀬に向かって怒鳴りつける。それに彼は鬱陶しそうな顔で振り返ってきた。
「あ? てめぇこそ誰だよ。でけえ図体して、ママに習わなかったのか? 人に名を問う時は、まずは自分から名乗るもんなんだぜ?」
「何をッ!? 人間の分際で生意気なッ!! 皆の者、この者を斬り殺せッ!!」
刹那、大天狗が一ノ瀬に向かって飛び掛かった。それを彼は華麗に避けると、転がった自分を素早く抱き抱え、そのまま穴が空いた天井へ飛び上がった。
「お前たち追えッ!!逃すなよッ!? 確実に殺せッ!!」
「はっ、御意にッ!!」
天井から飛び上がり、自分を脇に抱えて一ノ瀬が腐敗が進んだ瓦屋根の上を全力で駆け抜ける。それを他の天狗達が刀を振り上げて追いかけてきた。
「おのれ人間がッ!! 大天狗様の邪魔をして、タダで済むと思うなよッ!?」
追いかけてくる天狗の一人が翼をはためかせ、凄まじい速さでこちらに押し迫ってくた。天狗の握る刃が薄闇の中でギラリと瞬き、その刃先が脇腹に抱えられた自分に差し迫る。
「ッ!!」
それに一ノ瀬は己の刃を素早く抜き放つと、身体をひねって背後に迫るその天狗の刃を弾き飛ばし、身体を回転させてその天狗の眉間に蹴りをめり込んだ。
「ぐぅッ!!」
一ノ瀬の力強い足蹴りで吹き飛ばされた天狗の背後からすぐさま新手の天狗達が襲い掛かってくる。
「死ねぇッ!!」
それに一ノ瀬は蹴った勢いで空中に舞い上がると、そのまま自分を抱えたまま宙を舞い踊り、襲い来る数名の天狗の首筋に己の刃を走らせた。
「かぁッ!!」
首から吹き上がる血飛沫を舞い散らせながら屋根から転げ落ちる天狗達を踏み台に、一ノ瀬はそのまま森の方へ飛び降りた。
霧が立ち込める闇に包まれた森の中、地面に音もなく着地した彼は、その勢いを殺さずに木々の間をそのまま駆け、樹木の幹に空いた直径二メートル弱の樹洞を見つけると、その中に抱えていた自分をゆっくりと下ろした。
「怪我はないか? ここならしばらくは身を隠せるだろう……」
そう言いながら彼は自分を拘束していた縄を刀の刃で切り落としてくれた。久しぶりに自由になった身体を抱き、辺りを警戒する一ノ瀬に視線を向ける。
「どこへ逃げたッ!?」
「探せッ!!見つけ次第、娘もろとも殺せとのご命令だッ!!」
遠くから天狗達の罵声が聞こえてくる。どうやらここは、天狗達には死角となっていていい隠れ場所のようだった。それに息を潜めながら、優春は一ノ瀬には頭をさげた。
「すみません一ノ瀬さん。助けてくれてありがとうございます……」
まさか助けに来てくれるなんて思いもしなかった……。護衛の任は解かれていたはずなのに……。これで彼が自分を助けてくれたのは二回目だった。それに彼が怪訝な顔で一瞥してくる。
「阿保か。俺はお前の護衛役だぞ? 助けにきて当たり前だろうが」
「優しいんですね……一ノ瀬さんは」
ふと、一ノ瀬の腕に視線を向けると、先程助けてくれた時に付いたのか、刀傷が刻まれ、血が微かに滲んでいた。本人も気にしていないようだし、見た感じ傷も浅い。それほど問題ないのだろう。いつもそうだ。嫌な顔をする割には、その声はどこか優しげで、いつも心配してくれて、こうして体を張って守ってくれる。 そんな彼に、優春は笑みを浮かべると、静かに彼に向き直った。
「一ノ瀬さん、どうしてここへ? 護衛の任は私が連れ去られてしまった時点で失敗と見做されて任務は終了のはずです。なのにどうして、ここへ私を助けに来たのですか?」
「っ!?」
それに彼は驚きの表情を浮かべる。まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったという顔だ。そんな彼に畳み掛けるように問い詰めた。
「最初の契約でそうでしたよね。これはあくまで連れ去られないよう守る護衛なのであって、連れ去られてしまったら護衛の任は終了だと」
「……」
沈黙。彼はしばらく黙って周囲に視線を向けていたが、やがてこちらに視線を戻すと、観念したように徐に口を開いて頷いた。
「あぁ。護衛の任は失敗と見做され解雇された……」
「……」
やはり、任務は解雇されていたらしい。なのに彼は独断でここまで助けに来てくれたのだろう。その行為に嬉しさがこみ上げるのと同時に、罪悪感が身を包んだ。ということは、彼は命令を無視してまで自分を助けに来たということになる。
「こっちだ……。人間の臭いがする……」
辺りで天狗達が臭いを嗅ぎながら霧が濃い森の中を探しているのが聞こえる。どうやら彼らはあのご立派な鼻で匂いをかぎ分け、自分たちを探しているようだった。ここはいい隠れ場所になっているようだが、臭いまではさすがに消せないだろう。ここにいれば、見つかるのは時間の問題だった。それに一ノ瀬が舌打ちをしながら樹洞から顔を覗かせ、霧の中で辺りを伺う。
「……だめだな。ここもすぐに見つかる。近くにいる敵の数は、今確認できるだけで軽く二、三十体と言ったところか……」
「そんなに……いるのですか?」
先程、廃神社で見かけた数よりはるかに多い。どうやら、予想以上に大天狗に仕える天狗達は大群のようだった。どう考えても、簡単には逃げられないのは明白である。
「何とかしたいが、さすがにお前を庇いながら相手にするにはこの数は少し多いな……。立てるか? 場所を変える。付いてこい」
それに彼はそう言いながら、こちらに手を差し伸ばしてきた。その差し伸ばされた腕の刀傷が目に入り、優春は伸ばしかけた腕を引っ込める。それに彼は訝しげに首をかしげてきた。
「どうした? もう少し山を降りれば観光地の仏閣が点在する場所にでるはずだ。そこまでもう少し……」
「一ノ瀬さんは、先に行ってください」
彼の言葉を遮ってそう言い放った。それに一ノ瀬が驚愕に目を見開くのが分かる。
「はぁ? お前、何言って……」
「これ以上、あなたに迷惑は掛けられません……。もうこれは任務ではないのでしょう? 私ならもう大丈夫です。もう縄で縛られていませんし、私だって一人でも逃げられますから」
そう言いながら、優春は彼に微笑んだ。独断ということは、それは命令を無視した、ということになる。そこまで彼に迷惑は掛けられなかった。もう彼は護衛ではないのだ。ここまで助けてくれただけでももう、十分嬉しい……。しかし、もうこれ以上は、自分のために護衛ではない彼を巻き込めない。そんな思いを込めながら、彼の傷を負った腕に視線を向けながら言葉を続ける。
「周りで私たちを探している天狗たち、人間の匂いをたどっています……。二人一緒だと確実に不利です。私が囮になりますから、どうか先に……」
もう、自分のせいで傷つき、苦しむ人を見たくない……。
「私などの為に、わざわざ助けていただいて、ありがとうございました……」
「ふざけんなよッ!? 俺はお前を助けに来たんだぞッ!? 置いていけるか阿呆ッ!!」
その刹那、頭をさげる自分に彼が胸ぐらを掴んできた。
「どうしてお前はそういう考え方しかできないんだッ!! ここまで来て、はいそうですかって帰れるわけねーだろうがッ!!」
「見つけたぞ……憎き人間!! 殺してやる、確実に殺してやるぞッ!!」
刹那、一ノ瀬の声で気がついたのか、近くで探していた天狗たちに見つかってしまった。早く逃げなければ、また一ノ瀬が傷つくことになる。それはなんとしても避けなければならない……。そう思いながら、優春は彼に笑いかけた。
「私、全然ダメダメでした……。ここで殺されれば、死なせてしまった人たちに、弟に、罪を償えるって思ったんです、でも……結局死を目の前にすると、怖くなって……まだ死にたくないなんて、バカなことを考えてしまった……。最低です。本当は私は死ぬべきなのに……」
「何を言っているんだ……誰もそんなこと……!!」
「本当にあなたは優しい。出会った時からそうでした。口では冷たい事を言って突き放す割には、その行為は私をいつも気遣って助けてくれた……でも、私は化け物なんですっ……。大勢の人々を殺してしまった化け物。人間じゃないんですよ……」
『化け物ッ!!』
『汚らわしい魔女めッ!!』
『死んでしまえッ!!』
幼い頃に、街の皆に向けられた罵声。涙を流し、怒りに震え、そう言い放つ彼らのあの顔を今でもよく覚えている。自分が、彼らの大切な人々を、この能力の暴走で、死なせてしまったからだ。彼らはだからそう怒鳴り散らした。分かっている。自分が化け物で、魔女で、死ななくちゃいけない存在だってことを。
「みんな、私のせいで不幸になっていく。祖母も、一ノ瀬さんにも迷惑をかけて……。だからこれ以上、誰にも迷惑をかけたくないからっ!!」
「おいッ!!」
そう言い放つと、優春は天狗たちの前に躍り出た。それに彼らが刀を振り上げ飛びかかってくる。
「見つけたぞぉッ!! 娘、お前からまず先に殺してやるッ!!」
「さぁ、一ノ瀬さん……ここは私が食い止めますから、早く逃げてくださいっ!!」
そう言い残すと、優春は、襲い来る天狗に両手を広げ、目をつむった。
弟が、目の前で死んだ時のことをよく覚えている。
『おねえちゃん、助けて……痛い、痛いよっ!! 苦しいよぉ!!』
目の前で、自分から放出された痛みや苦しみの量をまともに受けたあの子は、全身を仰け反らせ、痙攣を起こしながら、目や鼻、口から血を流し、そう絶叫していた。どうしたらいいのか、分からなかった。暴走した力はコントロール出来ることなく、長年、人々から蓄積されてきた痛みや苦しみは歯止めが効かずに周りの人々に放たれてしまった。苦痛に顔を歪め、悶え苦しむ弟の春樹の手を握って泣くことしか、あの時の自分にはできなかった。
ごめん……と謝っても、春樹も、死なせてしまった人々は蘇らない。この罪は消えることなどない。だから、そんな彼らに報いるためには、自分が死ぬしか……。
そう思った刹那、何かが自分に覆い被さった。
「っ!!」
勢いよく地面に押し倒され、目を見開く。その瞬間、
「ぐぅッ!!」
鈍い、骨が砕けるような音が響き渡り、見上げた先に、一ノ瀬の苦痛に歪んだ顔があった。
「いちのせ、さん……?」
庇ってくれたのか……?
「どうして……?」
そう問いかけながら、覆い被さっていた彼を抱きながら起き上がると、その彼に触れた手が赤く染まっていることに気がつく。
「っ……?」
少しどろついた真っ赤な液体。どう見ても、鮮血である。
何故、彼の体を触れてこんなに血がこびり付くのか……。一瞬理解できずに彼を見上げる。それに、一ノ瀬の呼吸がいつになく荒いことに気がついた。顔は青ざめ、血の気が引けている。
「ッ!?」
何か嫌な予感に突き動かされ、咄嗟に触れた彼の体に視線を向けると、彼の右腕が見事に斬り落とされ、噴水のように血飛沫が吹き上げているのが見えた。
「一ノ瀬さんッ!?」
ふと、眼下を見下ろすと、一ノ瀬の右腕が地面の上に無造作に転がり、ビクビクと痙攣を起こして血を流している。
「腕が……ッ!!」
ウソだっ!!
こんなことって……!!
彼は自分を庇って、天狗に腕を斬り落とされたのだ。
「どうして、どうしてこんなっ!!」
逃げてと言ったのに。彼が傷つくことなどなかったのに……!!
