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神殺しの禍日主  作者: 三善斗真
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第3話

「みなさん初めまして。関東から来ました、一ノ瀬颯斗と申します。以後宜しくお願い致します」

 黒板の前でそう礼儀正しく一礼して自己紹介をした一ノ瀬にその瞬間、周りの女子たちが黄色い悲鳴をあげた。

「ちょっとヤバくないっ!? 結構カッコよくない!?」

「確かにっ!!」

「きゃーー!! 私このクラスでよかったかもっ!!」

 盛り上がる周りの空気に一人だけ付いていけずに唖然とする。うちの学校の制服を着こなし、昨日見た袴姿ではないが、どう見ても間違えなく、あの一ノ瀬颯斗だった。

 なぜ、彼がこのクラスに!?

 状況が理解できずに固まっていると、黒板の前でみんなに優しげな笑みを振りまいていたそんな制服姿の一ノ瀬とふと目があった。思わず目線を逸らそうとすると、それに彼がなぜか白い歯を煌めかせて爽やかな笑顔で手を振ってくる。

「よっ! 二宮。お前もこのクラスだったんだな」

「っ!?」

 よっ! って……。何ですかその馴れ馴れしい挨拶は!!

 急に人が変わったような一ノ瀬に何が起こったのか全く理解できず硬直する。どうして彼がここにいるのか。昨日、このクラスに転校してくるなど一言も言ってはいなかったはずだ。それにそう簡単に編入できるわけないだろう。

「一体どういうつもりなの……?」

 思わずそう呟いて眉をひそめる。自体の状況がよく分からずにいると、

「おやっ? 一ノ瀬くんと二宮さんは、もしかして知り合いなのかな?」

 それに担任教師の通称『じっちゃん』が微笑ましそうにこちらに向かってそう尋ねてきた。まぁ、クラスに入ってきたばかりの転入生が、突然そのクラスにいた人物に声を掛ければ、誰だってそう思うはずである。

「え……えっと」

 その瞬間、クラス中の視線が一斉に自分に集まり注目を浴びる。

 それにどう答えたらいいか分からずに言葉が詰まってしまった。確かに知ってはいる関係だが、昨日会ったばかりだし、知り合い、ではあるのだが、彼は天狗から自分を守ってくれる護衛役なんですっ! なんて口が裂けても言えるわけがない。絶対頭のおかしい子だと思われる……。どう言い訳しようか悩んでいたその時、そんなこちらの内心の気持ちを知るよしもない彼が唐突に、

「俺、二宮さんの護衛なんです」

 満面の笑みでとんでもない爆弾を放ってきた。

「護衛?」

「わぁぁぁぁぁぁっ!!」

 いやちょっと何言っちゃてるのこの人っ!?

 その普段の日常では絶対なじみの無いであろう単語にクラス中が訝しげな顔をする中、慌てて席から立ち上がってストップをかけた。

「あ、あのっ!! 違うんですっ!! これには深い訳がありまして……。というか彼とは遠〜い、親戚でしてっ!! 最近こちらに越してきたんですっ!! そうだよね、一ノ瀬くんっ!?」

 慌てて適当に思いついた嘘を並べて、一ノ瀬に相槌を求める。

「は?いや俺は……」

「そうだよね? 一ノ瀬くんっ!!」

 かなり嫌そうな顔を浮かべる彼に無理やりそう言い聞かせながら訝しげな表情をする周りの生徒たちや教師に優春は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。




「ちょっと、一体どういうことですか?」

 一限目の授業が終わってすぐ、優春は一ノ瀬を引っ張り出して、人目を避け誰もいない廊下でそう問い詰めた。それに一ノ瀬がいつもの冷たい表情に戻って鬱陶しそうに吐き捨てる。

「何がだ」

 やはり、先ほどクラスのみんなに見せていた爽やかスマイルはただの演技だったらしい……。

「何がって……どうしてあなたがこの学校にいるのです?」

「忘れたのか? 俺はお前の護衛役だ。故に守る対象の側に控えているのが当たり前だろう」

「だからって学校まで来ることはないでしょう? ここは人目もありますし、天狗に襲撃されることは……」

「ないと思っているのか?」

「え?」

 言おうとしたことを彼に先に言われて唖然とする。それに彼が言葉を続けた。

「お前は自体を甘く見過ぎだ。もう少し警戒心を持った方がいい。奴らは既に数十人の人間を平気で殺している。目的の為なら手段は選ばない。お前もそれは十分に分かっているだろう」

「関係ない人まで被害が出ると?」

「お前は最初、天狗に襲われた際に関係ない奴らを天狗に殺されているだろうが」

「っ!!」

 それを言われて昨日のお付きの妖たちが殺された情景が再び脳裏に浮かんで、彼から思わず目線をそらした。

「奴らはそういう残酷な奴らなんだ。それが分からないお前ではあるまい」

「……」

 確かに彼の言う通りかもしれない。昨日襲ってきた天狗も邪魔するならば斬ると言っていたし、目的のためなら手段など選ばない。そんな雰囲気を醸していた。ということは、自分がこのまま人が大勢いるところにいれば、天狗が再び襲撃してきた際に巻き添えを受ける人が出るということだ。それを知って背筋に怖気が走った。しかし、

「でも……。だとしてもですっ!! もう少しまともな護衛の仕方もあったのではないですか?」

「あ?」

 引き下がらずそう彼に問い詰めると、眉間にしわを寄せた彼が再びこちらを睨みつけてきた。それにめげずに詰め寄る。

「さっきクラスのみんなの前で平気な顔で護衛の事を話そうとしましたよねっ?」

「それがどうした。俺はただお前の護衛役だと話そうとしただけだろ」

 わけがわからないという顔をする一ノ瀬にため息が漏れる。

 護衛の件はよくわかった。確かに一ノ瀬は正しい判断をしたと思う。しかし、それを正直に護衛役です、とみんなに話してしまったらいろいろと厄介なことになるのは明白だ。普通、一般の女子高校生に護衛は付いていない。護衛がいるのはどこかのご令嬢さんか、お金持ちのお嬢様ぐらいだ。そんな中、自分にも護衛がいるとなれば、クラスの人たちから変な目で見られてしまうかもしれないだろう。いや、確実に見られる。そんな事になるのは絶対にごめんだった。それに一ノ瀬が怪訝な顔をして吐き捨てる。

「ぐちぐち煩い女だなテメェは。お前のここでの人間関係など知ったことか。お前のわがままを引き受けて護衛をしてやっているんだ。文句を言うな」

「そ、そうですが……それとこれとは話が違いますっ!!」

「何が違うんだ。テメェの我儘なのは変わらんだろう」

「っ……」

 ダメだ。このままでは埒があかない。

 そう悟った優春は、ひとまず話題を変えることにした。

「まぁ、それはともかく置いておきましょう。それより、一ノ瀬さんはどうやってこの学校に潜入したのですか?」

「あ?」

 護衛云々はとりあえず置いといて、なんだかあっさりと彼が転校してきてはいるが、普通はそんな昨日や今日に急に学校に編入できるわけがない。書類などの手続きも色々いるだろうし、編入試験は必須だ。前から手続きをしていたのなら分かるが、護衛が決まったのは昨晩。それなのに彼は今日にはこの学校に転校してきている、これはあまりにも早すぎる。それに、同じクラスになったのも偶然にしては出来すぎている気がする。

 その疑問に一ノ瀬が眉間にしわを寄せながら答えた。

「お前、翠蘭から何も聞いていないのか?」

「え?」

 西園寺から? 昨日いろいろ教えてもらったが……。一体どの事を言っているのか。それに一ノ瀬が呆れ顔で嘆息を漏らした。

「俺たち禍日主は、様々な任務を熟す上で〝記憶操作〟を行うことを許可されている」

「記憶操作?」

 それは初耳だ、西園寺から聞いていない。

「俺たちの任務は様々だ。潜入しないで任務を遂行できるのなら越した事はないが、大抵は潜入が多い。今回は高校の生徒だが、ある時は学校の教師、そのある時は自衛隊の新人隊員、更にはどこかの家族の親や子供となって妖退治などの任務を熟さなければならないこともある。その際には任務がスムーズに進行するよう周りの人間の記憶をいじってその場に潜入する必要があるんだ」

「そんな事が可能なのですか?」

「あぁ。霊術を持ってすれば可能だ。俺は今回、お前の護衛としてこの学校に潜入する必要があった。故にこの学校の職員たちの記憶を操作して、難なくお前のクラスに潜り込んだってわけだ。翠蘭も同じ方法でこの学校に潜入したはずだぞ?」

 まさか霊術に記憶を操作する術まで存在するなど思ってもいなかった。  確かにそれをすれば急遽学校の生徒として潜り込む事は可能だろう。

 異能の力とは自分が考えているよりも、とても大きな力なのかもしれない。そう納得しようとしたその時、一ノ瀬の最後の言葉が引っかかった。

「ん? 西園寺さんも同じ方法?」

 それは一体どういう事だ。同じ方法という事は記憶操作してこの学校の生徒としてなりすましているという事か? 彼の言葉の意味が分からず眉をひそめると、それに一ノ瀬が言い放った。

「何を言っている。あいつはこの学校の生徒じゃないぞ」

「っ!?」

 その言葉に目を見開いた。

 そんな筈はないだろう……。優篤は昨日、西園寺はエリートとして有名で今年の始めに副生徒会長に就任したと教えてくれた。それに西園寺も昨日自分は副生徒会長だからと自ら名乗っていたはずである。だがそれに一ノ瀬が呆れた顔で言葉を続ける。

「あいつは俺と同じ禍日主だぞ? そんな奴がのうのうと学生生活を送っていると思ってんのか? よく考えろ。お前は翠蘭がこの学校にいるといつ知った?」

「え……」

 そう言われ、懸命に頭を絞って記憶を呼び起こす。昨日の帰り道、優篤に言われるまで、彼がこの学校にいるとは思っていなかった。単に忘れていたか興味なくて知らなかっただけだと思っていたが……。しかし、よくよく考えてみれば、あんな人知を超えた美青年、今まで噂にすら聞かなかったのは普通おかしい気がする。

「あいつも俺と同じく任務の為にこの学校で一時的に生徒をやっているだけだ。それも昨日からだ。お前の記憶に翠蘭の存在が昨日より前に無いのは、そもそもそれ以前に翠蘭がこの学校にいなかっただけだ」

「っ!!」

 信じらない現象に思考が混線する。確かにそう言われれば、そんな気もしてくる。昨日以前には西園寺の姿も噂も耳にしてない……。

 それに一ノ瀬が畳み掛けるように続ける。

「これが記憶操作だ。これに掛かれば誰もが翠蘭の存在を疑うことはない。まぁ、一時的な軽い術故、今のように誠の真実を言われれば直ぐにお前のように本当の記憶を思い出すがな」

「……」

 すごい……。

 確かに一ノ瀬に本当のことを言われるまで、西園寺が同じ生徒だという事を疑問に思った事はなかった。

 その事実に思わず興奮して頬が熱くなるのを感じた。

 正直、昨日西園寺が見せてくれた水龍より術を実感した気がする。

 自分で術を実際に体験したのと術を見ただけでは全然驚きのレベルが違う。

「すごいですね……これが霊術の力っ!」

 そう言って術の力に驚いていると、ふと新たな疑問が湧いた。

 ということは、任務が終わればこの記憶はどうなるのか……。

 その疑問を感じ取ったかのように一ノ瀬は静かに口を開いた。

「任務が終了すれば、術は解けて人々の記憶から俺たちの存在は消える」

「え?」

 消える?