そんな……。まただ。また、自分のせいで誰か人を傷つけてしまった。あの時と同じように。結局変わらなかったのだ。昔も今も、自分は人を不幸にして傷つけて殺してしまう化け物でしかなかった……。
「私のせいで……!!」
泣きそうに顔を歪めながら、慌てて彼の斬り落とされた傷口に両手を当てる。。血は止まることなく溢れ、優春の着ていた制服を真っ赤に染めた。癒しの力を今すぐ使わなければ、このままでは彼は出血多量で死んでしまう。そう思って両手に力を込め、能力を発動しようとしたその時、一ノ瀬にその手を無造作に跳ね除けられた。
「え……」
「お前のそんな力、俺には必要ない……」
どう見ても、今すぐ治療が必要な怪我である。だが、彼は平気な顔でそう言い放つと、鮮血が吹き出る傷口を押さえもせずに立ち上がり、彼の視線はまっすぐ目の前の天狗たちに向けられた。それに彼らが不敵な笑い声をあげる。
「ふはははッ!! 腕を斬り落としたぞっ!! それほど血が溢れ出ていれば、もうじき貴様は死ぬだろう……。まずは一匹仕留めたぞ」
「それはどうだろうな……。喜ぶのは早いんじゃないか? これぐらいの傷、どうてことない」
そう言って刀を構える天狗たちに、一ノ瀬も不敵な笑みを返すと、彼は静かに斬り落とされた腕に視線を向けた。その瞬間、周りに吹き出た鮮血が彼の傷口にまるで逆再生されるかのように吸収されていき、傷口からボコボコと音を立てながら新たに骨と筋肉が生え、無数の血管が伸びていく。その上に皮膚が形成され、手の指先まで完全に元通り再生されると、最後にゴキンッという関節を鳴らしたかのような鈍い音を響かせて、完全に斬り落とされた右腕が再生された。
「うん。戻ったか……」
「な……」
一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。
腕を動かしながら満足げに頷く一ノ瀬に唖然とする。有り得ない現象だった。彼の腕が何の治療も術も施していないというのに、ひとりでに勝手に再生されたのだ。そして一番驚いたのはおそらく、目の前で刀を構えた一ノ瀬の腕を切り落とした張本人の天狗たちだろう……。その天狗に視線を向けると、彼らは驚愕で持っていた刀を手から滑り落として、冷や汗を浮かべ震えながら一、二歩一ノ瀬から後退した。
「何だ貴様……化け物かッ!?」
それに一ノ瀬は瞳を光らせながら不敵な笑みを浮かべ、口を開く。
「何を言っているんだお前……。俺が、ただの人間だとでも思ったのか?」
そのままこちらに視線を向けてくる一ノ瀬に、優春は唖然と見上げたまま固まってしまった。
「あなた……一体何者なの……?」
未だに何が起こったのか、状況をうまく理解できない……。
そんな自分に彼は静かに口を開いた。
「本当は……こんな力、お前に見せるつもりはなかったんだがな。お前があまりにも化け物化け物言うものだから、わざと見せちまった……」
そう言いながら、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「お前は知らないんだったな。俺たち禍日主の最大の秘密を……」
「最大の、秘密ですか?」
そう言われ、目をほそめる。そんなこと、西園寺は言っていなかった……。
それに彼は構わず言葉を続ける。
「俺が生を受けたのは、今から四五五年前……永禄六年。西暦で言えば一五六三年だったか? 俺は伊賀国という国で育ち、十七歳の頃に不老不死となった。それからはまるで時が止まったかのように、体が老いることもなく、髪や爪が伸びることもない。完全に時の流れから切り離され、死ぬこともできなくなったんだ……」
「っ!?」
何を言っているのか、理解できなかった。
永禄六年。一五六三年っ? そんな、ありえない。今から四百年以上も前ということになる。そんな時代、日本史の授業でしか触れないだろう。その時代から一ノ瀬は生きているというのか。
「うそ……」
思わず漏れたそんな言葉に、一ノ瀬は呆れ顔で言い放った。
「嘘じゃねぇよ。今お前も見ただろう? 腕が再生された様を……いわゆる、お前が言っていた〝化け物〟ってやつだ」
「っ……」
そう再生された真新しい右腕を突き出しながら、発せられる彼の〝化け物〟という言葉に目をそらす。確かに、この目で腕が再生された様は間近でしかと見た。あんな芸当、普通じゃ不可能だ。ありえない……。それを平然とやってのけた彼は本当に不老不死の人間なのだろう。四百年以上老いもせず、死ぬことも出来ないという言葉は信じるしかなかった。
「俺たち禍日主の者たちはみんなそうなんだ。霊力という人外の力を得るための代償なのか、それとも呪いなのか、詳しいことは知らないがな。不老不死のおかげで、俺たちは人間社会に馴染めないんだぜ? 人として普通に生きられないんだ、永遠に」
普通に生きられない。そんな言葉に思わず眉をひそめた。だから禍日主の人々は、ずっと禍日屋という現世から隔絶された屋敷にいたのだろう。あそこにいれば、人の世と関わることもなく、不老不死だということが世間に露出されることはない。任務で人と関わっても記憶操作で関わった人々から記憶を消すのは、本当は不老不死だということを隠すためもあったのかもしれない。誰の目にも記憶にも残らず、彼らは長い時をただ永遠と生きてきたのだろう。
似ている……。
そこまで考えてふとそう思った。異形の力を持ち、そのことが原因で人の世から隔絶される。普通に生きることも触れ合うことも許されない。この目の前にいる一ノ瀬も、いや……西園寺を含めた禍日主の人々も能力は違えど、同じ人の世とは干渉できない異形の者という自分と同じ境遇の中で生きているのだ。
しかし、一ノ瀬はそんなこちらの考えをまるで読み取ったかのように首を横に振って険しい顔つきで詰め寄ってきた。
「お前の婆さんに聞いたぞ、お前の過去の話、その能力について……」
「っ……?」
聞いた? 一体いつだろうかと頭を捻って思い出す。夕方、祖母のお見舞いに行った際に一ノ瀬が祖母と二人で何やら長いこと話していたあの時だろう。どうやらその内容は、自分の能力と過去についてのことだったらしい。
それに気づいて彼から視線をそらすと、彼は低く冷たい声で呟いた。
「化け物……? 死ぬことが罪滅ぼしになるだと? 馬鹿馬鹿しい……」
その言葉には、微かに怒りが滲んでいるように感じた。恐る恐る顔を上げると、一ノ瀬の厳しく細められた瞳と目があう。
「お前、本当にそうだと思ってるのか?」
「わ、私は……。本当は生きていてはいけない存在なんです。みんなが私の死を望んでいる。私が死んで罪を償わないと、誰も……」
『化け物ッ!!』
『汚らわしい魔女めッ!!』
『死んでしまえッ!!』
人々の顔が脳裏を過る。取り返しのないことを自分は犯してしまった。みんなの大切な人たちをこの異形の力で死なせてしまった。この罪を償わないと、誰も報われない、幸せになれない……。
それに一ノ瀬が鬱陶しそうに首筋を撫でながら嘆息を漏らす。
「みんなって誰だよ。 あ? 一人一人名を言ってみろよ」
「そ、それは……」
「楽だなお前……。そう言っていれば許されるとでも思っているんだろ。悲劇のヒロインぶって、可哀想だな……とかでも言ってもらいたいのか? ふざけんじゃねーよ。今のお前はただ、現実から逃げて楽になりたいだけだろうが」
「っ!!」
その言葉に思わず顔を上げた。涙が止めどなく溢れ出て、頬を伝う。
「だって……私は……!!」
「お前の婆さんの気持ち、考えたことあるのか? どういう想いでお前を育てたのか、死なせるためか? 婆さんは言っていただろうが、自由に幸せに生きて欲しいと。それをお前は踏みにじりろうとしているんだぞ? 何が償いだ。ふざけるのも大概にしろよ」
祖母の顔が思い浮かぶ。いつも自分に優しく接してくれた祖母……。化け物と罵られ恐れられた自分を彼女は受け入れてくれた。大切に育ててくれた……。
「二宮、死んだ者てのはな、二度と生き返らないんだよ……」
「っ!!」
一ノ瀬の突き付けられる容赦のない一言に、その場に思わず崩れ落ちた。
分かっていたつもりだった……。自分が死んでも、死んでしまった弟の春樹や他の大勢の人々が生き返ることはないと。大切な人々を失った残された人たちの怒りや悲しみが癒えることなど無いと。そんな当たり前のことを知っていたはずなのに、どこかで自分が死ねばそれが全て解決するんじゃないかと勝手に思い込んでいた。
それに一ノ瀬が腰を落とし、地面に膝を突いて泣く自分に徐に屈み込むと、静かに呟いてくる。
「お前が死んだところで、その事実は変わらない。お前の弟も、生き返らない」
「分かっていますっ!! そんなこと、分かっているのッ!! でも、どうしたらいいのか分からないんだものっ!! 人を殺してしまう化け物の私が、どうしたらいいのか、分からないのッ!!」
彼の言葉が胸に刺さって痛い。でも、その事実を認めてしまったら、自分は一体どうすれば良いのか分からなくなりそうで、必死にそう叫ぶと、一ノ瀬に顎を掴まれ引き寄せられた。そして鼻先に一ノ瀬の顔が間近に迫る。
「お前は化け物なんかじゃねーよ。化け物はそうやって悩んで苦しんで、涙を流して喚いたりなんかしねぇよ。俺なんかより、お前はずっと人間だ」
「っ……!!」
「お前自身は、どうしたいんだ?」
「私、自身……?」
静かに、そして優しく問いかけられる質問に、力なく聞き返す。
「そうだ。お前自身の想いはなんだ。死にたいのか? それがお前の本当の望みなのか?」
「私は……」
ずっと、それを口にするのはいけないことだと思っていた。本当は何度も何度も願って求めて、でもそれは許されない事だと何度も諦めた。
「私は……死にたくないっ!! 生きていたいです……!!」
ずっと思っていた事をやっと口にした気がした。本当は死にたくなんてない。こんな力、本当は使いたくない。ただ純粋に、普通にみんなと同じように過ごして生きていきたい。本当の想いは、ただそれだけだった。
それに一ノ瀬は満足したように頷くと、ゆっくりと立ち上がって手を差しのばしてくる。
「なら、そうすればいい。お前なら、まだ叶えられる……」
「でも……私だけ幸せになったら、私のせいで死んでしまった人たちに申し訳が立たない……」
そう引っ込めようとした手を、一ノ瀬に無理やり捕まれて引かれ、その場に立たされた。
「過去をいくら悔やんでも、もう死んだ奴らは戻って来ない。忘れろとは言わない……。お前が本当に彼らの為を思うなら、まずは自分に優しくなれ。そうして、精一杯この世界で幸せになるんだ。死んでしまった人たちの分も背負って、お前は今を懸命に生きろ。それが、それこそが死んでしまった者たちへの唯一の償いだ」
『そっかっ!! 叶うといいねっ! オレ、お姉ちゃんの夢、全力で応援するよっ!!』
春樹の笑顔が思い浮かぶ。もう彼はこの世にいない。もうあの笑顔も声も二度と見たり聞いたりできないのだ。能力の暴走で死なせてしまった人々への罪は二度と消える事は無い。
「ごめん……ごめんね、春樹……」
止めどなく溢れて流れる涙を両手で拭いながらそう呟く。
ならせめて……彼らの分を、春樹の分も精一杯生きよう。もう二度とあんな悲劇を繰り返さないために。
「さぁ、山を降りるぞ。いいな?」
涙を拭い、顔を上げて気持ちを切り替えた優春に一ノ瀬が刀の柄に手をかける。 その時、
「何を話している……。不老不死だからって調子にのるなよ?この化け物がッ!!」
周りの天狗達がジリジリとこちらに距離を詰めて迫ってきていた。それに一ノ瀬が怪訝な顔で舌打ちをする。
「まずは、こいつらをどうにかしないとな……」
「どう……どうするのですか?」
どうにかすると言っても、かなりの数だ。先ほど一ノ瀬が教えてくれた二、三十体といった敵の数よりさらに増えている気がする。この者達を全て相手にするのはさすがに無理があるように思えた。それに一ノ瀬は鞘から霊刀を抜き放つと首筋を撫でながら囁く。
「俺が道を開くから、お前は俺の後にただ付いて来ればいい」
「り、了解しましたっ……」
どうやら全てを相手にするより、まずはここから逃げる事を最優先にしたようだ。確かにそっちの方がこの状況から奪還するに一番効率の良い方法だろう。そう判断して頷くと、しびれを切らした周りの天狗達が一斉に襲いかかってきた。
「何をぶつぶつと……!!」
「行くぞ二宮優春。ここを突破して山を降りるッ!! 俺から離れるなよ!?」
「はいっ!!」
「世迷言をッ!! 皆の者、掛かれぇッ!! 殺せないとしても、あの男の動きは封じてしまえば良いだけのことだッ!!」
刹那、一ノ瀬と共に走り出す。それに行く手を遮るかのように無数の天狗達がこちらに刃を振り払った。
「死ねぇッ!!」
刃を光らせ、翼をはためかせながら飛びかかってくる天狗たちに、一ノ瀬は首筋を撫でながら嘆息を漏らすと、地を蹴って上空へ飛んだ。そのまま身体をひねりながら握る霊刀を振りかざし、そのギラリと光沢を反射させた刀身を横殴りに薙ぎはらう。刹那、唸りを上げ風を斬る朱色の斬撃が解き放たれ、一ノ瀬に襲いかかった天狗の数人の胸を斬り裂いた。
「がぁッ!!」
血飛沫をあげながら倒れる天狗を蹴り飛ばし、一ノ瀬はそのまま勢いを止めることなく後方へ控えていた他の天狗たちの懐に閃光の如く飛び込むと、朱色の瞳を光らせ、刃を滑らせ弧を描く。それを数人の天狗たちが一ノ瀬のその斬撃を受け止めた。
「舐めるな、小僧ッ!!」
刃が混じり合い迸る火花に一ノ瀬は目を細めると、そのまま無数の刃を弾き返して地面を蹴り上げ、後方へ飛ぶ。それに数人の天狗が追い迫り、鋭く早い斬撃を繰り出すが、それより一寸早く一ノ瀬は空中を一回転して颯爽と躱すと、地に片手をつき、それをバネに天狗たちの真上に飛んだ。
「っ!?」
驚愕する天狗たちを尻目に、彼はそのまま宙を舞い、霧が立ち込める闇の中で驚きを隠せない天狗たちの頭上に、怜悧で滑らかな軌道を描きながら刃を薙ぎ払って、彼らを真っ二つに斬り飛ばす。
真っ赤な噴水が夜空に吹き上げ、一ノ瀬はそれを全身に浴びて血みどろの中で不敵な笑みを浮かべた。
「さぁ、次だ。貴様ら物の怪は、俺が全て斬り殺してやる……」
ここまでで六人……。僅か数秒の出来事だった。
その圧倒的までの彼の戦闘術に優春は唖然とした。血飛沫を浴びながら、次々と天狗たちを狩り殺していく彼のその姿は、人ではなく、殺気を放って暴れまわる野獣に見えたのだ。これが禍日主の実力なのか……。戦い方が既に人知を超えすぎている。飛んだり跳ねたりを繰り返し、様々な視点から天狗たちの急所を見事に斬り裂いていく。端から見ても、その力の差は歴然だった。
その時、一ノ瀬の剣技に圧倒され意識を完全にそちらに集中し過ぎていたせいで、優春は背後に迫る殺気に気付くのが僅かに遅れた。
「ッ!!」
「娘、お前も殺せとのご命令だッ!!」
慌てて後ろを振り返ると、別の天狗が暗闇から姿を現し、刀の刃を振り下ろしくるのが見えた優春は、咄嗟に躱そうと真横へ避けるが、足元の草木に軸足を取られ、そのまま転んでしまった。
「っ……!!」
「二宮ッ!!」
それに気づいて一ノ瀬が振り返るが、天狗の動きのほうが一寸早かった。
それ好機と言わんばかりに天狗が地面に倒れた自分に刃を走らせる。
まずいっ!!
そう思って咄嗟に目をつむって受身の態勢になったその時、
「おやおや。事態はなかなかの修羅場のようだね」
キィンッと金属が衝突する音とともに、この状況には場違いと思われる爽やかな声音が聞こえ、優春は目を見開いた。刹那、天狗の刃を己の刀で見事受け止め、自分を庇うように立っていた人物に驚愕する。
「さ、西園寺さんっ!?」
「久方ぶりだね、二宮さん。怪我はないかい?」
狩衣を纏い、優雅に微笑みを浮かべたのは、あの西園寺翠蘭だった。それに向こうで天狗たちを嬲り斬りしていた一ノ瀬が声を上げる。
「翠蘭ッ!! 助太刀に来たのか!?」
「あぁ。二宮さんを見捨てるなんて真似、できる筈ないからね」
そう言って微笑む彼は、こちらに手を差しのばしてきた。どうやら彼も、一ノ瀬と同様に自分を心配して助けに来てくれたらしい。
「助けてくれてありがとうございます、西園寺さん」
その手に縋って立ち上がると、一ノ瀬が天狗の首を飛ばしながらそんな西園寺に目をほそめる。
「よく言う……。まぁいい。翠蘭……このまま、この山を降りるぞ。俺は先を切り開くから、後方からの援護と二宮を頼めるか?」
「承知したよ颯斗」
そう言い残すと、一ノ瀬は森の奥へと駆け出した。それに続いて西園寺は優雅に刀を構えると、こちらを一瞥してくる。
「さぁ……二宮さん、僕から離れずにね。このまま山を降りるよ」
「は、はいっ!!」
刹那、
「逃すと思うか?」
「貴様らはここから逃げる事は叶わない……」
「ひっ……!!」
木々の合間から無数の天狗たちが刀を構えて突如姿を現し、優春は思わず悲鳴をあげた。本当に一体何人いるのか……。まるで無限に闇から湧いて出てくるようだ。やはり数が多すぎる……。このまま本当に逃げることができるのだろうかと不安になる自分を他所に、先頭を走る一ノ瀬が声をあげた。
「邪魔するんじゃねーよ。俺たちは急いでいるんだ……!!」
握った刀が薄闇の中で鮮やかな朱色の光跡を描き、一ノ瀬は目の前に立ち塞がる敵の首筋を斬り裂いた。そのまま勢いを止めることなく、彼は自身の身体を回転させて両側の敵も同時に斬り飛ばして目の前の退路を切り開いていく。その様に自分の横を走っていた西園寺が口笛を鳴らした。
「やっぱり颯斗の剣技は凄まじいな……。二宮さんは禍日主の戦いを見るのは初めてかい?」
「え、えぇ。そうですね……」
そう聞かれ、必死に一ノ瀬の跡を追いながら頷く。夕暮れ時、一度死霊と対峙したが、今の彼の戦いっぷりを間近で拝見して、この前のは戦闘とは呼べぬものではなかったのだろう。あんなに殺気を放ち、血飛沫を浴びながら無我夢中で敵を薙ぎ倒していく彼の姿、あれこそが彼の、いや……禍日主としての一ノ瀬の本当の戦い方なのかもしれない。
そう思ったその時、こちら側にも再び闇の中から無数の天狗が襲い掛かってきた。
「死ねぇッ!!」
「っ!!」
いくら一ノ瀬が他の天狗たちの相手をしてくれていても、この数だ。こちらにもやはり敵が一匹も襲ってこないという保証はなく、一ノ瀬の手からあぶれた天狗たちが襲撃してくるのは明白だった。それに横を走る西園寺が握る刀を優雅に構えながら穏やかな微笑を浮かべた。
「おやおや、これは困ったね。僕は颯斗と違って戦闘向きではないのだが……」
困ったと言っている割には何故か余裕の雰囲気を醸す彼の構えた刀が突如、淡い水色の光を纏い始めた。それを西園寺は流れる水流の如く宙を滑らせると、刀身に周りの霧が吸い寄せられていく。まるで霧を纏ったかのようなその刃を、西園寺は襲い来る天狗たちに向かって、まるで舞を踊るかのような美しいフォームで薙ぎはらった。
「霊術、〝水斬〟」
刹那、水の斬撃が繰り出され、水飛沫と同時に天狗たちの胴を一斉に斬り飛ばしてみせる。
「な……!?」
なんだ今の現象は……。
理解に追いつかず、驚愕する自分に彼がのんびり振り返ってくる。
「今のが霊術、〝水斬〟だ。水を刃に纏わせ放つ霊術だよ。今ここには霧が立ち込めている。水系統を得意としている僕にはうってつけの環境だよ」
「霊術っ!?」
その言葉に驚きの声を上げる。霊術は今まで様々な物を見てきたが、それは水を操って様々な形に液体を自由に変形させたり、時には傷を治したりと人を楽しませたり助ける為のものだと心の中で勝手に思っていた。そんな内心の気持ちを理解したかのように西園寺が口を開く。
「霊術っていうのはね、何も素敵なマジックのような代物だけじゃない。元々は、こうして敵を殺すために生み出された技術なんだよ」
「っ!!」
平然と告げられるその言葉に、優春は思わず目を見開いた。相手を殺すために生み出された技術……。禍日主は隠り世と現世の秩序と均衡を守るために日々物の怪と戦う組織。その禍日主が編み出した霊術という人外の力は、戦いに使うものだということは、少し考えれば分かることだったが、何だか少し複雑な気持ちになる……。
「僕はそれを得意としていてね。颯斗のような力や腕があるわけじゃないから、僕は基本、霊術を駆使して敵と対峙する」
そう言うと、彼は次々と敵に向かって水の斬撃を薙ぎはらって敵を一網打尽にしていった。やはり、この彼も禍日主……。一ノ瀬に負けず劣らずかなりの腕の持ち主のようである。
「こいつ……この男も妙な力を使うぞっ!? お前も化け物か!?」
それに周りの天狗たちが舌をまいた。そんな彼らに、西園寺は静かに目を細める。
「酷いね君たち……この僕を化け物だなんて。その言葉、僕は一番嫌いなんだよ」
そう言うと、彼は優雅に舞を踊るかのように刃で美しい弧の軌道を描くと、彼らに向かって水平に一閃させ、首を幽玄に斬り飛ばした。
「このまま一気に駆け抜けるッ!!」
一ノ瀬の言葉に西園寺と共に頷くと、三人はそのまま森を駆け抜けていった。と言っても今走っている道は綺麗に整備されているわけでもなく、木の根がいたるところから顔を出し、草木が生い茂り、非常に足場が悪く危険な道で、何度も転びそうになったが、優春は必死に生きるために、一ノ瀬の背を追いかけた。その背後には相変わらず無数の天狗たちが追い迫ってきている。木の根に足を取られて転べば、確実に背後の彼らに確実に殺されるのは確実だった。
「……」
一ノ瀬が言っていた言葉が脳裏に蘇る。罪は死んでも消える事などない。死んでしまった者たちは二度と生き返らないと。そんな事、わかっているつもりだった。でもどこかで、自分が死ぬ事によってその罪が許される者だと思っていた。だが、今は分かる。死んでしまうのは、それは逃げだ。死なせてしまった罪から逃げてしまう事になる。それでは、誰も救われない。死んだ弟も他のみんなも、誰も報われない。自分を育ててくれた祖母にもきっと悲しい思いをさせてしまう事になる。それは嫌だった。罪を償うとは、その罪を受け入れて背負って生きていく事だ。もう二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、彼らの想いを背負って生きていく事だ。
優春はそう歯を食い縛ると、背後を一瞥した。
だから、彼らに殺されるわけにはいかない。自分は、生きると誓ったのだから。
その刹那、
「よくも……よくも……我が同胞たちを殺してくれたな……許さんぞ許さんぞ貴様らッ!!」
「何ッ!?」
突如地面が揺れ、三人はその足を思わず止めた。地震?一瞬そう思ったが、辺りに不意に満ち溢れる禍々しい殺気にその考えを否定した。これは地震などではない。もっと強力な何か……悍ましい何かが近づいている足音……。それに隣で西園寺が冷や汗を浮かべながら苦笑した。
「これは……すごい禍々しい殺気だね……。ついに親玉のお出ましかな?」
その瞬間、三人の前方に何か巨大な物が爆風を撒き散らして降り立った。その衝撃波で周りの木々が吹き飛び、地面が抉れる。
「ッ!!」
「逃がさぬぞ……憎き人間たちよ。我の邪魔をした上に、同胞たちを随分と殺してくれたな。許さぬ……。この我の怒り、その身にしかと刻み込ませてやるッ!!」
それは先程の大天狗だった。だが、その姿はもはや天狗の姿をしておらず、乱れた長髪から覗くその顔は、身の毛もよだつ悍ましい般若の顔に変貌し、その巨体の至る所から鋭い鋭利な角と無数の腕が生え、翼は悪魔のような禍々しい形状に変化していた。それはもはや天狗とは呼べず、怒り狂った鬼そのものだった。 その姿に震えながら、優春は西園寺に頷く。
「えぇ。あの方が大天狗です。人々をさらって血を喰らっていた張本人……」
「大天狗だって? まさか、そんな……」
その言葉に西園寺が目を見開く。その全くの予想外だった反応に彼を見返した。
「え? 何か知っているのですか?」
「大天狗はここ比叡山を守護する神の一人だと聞いたことがある。でも、時代の流れでその信仰も廃れ、人々に忘れられてしまったと。消えたと思っていたけれど、まだ生きていたのか……」
「神様っ!?」
その言葉に思わず目の前に立ち塞がった鬼と化した大天狗を凝視した。
一体どういう事なのか……。この比叡山で神と崇められている者に大天狗がいるとは知らなかった。だがそれもそうだろう。この比叡山という山も大昔からここに存在していたのだ。現代の我々人間が知らない歴史、祀られている神がいたとしても何ら不思議はなかった。だがしかし、何故そんなこの山で神と崇められしお方が、人々を攫って殺しているのか。神とは人々に崇め奉られる存在の筈だ。高貴な存在で、いつも人々を悪しきものからお守りくださる存在だと思っていたのだが……。そんな優春の考えに西園寺は眉をひそめた。
「あの大天狗の状態からして、彼は祟り神になってしまったみたいだね」
「祟り神?」
その聞き慣れない単語に目を細める。