 それに思わず振り返ると、彼は目を逸らして呟いた。

「言葉通りの意味だ。元々俺たちはこの学校にいない存在。術が解ければ皆、俺たちの存在など忘れる」

「そんな……」

 確かに、彼らはこの学校の生徒だという嘘の情報をこの学校の人々の記憶に一時的に植え付けているだけに過ぎない。その術が消えればその偽りの記憶は抹消されるだろう。

「という事は……私も、西園寺さんの記憶を忘れてしまうのですか?」

「いや。これは記憶を消す術じゃない。この学校の生徒という偽りの事実を一時的に植え付けているだけだ。術が消えれば人々の記憶から生徒会副会長としての翠蘭は消え去り、その事しか知らない者は翠蘭の存在を忘れるが、お前は禍日主という翠蘭の本当の姿を知っている。だからあいつの記憶が直接消える事は無い」

「つまり、生徒会副会長としての西園寺さんの記憶が消えても、禍日主である西園寺さんのことを知っている私は彼の存在そのものを忘れたりはしないのですね」

「そういう事だ」

「よかったっ……」

 それに思わず安堵の笑みが浮かぶ。せっかく隠り世を見る事ができる人と出会えたのに、その記憶が消えてしまうのは少し悲しいと思っていたから、彼らのことを忘れないで済むとわかって少しほっとした。それに一ノ瀬がぽつりと呟く。

「だが……。お前はどちらにしろ、禍日主である俺たちの記憶は忘れちまうんだがな」

「え? 今、何か言いましたか?」

 それに思わず振り返った。今、何か彼は言わなかっただろうか。

 呟いた言葉が小さすぎてよく聞き取れなかったが……。

 そう首をかしげると、一ノ瀬は首筋を撫でながら目を細める。

「いや、何んでもない。さぁ、もう休み時間も終わる。教室へ戻るぞ」

 なんだったのだろうか。何かとても重要なことだったような気が……。

 そんな疑問を抱きながら踵を返す彼に付いていこうとしたその時、

「おはよう二宮さんに颯斗のお二人さん」

「っ?」

 背後から見知った爽やかな声が聞こえてきて咄嗟に振り返ると、すぐ後ろに西園寺翠蘭が立っているに気がついて優春は思わず飛び退いた。

「さ、西園寺さんっ!?」

 一体いつからそこにいたのか。後ろにいたなんて全く気がつかなかった。

 まさに、〝噂をすれば影がさす〟という状況である。

 そんな西園寺に一ノ瀬が軽く睨みつけた。

「お前、何しに来たんだ? こいつの護衛は俺の任務だぞ」

「そんな怖い顔しないでおくれ? 僕はただ偶然ここを通りがかって君たちを見つけただけだよ」

 昨日の狩衣姿とは違い、今日の彼はこの学校の制服をきちんと着こなし、腕に生徒会の腕章を付けていた。完全に福生徒会長モードである。そんな福生徒会長姿の西園寺は昨日と同じ穏やかな笑みを浮かべてこちらに視線を向けてきた。

「それより二宮さん、今朝はどうだった? びっくりしただろう? うちの颯斗が君のクラスに転入してきて」

「え? そ、それはもう……」

 びっくりも何も、そのことについて今ちょっと揉めていたところです。

 そう内心で苦笑すると、彼は構わず言葉を続ける。

「ごめんね。本当は事前に話しておこうと思っていたんだけど、タイミングがなくてね。驚かせてすまなかった」

「い、いえ。もう済んだことですし……」

 ははっと苦笑いを浮かべて相槌を打つと、西園寺はずいっと顔を近づけてきた。

「それより、こんな人気のない廊下で何を二人で話していたんだい?」

「え? そ、それは……」

 一連のことを話そうとした時、それに一ノ瀬が先に口を開いた。

「記憶操作のことを教えていた。翠蘭お前、この女に記憶操作のこと話していなかっただろう」

「ん? あぁ、そうだった。すっかり忘れていたよ」

「俺が一通り話したぞ。俺が護衛としてここに生徒に偽装して潜入した事や、お前も俺と同様、この学校に生徒に偽装して潜入していることも含めて」

「おやおや。そこまで話してしまったのかい?」

 驚いた彼はそう困ったような笑みを浮かべると、こちらに視線を戻してきた。

「もちろん、彼の言う通りだよ。僕はこの学校の生徒ではない。とある任務のためにこの学校に潜入しなくてはならなくてね。君を騙してすまなかった」

 どうやら、一ノ瀬の話は本当だったようだ。

「それで? ただ偶然通りかかったわけではないのだろう? 俺たちに何用だ?」

 それに一ノ瀬が話を割ってくる。そんな彼の発言に西園寺は微かに驚いたように目を見開くと、「すっかり忘れていたよ」と手を打ってきた。

「君を探していたんだよ二宮さん。伝えたいことがあってね」

「わ、私をですか? 」

 何か用事でもあったのだろうか。伝えたいことの検討がまるでつかなくて首をかしげる。それに西園寺が嬉しそうに続けた。

「君のお祖母さまが目を覚ましたんだ」

「っ!!」

 その言葉に思わず飛び上がった。

「ほ、本当ですかっ!?」

「あぁ。さっき屋敷から連絡があってね。それを伝えに君を探していたってわけさ」

 それに安堵して胸をなでおろす。昨日はまだ意識が戻らず面会もできないと聞いていたので心配していたが、無事目が覚めたと聞いて心底安心した。

「よかったです。ずっと祖母のことは気がかりだったんです。面会はもうできるのですか?」

「もう大丈夫だよ。今日の放課後にでもお見舞いに行ってあげるといい」

 そう言うと、彼は一枚の名刺を差し出してくれた。そこには『京都市赤十字病院』の案内が記載されていた。

「これが君のお祖母さま入院している総合病院だ。物の怪に襲われたことは記憶操作で隠して、交通事故として処理されている。病院に行けばお祖母様を天狗から守っている護衛の禍日主の人たちが数名待機しているはずだから、その人たちの指示をあおいでくれ」

「ありがとうございますっ!」

 そう微笑む西園寺に深く頭を下げた。ならば放課後、早速祖母が入院している病院へお見舞いへ行こう。そう心に決めると、西園寺は用は済んだとばかり踵を返す。

「それでは、僕は用があるからもう行くね。さようなら二宮さん」

「あ、あの……」

 それに思わず彼を呼び止めた。それに彼が足を止めて振り返ってくる

「どうしたんだい?」

「一ノ瀬さんから聞きました。西園寺さんは任務のためにこの学校に潜入 していると」

「あぁ、そうだよ。それがどうしたんだい?」

「その西園寺さんが請け負っている任務は、今回の人食い天狗とは別件なのですか?」

 一ノ瀬に言われてさっきからずっと疑問に思っていることだった。彼もこの学校で任務ということは、恐らくここでは人食い天狗以外にも何か別件があるということだ。しかも、妖や霊、隠り世絡みの何かが……。

 そんなこちらの疑問に西園寺はしばらく何かを考えるような仕草で沈黙していたが、やがてゆっくりとこちらに視線を向けて青い瞳を細めながら口を開いた。

「そうだね。君の推測通りだよ……。最近、京都の街は何かと物騒でね、人食い天狗以外でも、凶暴化した物の怪が人を襲っている事件が最近は頻繁に起きているんだ。僕は現在、その調査をこの学校でしている」

「凶暴化した物の怪……」

 その言葉に思わず眉をひそめた。隠り世と現世の秩序を守る禍日主である西園寺が任務と聞いて大体は予想していたが、やはり人食い天狗のように人を襲う物の怪が他にもいるらしい。その言葉に少し背筋が寒くなる気がした。

 それに一ノ瀬が西園寺を軽く睨む。

「翠蘭、話し過ぎだ。この女はその件に関しては部外者だろう」

「そうだね……。二宮さん、君が気にする案件ではない。今の話は軽く流してほしいかな。今の君が当分気にしなくてはならないのは、人食い天狗だからね」

「え、えぇ……」

 確かにその通りだ。今の自分がもっとも気にしなくてはならないのは人食い天狗の件である。護衛の一ノ瀬が側に付いてくれているとはいえ、絶対安全というわけではない。いつまた襲撃されて命を狙われるか分からないのだ。首筋に刻まれたこの天狗の歯型がそれを示している。

「それでは颯斗? 二宮さんの身辺警護の任務、引き続き頼みましたよ?」

「わかっている」

 一ノ瀬のぶっきらぼうな答えに彼は苦笑してみせると、優雅にその場から立ち去っていった。それを見送りながら一ノ瀬がこちらを一瞥してくる。

「それじゃあ、俺たちも教室へ戻るぞ。もう休み時間も終わるからな」

「え?もうそんな時間ですか?」

 彼の言葉に咄嗟にスマホを取り出して時間を確認すると、確かに次の授業まで時間があまりなかった。どうやら結構長く話し過ぎてしまったらしい。

「早く戻らないと授業に遅刻する」

 そう言い残して教室へと歩き始める一ノ瀬の裾を時刻を確認した優春は慌てて掴んで止めた。

「どうした?」

「なら、少し待ってください。教室へ戻る前にお伝えしたいことがあります」

「あ? 今度はなんだ。さっきのクレームの続きか?」

 そう怪訝な顔で振り返ってくる一ノ瀬の腰には刀が下げられていた。

 さっきからずっと気になっていたのだが、実は彼、教室に転入生として登場してからずっと、腰に刀を下げている。昨日の袴姿ならそんなに違和感なかった刀も、学生の格好した現在の彼には違和感が半端なかった。

「さっきからずっと思ってたんですけど、それを腰に下げて歩くのはさすがにまずいのではと。これから教室に戻るわけですし、いくら護衛だからといっても、それはまずいです」

 そんな場違い感が拭えないその刀を指差しながら、優春は申し訳なさそうに彼にそう告げた。それに彼が眉間にしわを寄せる。

「なぜだ」

「世間では銃刀法違反という法があって、武器を外で持ち歩いては……」

「知っている。だが安心しろ。これはお前や俺たち、隠り世を見る事ができる強い霊力を持つ者にしか見えない特殊な刀だからな」

「特殊な刀、なんですか?」

 その言葉に首を傾げた。どう見ても普通の刀に見えるのだが……。

 それに一ノ瀬が刀の柄に手をかけた。

「刀身を見てみるか?」

「え?」

 刹那、柄に手をかけた一ノ瀬はその刀身を流れるように鞘走らせた。

「ッ!!」

 その瞬間、朝日を浴びて美しい輝きを放つ刃の刃先が一瞬にして優春の鼻先に向けられる。その咄嗟の行動に息を呑むと、彼は朱色の瞳を細めて呟いた。

「安心しろ、斬りはしない。これは物の怪を斬る専用の刀、霊力で作り上げた〝霊刀〟と呼ばれる禍日主の専用の武器だ」

「霊刀……?」

 これ、霊力で出来ているの? 彼の言葉に目を見開く。だが、どう見ても見た目は普通の刀身に見える。とても霊力で出来ているとは思えない……。

「触れてみるといい。そうしたらこれがただの刀ではないことがわかる」

「……」

 彼のその言葉に優春は恐る恐るその刀身に触れてみた。その瞬間、刀から生き物の心臓のような鼓動が指先に伝わって、慌てて手を離す。

「これ、生きてますっ!?」

 思わず問いかけた質問に、彼は不敵に微笑んでみせた。

「どうだ?普通の刀ではないだろう?」

 確かに、普通の刀ではない。それに、よく見れば刀身からは常に蒸気のようなものが吹き上げ、触れた時に微かだが熱を感じた。普通、一般の日本刀は『玉鋼』という材料で作られることが多い。だが、こんな蒸気を発し、熱気を帯びる刀剣は『玉鋼』いや、普通の鋼では作れはしないだろう。どうやら本当にただの刀ではないようだ。その霊刀と呼ばれた刀身は、まるで生きているかのように思えた。

「まさか昨日、天狗の心臓を貫いたのも……?」

 あの時も彼はこの刀を握っていた。あの天狗の心臓から突き出した、月明かりを反射させ煌めく刃先は今でも鮮明に覚えている。

「あぁ、その通りこの刀だ。物の怪は現世の武器じゃ殺せないからな」

「そうなのですか?」

 そう言いながら刀身を腰の鞘に収める彼に首をかしげる。

「奴らは現世の生き物ではない、言ってみれば異界の存在だ。別世界の者にこの世界の武器は通用はしないんだよ。故にこの霊力で作り上げた霊刀で物の怪を斬るんだ」

「でも、私の首筋にこの刃を押し付けた際、血が滲みました。あれはどういう……」

 物の怪を斬るための武器ならば、普通、人は斬れないのではないか……。なのに自分の肌に刃が当たり、血が滲んだということは……。

 そう一瞬不安になった優春に一ノ瀬は付け足すように続けた。

「これは霊力で出来ている故、普通の人間には見えん。見えぬ者にはこの刀で斬ることはできない。だが、これが見える者には斬ることができる。物の怪専用の武器とは言ったが、隠り世と現世の間にいる人間も同時に斬り殺すことが可能だ」

「つまり、あの時私の首筋に刃が当たって血が滲んだのも……」

「あぁ。お前が普通の人間ではなく、霊力が強く隠り世を見ることができる特殊な人間だったから刃が皮膚に軽く当たったんだろう。俺もお前と同じく隠り世と現世の間にいる人間だ。故にこの刀に斬られれば死ぬ。どうだ、理解したか?」

 一瞬だけ自分は物の怪ではないのかと疑ったが、どうやら、そうではないようで少し安心した。それに一ノ瀬が刀身を収めた鞘に手を掛けながらこちらに視線を向けてくる。

「俺はお前の護衛としてこの刀を常に装備している。いつでも物の怪を斬り殺せるようにな」

 斬り殺す……。

 その朝日を背に朱色の瞳を怪しく光らせながらそう言い放つ一ノ瀬に、微かに恐怖を感じて、優春は思わずそんな彼から後ずさった。彼の言っていることは偶に怖い。だが今の彼は自分を人食い天狗から守ることを定めとしている。それは襲い来る者たちをその刃で撃退するということなのだろう。人食い天狗はこの命を狙いに来ているのだから、それ相応の対応なのかもしれない。

しかし、やはり自分には命を奪う行為には賛同できなかった。それが例え、誰かを守るためだとしても、他人の命を奪っていいものではない。

「あ、あの。そのことなんですけど……」

 そのことを天狗と戦うことになる前に言っておこうとしたその時、

「あっ! いたいたっ!! やっと見つけたわよ優春!!」

 廊下の向こうから友人で同じクラスメイトの由花と薫が走ってきたのが見え、優春は思わず目を見開いた。

「っ!? 由花ちゃんに薫ちゃん? ど、どうしたの?そんなに慌てて……」

 それに息を切らしながら目の前にやってきた由花が突然両肩につかみ掛かってきた。

「どうしたのじゃないわよ優春、 もう休み時間終わるわよっ? あなたが休み時間になった瞬間、この転校生を連れてどっかにいなくなったからずっと探してたんだから」

「え? そうだったの? 」

 それは知らなかった。心配をかけてしまったと思って頭をさげる。

 それに隣で一ノ瀬が耳元で囁いてきた。

「おい二宮。この人たちは?」

「え? あぁ……」

 そういえば、まだ彼には二人を紹介していなかった。

「彼女たちは私の友人の由花ちゃんと薫ちゃん。高校一年から一緒で……」

「初めまして一ノ瀬颯斗くん? 私は優春の親友、美しく麗しい稲荷由花よ」

 紹介も終わっていないのに由花はそれを遮るように一ノ瀬に手を差し出した。それに隣で薫も目を輝かせながら一ノ瀬に迫る。

「初めまして一ノ瀬さんっ! 同じくユリちゃんの親友の山本薫って言いますぅ。一ノ瀬さんかっこいいですねっ!! ユリちゃんとはどういった関係なんですか?」

「か、薫ちゃんっ!?」

 突然何言ってるのっ!?

 思わず薫に内心でそうツッコミを入れると、それに一ノ瀬が先ほどクラスで見せた爽やかな作り笑顔を浮かべて答える。

「彼女は俺の命を掛けて守るべき相手です」

「キャァーーーーっ!! なになにっ!? 愛の告白!?」

 いや、間違ってないけどっ!! その言い方は絶対誤解されるでしょう!!

「ちょっと、一ノ瀬くんっ!? 勝手に何変なこと言ってるのっ!?」

 そんな念を込めながら一ノ瀬を軽く睨む。

 だが、一ノ瀬は澄ました顔で首を傾げた。

「変なこと? 俺は正直にいったまでだが……俺は人食い天狗からお前を守るために……」

「一ノ瀬さん、ちょっとこっちへ来てくださいっ!!」

 それに慌てて彼の腕を掴んで後方へ引きずると、彼の耳元で囁いた。

「あの、一ノ瀬さん? 私は学校内では物の怪が見えることは秘密にしているんです。だから、物の怪や禍日主の件は内密にお願いできますか?」

「なぜだ」

 それに一ノ瀬も声を潜めて問うてくる。それに嘆息を漏らしながら彼の鼻筋に人差し指を押し当てた。

「世間一般ではそういうことは空想のことになっているからですっ! それなのにそんな話をしたら絶対おかしい子になってしまうでしょう? そうしたらこの二人に嫌われてしまうかもしれません」

「はぁ? こいつらはお前の友人なのだろう? それは無いだろう。そんな事で嫌ったりなどしない」

「それでも、です……」

 思わず顔を背けると、一ノ瀬が微かに目を細めた。

「なんだ。他に黙っておきたい事でもあるような態度だな」

「っ……!!」

 とっさに目を見開くと、由花に不意に肩を掴まれた。

「ちょっと優春、正直に答えなさい? 彼とは一体どういった関係なの?」

「えっと……どういった関係とは?」

 慌ててごまかそうとすると、彼女は頬を膨らませながら顔をずいっと寄せてくる。

「どうって……付き合ってるのかってことよっ!」

「えぇ!?ないないっ!! 絶対ありえないよっ!!」

 どうしてそんな考えになるのか……。この人はすぐに恋愛と結びつけたがるのでいつも疲れる……。それに薫までもが乗っかってきた。

「じゃあ、彼とはどういう関係なのですかっ!! 命を掛けて守るって、普通じゃないですよ!?」

「そ、それは……色々事情があって……」

 まずい……。このままでは自分が隠り世を見ることができるとバレてしまう。

 そう思った優春は、一ノ瀬の腕を慌てて掴むと、逃げるようにその場から撤退した




「で? お前、なぜ他の奴らに物の怪どもが見えると話していないんだ?」

 学校の帰り道、祖母が入院している病院へ行く道すがらに隣を歩いていた彼にふとそう問いかけられ、優春は思わず彼に視線を向けた。

「珍しいですね、あなたから何か尋ねてくるなんて」

「少し気になっただけだ。お前は今日、学校で頑なにその事を隠していただろう」

「……」

 その言葉に、そういえばまだ彼には話していなかったなと苦笑する。

 空を見上げると、一羽の烏が夕日で茜色に染まる空をゆっくりと飛び去っていくのが見えた。それを眺めながら、涼しくなったそよ風に靡く髪を抑えて呟く。

「だって、妖や霊が見えるだなんて言えるわけないじゃないですか。話せばきっと、不気味がってみんな離れていってしまいます……」

「そういうものなのか?」

 物心ついた時から物の怪たちの存在を訴えても誰にも信じてもらえず、友人や家族にも忌み嫌われていたこと、それ以来、見える体質のことを隠して普通の女の子として生きてきたこと、それを彼に打ち明けた。

「人とは、自分とは違うものを嫌う傾向にあるんです。一ノ瀬さんは、そういう経験、ないのですか?」

 昨日一緒に帰った優篤も幽霊や妖怪など、いるわけがないとそう言っていた。

 普通そうなのだ。話してしまえば、知られてしまえばきっと距離を置かれる。不気味がられるかもしれない……。幼い時がそうだった。もうそんな悲しい思いなどしたくはなかったから、今までそのことを隠してきた。

 それに一ノ瀬が前方に視線を向けたままぽつりと呟いた。

「俺にはよくわからん話だな……」

「そう、ですか……」

 どうやら、同じ隠り世を見ることが出来る者同士でも、誰しもがそういう経験をしてきたわけではないらしい。それに俯くと、彼は静かに言葉を続けた。

「だがまぁ、昔から物の怪は人々から恐れられてきたのは事実だ。奴らは人に害をなし、己の私欲の為に行動する残忍な奴らだ。そのせいで人は隠り世の存在を恐れ、忌み嫌ってきた。その恐怖の矛先は、隠り世を見ることが出来る人間にも同じく向けられてきた」

 その言葉に思わず彼に視線を向ける。

「え? それはどういう……」

「怖いんだ人は、隠り世という異界の存在を。物の怪という禍々しい存在を。それとつながる人々も等しく恐ろしい。故にお前は幼い頃に人々から忌み嫌われてきたのだろう。恐ろしく不気味な物の怪と繋がることが出来るお前を」

 その意外な答えに目が見開く。

「ということは一ノ瀬さんは、私が忌み嫌われた原因は、その隠り世に棲まう物の怪のせいだと?」

「そうだ。あんな残忍で冷酷な奴らさえいなければ、お前はそんな辛い思いをしなくて済んだんだろう」

「それは、それは違いますっ!!」

 それに思わず反発してしまった。つまり彼は、その忌み嫌われた原因は物の怪のみんなにあると言っているのだ。その言葉だけはどうしても、賛同することはできなかった。それに一ノ瀬が怪訝な顔でこちらを振り返ってくる。

「何が違うんだ。じゃあ、どうしてお前は見えることを隠すんだ?」

「そ、それは、みんなに忌み嫌われるのを恐れて……」

「なぜ忌み嫌われる? 物の怪が見えるからだろう? 物の怪自体が恐ろしい対象なんだ。故にそれが見えるお前も不気味がられてしまう。違うか?」

「っ……」

 その言葉にすぐには言い返せずに言葉が詰まる。確かに、世間一般では幽霊や妖怪は恐ろしい存在だと言われている。だからそれが見える人間も、不気味がられてしまうのかもしれない。その言葉はあながち間違っていないのだろう。しかし、自分は物の怪がみんなそういう恐ろしい子ばかりではないことを知っている。もう天狗に殺されてしまったが、小さい頃から一緒だったお付きの妖たち。彼らは間違えなくいい子たちだった。それに一ノ瀬が畳み掛けるように言葉を続ける。

「だから、俺たち禍日主がいるんだ。俺たちがその恐ろしい物の怪どもを一層すれば、お前も、他に隠り世を見て苦しんでいる奴らも救われる」

「……」

 その彼の手は腰に下げたあの物の怪を斬り殺す専用の武器、霊刀に触れていた。あの天狗の胸を一撃で貫いてその命を奪った刃……。

 禍日主は、隠り世と現世、両世界の秩序を守るために物の怪を一掃していると、昨日西園寺が話していたのを覚えている。でも、

「私は……そうとは思えません」

 そう刀に手を掛け、鋭い眼光を放つ彼に優春はそう言い放った。

 その時、

「くるしいよぉ、あついよぉ……」

 突如、どこかからうめき声に似た声音が聞こえてきた。

「っ!?」

 それに一ノ瀬とともに咄嗟にあたりを見回す。

 人食い天狗の襲撃っ!? 一周そう思って周りに意識を集中させ、警戒心をむき出しにして辺りを伺うが、天狗は愚か、周りに人の気配も全く感じなかった。それに一ノ瀬が鋭い殺気を放ちながら刀の柄に手を掛ける。

「何か、この世ならざる者の気配がする……」

「えっ!?」

 刹那、周りに広がる閑静な住宅街の中で小さい駐車場があるのが目に止まる。

車が数台駐車されており、駐車場自体は現在も使用されているようだ。しかし、何故か不吉なものを感じた。そう思った矢先、その駐車された車の間から幼い男の子が一人、姿を現したのが見えた。

「っ……?」

 歳は、二、三歳ぐらいだろうか。戦隊ものの半袖のTシャツと、可愛い半ズボンを着用している。だが今は春、まだ肌寒い風が吹くこの季節にそのまるで真夏のような季節にそぐわない格好をした彼に違和感を覚える。

「キミ、お父さんとお母さんはどうしたのかな?」

 そんな違和感を感じながらも、優春はふらふらと現れたその子供に声をかけた。格好は一先ず置いといたとしても、こんな幼い子供が夕暮れ時に一人でいるのはさすがにおかしいだろう。もしかしたら、迷子かもしれない。そんなことを考えながら辺りを見回すが、やはりこの子供以外に人は周りにいなかった。

それにうつむいて沈黙していた男の子が初めて口を開く。

「あのね、パパとママがずっとこないの……まってもまっても、一人ぼっちなの」

 今にも消えてしまいそうなか細い声音だった。やはり、この子は迷子のようだ。

「じゃあ、お姉ちゃんが一緒にパパとママを探してあげるね」

 そう微笑みを浮かべながらうつむいて顔を見せない男の子に歩み寄って手を伸ばす。迷子なら早くご両親を見つけなければならないだろう。日ももうすぐ暮れて辺りは暗くなってしまう。それにその薄着では風邪を引いてしまうかもしれない。そう思いながら男の子に手を差し伸ばそうとしたその時、その腕を今まで黙っていた一ノ瀬が徐に掴んで止めた。

「駄目だ」

「え?」

 突然の制止に戸惑いながら彼を振り返る。

 何が駄目だというのだろう。この子は見る限り迷子のようだし、早くご両親を見つけてあげないといけないのではないか。そう首をかしげると、一ノ瀬が険しい顔で男の子を見下ろしながら鼻を摘んで呟いた。

「臭わないか?」

「え……」

 臭う?