「神様っていうのは、色々いると思うけど、その殆どが神域と一体となっている事が多い。神域が清らかであれば、神も清らかな存在になるが、逆にその神域が汚れれば、そこにいた神までもが神域の穢れの影響を受けて、黒く染まってしまう。それが祟り神と呼ばれているんだ。人々に神域を踏み荒らされて穢され、黒く染まった神が人々に恨みを抱いて暴れまわる……」
「なっ……」
その話に、先程の逆姫の言葉が蘇る。
『乱世の時代が終わり、平和な世となったこの現代の人々は、神や物の怪に対する畏れを忘れた。神々や物の怪、隠り世の領域となる神社や神聖な神域を、観光などという見世物にして穢し、踏み荒らし、ここ数十年で物の怪はその力を弱めてしまった。数多の妖や霊、神様たちが人間達に居場所を奪われて消えていったわ。この山を守護する神の一人として生きてきた大天狗も、例外ではなかった』
そういえば、この比叡山も近頃は観光地となり、多くの人々が行き交う場所へと変貌した。中にはマナーの悪いものも少なくはない。昔は神聖な山として選ばれたもの以外は山へ入る事さえ許されなかったというのに、今はその信仰は途絶えてしまった。
「この山の神域が汚染されて、その神域を守っていた大天狗さんも穢れてしまったのですね……」
そう思うと、彼が哀れに思えてならなかった。彼をここまでの姿に変えてしまったのは人間だという事実に胸が締め付けられる。だから彼は人を憎み、その命を奪っているのだ。きっと昔は心優しい神様だったのかもしれないのに……。
「なんとか元に戻すことはできないのですか? 元の良い神様に戻っていただければ……」
もしかしたら、もうこれ以上戦わなくてもいいかもしれない。そう思って問いかけた疑問に、西園寺は残念そうに首を横に振ってそれを否定した。
「残念ながら、それは無理だよ。祟り神に堕ちた神々はもう二度と、元へ戻ることはできないんだ」
「そんな……!!」
「祟り神を解放してあげたいのなら、倒すしかない」
「っ!?」
彼のその残酷な宣告に唖然としていると、前方の一ノ瀬が刀を構えながら怪訝な顔で振り返ってきた。
「おいお前ら……おしゃべりをしている暇は、ないみたいだぞ……」
「えっ?」
それに咄嗟に大天狗に視線を戻すと、彼の肩に一人の少女が乗っているのが目に入った。
「あっ!! あの子……」
青白い顔に紅をさし、美しい黒に彼岸花の模様をあしらった着物を身に纏った艶やかな黒髪のおかっぱ頭をした少女。自分を攫ったあの虐姫という少女だった。それに西園寺が怪訝な顔で眉をひそめる。
「やっぱり、あの女がこの事件の首謀者か……」
「知っているのですか?」
それに肩に乗っていた虐姫が妖艶な笑みを浮かべながら、大天狗の耳元に囁いた。
「大天狗? あの朱色の瞳の青年、そして青い狩衣の青年、二人とも禍日主よ。周りの天狗たちではあの者たちを倒すことはできないわ……」
「ならば、お前を使うしかないようだな、虐姫……」
「えぇ。 私ならあの忌まわしい者どもを斬ってあげられる……」
「……?」
何を、話しているのか……。
そう目を細め息を呑んだその時、大天狗が夜空に向かってその巨大な腕を振り上げた。
「ならば来いッ!! 我が刃となり、憎き人間どもを根絶やしにしろッ!!」
刹那、虐姫の体が淡く輝きを放ち、一振りの鋭利な日本刀へと姿を変えた。その刃が一人でにスルスル回転しながら振り上げた大天狗の手に収まる。
「何っ!? あの虐姫とかいう女の子、刀になったわっ!!」
「これが我が霊刀、虐姫だ……。霊刀を持つ者が、何もお前たち禍日主だけだと思うなよ……?」
そういえば、あの少女、先程自分を霊刀の一振りだと言っていた気がする。あの言葉は比喩だと思っていたが、まさか本当に刀になってしまうとは……。一体どういうことなのか……。あの虐姫という彼女は一体何者なのか。西園寺は何か知っているようだったが、今はそれを聞く暇などなかった。
「まずいね……颯斗、気をつけてッ!! 来るよッ!!」
「殺す……殺してやる……この山の聖地を穢し、のうのうと生きるお主ら人間どもを、我は許しはしない……。この手で地獄へと葬ってやるわッ!!」
「ッ!!」
刹那、刀となった虐姫を水平に一閃させた大天狗から白銀の斬撃が飛び、木々を切り裂きこちらへ襲い掛かった。それに前方の一ノ瀬が上空へ飛んで躱し、西園寺がこちらに手を差しのばす。
「二宮さんッ!! 早く僕の後ろへッ!!」
「は、はいっ!!」
それに慌てて西園寺の手をとって背後に隠れると、彼は片手を振りかざし、水の結界を張った。
「っ……!!」
斬撃は何とか結界に当たって消滅し、難を逃れたが、辺りの木々は全て斬り倒され、見晴らしが良くなっていた。その一瞬で地形を変えた大天狗の一撃に目を剥く。これが神と呼ばれた大妖怪の実力。だがきっと、ほんの挨拶代わりなのだろう。その証拠に彼は余裕の笑みを浮かべていた。たった一振りしただけ、言わば太刀風だけで辺りを斬り裂いたのだ。それはまるで鎌鼬そのものだった。
大天狗はそのまま大地を揺るがす雄叫びを上げると、刀を振り下ろし、翼を羽ばたかせてこちらに凄まじいスピードで突っ込んできた。
その時、上空に飛んだ一ノ瀬が刃を一閃させて真下の大天狗に斬撃を飛ばす。しかし、彼はそれを翼を駆使して難なく弾き飛ばすと、光跡を描いて上空から飛来した一ノ瀬の刃をその図太い片腕で受け止めた。
「なっ……」
刃が腕に食い込み、驚きで目を見開く一ノ瀬をそのまま大天狗は地面に叩きつけた。
「い、一ノ瀬さんっ!!」
バキバキと地面に亀裂が走り、クレーターの底に叩きつけられた一ノ瀬が口から血反吐を吐く。そのまま大天狗は体を捻ると、腕に突き刺さった一ノ瀬の刃を抜き放ち、その巨大な拳で一ノ瀬の後頭部を叩き潰した。
「ッ!!」
鈍い音と何かが潰れる音が辺りに響き渡り、一ノ瀬の頭が跡形もなく粉砕され真っ赤な血飛沫と脳みそが吹き上がる。頭部を失った一ノ瀬の体はビクビク痙攣をしていたが、やがて動かなくなってしまった。
「そ、そんな……」
その光景に思わずその場にへたり込む。
あんな強かった一ノ瀬を、たった一撃で仕留めてしまった……。しかも刀を使わずに拳で一撃だなんて……。
「まずは一匹……」
それに般若の形相の大天狗がこちらに視線を向け、返り血を浴びたその顔で不吉に微笑む。それを見て恐怖で体が震えた。一ノ瀬が殺されてしまった……。そう涙を流して蹲る自分に西園寺は穏やかな声で口を開いてきた。
「いいや? あんなことで颯斗は死なないよ?」
「え……?」
その時、踵を返した大天狗の背後で一ノ瀬が頭部を失った状態でゆっくりと起き上がる。そのままボコボコと音を立てながら脳みそや血管、頭蓋骨や皮膚などが再生され、一ノ瀬の頭部は瞬く間に元の姿へ戻った。
「何っ!?」
気配を感じて咄嗟に振り返った大天狗の懐に飛び込んだ一ノ瀬は、右足を回して鋭い蹴りを彼の脇腹に叩き込んだ。
「ぐぅッ!?」
そのまま大天狗の巨体は真横に吹っ飛び、近くの大木に叩きつけられる。
あの巨体をたったひと蹴りで吹き飛ばすなんて……。
彼の人知を超えた膂力に息を呑んだ。
それに同時に思い出す。彼の右腕が先程再生されたことを。彼は……。
「不老不死。僕たち禍日主は死なない呪いを掛けられているんだよ」
隣で西園寺がゆっくりとそう言い放った。
「僕たちはそう簡単に死ぬことはない。ある一点を除いては……」
「え……?」
「おのれ……そういうことか。お主ら禍日主は不老不死だったな……。忘れておったよ……」
「大天狗、無駄だ。俺を殺すことは叶わない……。頭を潰そうが、体を切り刻もうが、俺は瞬時に再生される。分かったらさっさと死んであの世へ逝け」
「ふはははッ!! 戯言を……。ならば、この霊刀で斬ればどうなるんだろうな……」
「ッ!!」
そう血反吐を吐きながら叫んだ大天狗は、握っていた霊刀、虐姫を一ノ瀬に振りかざした。それに瞬時に地に落ちていた己の刃を拾い上げてその斬撃を受け止めた一ノ瀬に大天狗が嘲笑した。
「なぜ防ぐ? 不老不死ならば、こんな斬撃、何てことなかろうッ!?」
「この物の怪を斬る霊刀、この刃は不老不死の効果を無効化してしまう。そうだろう? 若き禍日主ッ!!」
「ッ!!」
大天狗はそう言い放つと、剣を弾き、体を回転させて一ノ瀬に向かって刃を薙ぎはらった。それに彼はすぐさま弾かれた刃を振り下ろすが、大天狗の霊刀が首筋を掠め、鮮血が飛び散る。
「ッ……!!」
眉間にシワを寄せる一ノ瀬はそのまま跳躍して距離を取ろうとするが、大天狗がそれを許すことなく追い迫った。それを見ていた西園寺が唸りを上げる。
「僕たちは不老不死。でも、あの霊刀に斬られれば話は変わってくる」
「え?」
変わってくる? その彼の暗い言葉に嫌な予感が拭えずに大天狗から距離をとる一ノ瀬に目を向けると、大天狗の刃で掠った彼の首筋の傷が回復していなかった。
不老不死だというのに、霊刀に傷つけられた刀傷だけ癒えないのはおかしい……。それに西園寺は言葉を続ける。
「霊刀は隠り世と現世の両世界の物を斬ることができる刃。なぜそんなことが可能かというと、それはあの刃がすべての効果を無効化させる特殊な特性を秘めているからなんだよ」
「すべての、効果を無効化ッ!?」
その言葉に思わず驚愕してしまった。霊刀にそんな特性があったなんて。だから一ノ瀬は今朝、霊刀の説明時に自分もこれに斬られれば死ぬと述べていたのだ。すべての効果を無効化する刃だからこそ、隠り世と現世、両世界に干渉できる武器なのだ。霊刀の一振りと語った日本刀に変化した虐姫という少女も、霊刀ならきっと同じく無効化させる効果があるのだろう。だから一ノ瀬に傷を負わせたのかもしれない。
「何故、物の怪である貴様が、霊刀の特性を知っている?」
交差する刃を激しく鬩ぎ合わせながら、一ノ瀬は眼下に迫る大天狗を睨みつけた。それに彼は不敵に微笑みながら口を開く。
「全てはあのお方の為に……主様のため……!!」
「あのお方、主様だと……?」
一ノ瀬の霊刀を火花を迸らせて弾き返し、後方転回して後退すると、翼をはためかせ、ギラリと瞬く刃を唸りを上げて突き入れてくる。それを一ノ瀬は左横から打ち込み、噛み合う刃を滑らせて軌道を逸らすと、そのまま大天狗の胸を斬り裂いた。しかし、その軌道は惜しくもズレが生じて深く斬り込む事は叶わず、かすり傷程度しかダメージを与える事ができない。
「チィッ!!」
いや、軌道のズレだけが原因ではないだろう。先程、一ノ瀬の霊刀の刃が彼の腕を斬り落とせずにめり込んだのは、大天狗が他の天狗達と一線を凌駕した並外れた肉体の持ち主だからと見受けられる。もし軌道がズレていなくとも、大天狗の強靭な肉体には今のように良くて擦り傷程度しかダメージを与えることはできないだろう。
「これ以上、語る意味はない……。主様より賜ったこの霊刀、虐姫で、貴様らを斬り殺してくれるッ!!」
それに大天狗は押し出された刃を回転させて横殴りに打ち込んできた。
「ッ!!」
それを一ノ瀬は間一髪で刀でその斬撃を受け止めるが、その反動で体を支えていた軸足が僅かにふらついた。その隙を逃さず、大天狗は火花を迸らせ、一ノ瀬の刀を力強く弾くと、腰を屈めて懐に潜り込み、一ノ瀬の胸を左下から斜めに斬り裂いた。
「がぁッ!!」
月が瞬く夜空に舞い散る鮮血。
傷はそれほど深くはないようだが、口から血反吐を吐きながら一ノ瀬の表情が初めて苦痛に歪んだ。それもその筈、不老不死の特性を無効化する霊刀で斬り裂かれたのだ。傷ついた身体は再生しない……。恐らくこのままでは、一ノ瀬は大天狗に殺されてしまう。
「一ノ瀬さんっ!!」
そう咄嗟に判断した優春は、一ノ瀬を助けようと西園寺の背後から飛び出そうとするが、それを彼に慌てて遮られてしまう。
「だめだよ二宮さん。君が行っても颯斗の足手まといになるだけだ……」
「でもっ!!」
このままここで、一ノ瀬が懸命に戦っているのを黙って見ていられない。そう言おうとした刹那、背後から他の天狗達が飛び掛かってきた。
「っ!!」
すっかり忘れていたが、自分も今、他の天狗達に囲まれているのだった。慌てて身を守ろうと両腕で頭部を庇ったその時、西園寺が素早く反応し、自分を庇いながら水の斬撃で襲い来る無数の天狗達を平然と薙ぎ払う。
「颯斗のことは確かに気にはなるけれど、今はこちらに集中した方が良さそうだね」
穏やかにそう呟く西園寺に天狗の一人が叫んだ。
「おのれッ!! そちらも妙な術を使うならば、こちらも術を使わせてもらうぞッ!!」
「何っ!?」
術を使うっ!?