 そう問われよくよく辺りを嗅いでみると、確かに何か妙な臭いが周囲に立ちこもっていた。何かが腐ったようななんとも言えない香り。とてもいい匂いとは言えない……。肉が腐敗し、ガスと体液が混じり合ったような独特の匂いだ。この思わず鼻を摘みたくなるこの臭いを、自分は幼い頃に知っている。

「死臭……?」

 思わずそう呟いて目をほそめる。なぜ今そんな異臭がするのか。辺りには死体らしきものは何もないのに……。そう思ったその時、目の前の男の子が徐にむくりと顔を上げたのが視界に入った。その瞬間、彼の顔を見て目を疑った。

 頭皮から剝がれ落ちかけた前髪、皮膚は腐敗して青紫色に変色し、眼球は陥没して、鼻や口からは無数の蛆虫が湧き出ていたのだ。

「ひっ!?」

 それに思わず飛び退いて男の子から距離をとる。。よく見れば、洋服から露出した小さな腕や足全体には水膨れが広がり、破裂して皮膚が酷く爛れてケロイド状になってしまっていた。所々で皮膚が剥がれ、肉片がこぼれ落ちている。

「っ!!」

 その姿に優春は、湧き上がる吐き気を抑えるように咄嗟に口を塞いで目を逸らした。どう見ても、この子供はもう生きている状態ではない。

「ずっとクルマの中でひとりぼっち。パパとママがこないの。おねえちゃん、暑いよ。苦しいよ、独りぼっちで寂しいよ……助けて」

 男の子は身体から滴る体液をまるで汗のように流しながらゆっくりゆっくりとこちらに近づいてくる。その陥没し蛆が湧いた眼球からは涙のようなものが見えた。こういった者達を自分は嫌という程見てきている。いわゆる《死霊》というやつだ。死んでしまった人間が生前に未練を残して黄泉に帰れずに魂だけでこの世を彷徨う哀れな存在、一般的に幽霊という物の怪だ。その姿は死んだ当時の姿を再現して現れることが多い。

「……」

 その死霊の少年から優春はあふれる涙を堪えながら咄嗟に目をそらした。

 この子供は迷子ではない……。二度と親元に帰れない存在なのだ。先程から車の中でという言葉と暑いという単語からして彼は恐らく熱中症で死亡した子供の霊だろう。ふと、駐車場の近くに立て看板が取り付けられているのが視界に入った。〝乳幼児の車内放置は犯罪です〟と書かれたテロップが大々的に記載されているのが見える。恐らくこの子供はこの駐車場で真夏、ご両親に車内で置き去りにされたのだろう。男の子の小さな腕の大きな水膨れの破裂した痕が何カ所も点在しているのがその事実を物語っていた。これは長時間直射日光を浴びて皮膚が火傷を起こした症状だ。

「おねえちゃん。苦しいよ、暑いよ……」

 最近こういった最期を遂げた子供の霊をよく見かける。どれ程苦しんで亡くなったのか、そんな悲惨な死に方をして成仏出来るはずもないだろう。考えただけで胸が締め付けられ、涙が溢れた。

「っ……」

 それでもきっとこの子は死んでから今まで自分を置いて行ってしまった両親を待ち続けているのだろう。独りぼっちでずっと何日も。こんな悲惨なことなんてない……。辛すぎるではないか。そう思ったその時、強力な殺気を放ちながら一ノ瀬が死霊の男の子の前に立ち塞がった。その手は腰に下げた刀の塚を力強く握っている。

「二宮、お前は下がっていろ。警戒していた人食い天狗ではないが、これが死霊と分かった以上、俺はこいつを斬り殺さねばならない……」

「えっ!?」

「俺は現在、お前の護衛役だ。お前に危害を加える可能性がある者は排除するのが俺の仕事だ」

 とても低く、冷たい声音だった。彼はそう吐き捨てると素早く鞘から流れるように霊刀の刀身を鞘走らせた。その抜き放たれた刃が怪しく朱色の光を放つ。

「っ!!」

 《霊刀》その刃は隠り世、物の怪を斬る為の刃だと言っていた。

 おそらく彼は、目の前の死霊の男の子をその霊刀で斬り殺す気なのだろう。

 そう咄嗟に判断した優春は、慌てて彼らの前へと躍り出た。

「待ってください一ノ瀬さんっ!!」

 それに一ノ瀬が険しい顔つきで睨み付けてくる。

「なんだお前、後ろの死霊どもと共に斬り殺されてぇのか?」

「この子は何も悪い事をしていないです。どうか、どうか殺さないでください」

 後ろを振り返ると、その幼い死霊と目があった。

「おねちゃん、あついよ……くるしいよぉ、たすけて……」

「……」

 この子は何も悪い事などしていない。ただ、苦しんで自分の両親を待ち続けていただけなのだ。それなのに斬り殺すなんて、これ以上この子に苦しくて痛い思いなどさせたくなかった。そう思い眉をひそめると、それに一ノ瀬が鋭い眼光を放ちながら刃の刃先をこちらに差し向けてきた。

「勘違いするな。その幼子の本体はもう死んでこの世にいない。そこにいるのは、その幼子の怨念が物の怪となった存在、死んだ子とは全くの別物だ」

「別物? こんなに苦しんでいるのにですか?」

「そういう風に見せているんだ。俺たちの油断を誘うために」

 そう殺気をまといながらゆっくりと刀を構えて迫ってくる一ノ瀬に、冷や汗が滲む。その思わず身が縮みそうになる彼の気迫に必死にこらえながら優春は彼を睨み返した。

「どうしてそういう風に考えるんですかっ? この子はそんなひどいことをする子には見えませんっ!」

「妖や霊、物の怪の者達は皆悪だ。殺すべき対象だ」

「悪ではありません。殺していい者なんてこの世にいませんっ!」

「お前は何も分かっていない。元来、物の怪とは人々を苦しめる元凶だった。ある都は物の怪の力で疫病が蔓延し、大勢の者達が死んだ。あるところでは血肉に植えた妖が何の罪もない人々を襲って食い殺していた。またあるところでは、憎悪に駆られた怨霊が人々を呪い殺した。皆、己の私慾の為に大勢の人間を殺してきた。これのどこが悪ではないと言い切れる?」

「すべての物の怪達が、そんな酷いことをするとは思えませんっ!!」

 なぜ、彼はそこまでして物の怪、隠り世の者たちを嫌うのだ。確かに、そういう悪さをする者たちも中には存在する。でも、全てではない。人間だってそうではないか。良い人も悪い人もいる。なのにどうして、彼は物の怪は全て悪い存在だと決めつけたがるのか。この子は確かに死霊で物の怪だが、悪い子ではない……ただ苦しくて助けを求めているだけなのだ。

「いたいよ……あついよ……寂しいよ。誰もたすけにきてくれない……ヒドイよぉ。どうして、ぼくだけこんな苦しいおもいをしなくちゃいけないの?」

 後ろを振り返ると、死霊の男の子が俯いてそう嘆いていた。その子の側にしゃがみ込んで、その小さく、爛れ腐敗した両手を包み込むようにして握る。その手が氷のように冷たくなっているのに眉をひそめながら、優春は死霊の顔を覗き込んだ。

「可哀想に……今までこの場所で独りぼっちで辛かったね。苦しかったね、寂しかったね」

 このままでは一ノ瀬に斬られてしまうかもしれない。こんなに辛く苦しそうな幼子にこれ以上苦痛を与えたくなかった。一刻も早く、この子をこの苦痛の柵から解放させて楽にしてあげなければ……。

「でも、もう大丈夫だよ。お姉ちゃんが君を助けてあげる。もうここに独りぼっちで苦しませたりなんてさせないから」

 そう呟きながら、優春は自分の両手を見つめた。きっと、この男の子を救うことができるのは、自分の〝あの力〟だけだろう。他者を癒し清める能力。それを使えば、この男の子の苦痛や悲しみが和らいで成仏できるかもしれない。そう内心で頷いたその時、今までしくしく泣いていた死霊の男の子がピタリと泣き止み、か細い声で呟いたのが聞こえた。

「おねえちゃん、ぼくと一緒にいてくれるの……?」

 その声音は何故か、先程よりも冷たく低く感じた。それに違和感を覚えながらその子に向かって笑顔で頷く。

「そうだよ? もう独りぼっちで苦しませたりしないから、お姉ちゃんが君を救ってあげるからね」

「ずっと、ずぅっと……独りで寂しかった。くるしかった。でも……」

「え?」

 その発言に目をほそめる。ずっと一緒? 確かにこれ以上独りぼっちで苦しませたりはしないとは言ったが、ずっと側にいてあげるとは言っていない。何かおかしいと感じたその時、

「おねえちゃんが側にいてくれるのなら、すごくうれしいな」

「ッ!?」

 ガバッと顔を上げた男の子は満面の笑みだった。口が耳元まで裂け、見開いた陥没した眼球からおどろおどろしい赤黒い体液が流れ落ちる。そのまま少年は笑い声を上げながらこちらに飛びかかってきた。

「っ!?」

 慌てて危険を感じて彼から後ずさろうとするが、金縛りで体が動かない。

「えッ!?」

 何、急に……!?

 さっきまでそんな危険な気配を出していなかったというのに……。

 飛び掛かってきた死霊はそのまま自分に覆いかぶさると、首に両手を掛け、力強く首を締め付けてきた。

「うぅッ!!」

「さびしかった、苦しかった。ずっと独りぼっち。ママもパパも、誰もきてくれない……。だからお姉ちゃんがずっとぼくの側にいて……永遠に側にいて」

 幼児とは思えぬ有りえない程の握力が首に掛かる。呼吸が出来ず、視界がボヤけてくる。口から泡を吹きながら痛みに耐え、必死に首を締め付けてくる死霊の両手を引き剥がそうと捥くが、手の力は予想以上に強く、指が皮膚に食い込んで離れようとしない。

「は、離し……て……!!」

「はなサなイ……。いっしょに死のう。もう、ひとりぼっちは嫌だ」

 必死にさっきから抵抗しているが、もう体に力が入らなかった。呼吸もろくに出来ずに、焼けるような痛みが全身を包んで意識が朦朧としてくる

「二宮ッ!!」

 それに一ノ瀬が血相を変えて飛び込んでくるのがおぼろげに見えた。

「ねぇ、おねエちャん……? あツいのくルしいの。だから、いっジょにいテ」

「ダメ……やめて……」

 意識が混濁する。

 同時に彼の感情と記憶が脳裏になだれ込んできた。

「あついよ。苦しいよ……。どうしてママとパパはタスけにこないノ?」

 チィルドシートの中で大量の汗をかきながら、幼い男の子が必死に助けを求めている。

「のどかわいたよぉ。寂しいよぉ……だれか、だレカ……」

「どうしてこんなくるじいおもいをしなくちゃいけないの?」

 男の子の肌に触れているベルトの金具が窓から差し込む太陽に照らされ熱を持ち、男の子の肌を焼く。それに悲鳴をあげている姿が見えた。

「やめて……」

 死ぬ寸前の記憶を見せないで……。

「あつい。あつい。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あつい。あつい。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ。あツい。あつイ」