天狗のその一言に目を見開いたその瞬間、天狗達が一斉に翼をはためかせると、風を唸らせ白銀に輝く斬撃を飛ばしてきた。しかもただの風ではない。木々を切り裂く〝鎌鼬〟だ。それは先程、大天狗が使ったワザと全く同じ代物である。
「っ!!」
慌てて飛ぶ斬撃を躱そうとするが、恐怖で足が動かない。それに西園寺は自分の眼下に躍り出ると、己の刃で鎌鼬を消しとばした。
「ボーとしていたら死ぬよ? 二宮さ……」
その言葉が終わる前に真上から刃を振り上げた天狗達が無数に襲いかかる。それに西園寺は嘆息を漏らすと、水の結界を展開させ、真上の敵の攻撃を防ぐと、両手を水色の光で輝かせ、流れるように光の筋を描きながら彼らに向かって薙ぎはらう。
「霊術、〝水流弾〟」
光跡から水の弾が閃光のごとく飛び出し、銃弾のように天狗達に襲いかかるが、天狗達はそれを難なく鎌鼬で消しとばし、翼を羽ばたかせ西園寺の鼻先に瞬時に迫った。
「もう、そんな術は効かぬぞッ!!」
刃を唸らせ西園寺の首にその剣筋を滑らせるが、彼はそれを紙一重で優雅に躱し、舞を踊るかの如く、流麗な動きで水色の光を纏った刃を体をしならせて眼下の天狗に振り払う。その斬撃を受け止めた天狗の背後からもう一匹の天狗が受け止めた天狗の肩に足を掛けて跳躍すると、西園寺の真上から刀を突いてきた。
「西園寺さんっ!!」
西園寺の刃は今、眼下の天狗の刃と競り合っている。上空からの別の斬撃に対応する暇がないように思えた。このままでは西園寺は斬られてしまう。そう思ったその時、
「……」
それに慌てる様子も驚きもせず、西園寺は鬩ぎ合う天狗の刃を難なく弾き飛ばすと、その腕を目にも留まらぬ速さで下から上へと光跡を描いて斬り飛ばし、そのまま上空から飛来したもう一匹の天狗の肉体を美しい軌道を描きながら斬り裂いた。その動作はまるで舞を踊るかのように美しく、無駄のない洗礼された剣技だった。闇の中で青く澄んだ瞳の眼光を放ち、次々と襲い来る天狗達をなぎ倒していく。驚いたことに、その彼の体には返り血が一滴も飛び散っていない。一ノ瀬とはまた違う圧倒的な強さに唖然としていると、水と天狗達の鮮血の雨が降り注ぐ中で西園寺は再びこちらに視線を戻し、余裕の笑みを浮かべて呟いた。
「心配せずとも、颯斗は負けないよ。こんなレベルの低い戦い、僕たちには腕試しにもならない……」
「え……」
これがレベルの低い戦い?
西園寺のそんな驚愕の発言に目を剥くと、向こうで一ノ瀬の声が聞こえ、優春は慌ててそちらに視線を戻した。
「よく分かった……。お前の後ろで〝あの男〟が動いている事はよく理解した……」
そう言い放った颯斗は、一瞬何かを呟くと、体全体が仄かな紅の光を纏った。そのまま彼は地面を蹴り上げ仰向けで上体を大きく仰け反らせて飛び上がり、大天狗の斬撃を交わすと、跳躍した姿勢のまま体を捻って斜め下から大天狗の刃を撥ね返す。
「何ッ!?」
ぎゃりん! と擦れ合う金属音と共に大天狗の霊刀が弧を描き彼の手から吹き飛び、一ノ瀬はその隙を見逃さず、身体を回転させて右斜め下から左肩目掛けて一気に斬り裂いた。
「ぐあぁ!?」
夜空に真っ赤な鮮血が噴水のごとく吹き上がる。
間違いなく、一ノ瀬は今、大天狗の肉体を斬り裂いた。先程はその強靭すぎる肉体に剣筋が思うように効かなかったというのに、今はまるでチーズでも斬るかの如くあっさり斬り裂いたのだ。一体どういうことなのか。まるで急に戦闘能力が向上したかのように思える。そこまで考えて首を振るう。いや、違う。彼は元々本気ではなかったのかもしれない……。敢えて力を抑えて敵の状況をうかがっていたのかもしれない。
一ノ瀬はその血を全身に浴びながら地面に片手をつくと、それをバネに苦痛に眉間に深い皺を寄せて唸る大天狗の懐を右足で横殴りに力強く蹴り飛ばした。
「ッ!!」
「ならばもういいだろう……。御託に付き合うのも飽きた。そろそろ本気で行かせてもらう」
一ノ瀬に蹴り飛ばされて木の幹に強く叩き付けられ、血反吐を吐く大天狗に視線を向けながら、彼は首筋を撫でてそう言い放つと、手にした霊刀を振り払って刀身に付着した鮮血を吹き飛ばして目を細める。
「霊術、〝赤熱〟」
そう呟いたのと同時に、一ノ瀬の霊刀が激しく朱色に瞬き始めた。それを見ていた西園寺が朗らかに微笑みを浮かべる。
「颯斗はね、戦闘に関しては、剣術も、霊術も、僕なんかより遥かに上なんだよ」
「え……?」
「人間ごときが……我を倒せるとでも思うたかッ!!」
全き輝きに包まれる霊刀をゆっくりとした動作で構えた一ノ瀬に、幹に持たれ掛かり、血を流しながら睨みつける大天狗はそう咆哮した。だが、それには答えず、一ノ瀬は鋭い殺気を込めながらゆっくりとそんな大天狗に近づいていく。
「お前たち物の怪はいつもそうだ。人を愚弄し、貶めて……その命を奪っていく。そんな卑劣で外道なお前たちという存在を、俺は許しはしない……。だから俺は、禍日主となり、この身が朽ち果てるまで、物の怪を狩り殺すと決めたんだ……」
「なめるなよ……小童がッ!!」
「我は禍日主、一ノ瀬颯斗。隠り世と現世の秩序と均衡を守る者なり。お前たち隠り世の者どもが、現世の者たちを殺めた行為は両世界の均衡を乱す重大な違反である。よって……盟約に従って我が名の下に、お前をここで成敗致そう」
刹那、構えた一ノ瀬の霊刀が炎を纏い燃え上がった。それを彼は大天狗に目掛けて力強く薙ぎ払う。
「霊術、〝火炎竜〟!!」
その瞬間、突風と共に斬撃から巨大な火柱が吹き上げ、大天狗目掛けて迸った。
「来い、虐姫!!」
それに大天狗は手をかざしてそう叫ぶと、弾き飛ばされた虐姫が弧を描きながら大天狗の手元へ戻り、一ノ瀬の火柱を真っ二つに斬り裂いた。だがそれと同時に炎に紛れて一ノ瀬が目にも留まらぬ速さで大天狗の鼻先に飛び込む。
「ッ!!」
身体をねじり、猛然と回転して大天狗めがけて一ノ瀬は炎を纏った刃を水平に軌跡を描きながら走らせた。それを大天狗は刃を打ち込み、豪快な金属音と共に二つの霊刀が激突する。まばゆい閃光を放ち、両者の刃が弾かれるが、大天狗はそのまま身体をひねって力任せに一ノ瀬に向かって刃を薙ぎ払う。それを彼は弾かれた反動で宙を舞って華麗に躱してみせると、炎を纏った刀をガラ空きになった大天狗の懐に滑り込ませて霊刀、虐姫を握っていた腕を斬り飛ばした。
「あぁぁぁあッ!!」
炎を纏い吹き飛ぶ腕を追い掛けるように血飛沫が飛び散るが、もうそれに構うことなく、大天狗は全身全霊で残った左腕を奮い立たせ、一ノ瀬の眉間に拳を叩きつけようと唸りを上げるが、それを彼は右腕の長手甲で難なく受け止めると、
「終わりだ。哀れな祟り神よ……」
そう言い放つのと同時に、一ノ瀬は炎の刃を振りかざし、何の感情も籠っていない冷たい瞳で大天狗の胸を炎の刃で突き刺した。
「かは……!!」
それは確実に大天狗の急所を突いていた。さすがの大天狗も、心臓を貫かれて平然とできるはずもなく、血を吐き、ビクビクと痙攣を起こしながらその場に膝をつく。
「おの……れ……憎き……人間……」
気迫を失い、弱々しくそう呟くそんな大天狗から、一ノ瀬が乱暴に刃を抜き放つと、真っ赤な噴水を上げながら彼は力なくその場に倒れた。
「何……故だ……どうして……どうしてわしが死ななければならぬ……」
辺りに広がる火の海の中、燃え盛る炎の明かりに照らされながら黙って見下ろす一ノ瀬に、大天狗がそう悲鳴にも似た声で嘆く。だが、それに一ノ瀬はなんの表情も見せず、ただ闇の中で朱色の瞳を怪しく光らせながら真顔で口を開く。
「どうしてだと? 愚問だな。多くの人間を殺しておいてよくそんな口がきける……」
それに彼は大天狗の真横で歩みを止めると、静かに構えた刃を振り上げた。
「わしは……ただ、昔の……ように……戻り、たかった……だけ……。人々に、愛され、神と崇められた……昔のように……」
「知るかよ。多くの者を殺したその罪、己の死で償え」
「っ……」
彼は、今……大天狗にとどめを刺そうとしている。それは見れば分かった。力の差は歴然、彼が大天狗より強かった、ただそれだけだ。しかし、命乞いをする大天狗に向けて一ノ瀬が発した言葉に、優春は思わず歯を食い縛る。
胸が、すごく痛いのだ……。分かっている、彼が許されないことを犯したことを……。しかし、だからと言って殺してもいいのだろうか。刀を振り上げる一ノ瀬に大天狗は明らさまに怯えている。死にたくないと……。
「たの……む……殺さないで……許してくれ……頼む……!!」
その言葉を発した刹那、一ノ瀬は大天狗の首を斬り飛ばした。
「っ……!!」
それが、大天狗の最期の言葉だった。
大天狗の悲痛に歪んだ巨大な顔がゴロンと地面に転がって、鮮血が胴体から吹き荒れた。
「大天狗様がやられた……」
「何ということだ……」
「に、逃げろっ!! ここは撤退だっ!!」
それを見た周りの天狗達が西園寺との戦闘を放棄して森の奥へと撤退していく。
そんな彼らを西園寺は追わずにただ黙って見送ると、一ノ瀬に軽く視線を向けた。
「終わったようだね。ひとまず一件落着かな?」
「……えぇ。そのようですね」
彼の言葉にそう苦笑しながら頷く。それに確認するように首筋を触ってみるが、呪印は消えていなかった。
「……?」
天狗が倒されれば術の効果は消えて呪印は消えるものと思っていたのだが……。それに何だか、呪印の形が変形している気がする。首筋なのでちゃんと確認できないが、何か目のような形の……。連れ去られる直前、虐姫の首筋にあったものと同じ形状のものが刻まれているようだった。
それに西園寺が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? 二宮さん。顔色が悪いけど……どこかケガでもしたかい?」
「い、いえ……別に」
しかし優春は、これ以上彼らに迷惑をかけるわけにはいかないので、呪印を隠すように振る舞うと、刀を鞘に収め、乱れた髪を整える西園寺に話を別の逸らした。
「あの、前から気になっていたのですが、どうして、一ノ瀬さんは……物の怪を嫌っているのですか?」
「え……?」
全く予想外の質問だという顔で首をかしげてくる。でも、どうしてもこれは聞いておきたかった。夕方、死霊を斬った時もそうだ。彼は物の怪の者達をかなり嫌って拒んでいるように感じた。ずっと疑問に思っていたことだった。確かに禍日主という以上、己の使命のために物の怪を斬らねばなれないのは分かっている。しかし、同じ禍日主の西園寺とは違う、一ノ瀬には物の怪に対してもっと暗い影のようなものをを感じたのだ。必要以上に物の怪に憎悪を抱いているように思えてやまない。
それに西園寺は、考え込むようにしてしばらく沈黙していたが、やがて重たい口を開くようにして答えてくれた。
「颯斗は昔、もう数百年も前になるかな。物の怪達に最愛の人を殺されているんだ」
「え……」
最愛の人を殺された?
その思わぬ告白に目を見開いた。咄嗟に炎の中で立ち竦みながら大天狗の亡骸を無表情で見つめる一ノ瀬に視線を戻す。
「だから、一ノ瀬さんは物の怪を……」
嫌っているのだ。いや、違う……。恨んでいるのだ。最愛の人の命を奪った存在を、ずっと何百年も独りで憎しみと怒りを抱いて生きてきたのだろう。
「それ以来、彼はずっと心を閉ざし、物の怪だけを斬ることだけを考えて生きている。何の感情も抱かず、ただ無心に、愛するものの仇である物の怪を斬り続けているんだよ」
「……」
彼が冷たく人を寄せ付けない理由も、きっとそこにあるのかもしれない。
そんな事を思った優春は、佇む一ノ瀬の元へ静かに歩み寄った。
「い、一ノ瀬さん……」
その言葉に振り向く彼の顔にはまだ殺気が微かに残っており、返り血でべっとりと濡れた顔の中で瞳だけが爛々と鋭い眼光を放っていた。
「助けてくれて、ありがとうございました……」
そう笑みを浮かべながらそんな一ノ瀬の頬に静かに手を添えて血を拭い取ると、彼は徐に口を開いてきた。
「何故、そんなに悲しそうな顔をしている」
「……」
それにすぐには答えることができなかった。だって、彼は自分を守るために大天狗と戦ってくれたのだ。彼が助けてくれなければ、自分はこの大天狗に確実に殺されていただろう……。感謝の気持ちでいっぱいだ。でも、それと同じぐらい……大天狗が、死んでしまったことが悲しかった。彼は確かに悪い物の怪だった。けれど、そうさせたのは人間だ。大天狗の神域を穢し、祟り神にしてしまったのは私たち人間なのだ。大天狗のせいで多くの人間達が殺され、その罪は決して許されるものではないと分かっている。でも、だとしても……殺しても良かったのか。そんな想いに優春は歯を食いしばって一ノ瀬から視線を逸らした。こんなこと、助けてくれた彼に言えるわけない。だが、その内心の気持ちをまるで読み取ったかのように、一ノ瀬はゆっくりと口を開いた。
「お前は、本当に優しいんだな……」
「っ……!」
咄嗟に顔を上げると、一ノ瀬の朱色の瞳と目があう。だが、それ以上彼は言葉を発することはなく、静かに踵を返すと、微かに明るくなってきた空を仰いで深いため息を吐いた。
※
「そう。神社の巫女を辞めることにしたのかい?」
天狗の一件から数日後、一ノ瀬に連れられて優春は再び祖母の病室を訪ねていた。
「うん。今回の件で、色々思うとこがあってね。私、ちゃんと学校へ行って勉学以外にも部活もして、友達も作って、ちゃんと学生生活を送ろうと思うの」
「そう……」
勇気を出してパイプ椅子に腰掛けながら、ベッドの上で上体を起こして紅茶を飲んでいた祖母にそう告げると、祖母はしばらく穏やかな笑みを浮かべて窓の外に広がる雲ひとつない青空を眺め、ほっと一息つくと、こちらに再び視線を戻してきた。
「嬉しいわ優春。あなたがそう言ってくれて、おばあちゃんすごく嬉しい」
そう言って心の底から笑みを浮かべる祖母の目元には涙が滲んでいた。それにこちらも安心して笑みがこぼれる。彼女には今まで色々迷惑をかけてしまった。自分の身勝手な考えで、祖母や周りで自分のことを大切にしてくれている人たちの気持ちに気がつかなかった。でも、もう己の殻に込もらず、ちゃんと前を向いて生きようと決めた。
確かに、まだ完全に自分の気持ちが変わったわけではない。やはりまだ、能力で死なせてしまった人々に対して、自分がだけが幸せに生きていいのだろうかという罪悪感に苛まれてしまう。自分が死んでしまった方が良かったのではと思うことも。でも、それでは誰も救われないということを今回の一件で一ノ瀬が教えてくれた。本当に彼らのことを思うのなら、あの悲劇を胸に刻み、彼らの分も精一杯生きろと。まぁ、そんなすぐには全て変われないが、少しずつ……変わっていこうと思う。ちゃんと現実から逃げないで己の罪と向き合って生きていく。それが、二宮優春という自分が導き出した答えだ。
「あっ……でも、ごめんなさいっ。おばあちゃんが入院している間、あの神社ガラ空きになってしまって……」
ふとそんな当たり前のことに気がついて、そう祖母に頭を下げると、彼女は愉快そうにケラケラと笑って見せた。
「いいのよ。そんなことあなたが気にしなくても。私ももう少しで退院できそうだし、帰ったらまた始めるわ。いつも来ていた物の怪の皆さんも、あなたが気にすることではないわ。元々、私が趣味で彼らのお悩み相談をしていただけなの。だからまたそれに戻るだけよ。あなたが気負いすることないわ」
「そ、そう?」
「えぇ。だから私が退院するまでの間、神社のお掃除ぐらいしてくれればそれで十分よ」
そう言って笑う祖母の表情はいつもより幸せそうに感じた。
「今回はどうもありがとうございました。一ノ瀬さんのおかげで色々救われて本当に感謝しても仕切れない想いでいっぱいです」
病院を後にした帰り道、人々で賑わいを見せる夕暮れの烏丸通を一ノ瀬と並んで歩きながら隣の彼にそう笑みを向けると、一ノ瀬は怪訝な顔で嘆息を漏らす。
「勘違いするな。俺はお前を助けようと思って行動したわけじゃない。ただ、あそこでお前を見捨てれば、なんか癪にさわると思っただけだ」
「そうですか?」
目を逸らし、そうぶっきら棒でいう彼に思わず苦笑してしまう。
本当、素直じゃない。でも……それが彼らしいといえば、らしいのかもしれない。
そんな事を考えながら優春はふと、近くのスーパーから買い物袋を下げて出てくる主婦たちを見て思いついた。
「そうだ。お礼も兼ねて今日はうちで晩御飯でも食べて行きませんか? 私、こう見えても料理得意なんですよ?」
一ノ瀬のおかげで天狗の脅威から解放され、平穏を無事取り戻す事ができた。そのお礼と言ってはなんだが、彼に何かで感謝の気持ちを伝えたかった。口だけでは感謝しきれないほどの事をしてくれたのである。
そう思って彼に問いかけると、一瞬一ノ瀬は驚いたように目を見開いたが、すぐに元の仏頂面な表情へと戻ると、首を横に振ってその場で不意に足を止めた。
「え……?」
それに釣られてこちらも足を止めて振り返る。
料理は嫌だったのだろうか……。
そんなことを考えて首をかしげると、おもむろに彼が口を開く。
「天狗の一件はあれから一度も起こっていない。大天狗を倒したことで、事件は完全に終息したとみていいだろう。俺の任務も、これで終いだ」
少し暖かいそよ風が、二人の間をすり抜け、桜の花びらが宙を舞う。それに目を細めながら、優春は一ノ瀬の言葉に苦笑した。
「え、あの……どういうことですか?」
「言ったろ。事件は終息したと。もう俺はお前を守る必要は無くなった。だから、これでお別れだと言っているんだ」
突然告げられた告発に慌てて彼に詰め寄る。
「お別れって……そんないきなりっ!? だってまだ私、一ノ瀬さんになんの礼も……」
「そう言ってくれるのは有り難いことだが、必要ない。もうお前に会うことは二度とないだろう」
お別れだ、と再び呟く彼に言葉を失った。確かに、一ノ瀬とはこの事件までの間の関係だということは最初から分かっていた。いつか別れが来るのは自覚していた。けど、そんないきなりキッパリ切られるなんて……。
戸惑い、どう答えていいのかわからない自分に、一ノ瀬は言葉を続ける。
「今は大禍時。昼と夜が重なる時間だ。この時間が過ぎ、夜になれば……お前の記憶から禍日主に関する事も、天狗の一件も、俺の存在も……全て消える」
「えっ!?」
その言葉にとっさに顔を上げた。
消える? 自分の記憶から一ノ瀬さんに関する記憶がっ!?