「二宮っ!! しっかりしろっ!! 意識を持って行かれるぞッ!!」

 刹那、一ノ瀬が自分を抱きかかえるように庇うと、首を締め付けていた死霊の男の子を拳で殴り飛ばした。

「っ!?」

 締め付けていた死霊から解放され、咳きを込みながらその場に両手をつく。まだ意識が混濁しているが、どうやら間一髪助かったようだ。

「ありがとうございます、一ノ瀬さん……」

「馬鹿野郎がっ……!!」

 なんとか荒い呼吸を繰り返しながらそう一ノ瀬に視線を向けると、それに彼はこちらを鋭い勢いで睨みつけて咄嗟に胸ぐらに掴みかかってきた。

「どうして分からねぇっ!! お前、今あの死霊に殺され掛けたんだぞっ!?」

「っ……」

「もっと自分の命を大事にできねぇのかッ!?」

 一ノ瀬に吹き飛ばされた死霊の子供は、駐車された車のフロントに叩きつけられて血反吐を吐いた。だが、痛がる様子もなく、すぐさまむくりと起き上がると、今度は吹き飛ばした一ノ瀬目掛けて凄まじいスピードで飛び掛かる。

「恨めしい……殺してやる……ッ!!」

 首はあらぬ方向へ折れ曲り、飛びかかるその姿はもはや人の原型を止めてなどいなかった。それを一ノ瀬が怪訝な顔で見上げながら吐き捨てる。

「見ただろう? あれが死霊、いや物の怪の正体だ。己の私欲のために己の苦しみの中に関係ない他人を巻き込もうとする化け物。妖も霊も、長い歴史の中でそうして人々を襲ってきた」

 そう言い放つと一ノ瀬は静かに立ち上がり、死霊に再び刃を向けた。

「だから、我ら禍日主は悪しき物の怪を滅するためにここにいる」

 刹那、彼の刃が夕日の光を反射させてギラッと瞬くと同時に飛び掛かってきた死霊の腕を流れるように斬り飛ばした。

「ぎゃぁぁぁああッ!!」

 瞬きもする暇もないぐらいに一瞬の出来事だった。

 斬り飛ばされた腕が宙を舞い、根元から血飛沫が吹き上がる。宙を踊る刃は鮮血に染まっていた。それに斬られた死霊は危険と判断したのか、一瞬怯むと、後方へ後退する。

「いたいよぉ……いたいよぉ……」

 その死霊の顔が苦痛で歪んでいる。先程は吹き飛ばされても痛がりもしなかったのに……。やはりあの刀、隠り世の住民に効果があるらしい。恐らく彼は昨晩の天狗のようにその刃であの幼子の死霊も殺すのだろう。確かに、あの死霊は今自分を殺そうと襲いかかってきた。でも、それでも……。

「待ってくださいっ!!」

 逃げる死霊の後を追おうとする一ノ瀬に優春は咄嗟に両手を広げ、彼の目の前に再び躍り出ると行くてを遮った。

 それに一ノ瀬が怒りに満ちた顔で言い放つ。

「また邪魔をするか。なぜ分からない。今、お前も襲われただろう? この死霊は危険だ。救いを求め、生ける人々に自分と同じ苦痛を与えて殺そうとしている」

 さっき締め付けられた首には死霊の手の跡がくっきりと痕が残っている。確かに一ノ瀬が救ってくれなければ、あのまま死んでいたかもしれない。しかし……。

 そう内心で意気込むと、それに目を瞑って優春は彼に向き直った。

「それでも、どきません……」

「なら共に斬り殺してもいいのか?」

 それに一ノ瀬は夕日を背に、朱色の瞳を光らせてこちらの鼻先に刃を差し向けた。茜色の光を受けて、鋭い光沢を反射させるその刀身からは激しい熱気を感じる。それでも、一歩も引かずに彼をまっすぐ見据えた。

「それならどうぞこの私を斬り殺してください。それでも、ここをどいたりはいたしません。この子は何も悪くない……。死んでもなお、こんなに苦しんで助けを求めているだけなんです。そんな子に更に痛くて怖い思い、私はさせたくない」

「お前はまだそんなこと……!!」

「あなたもどうして、物の怪は悪だと決めつけるのです。彼ら全員がそんな怖い存在ではありません。あなたは現世と隠り世の秩序を守る人なのでしょう?その刀で物の怪を斬っても、状況は何も変わらないと思います。違いますか?」

「なら、お前はどうするんだ? 刀で斬って滅せず、どう、その者を救う」

「……」

 そう問われ、優春は静かに背後に迫る死霊に向き直った。

「苦しいだけなんだよね? 辛かっただけなんだよね? だから私を殺そうとしたのでしょう? 一緒にいてくれる人が欲しかった……ただ寂しかったんだよね。死んでからずっと一人ぼっちで苦しんで。辛かったね……」

 さっき絞められていた時に男の子の生前の恐らく最期の記憶が見えた。この子は最期まで救いを求めていたのだろう。それがこの子の全て。死んでも尚、痛みに苦しみながら誰かにすがり救いを求めた……。

「でも、私はあなたの側にいてあげられない。私が出来るのは、あなたを天国に送り届けることだけ……」

 そう彼に優しく笑みを浮かべると、再び飛びかかってくる人の原型すら、すでに失われてしまった死霊の男の子に両手を広げて笑みを浮かべる。

「おいで。私がその苦しみも痛みも寂しさも、全て受け止めてあげるから」

「アァァァァァァアッ!!」

 その瞬間、まるでその言葉に救いを求めるかのように男の子が自分に向かって飛びかかってきた。それに躊躇わずに優春は静かに両手を差し向ける。

 神社で共に暮らした祖母やお付きの妖たちしか知らないこの力……。

 どう救うか。彼にそう問われ、この方法しかないと思った。自分が持つ、〝他者の傷を癒す力〟でこの子供たちの苦しみを癒してみせる。この力のことを彼には教えてはいないが、今仕方ないだろう……。

 そう思った優春は、全神経を目の前の死霊に集中させ、神言を唱えた。

「我は二宮優春、この世全てを癒し清める者なり。この者に八百万の加護と癒しの恵みを授け賜え」

 刹那、辺りに桜色の優しげで淡い光が溢れ出し、その光が胸に飛び込んできた死霊を優しく包み込んだ。

「さぁ、痛みや苦しみから解放され、黄泉へ帰りなさい。あなたのいるべき場所はここではないですよ」

「おねえちゃん……?」

 それに光に包まれた幼い男の子の焼け爛れた肌は、みるみると元へ戻っていき、腐敗した顔や体も生前の姿へと戻って綺麗になっていく。それに背後で見ていた一ノ瀬が息を飲んだのが分かった。

 周りは桜色の光はより一層強くなり、金の輝きを放つ桜の花弁が辺りを包み込んだ。その中で死霊の男の子は穏やかな笑顔を浮かべている。それを見てほっと安堵して笑みを返した。

「もう、苦しくはないのですね」

 彼は何も言わずに静かに頷いた。そして、ゆっくりと体が透けて光に解けるように透明になっていく。

「次生まれ変わった時は、もっと幸せになれると思いますよ」

「ありがとう、お姉ちゃん……最期に僕を看取ってくれて」

 最後に男の子は幸せそうにそう言い残すと、完全にその場から消え去っていった。恐らく、成仏したのだろう。それを確認してほっと一息つく。

「よかった……」

 彼の苦しみを癒して縛り付けていた想いから解き放って解放してあげた。これで彼はもう苦しむことはないだろう。天国へ召されていったはずだ。刹那、体に今までにない以上の負荷が掛かり、優春は思わずその場で膝をついた。手先は震え、額から脂汗がにじみ出る。やはり、いつもやっていた傷を癒す事よりも、苦しみや悲しみなどの感情のダメージを消し去る方がずっと体に応えるようだ。

 光はまだ消えることなく、辺りに満ちている。その中で今まで黙っていた一ノ瀬が口を開いた。

「お前、今のは……」

「私、生まれつきこういう力を持っているんです。他者を癒して清める力を」

 そう苦笑して彼に視線を向けると、彼は驚きに目を見開いていた。それもその筈だ。禍日主でもない者が霊術のような力を使ったのだから。

「身体の傷や病、望めば何でも癒して治すことが可能です。それは心の傷も含めて全て。憎悪や悲しみ、怒りなどの負の感情すら消し去ることができます。今のように迷える魂を成仏させることも……」

 そう彼に言い放ちながら、自分の両手に視線を向ける。

「一ノ瀬さん、さっき言ってましたよね。どうしてお前は見えることを隠すんだと。それは物の怪に原因があると。確かに、そうかもしれません……。霊や妖は長い歴史の中で人々の恐怖の対象でしたし、その物の怪たちが見える人間は物の怪と同じく恐怖の対象だったのかもしれません。しかし……」

「私が親にも周りにも忌み嫌われたのはそれではないのです。この私自身が、このような人知を超えた化け物の力を持っていたから嫌われてしまったのです」

「……」

 そこまで話して恐るお恐る彼の顔を伺うと、一ノ瀬は朱色の瞳を細めて静かに耳を傾けていた。そして徐に口を開く。

「つまり、お前はこの力の存在がバレるのを恐れて、周りに隠り世が見えることを隠しているということか?」

「……」

 それに静かに頷くと、一ノ瀬は吐き捨てるように目をそらした。

「分からんな。なら、お前はなぜその力を使う。それが元凶なら使わなければいい話だろう」

「……」

 その言葉に思わず唇を噛み締めた。

 確かにその通りだ。使わなければいいだけの話なのかもしれない。しかし……そういう訳にはいかない理由がある。だが、それを言う勇気はなかった。

 一ノ瀬は深い嘆息を漏らすとこちらに再び視線を向けてくる。

「まぁいい。極力俺は私情に首を突っ込んだりするタイプじゃないからな。俺はお前を守る護衛役、それ以上でも以下でもない」

ただ沈黙を守る優春に一ノ瀬は小さく嘆息を漏らすと、それ以上追求はせずにそのまま踵を返して病院へ向けて再び歩き出してしまった。




 祖母が入院している総合病院に着いたのは、日が沈み、夕空が朱を含んだ紫陽花色に染まった頃だった。受付カウンターに向かう一ノ瀬について歩いていると、彼がこちらに視線を向けてくる。

「ここの病院は俺たち禍日主が所有する施設の一つになっている」

「所有、ですか?」

 聞けば、禍日主は裏で京都の様々な施設を買収しているのだとか。一般では知られていないが、駅や学校、病院などの公共施設の多くは現在、裏で禍日主が経営しているところがほとんどらしい。この病院も例外ではなく、悪しき物の怪たちに重傷を負わされた被害者たちを専門に治療出来るよう専門医療技術が完備された物の怪科という外来があるらしい。祖母はその外来で入院しているという話だった。

 それを聞いて改めて辺りを見回してみるが、外見や内装はいたって普通の総合病院である。総合内科や外科、小児科に皮膚科、産婦人科に眼科、耳鼻科など豊富な診療科が伺えて、訪れている患者の多くも一般の方々のようだった。

どこを見渡しても、物の怪科など見当たらないし、そのような患者の姿もなかった。そんな内心の疑問を感じ取ったのか、一ノ瀬は呆れ顔で呟いてきた。

「大々的にここが禍日主が管理している病院だと言えるわけがないだろう。一般的には普通の総合病院だ。だが、働いている職員の全てが禍日主で成り立っている」

「は、働いている人全員が!?」

 思わぬ発言に驚愕する。それを他所に一ノ瀬は受付カウンターへ行くと、カウンターにいた女性の看護師に腰に差していた霊刀を見せた。

「物の怪科で治療を受けている患者に御目通り願いたい」

「禍日主の証である霊刀を確認いたしました。一ノ瀬家の颯斗様ですね。承知致しました。面会のご予約は西園寺様より受けたまっております。あちらのエレベーターに乗り、二階でございます。このカードキーをご利用ください」

 それにカウンターの看護師はさも驚く様子もなく平然とそう答えると、彼女は近くのエレベーターをそう指差し、一ノ瀬に一枚のカードキーを渡した。

「承知した」

 それを真顔で受け取った一ノ瀬は、そのままエレベーターに乗り込もうと歩を進める。そんな彼を慌てて追いかけた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