お別れ以上の衝撃の言葉だった。だったらもう、本当にお別れになってしまうではないか。そんな話聞いていない。
「ど、どうして……!? だって記憶操作は私には施されないんじゃ……」
この前、学校で一ノ瀬が教えてくれた。記憶操作でこちらの記憶まで消えてしまう事はないと。そんなこちらの問いかけに一ノ瀬は目を伏せて呟く。
「忘れたのか? 俺たち禍日主は隠り世と現世の均衡と秩序を守る存在。故にどちらの世界にも干渉してはならない。知られてはいけないんだ。禍日主という存在を。関わった人々の記憶は抹消され、禍日主という存在自体が人々の記憶から綺麗に消え去る」
確かに、そんな話を禍日屋でされた記憶はある。でも……。それでも、
「そんなっ!! せっかく出会えたのに、私は、一ノ瀬さんのことも、西園寺さんのことも、今回の一件も忘れてしまうのですかっ!?」
「正確には違う。記憶を消す術じゃないと言っただろう? これは記憶操作、記憶が書き換わるだけだ。お前は猟奇殺人事件のニュースを自宅で祖母と見て、己の過去と罪への考えが変わった。という記憶に換わるだけだ」
なんだその適当な記憶の書き換えは……。
ならば、この三日間の一ノ瀬と過ごした時間も、人食い天狗に襲われ、物の怪たちに起こっている悲しい現状も、殺されていった人々の記憶も、その全てが無くなってしまうという事だ。
「そんな……。そんなの私は嫌ですっ!! 私は一ノ瀬さんに出会って、三日間という短い時間でしたけど、たくさんのことを経験して学んで、やっと前に進もうと決められたんですっ!! この気持ちは一ノ瀬さんのおかげなんです。それを無かったことにはしたくないっ!!」
一ノ瀬の手を両手で掴んで必死にそう懇願するが、目頭を立てた彼にその手を乱暴に振り払われてしまう。
「我儘を言うな。これは決まり事なんだ。お前の都合で破っていいものではない」
「で、でもっ!!」
そんな事は分かっている。でも、どうしてもそれだけは嫌だった。このままお別れをして二度と会えないのは仕方がない。だって彼は不老不死で人の世に交われない存在、共に同じ時間を生きられない存在なのだから、お互いの戻るべき場所へ戻るのは仕方のない事だ。それは受け入れられる。でも、記憶が、一ノ瀬たちと過ごしたこの時間が無くなってしまうのは、どうしても耐えられなかった。
「わがままを言っているのは承知していますっ!! でもどうか、この記憶だけは……残しておいてくれませんかっ!? 誰にも口外したりしませんっ!! この記憶は心に留めて墓まで持っていきますから、だからどうか……!!」
「俺たち禍日主とお前は生きる世界が違う。本来交わることのない者同士なんだ。知ってはならん者同士なんだ。お前がいくら周りに口外しなかろうと、墓に持っていこうと、お前の中に禍日主の存在がある以上、それは消さなくてはならん」
「……」
そう言うと、彼は静かに踵を返した。もう話す事は何もないとでも言うかのように、振り向きもせず手を振りながら人混みに紛れて消えようとする。そのチラッと見えた横顔は、何故だが少し寂しそうに感じた。
「あのっ!!」
気づけば、去る一ノ瀬の後を追い、その腕を必死に掴んでいた。それに彼が驚いて振り返る。
「私、やりたいことが見つかったんです。ずっとずっと、己の罪の意識に苛まれてできなかったことです……」
「?」
目を細める彼に畳み掛けるように言葉を発した。
「この能力をもっと知りたい。どうして自分にこんな力が宿ったのか、知りたいんです。それはきっと一ノ瀬さん……いえ、禍日主さんたちと一緒にいればきっと分かると思うんですっ!!」
本当にやりたい事。祖母に聞かれた事があった。やりたい事はないのかと。もちろん、普通の女の子として学園生活を送りたい。でもそれ以上に、この力の事をもっとちゃんと知りたかった。きっと意味があるはずである。自分がこの能力を得た理由が。それを知らなければ、死なせてしまった人たち、そして春樹に顔向けできない……。その秘密に近づくにはきっとこのまま普通の生活を送っていてはダメな気がするのだ。
「それに今、京都中で発生している物の怪たちの事件。あれは大天狗さんの一件だけではないのでしょう? 今も尚、どこかで苦しんでいる者たちがいる。違いますか?」
「それは……」
言葉に詰まる一ノ瀬にそのまま詰め寄る。
「私はこの力で、そんな多くの物の怪や人々を救いたいんです。それが、私の……昔、春樹と約束した夢だからっ!!」
『そうだねぇ〜。私は……』
幼い日、春樹に将来の夢を聞かれた事があった。
そんな問いかけにふと、自分の両手を見つめ、自分の力……人を癒し清める事ができるこの魔法の力で将来は、この力を使ってもっと多くの人々を癒して救う事だと思った。
『この癒しの能力でたくさんの人たちを助ける事が夢かな』
『そっかっ!! なら、お姉ちゃんの夢がオレの夢だ。僕たちは双子。一心同体の存在。だから、一緒にその夢、叶えようよっ!! 全力でオレ、応援するからさ』
木漏れ日が射す、とある昼下がりの午後、幼き二人はそう言い合って微笑んだ。
今も昨日の事のように思い出す。春樹が応援してくれたあの夢の話を。
「春樹と私の夢なんです。でも、あの子が死んでしまって、それを叶えようとは思いませんでした。でも……。今は叶えたいって思うんです。春樹が一緒に叶えようと応援してくれたその夢を、私は叶えたい。じゃないとあの子、きっと天国で怒っているかもしれません」
そう苦笑しながら改めて一ノ瀬に向き合う。それに彼はしばらく無言でこちらを凝視すると、やがて重い口を開くように呟いた。
「お前もその力を十分知っているはずだ。その夢を果たすという事は、人の世にもう二度と戻れなくなるかもしれないんだぞ。それは普通の人間としてもう二度と生きられないという事なる。それほどの覚悟が、お前にはあるのか?」
分かっている。この力を使って他者を救い続ける事がどんな事を意味をするのか。異形の力を使い続ければ、その分人からは遠ざかっていく。やがて一ノ瀬の人たちのように、人間社会から完全に隔絶された生活を送らなくてはならなくなるかもしれない。でも、それでも……。
「構いません。それが、自分が見つけた、本当にやりたい事ですから。もう罪の意識に苛まれて自ら命を絶とうとはしません。この力を今よりもっとうまくコントロールして、人間でなくなったとしても、他者を救いたいです。それに……」
それに何よりも……。
「私は、あなたも救いたい……」
「ッ!?」
驚愕する一ノ瀬の頬にそっと手を添えた。ずっと疑問に思って心に引っかかっていた事。彼は物の怪の者たちを憎んでいる。大切な人を奪った物の怪と言う存在自体を何百年も。その心の傷はきっと相当だろう。一ノ瀬は自分を命がけで救ってくれた。だから今度は、自分が彼の痛みや苦しみを癒してあげたい。そして……。
チラッと首筋に視線を向ける。
この首筋の呪印についても何かわかるかもしれない……。
そんなこちらの様子に、一ノ瀬は呆れ顔でため息をつくと、やがて堪忍したように口を開いた。
「分かった……。では、二宮優春。俺たちと同じ禍日主になるか?」
「え……?」
その言葉に思わず目を見開くと、彼はそのまま言葉を続ける。
「記憶を書き換えず、これからも俺たちと行動を共にして物の怪や人を救いたいのだろう? それを全て可能にするならば、お前が禍日主になる他道はない」
「……」
その言葉に思わず目を伏せる。
「いつかは人の世に関われなくなる日も来るだろう。それでも、お前は己の人としての人生を棒に振ってまで、他者を救う存在になろうというのか?」
「……」
禍日主。それは隔離よと現世の秩序と均衡を守るための存在。彼らと共に行けば、自分の夢も叶うのかもしれない。というか、記憶を書き換えられない方法がそれしかないのなら、選択肢は選ぶまでもなかった。
「はい。なります。いえ……させてください、私を禍日主にっ!!」
夕暮れ時、人が行き交う烏丸通で一ノ瀬にそう宣言すると、彼は「まったく凄い奴だよお前は」と呆れた顔で初めて笑みを浮かべた。
「遅いぞ。颯斗……。召集の時刻はとうに過ぎている」
禍日屋に戻った颯斗は、入り口で出迎えた父の清秀に連れられ、禍日主の長たちが待つ部屋へ続く廊下を早足で向かっていた。
「うるせーな親父。少し野暮用で遅れただけだ……」
「親に向かってなんだその口の利き方は。不老不死になろうと、その人を舐めた態度は変わらないのが残念だ」
「……」
こちらを一切見ようともせずに何の感情もこもっていないで発せられた言葉に、颯斗は眉間にシワを寄せる。この自分の父親、一ノ瀬清秀は昔から嫌いな人物だった。と言うより、親とは思っていない。昔から冷徹非道で幼い頃からぞんざいな扱いを受けてきた。きっと向こうもこちらの事を嫌いなのだろう。数百年ぶりの再開だというのに、労る言葉もありはしない。
「やぁ颯斗。相変わらずの遅刻魔だね」
長の待つ部屋に父と共に着くと、薄暗い室内にはもう既に召集を受けた禍日主の者たちが集まり、各々各自の席についていた。それに爽やかな声音でこちらを笑顔で手招きする翠蘭の隣に腰掛ける。そんな自分に、目の前に座っていた大柄な男が口を開いた。
「はははっ!! 反抗期かっ!? いいのぉ!! 青春じゃのう!!」
酒を腕に抱え、グビグビと豪快に飲みながらそう鬱陶しい笑い声をあげる中年オヤジは、一ノ瀬酒天だ。
「うるさいですよ酒天。長様の前ではしたないです」
それに隣で酒天をピシャリと叱るのは、メガネを掛け、狩衣を礼儀正しく着こなしながら、机に置かれたノートパソコンで何かの作業をしているクールな美青年、西園寺荊である。
「おいおい、早く始めろやッ!! こっちは早く物の怪の糞どもをいたぶり殺したくてウズウズしてんだよゴラァッ!!」
その向かい側、翠蘭の隣で机に足を乱雑に乗せ、非常に悪い態度で踏ん反り返って暴言を吐くのは、同じ一ノ瀬一族の一ノ瀬温羅である。
「に、兄様ぁ〜。怖い声を上げないでください……。僕、怖くておしっこちびっちゃいますぅ……」
そしてその隣で今にも泣きそうな顔で怯える牛若丸のような水干を着こなした幼い少年の名は、西園寺王丹だ。
それらの面子を軽く一瞥しながら思わず嘆息を漏らして、隣の翠蘭に颯斗は視線を戻した。
「またこのメンツか……俺嫌いなんだよこいつら」
皆に聞こえない程度の声でぶっちゃけると、それに翠蘭が苦笑しながら口を開く。
「まぁまぁ。仕方ないよ。ここに集まった僕たち七人は禍日主の中でもトップクラスの実力と戦闘能力を誇る選りすぐりの者たち、禍日主七人衆なんだから」
「……」
何が七人衆だか……。たかが戦闘力に優れているだけで特別扱いとは、馬鹿馬鹿しいにも程があると鼻で笑ってみせる。ただの戦いに長けただけなど、ただの殺し屋と何ら変わらないだろうに。まぁ、そんな自分も人のことなど到底言える筈もなく、颯斗は黙って席に体を埋めた。それに部屋の奥で静かに鎮座していた二人の長が口を開く。
「まずは颯斗、そして翠蘭。今回の人食い天狗の一件、誠に大儀であった」
「ありがたきお言葉です長様」
翠蘭と共にそう頭を下げると、西園寺の長が口を開いてくる。
「では颯斗。今回の人食い天狗の事件の詳細の報告をしてくださいますかな?」
「了解した」
それに瞑目すると、皆が注目を集める中で天狗の一件が終わってから作成した報告書を取り出し、いつも通りただ淡々と報告書の内容を朗読した。
「ではまず、今回の事件は、祟り神と化した大天狗が暴走し発生したものだと判明した。比叡山の神域で神と崇められた妖でだったが、時代の流れで人々の記憶から信仰心は忘れ去られ、観光地として神域を穢された際に祟り神になったと推測される。人間を酷く憎んでおり、己の失った力を得るため、街で人を襲い、生き血から霊力を吸っていたものと考えられる」