「なんだ」

「今の看護師さんも禍日主なんですか?」

「そうだ。言っただろ。ここで働いている者の多くは禍日主だと」

 指定されたエレベーターのボタンを押し乗り込むと、中は普通のエレベーター内だった。しかし、一つ違うのは、一階から五階まで表示されたボタンの横にカードキースキャナーが内蔵されていることだろう。これは普通のエレベーターでは見ないギミックだ。それをまじまじと見ていると、一ノ瀬が看護師から頂いたカードをそこにスライドさせた。刹那、今まで一階と五階までしか表示されていなかったボタンの上に六階が新たに表示される。

「これって……」

「この六階が、物の怪科があるフロアだ。一般の者達は知られていない禍日主だけが知る場所といってもいい」

 どうやら渡されたカードキーは、禍日主ではなければ使えないアイテムのようだ。六階はこのカードキーがなければいけない仕組みになっているのだろう。六階のボタンを押すと、エレベーターは普通に動作し、チンッという軽快な音と共に扉が開く。その開け放たれた六階の景色に思わず目を見開いた。

「なに、ここ……」

 そこは昨夜訪れた禍日主の屋敷と同じくたくさんの鳥居が所狭しと並べられ、色とりどりの精霊が飛び交っている場所だった。慌ててエレベーターから飛び出して近くの窓から外を見渡すが、白い靄が掛かっていて外の様子が伺えない。それに一ノ瀬が答える。

「ここはお前が昨日訪れた禍日主の屋敷、禍日屋と同じく強力な結界で守られている場所だ。窓から外の景色が伺えないのは、外部と完全に切り離されているから。このエレベーターが唯一の外部との出入口となっている」

「うそ……」

 驚きで開いた口が塞がらない。その時、こちらに一人の看護師が歩み寄ってくるのが見えた。

「二宮優春さんと颯斗様ですね? お待ちしておりました。わたくし、物の怪科で看護師をしている禍日主の千代と申します」

 礼儀正しくお辞儀をする彼女にこちらも慌てて頭を下げる。年齢は四十代ぐらいだろうか。優しげな眼差しのご婦人だった。この人も一ノ瀬や西園寺と同じく禍日主と言うから驚きだ。それに隣で一ノ瀬が口を開く。

「こいつの祖母の見舞いに来た。病室まで案内しろ」

「畏まりました颯斗様」

 それに彼女はこちらですと廊下を静かに歩き始める。その後に付いて行きながら隣を歩く一ノ瀬に今まで思っていた疑問をぶつけた。

「一ノ瀬さんって禍日主の中で位の高い存在なのですか?」

「あ? なぜだ」

「いえ、さっきから会う禍日主の方々があなたに対してとても態度を弁えているように思えたので……」

 そう言って彼を伺うと、一ノ瀬は一瞬目を微かに細めてからこちらに視線を向けた。

「まぁ、そこそこ立場は上だからな。一ノ瀬の中では俺は次期当主の位置付けになっている」

「次期当主っ!?」

 予想外の発言に目を見開く。ということは、昨日お会いした禍日主の長様に次はこの彼がなるということだろうか。それは周りの禍日主たちが態度をわきまえるわけである。彼のそんな告発に唖然としていると、不意にこちらに視線を向けていた一ノ瀬がふと歩みを止め、突然首筋に手を伸ばしてきた。

「ちょっと待て……」

「えっ? な、なんですか?」

 それにビクッと体が硬直する。急にどうしたのか……。彼の謎の行動に戸惑っていると、彼はそのまま訝しげな表情でこちらに視線を向けてきた。

「お前……この首の痣を残したままで自分のばあさんに会うつもりか?」

 彼の手が先程、死霊の男の子に絞められて残った首筋の痕を優しく撫でてくる。それに気づき、慌ててその手を退けて一歩後ろへ下がった。

「あ……すっかり忘れてましたっ!」

 病院のことに意識がいき過ぎていて、この首の痕をどうするかをすっかり忘れていた。このまま祖母に会えば、確実に何かあったのではと心配させてしまう。それに一ノ瀬が口を開いた。

「なに焦っているんだ? 癒しの能力を持っているのだろう? それでさっさと直したらどうだ」

「……」

 そう問われ思わず口をつぐんだ。そうしたいのは山々なのだが……

「自分の能力は己には効果がないのです……」

 そう呟いて彼から目をそらす。この力はあくまで他者を癒し清めるだけであって、自分には使えない能力なのだ。それに一ノ瀬はしばらく沈黙すると、前を歩く看護師に声をかけた。

「……おい看護師、救急箱を持ってきてくれるか?」

「救急箱ですか? 畏まりました。今持ってきますね」

「な、なにを……?」

 救急箱に入っている物でまさか痣を消そうというのか?

 それはさすがに無理があるのではと内心で苦笑する。そんな簡単に痣が消えるのならば苦労はしないだろう。しかし、看護師が持ってきた救急箱は想像していた物とはかけ離れた代物だった。

「これは……?」

 透明なガラスのケースに小さな瓶が綺麗に並んで収納されている。その瓶一つ一つに何か光を帯びる色とりどりの液体が入っていた。

 これが救急箱?

 そう思いながら眉をひそめて一ノ瀬が受け取ったケースを見やる。救急箱にはどうしても見えない。赤や紫、ピンクにオレンジというカラフルでラメが入っているかのようなキラキラと輝く摩訶不思議な液体は、とても医療薬品とはかけ離れたものに感じた。その中から一ノ瀬は桃色の液体が入った瓶を取り出すと、コルクの蓋を開け、液体を少量手のひらに乗せると刷り込ませるように馴染ませた。そして近くにあったベンチを指差しながら口を開く。

「そこに腰掛けてじっとしていろ。すぐに終わる」

「え? ちょ……」

 無理やり座らされると、一ノ瀬に強引に顎を掴まれて引き寄せられる。そのまま彼は手に擦り込ませた液体を首筋の痣に塗り込み始めた。

「ひうっ……!?」

 ひんやりと冷たい感触と共にじわっと首筋が暖かくなっていく感覚がする。そのなんとも言えない感触はとても心地よくて思わず瞳が潤んだ。

「さぁ、終わったぞ。鏡で首筋を確認してみろ」

 それはあっという間の出来事で、一ノ瀬にそう言われて渡された手鏡を凝視すると、首筋にあった男の子の手の跡がくっきりと残った痣は綺麗に跡形もなく消えていた。

「うそっ!! なんで!?」

 思わずそう声を上げると、一ノ瀬が使用した瓶をケースに戻しながら口を開く。

「これは霊術で調合した禍日主お手製の薬品だ。今お前に使用したのは火傷やシミ、痣など肌のダメージを消し去る薬品だな」

「そんなものがあるのですかっ!?」

 これはすごい。思わず目を輝かせてそのケースを見やる。当たり前かもしれないが、自分の能力のように傷を癒す術のようなものも禍日主は知っているのだということが驚きである。やはり霊術というのはすごいと改めて実感してしまった。


「ここがあなたのおばあさまが入院していらっしゃる病室になります」

 痣も無事に消え、にこやかな笑みを浮かべてそう愛想よくしてくれる看護師さんに案内されて着いた病室には、確かに祖母の名のプレートが付けられていた。

「おばあちゃん、お孫さんがお見舞いに来てくれましたよ〜」

 そう微笑みながら看護師が部屋の奥へ入っていく。どうやら本当にここで祖母は入院しているらしい。その看護師に付いて中に踏み込むと、その病室は小さな個室になっていた。全面清潔な白で統一された室内には消毒の香りが広がり、開け放たれた窓からそよ風が張り込んで桃色のカーテンを優しくなびかせている。そんな病室の窓際のベッドで懐かしい自分の祖母が体を起こして静かに読書を楽しんでいた。それに看護師の声に気づいて顔を上げる。

「あら、優春。よく来たわね」

 その優しい微笑みを浮かべる祖母が、いつもの祖母の表情で優春は思わずそんな彼女を前に涙が溢れた。

「よかったっ……おばあちゃんが無事でっ!!」

 あの時、天狗に血を吸われていた祖母を見た時、正直ダメかと思った。だから、こうしてまた祖母に会えて心底よかったと涙を拭う。それに祖母は困った笑みを浮かべてて招いてくれた。

「あなたも無事でよかったわ優春。さぁ、私に顔を見せておくれ?」

 そう祖母は微笑むとこちらに両手を広げて招き入れてくれた。それに飛び込むように祖母の胸に抱きつく。

「ずっとおばあちゃんのことが心配だったのっ!! あの時、天狗に殺されちゃったんじゃないかって……!!」

「大丈夫大丈夫。怖い思いをさせてすまなかったねぇ。でも、もう大丈夫だよ私はここにちゃんといますからね?」

 そう言うと、祖母はいつものように優しく頭を撫でてくれた。やはり祖母に頭を撫でられるとすごく落ち着く。それに祖母は背後に控えていた一ノ瀬に視線を向けた。

「あなた、禍日主の一ノ瀬颯斗さんですね? うちの孫を助けていただいてありがとうございました」

「いえ。お気になさらずに」

「っ!?」

 その言葉に思わず目を見開く。

「おばあちゃん、一ノ瀬さんのこと知っているの?」

「えぇ。知っているわ」

 祖母は一ノ瀬と面識は無かったと思っていたのだが……。

 それに祖母は笑みを浮かべたまま頷くと、部屋の入り口で控えていた看護師さんに微笑みかけた。

「そこの看護師さんから事情は聞いたわ。禍日主のことも天狗のことも」

 祖母にそう言われ、そういえばこの病院の職員のほとんどが禍日主なことを思い出した。ならば、一連の出来事を聞いていてもおかしくはなかった。それに後ろで一ノ瀬が背中を突いてくる。

「二宮、先程買った見舞い品を渡すのを忘れているぞ」

「え? ……。あっ!」

 そう言われて慌てて我に返った。死霊の男の子を成仏させたあの後、通りかかった和菓子屋さんで祖母への見舞い品を買ったのだった。

「これ、見舞い品なんだけど……フルーツゼリーとかでよかった?」

 そう言いながら持っていたバックから数種類の果物のゼリーが詰め合わせになったセットを祖母に渡して見せた。本当は花などがいいと思ったのだが、一ノ瀬にそれよりもカラフルで見ていて楽しくなるような物の方が見舞い品には良いと言われ、急遽こちらになったのだ。

「まぁまぁありがとうねぇ。嬉しいわ、こんな綺麗なゼリーがたっくさんいただけるなんて」

「よかったぁ」

 パァと笑顔になる祖母に自然と笑みがこぼれる。どうやらこれにして良かったらしい。喜んでもらえたことにほっと安堵すると、それに祖母はゼリーをベッドの脇に備え付けられた小さな冷蔵庫にしまいながら、こちらを心配そうに見つめ話題を変えてきた。

「話は変わるけれど……。優春は今、禍日主さんたちのお屋敷に匿ってもらっているのかい?」

「え?」

 その突然の話題の切り替えに思わず首を傾げた。その話は護衛である看護師の禍日主さん聞いていなかったのだろうか。

「いや……。私は神社に戻ったの。聞いてない?」

 それに不思議に思いながらそう答えると、祖母が眉をひそめながらこちらに視線を向けてきた。その顔がどこか険しさを含んでいて、そんな彼女に思わずたじろいでしまった。

「どうしてだい? 禍日主さんの屋敷にいれば安全なんだろう? どうして神社に戻ったりしたの?」

「そ、それは……私言ったじゃない。おばあちゃんの神社を守るって」

 祖母と一緒に住むとなった時、自分は祖母とそう約束した。それに、忌み嫌われていた自分を祖母は構わずに愛情を注いで育ててくれた。そんな彼女に恩返しがしたい。元々、幸せや自由を求めてはいけない運命だったのに……祖母はそこから連れ出してくれた。だから今度は祖母のために……。

「……優春」

 そう思った自分に祖母はそう静かに言い放った。

「私は、そんなこと願ってはいないわ。あなたには無事でいてほしいの。このままではあなたは天狗にまた命を狙われてしまう。だからお願い、禍日主さんたちの屋敷にお戻りなさい」

「そ、そんな……大丈夫だよっ! 一ノ瀬さんもいるんだもの、心配いらないから。私がおばあちゃんが元気になるまでの間でもあの神社を守るから安心して?」

 そう言って厳しい眼差しになる祖母に必死にそう言い聞かせる。しかし、彼女はそれに固く首を振るうと自分の手を優しく包んできた。

「優春……お願い。いつも私は言っていたわよね? あなたに自由に生きてほしいと。神社のことなんてあなたが無理に背負うことない。そんなことをさせる為に私はあなたをあそこから連れ出したわけではないのですよ? だからお願い、自分のことを大切にして」

「……」

 屋敷に戻れだなんて……。祖母のいつもとは違う真剣な眼差しに思わず優春は言葉を失った。彼女がこういう態度をとったことなど今までなかった。

いつも自分の言うことやることに反対などしなかったのに……。

 それに、背後で今まで沈黙を保っていた一ノ瀬がおもむろに口を開いた。

「二宮、少し席を外せ。このばあさんと二人きりで話がある」

「え?」

 どうして?