「なんと……」
「祟り神とな……」
周りの者たちがざわめく中、今度は翠蘭が口を開く。
「でも……それだけじゃなくて、その大天狗を誑かし、祟り神にして利用した者たちの存在を確認しました。って……颯斗、僕がしゃべってもいいかい?」
「はぁ……別に構わん」
そこまで話してこちらに今更確認を入れる翠蘭に嘆息を漏らしながら、椅子の背にもたれ掛かって手で好きにしろと合図すると、彼は再び皆の前で口を開いた。
「虐姫です。我らが危惧している最大の強敵、〝あの男〟の懐刀の少女」
「ッ!?」
その発言に、今まで以上のどよめきが室内に満ちた。それもそうだろう。〝あの男〟は長年我ら禍日主が危惧し、敵対している人物なのだから当然の反応といえる。
「やはりか……」
そんな中で一ノ瀬と西園寺の長の二人は机に肘を乗せて唸ると、険しい顔つきでそう呟いた。だが、それだけではないことを翠蘭は話さず口を閉じたので、代わりにこちらが周りに報告する
「それだけじゃねぇよ、翠蘭」
「え?」
やはり翠蘭は気づいていなかったらしい。まぁ、二宮の護衛をしながらの戦いだったのだから、そこまで気付く余裕はなかったのかもしれない。
そんなことを思いながら、翠蘭を含め、周りの禍日主の者たちに懐から一枚の紙切れを取り出して見せた。
「これを見てくれ」
血で汚れてはいるが、それは直径十五センチ弱の人の形を成し、呪文が描き込まれた和紙札である。それに周りの者たちが困惑した顔つきでどよめいた。
「こ、これは……陰陽師が使う〝式札〟ではないか……!?」
式札。それは陰陽師が己の霊力を流し、式神を作り出す道具の事である。陰陽師はこれを使い、己に使役する式神を生み出して敵と戦う事で有名だ。かの有名の安倍晴明も、この技法で《十二神将》と言う式神を使役していたというほど、陰陽道の中ではメジャーなアイテムとなっている。
「大天狗に仕えていた数百の天狗たちを確認した。その者たちを斬り殺すと、奴らはこの紙切れになったというわけだ」
恐らくあの戦いで気づいたのは自分だけだと颯斗は式札を見て驚きを隠せないでいる翠蘭を見て確信した。恐らくあの二宮も気づいていなかったのかもしれない。
「つまり……大天狗の周りにおった他の天狗たちは皆、陰陽師が使役する式神だったということか?」
「あぁ、まず間違えないだろうな。祟り神と化した大天狗に手を貸していた者の中に、陰陽師がいたという事は疑いようのない事実だ」
そう告げると、長たちは唸りを上げて再び椅子に体を埋める。それに言葉を続けた。
「〝あの男〟の懐刀、虐姫と何者かの陰陽師が手を組み、影で動いていることは事実。この事件は完全に終わったとは言い切れん。大天狗はただ利用されただけ。まだ、奴らは何か仕掛けてくると見ていいだろう。早急に対処した方が良いかと」
「……」
室内が重い空気に包まれる。その中で、一ノ瀬の長が静寂を打ち破るように口を開いた。
「むぅ……。〝あの男〟の一派だけでも厄介だというのに、それに加えて陰陽師までもが関わっているとなれば、話はかなり複雑になるな……。荊、他の物の怪たちの事件はあとどれくらいだ?」
そう彼はメガネの西園寺に視線を向けると、彼は弾かれたようにその場に立ち上がった。その凜とした姿勢は呆れるほどに美しい。
「はっ! 現在確認できるのは、四箇所です。まだ大きな事件には発展しておりませんが、伏見区で一箇所、上京区で二箇所、中京区の一箇所で強力で禍々しい霊力を感知しております。後はまだ何とも……」
「そのすべての事件に裏で操っている者がいると考えて良いかもしれん。奴らの目的が分からない以上、こちらは他の事件を人食い天狗の一件のような事が大事になる前に、早急に対処するよう各々行動してくれ」
「御意に」
会議は終わりだと言うように禍日主の面々は各々席を立とうと腰をあげる。そんな彼らに颯斗は静かに待ったをかけた。
「あともう一点報告が」
「?」
まだ何かあるのかとこちらに視線を向ける一同に、颯斗はそのままズバッと言い放った。
「護衛を務めていた二宮優春だが、彼女の記憶を消すのを取りやめた」
「ッ!?」
「彼女には、俺たちと同じ禍日主になってもらう事にした」
「ちょ、ちょっと何言ってるの颯斗っ!?」
「おい颯斗てめぇッ!! ふざけるのも大概にしろよゴラァッ!!」
その言葉に予想通りの罵声が飛んでくる。気性が荒い一ノ瀬温羅なんかは胸ぐらを掴んできた程だ。まぁ、予想通りの反応だろう。自分も同じ立場ならそうしていたはずだ。我ら禍日主は隠り世と現世の均衡を守る存在。故に人々に知られては均衡が乱れる可能性が出てきてしまう。禍日主と言う存在を知る事によって、隠り世の存在を認識してしまうどころか、霊術や霊力などのこの世界のシステムまで知られてしまうからだ。それは両世界の均衡を揺るがす危険性が非常に高い。守る側が逆に乱すような真似は御法度なのだ。それを自分は犯したのだから、そういう反応はもっともだ。しかし、これだけは引くわけにはいかなかった。
温羅が掴む手を振り解き、沈黙してこちらの様子を伺う長たちに視線を戻す。
「もちろん。それには理由がある」
「ふむ、聞こう……」
二宮にあの時、記憶を消さないでほしいと言われたが、何を言われてもその頼みを聞くつもりはなかった。禍日主の決まり云々の話を差し引いたとしても、あの二宮という娘は、ただの人間ではない。強い霊力を持っているだけではなく、神力という強力な力を持っているからだ。そんな存在を禍日主の世界に招き入れるわけにはいかない。神に等しい力は破滅を招く。大天狗のような危険な物の怪がこぞってその力を欲するだろう。それは世界の均衡を乱すだけではなく、あの少女自身も危険にさらすことを意味していた。あの娘のことを思えば、全てを忘れ、普通の人間として暮らし、幸せに人生を過ごしていくほうが良いと思ったのだ。しかし……。
「二宮優春の首筋に付けられた天狗の噛み跡、あれは大天狗を殺しても消えていなかった」
注目を集める一同に颯斗はそう言い放った。それに翠蘭が眉をひそめる。
「それは有り得ないよ颯斗。あれは大天狗のマーキングのような代物だろう? 一度襲った獲物を逃さないようにする呪印のようなもの。その元となった大天狗が消滅した今、術の効果は消えてなくなるはずだろう?」
「ではお前は、実際に二宮から呪印が消えていることを確認したのか?」
「え……そ、それは……」
口籠る翠蘭を尻目に周りの皆に視線を戻した。
「あれは噛み跡などではない……。いや、変化していた。目の紋様をあしらった禍々しい呪印に……。あの形状は恐らく、〝あの男〟の使用する呪印で間違えない」
「ッ!?」
驚愕で言葉を失う彼らに目を伏せて椅子に深く腰掛けながら目を瞑る。
先ほど、記憶を消さないでほしいと嘆願してきた二宮の首筋がチラッと見えたのだ。最初に見た時の呪印から明らかに別の呪印に形状が変化していた。あれは間違えなく〝あの男〟が使用している呪印。懐刀である虐姫という少女の首筋にも、同じものがある。見間違うはずがない。恐らくその呪印がつけられたのは、連れ去られた時しか考えられないだろう。そしてあの娘は呪印の形状が変化し、それが大天狗を倒しても消えなかったことに気がついている。しかしそれを口にしなかったのは、単にその呪印に気がついていないのか、あえて隠そうとしていたかだ。まぁ、どちらにせよ、そのまま見過ごすわけにはいかなかった。
「だから記憶を消さず、我らの管轄に置こうと考えたんだ。恐らく、近いうちに再びあの娘が何らかの事件で命を狙われる可能性はほぼ確実だろう」
「何てことだ……!!」
「颯斗、その娘は一体何者なのだ? なぜ〝あの男〟に目をつけられた?」
「……」
その問いかけに思わず口籠る。恐らく……いや、考えるまでもなく〝あの男〟の狙いは二宮のあの他者を癒し清める神力だろう。どこで知ったのかは謎だが、二宮を狙う理由はそれしかない。だが、
「さぁな、それは俺でも判りかねるな。霊力が強いというのは確かだが、それ以外は何も知らん」
自分以外の禍日主は、二宮のその能力について恐らくまだ知らない。ただの霊力が強いだけの少女としか見ていないのだろう。ならば、言うのはやめたほうが得策だろうと直感的にそう判断した。
それに長たちが重い腰を上げて言い放つ。
「分かった。禍日主にするのは無理かもしれんが、見習いにして我らの管轄に置くことは可能だ。それで良いな? 颯斗」
「御意に」
「……」
これで二宮を再び危険に晒すことは少し避けられるだろう……。
なんとか二宮の能力を隠し、長たちに了承をもらって安堵した颯斗を翠蘭は訝しげな表情で一瞥した。
「あ〜あ……。私の可愛い可愛いおもちゃ、壊れちゃった。残念……」
比叡山の山中、刃から元の姿に戻った虐姫は、大天狗の亡骸を眺めながらそう妖艶な笑みを浮かべて呟いた。それに、背後で羽織を肩にかけた袴姿の短髪をした少女が歩み寄る。
「それが可愛いのですか? あなたの感覚は少し変わっていますね」
「あら。安倍晴明の子孫であり、現役の陰陽師である貴女に言われたくないわ。土御門智哉ちゃん?」
虐姫が腰を上げてそう彼女を振り返ると、その智哉と呼ばれた少女は怪訝な顔で不敵な微笑を浮かべる虐姫を睨みつける。
「その呼び方は辞めていただきたい。ボクは好きではないのだ。ちゃん付けは」
「ふふ。ごめんなさい? でも、変わっているのは貴女も同じでしょう?」
そう呟くと、虐姫は背後の智哉に歩み寄った。そして、その冷たい手で彼女の頬に触れながら耳元で囁く。
「私たちに自ら力を貸すだなんて。天狗の式神を貸してくれたのは、陰陽師である貴女じゃない」
「……」
そんな虐姫の手を鬱陶しそうに振り払う智哉は腰に差した刀の柄を撫でながら目線をそらした。
「ボクは、あなたの主殿に夢を叶えてくれると言われたから、協力しているだけだ」
「夢って、土御門一族の本当の意味での再興? だったかしら」
その時、暗がりから一人の人物が姿を表す。
「虐姫、智哉……今回は大儀であったな」
闇を纏ったかのような漆黒の着物に、般若の仮面で顔を隠した若い長身の男。白銀の透き通った長く結った長髪に衣服から露出した長く伸びた秀麗な雪のように白い手足は闇の中で不気味に浮かび上がる。
そんな仮面の男に虐姫は嬉しそうに駆け寄っていった。
「あっ! 主様っ!! 」
抱きつく彼女の頭を男は優しく撫でる。
「言われたお仕事はしたわよ? 大天狗を利用して、禍日主の一ノ瀬颯斗と西園寺翠蘭の戦力分析。そして、神力使いの二宮優春に主様の呪印を施し、この世界に引きずり込む事。全て成功したわ。これで二宮優春は主様の物よ」
「あぁ。良い働きだった虐姫。これで物語の下準備は済んだ。神力使いの二宮優春というあの娘には、これから我らが父様の器になってもらう事にしよう」
「えぇ。他者の痛みや苦しみ、穢れまでも己に受け入れてしまうあの子なら、父様の器に相応しいわ」
それに仮面の男は踵を返すと、眼下に広がる京都市内の街並みを一望しながら静かに呟く。
「では、次へ行くぞ。計画は進行中だ。全ては父様の復活のために、京の都をあるべき姿へ取り戻すためだ」
「了解だ主。私も出来る限り力を貸そう」
山を下りていく男に智哉はそう嘆息を漏らすと、その後についていく。それを眺めながら、虐姫は徐に空を仰いだ。
「ふふ。次は何をして遊ぼうかしら。ねぇ、二宮優春? あなたが春樹にした罪は、決して許されるものではない。だから、その身をもって償ってもらうわ。それを春樹も望んでいる……」
暗くなった京都の空を仰いだ彼女は、不吉な微笑を浮かべてそう不気味に囁いた。
神殺しの禍日主 《人食い天狗 編》 了