 その突然の言葉に彼を咄嗟に振り返る。まだ祖母との話が終わっていない。そう言おうとした優春の肩を看護師の禍日主の方に掴まれた。

「じゃあ二宮さん、私と一緒に少し外へ出ていましょうか」

「え、ちょっ!! でも、まだ話が……」

 慌ててそう反論するが、一ノ瀬は振り返らず、優春は看護師に連れられて半ば強引に病室を後にした。



「じゃあ、二宮さん。私はまだ他に仕事が残っているからまた後で会いましょう」

 病室の近くに完備された自販機が数台設置された小さい休憩所に案内してくれた看護師は、そう言うと自分をここに残してどこかに去って行ってしまった。それをただ見送ると、照明が消え、薄暗い休憩所に用意されていたソファーに腰掛けてため息をつく。

「……」

 祖母のあんな悲しそうな顔、初めて見た。

 いつも笑顔で何も言わなかった祖母が、あんな辛そうな表情を見せるなんて……。

「どうしたらいいの……?」

 それに顔を伏せて思わず内心の声が漏れる。あの神社を守ることでお世話になった祖母への恩返しになる。そう思っていたけれど、祖母はそれを求めてなどいなかった……。自由に生きて欲しい、命を大切にして欲しい。祖母の言っていることはよくわかる。大切な家族が危険な目にあうかもしれないのに、それを黙って見過ごせるわけがない……。祖母はきっとそう思っているのだろう。自分も同じ立場ならそういったかもしれない。でも、

「そんなこと、許されないよ。おばあちゃん……」

 そう呟きながら、休憩所の窓から見える既に暗くなりつつある夕空を眺めながら優春は、今まで首に掛けていたロケットを取り出して祈るようにそれを握りしめた。

「おばあちゃんは本当に優しい。いつも私の身を案じてくれる」

 自分のことを大切に。自由に生きて欲しい。そう言ってくれるのはすごく嬉しかった。でもそんなこと、本当は許されるわけがないのだ。自分の幸せなど、願ってはいけない……。自分はこの化け物のような力で取り返しのつかない事をしたのだから。

「っ……」

 思い出しただけでも、胸が苦しくなる。

 自分だけ幸せに自由に生きるなんてそんな資格、自分にはもうないのに……。許されないのに。

「ねぇ、どうしたらいいの……? 分からなくなっちゃったよ……」

 握りしめたロケットにそう囁いた優春は、そのまま歯を食いしばって俯いた。


 結局あの後、面会時間が過ぎてしまって祖母に再び顔を合わすことは叶わなかった。一ノ瀬とは長い間、何かを話し合っていたようだが、一体何を話していたのか内容までは分からない。祖母に反対されていたが、ひとまず今日は神社に戻ることになり、一ノ瀬と自分は早々に神社に戻ってきていた。

「……」

 神社に戻ると、辺りはすっかり日が暮れて薄暗くになっていた。祖母とお付きの妖たちと暮らしていた神社は人気が一切なく、境内に等間隔に配置された明かりが消えて冷たくなった灯篭が物悲しい雰囲気を醸している。昨日まではお付きの妖たちで賑わい、灯篭の明かりに照らされて多くの物の怪たちで賑わいを見せていたというのに、今はその面影はみじんも残っていなかった。そんなまるで廃墟と化したような静寂に包まれた薄暗い境内に眉をひそめていると、

「ここの境内には物の怪を防ぐ結界を張っておいた。これで天狗どもがここを襲ってくることはないだろう」

「あ、ありがとうございます」

それに社務所の屋根に乗って境内に結界を張っていた一ノ瀬が屋根から飛び降りてぶっきらぼうにそう告げてきた。それにお礼を言って社務所の玄関の鍵を開けて中に入る。境内に物の怪が入って来られないよう結界を張る提案をしたのは彼だ。確かに、この方がこの境内にいる限り天狗たちが襲いかかってくることはないので安全だろう。彼のアイディアに感心しながら、背後の彼に優春は微笑みかけた。

「でも、結構手軽に結界って張ることができるんですね。てっきり結界ってもっと大掛かりで特殊な方法でしか張れないものだと思っていました」

 禍日屋や病院など多くの人々が集まる大きな施設に今まで結界が張られていたから、そういう大きな場所でないと結界は晴れないものだと思っていた。それに一ノ瀬が肩を回しながら視線を向けてくる。

「結界自体はどんな場所にでも張れる。ただ、屋敷や先程の病院と違うのはその質だ。さすがにあそこまでの大規模で密度の濃い結界は俺一人では張るのは無理だからな」

「え? じゃあ中に敵が入ってくるんじゃ……」

 思わず不安になってそう聞き返すと、彼はそのまま言葉を続けた。

「まぁ、そこまで濃い結界を張らずとも問題はない、敵を防ぐのが目的じゃないからな。これは保険。防ぐというよりも感知がこの結界の主な役目だ。万が一敵が攻めてくればこの結界に霊力を流している俺にいち早く伝わる。そうすれば、その侵入してきた天狗どもに俺が飛んで行っていち早く斬ることが可能だからだ」

 どうやらこの結界は感知するために張られたものらしい。確かに何も張らないよりは感知できる物を設置しておいた方がまだマシなのかもしれない。それに、ここで敵が入ってこれないほどの密度の濃い結界を張れるのなら、わざわざ護衛役はいらないだろう。

 そう思って薄暗い社務所内に入ると、まず最初に居間に目がいった。それもそのはずだ。昨夜、天狗に襲われて荒れ果てていた室内が綺麗に戻っていたからである。割れた窓ガラスも壊れた家具も何もかも全てが元どおりに治っていた。そのまるで何事もなかったかのような室内に唖然としながら後ろの一ノ瀬に視線を向ける。

「あの……ここ、天狗に襲われた時メチャクチャに荒れていましたけど、今見たら綺麗になってますね」

「忘れたのか? 俺たち禍日主は隠り世の存在が世間にバレぬよう行動している。天狗に壊せれたここも禍日主たちが直したんだ」

 そういえばそんなことも言っていた気がする。今朝は記憶操作、さっきは傷を癒す術を体験し、今度は修復技術……。やはり知れば知るほど禍日主の凄さに感銘を受ける。まるで魔法だ。出来ない事など無いかのように思えた。驚き呆然としていると、それに一ノ瀬が言葉を挟んだ。

「じゃあ、俺は社務所の外で陣を張る。いつでも戦えるようにな。お前はここでゆっくり休め」

「え? 一緒にいてくれないのですか?」

 社務所から早々に出て行こうとする一ノ瀬に、思わずそう呼び止めてしまった。慌てて口を塞いで彼から目をそらすと、一ノ瀬がゆっくりとこちらを振り返ってくる。

「言っただろう? 外で陣を張ると。じゃないと敵が攻めてきても感知が遅くなる」

「そ、そうですよね……すみません」

 何を言っているんだ自分は……。慌ててそう呟いて顔をそらした。確かにここで一緒にいては敵の襲撃に気づくのが遅くなるかもしれない。外で待機している方がすぐに対応できるのだろう。しかし、

「でも……その、もう少しだけ一緒にいてもいいでしょうか?」

 そう呟いて薄闇の中、一ノ瀬を見遣った。それに彼が訝しげに眉間にしわを寄せてくる。

「なぜだ」

「……」

 その問いかけに思わず体が硬直した。

「怖いんです……一人になればまた色々考えてしまうから……。ここは死んでしまった妖の子達や祖母の想い出がたくさん詰まっているんです」

 いくら綺麗になっているとはいえ、まだ微かに血の匂いが残っている。それを嗅ぐたびに昨日の光景がフラッシュバックしてしまいそうで、それがどうしても耐えられなかった。まだ他に人がいれば少しは気がまぎれるかもしれない。

「わがままを言っていることはわかっています。でも、今晩だけでもいいんです。どうしても……」

「……」

 それに彼はしばらく沈黙をして、居間の襖を開け縁側に腰を下ろした。そして、薄闇に包まれた人気も物の怪もない白沙が広がる境内を眺めて呟く。

「わかった。今日はお前の側に控えよう」

「ほ、本当ですかっ? ありがとうございますっ」

 まさか本当に残ってくれるとは思っていなかったので思わず声をあげて頭を下げた。だが、それに一ノ瀬は目を細めながら言葉を続けてくる。

「しかし、やはり俺には分からないな……そこまでして、ここに残る意味が」

「そ、それは……昨日も話した通りです。お世話になった祖母のために……」

「あんたの婆さんは反対していただろう。そんなこと、望んでなどいなかった」

「……」

「なんの為にお前はここに戻ってきたんだ? 自らの命を危険にさらすような真似、普通はしない。死にたがっているようにしか思えん……。さっきの死霊の件もそうだ、どうしてお前はそこまでして自分の命を大事にしようとしないんだ」

 彼のその問いかけにすぐに答えることはできなかった。唇を噛み締めながらゆっくりと自分の両手を見遣る。

「祖母は、昔から私に自由に生きて欲しいと言ってくれていました。何の柵にも囚われずに幸せに生きなさいと……」

「なら……」

「でも、それはできないんです。そんな自分だけ幸せになるだなんて考え、私はしちゃいけないっ! だから、ここに戻ってきたんです。ここの神社は物の怪たちが私に癒しを求めてやってきます。傷を負った者、病に侵された者がみんな私の癒しの力を頼ってここへ来る。彼岸の世界では医療が発達していませんから、私が傷を癒してあげなければいけないのです」

「だから、何故そんな考えになる。幸せになってもいいだろうが。自由に生きてもいいだろう? 誰もお前が不幸になることなど……」

「私が、私を許せないからっ!!」

「っ……」

 彼の言葉に思わずそう叫んでしまっていた。唖然とする一ノ瀬から慌てて視線をそらして話を続ける。

「私は、人間ではないですから。人間と同じ感情を持ってはいけないのです」

「人間ではない、だと?」

 それに一ノ瀬が目を細める。

「お前が持つ癒しの力のことか?」

「そうです。だって、この力……さっき一ノ瀬さんもに見せましたよね? こんなの普通じゃありません。こんな人間離れした能力、穢らわしい化け物の何者でもないでしょう? 」

「……」

 両手に意識を集中させると手から仄かな桃色の光が溢れ出る。

 それを見た一ノ瀬は静かに立ち上がると、こちらを怪訝な顔で凝視してきた。闇の中でその彼の朱色の瞳が鋭く光を放つ。

「なぜそこまで自罰的になるんだ。お前の力は人を癒す力なのだろう? それは穢らわしい化け物ではないだろが」

「……」

 確かに彼の言っていることは正しい。自分も彼と同じ立場ならそう言うだろう。しかし、そうではないのだ。この能力は一ノ瀬が思っているような物なんかではない……。

「あなたには分からないです……。この力は人を不幸にしてしまうのですから」

「不幸、だと? お前は一体、何に囚われているんだ。その力、本当は一体なんだというんだ」

「……」

 その時、開け放った縁側から少し肌寒い夜風が入り込み、居間を通り抜けて行った。それに思わず髪を抑えたその時、鎖が痛んでいたのか、首にかけていたロケットの鎖が壊れて床に落ちた。慌てて拾い上げようとすると、それを先に一ノ瀬がさっと拾い上げた。

「なんだ、これは……古いロケットだな。かなり年季が入っているが、中に写真でも入れているのか?」

「そ、それはっ!!」

 それに慌てて一ノ瀬にすがりついた。

「中の写真を見ないで、返してくださいッ!!」

「……」

 しかし、一ノ瀬はその制止を無視してロケットの中身を開けた。その瞬間、彼の顔が硬直する。それに慌てて彼からロケットを引ったくった。その時、ロケットの中に収めていた写真の中で微笑んでいる自分とよく似た幼い少年と目があった。

「……」


『おねぇちゃんっ!! 今日もその魔法を使って一緒に遊ぼうよっ!!』


 桜色のショートヘアーの髪に、人懐っこくて優しげな瞳。いつも笑顔を絶やさない子でみんなの人気者だった。今でも忘れられない懐かしく愛おしいあの子の笑顔に胸が締め付けれる。もう戻れない日々、二度と会えない彼を想って溢れそうになる感情を隠すように、優春はそのロケットを咄嗟にポケットに仕舞い込むと、目の前で唖然とする一ノ瀬に向き直った。

「お前、今の写真に写っていたガキは……」

「……」

 おそらくもう隠せない。そう判断した優春は大きく深呼吸をすると、彼から目線をそらして縁側から見える月を眺めながらぽつりと呟いた。

「写真の子は、私の双子の弟、二宮春樹です。数十年前、まだ私が五歳だった頃に死にました」

「……」

 教えたくなかった……。

 そう思っても、もう遅い。

 ポケットに入れたロケットを上から撫でながら目を細める。

「私には、一卵性の双子の弟がいたんです。とても仲が良くて、いつも一緒でした。このロケットは幼い頃に両親に頂いた物で、その中に彼の写真をいつもしまっているのです」

 ゆっくりと目を瞑ると、弟の元気だった姿が今も瞼に蘇ってくる。それに一ノ瀬が口を開いた。

「なぜ死んだ。まさか、お前のその力のせいか?」

「……」

 自分がなぜ、化け物と忌み嫌われたのか、何を恐れているのか、今ここで彼に話せば楽になる気がした。でも、そうすれば彼も自分を恐れて忌み嫌うのは明白だろう。だから、話すことはできなかった……。

「私は償わなければならないのです。この力で不幸になってしまった人々の為に」

「不幸になった人々だと? 一体どういう……」

 訝しげに眉を寄せ、こちらに寄ってくる一ノ瀬から溢れる涙を隠すように踵を返すと、優春はそのまま廊下へ続く扉に手をかけた。

「すみません、もうこれ以上は話したくありません……何かお飲み物でもお出しましょうか。今持ってきますね……!!」

「おいっ!!」

 そう言い残すと、呼び止める一ノ瀬を置いて慌てて居間を飛び出した。

「っ……」

 これ以上あそこにはいたくなかった……。そう思う自分に嫌気がさしながら溢れる涙を必死に堪えて歯を食い縛る。それに、本当は分かっている。自分が他の人に力のことを隠しているのは、彼らが傷ついてしまうのを恐れているのではない、昔のように父や母、大勢の人々にまた嫌われてしまうのがただ怖いだけだということに。

 その時、

『化け物ッ!!』

『汚らわしい魔女めッ!!』

『死んでしまえッ!!』

『殺してやる……殺してやるぞッ!!』

 脳裏にフラッシュバックするあの時の光景に、優春は頭を抱えて薄暗い廊下で蹲った。息が荒くなり、体中が痙攣を始める。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!!」

 いくら頭を叩いて謝罪を言っても頭の声は消えてくれない。これは罰なのだ。幼い頃、町中の人々や両親、そして最愛の弟を痛めつけて苦しめた自分への罰なのだ。

 消えない罪と脳内に響く罵声に耐えるように優春はその場でしばらく、静かに涙を流して泣いた。



「最悪だ私……彼に八つ当たりのようなことを……」

 やっと脳内に響いていた罵声が治ると、優春は台所に向かい、薄暗い室内で冷蔵庫を開けて麦茶の入ったボトルを取り出しながら深いため息を吐いた。飲み物を持って来ると咄嗟に言い訳をして出てきてしまったので、麦茶ぐらいはお出ししなければならないだろう。それに、さっき逃げるように居間を飛び出してきてしまったので、それも謝らないと。

 そんなことを考えながら、棚からコップを取り出して麦茶を注ぐ。

 彼は何も知らないし、悪くないのに責めるような言い方をしてしまうだなんて、自分の身勝手な性格が恨めしかった。それに彼が言っていた〝自罰的〟という言葉、確かに今の自分は端から見てまさしくそのように見えるのだろう。でも、それでも自分が幸せになることなど出来なかった。

 その時、

「ふふっ。そうね、あなたは最悪な子だわ」

「っ!?」

 突如室内に幼い少女の声が響き渡った。咄嗟に声のした方へ振り返ると、宵闇に紛れて流し台の上に腰掛けた一人の小さな少女が視界に入った。

「誰っ!?」

 それに思わず声を上げて身構える。いつからそこにいたのか……。全く気配を感じなかった。歳は、先ほど出会った死霊の子供よりも、もう少し大きい五、六歳と言った感じだ。青白い顔に紅をさし、美しい黒に彼岸花の模様をあしらった着物を身に纏った艶やかな黒髪のおかっぱ頭をした少女だった。まるで日本人形を思わせるその美しい容姿に息を呑む。同時に、夕暮れ時に見たあの死霊たちとは違う、禍々しい不吉な気配を感じて背筋に怖気が走る感覚がした。直感でわかる、彼女がこの世の者ではないということに……。そう思ったその時、その少女は闇の中で不気味な眼光を放ちながら血に染まったような真っ赤な唇を上げて微笑した。

「初めまして、二宮優春。主様のご命令であなたを迎えに来たわ」

「……?」

 闇の中、彼女の幼い声音が不気味にこだまする。

 迎えにきた? その言葉に僅かに目を細めた。主様とは誰だ……まるで心当たりがない。

「あなた、何者ですか……」

 心拍数が急激に上昇し額から冷や汗が下垂れる。それに少女は不敵な笑みを浮かべながら髪を搔き上げて頸を見せてきた。その首筋に何か淡く光る眼のマークのような印が刻まれている。それをこちらに向けながら彼女は不敵に呟いた。

「私は虐姫。主様の懐刀、〝霊刀〟の一振り……」

「霊刀っ?」

 それに思わず目を細める。

 霊刀って、一ノ瀬が腰に差していた物の怪を斬る刀のことか……?

 それに思わず後ずさった。この少女、一体何者なのか……。どうも嫌な予感が拭えない。この少女からは先程から不吉な気配を感じるのだ。

 世の中にはもちろん、いい物の怪だけではない。邪悪な物の怪も存在する。実際にそんな危険な者たちには昨日の天狗意外出会ったことなどなかったが、この少女は危険だと直感的に悟った。恐らく、昨日の天狗など比べ物にならないほどに危険な香りがする。彼女の吸い込まれそうな程澄んだ黒い眼球には深く強い憎悪を感じた。

 急いで一ノ瀬が待つ居間へ戻って知らせなければ……。そう思って台所の入り口に視線を向けると、それを見た彼女はふわりと舞い上がり、その台所の入口に降り立って退路を塞いだ。

「っ……」

「逃げないで? まだ私とお話しをしている途中でしょう?」

 退路をふさがれ、息を呑む。それに少女はそう微笑むと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

「ずっと探していたのよ? あなたのことを。せっかく首筋に呪詛を施してあげたのに、全然見つからないんだもの」

「っ!?」

 呪詛っ!?

 その言葉に目を見開く。咄嗟に首筋に手を当て天狗の歯跡に触れた。確かこれは天狗に位置を教えるマーキングだと西園寺たちが言っていたはずだ。それに少女は着物の裾をなびかせながら言葉を続ける。

「そう、それよ。あなたの首筋に刻まれた呪詛。それでどこにいるか分かるはずだったんだけど、あまり役に立たなかったわ……すっかり興醒め。主様に新しいの作ってもらわないと」 

「この首筋の……まさかあなた、天狗の……!!」

「ふふっ。あの主様からお借りした天狗たちを使ってやっと見つけたのよ? 今度は逃がさないわ……」

「ッ!!」

 やはり間違えない。彼女は人食い天狗の仲間だ。そう思った優春は咄嗟に居間にいるはずの一ノ瀬に向けて助けを呼ぼうと声を上げようとしたその時、少女は人差し指をこちらに向けると、微笑を浮かべて小さく何かを呟いた。

「霊術、〝呪縛〟……」

 刹那、身体が硬直して動かなくなる。

「うっ……!!」

 何ッ!?

 指先すら動かず、声も掠れた声しか出ない……。それに少女は不敵に微笑んで指を下へ向けた。その瞬間、勝手に身体が動いて床に膝をつかされた。それに少女は近づくと、自分の両頬を優しく撫でてくる。その彼女の手が凍えるほど冷たく、体の体温を奪われていく……。

「ダメよ二宮優春。今あの禍日主の小僧を呼ばれては困るの。だから大人しくしていてね?」

 その言葉と同時に少女の背後から無数の天狗たちが姿を現した。数は五、六人程いる。やはり、昨夜一ノ瀬が仕留めた天狗以外にもいたらしい。だが、どうしてこの社務所内に天狗たちがいるのか。先ほど一ノ瀬が結界を張ったから安全だと言っていたのに……。その内心の疑問に少女は前屈みになると、耳元に小さく囁いてきた。

「あぁ……。あの、ヒヨッコの禍日主が張った鈍結界のことかしら? あんな紙切れのような結界なんて、私の指一本で簡単に無効果できる」

「なっ!?……」

 ただの紙切れ? この者は一体何者なのか……。

 それに少女は思わぬことを尋ねてきた。

「ねぇ、覚えている? 十数年前、あなたの弟が死んだ日のことを……」

「っ!?」

 その言葉に背筋が凍りついたのを感じた。なぜ、彼女がそのことを知っているのか……。動揺を隠せないでいる自分に少女は構わず言葉を続ける。

「私は全て知っているわ。あなたの過去を……その罪の重さも」

「え……?」

「その力は癒しなんかではない……そうでしょう?」

「っ!?」

 一体どういうことだ。なぜ、この少女が自分の過去のことを……。彼女の言い放ったセリフに頭が真っ白になるのを感じた。身体が震え、瞳から涙があふれる。

「その力で大勢の人々を痛めつけて苦しめて……自分だけ幸せになるだなんて……そんなこと、許されると思う?」

「いや……やめて……」

「あなたの弟……名は二宮春樹だったわね。どうやって死んだのか覚えているんでしょう?」

「ッ!!」

「その力を持つあなたは化け物なの。生きてはいけない存在なの」

「お願い、もう……」

 それに少女は背後に控える天狗たちを振り返った。

「この女を連れて行きなさい。でも、傷つけてはダメよ? 傷つけたら主様にお叱りを受けるのは私なのだから」

 そう天狗たちに命令した少女はこちらに視線を戻すと、不敵な笑みを浮かべながら頭を撫でてくる。その撫でる手がなぜか不気味なほど優しくて、優春は背筋に怖気が走った。

「怖がらなくていいわ。これからあなたは私たちの生贄になってもらう。その方があなたも嬉しいでしょう? だってあなたはずっと死にたがっていたんだから」

「ッ!!」

 〝死〟その言葉に目を見開き、必死に抵抗しようとするが、体がしびれて動けない……。声もろくに出ずに床に這いつくばって涙を流すしかない自分に彼女は優しく囁いた。

「さぁ、参りましょうか、物の怪どもに慕われた哀れな姫君よ。私があなたをその苦しみの連鎖から解放してあげる」

 そして人差し指を立てると、少女は優春の額にその指を静かに押し付けた。

「ゆっくり眠りなさい。霊術、〝呪眠〟」

 刹那、突如襲った眠気に抗えずに優春はその場で気を失った。


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