第2話
目が覚めると、自分は薄暗い見知らぬ和室で寝かされていた。
「っ……」
いったい、ここはどこ……。
微かな頭痛に頭を押さえながらゆっくりと体を起こす。
天狗に襲われて、見知らぬ青年に助けられて……そこから記憶がない。
自分が寝かされていた布団の横には小さな行灯が灯り、時計が置かれていた。その時計が時刻、午後の九時を指しているのを知り、随分気を失ってた事を悟る。
近くに水の入った桶と、おしぼりが置かれているところを見るに、どうやら、誰かが気を失った自分をここに運んで介護をしてくれていたらしい。
しかし、ざっと室内を見渡すが、近くに人の姿はなかった。
「……」
その時、ふと微かに開いた障子の間から見知らぬ縁側と風情のある日本庭園が見えるのに気がついた。
闇の中で、天まで伸びる程の立派な大木の枝垂れ桜が満開に咲き誇り、夜風に靡いて桜の花びらを散らし、その周りには鮮やかなアジサイや、色とりどりの椿やハイビスカスが咲き乱れ、その地面を飾るように彼岸花の花々達が咲き誇ったいた。
なんて立派な庭園なのだろう……。
まるでおとぎ話に出来きそうな幻想的な庭園に思わず目を細める。
やはり、どう見てもここは知らない場所のようだ。こんな見事な花々が織り成す美しい庭園、見た事もない……。
「誰か……誰かいませんか?」
恐る恐る声を上げてみるが、返事はない。
とにかく、現在の状況を確認しようと腰を上げたその時、微かにお茶っぱの香りを漂わせながら、一人の人物が盆を方手に静かに障子を開けて和室に入ってきた。
「おや?よかった。どうやら気がついたようだね、お嬢さん」
「っ!?」
爽やかで優しい声音。
部屋に入ってきたのは、気を失う直前に見た狩衣姿で白銀の髪を結った美青年、生徒会副会長の西園寺だった。
その彼がこちらに腰を下ろすと、盆の上から湯呑みを差し出しながら
心配そうに顔を覗き込んでくる。
「具合はどうだい? 君は貧血で倒れたんだよ。目が覚めて何よりだね」
差し出された湯呑みに入っていたのは、暖かい緑茶だった。
「これを飲んで、少し体を休めるといいよ」
「ありがとう……ございます」
この彼が自分を看病してくれたのだろうか……。
そんな疑問を感じながらそれを受け取って、安堵する彼に視線を向ける。
「あの、あなた……もしかして、京晏高校で副生徒会長をしている西園寺翠蘭さん、ですか……?」
率直な疑問を問いかけると、彼は驚いたように目を見開き、穏やかな笑みを返してきた。
「おや?僕の事をご存知なのかい?嬉しいな。こんな可憐で可愛らしいお嬢さんに覚えていただけていたなんて光栄だよ」」
やはり、この美青年、うちの学校で副生徒会長をしている西園寺翠蘭だったらしい。だが、だとすると……そんな彼がなぜここにいるのか、気を失う直前に境内の中になぜいたのか……疑問は湧き上がる一方だった。
それに彼は笑みを浮かべたまま畳に袴を擦らせこちらに体を寄せてくる。
「僕も君のことは知っているよ?
同じ京晏高校に通う二年の二宮優春さん、だよね」
「ッ!?」
思わぬ返しに今度はこちらが目を見開く番だった。
なぜ、自分のことを知っているのか。
生徒会の者で学校の有名人である西園寺を知っているのは分かるが、
どこにも属していない一般の生徒である自分をなぜ西園寺が知っているのか。
どこかで面識があったのだろうかと頭をひねるが、こんな美しい美青年、面識があったら忘れるわけがないだろう。
そんなことを真剣に考えていると、その様子を眺めていた西園寺が可笑しそうに笑った。
「僕は副生徒会長だよ?いずれは学校の生徒会長になる者だからね、
学校に通う生徒の名前と顔ぐらいは全員覚えているんだよ。それに……」
得意げに鼻を鳴らした彼は途端に低い声を発すると、突然ずいっと綺麗で美しい顔をこちらに寄せながら耳元で囁いてきた。
「僕と同じ、隠り世の者共を見る事ができる人間を、
僕が個人的に忘れる筈がない」
「え……?」
今、なんと……。
思わぬ発言に慌てて彼から離れて距離をとる。
隠り世の者を見る事が、できる……? 今、そう言ったの?
「あなたも、隠り世……妖や霊の類を見ることができるんですか?」
咄嗟にそう問いかけると、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「あぁ。僕は特殊な家系の生まれでね。
物心ついた時から隠り世を見る事ができるんだ」
「うそ……」
完全に予想外だった。
自分と祖母以外、隠り世の者達を見る事ができる人間がいるなんて……。
そんな人間、今まで生きてきてまだ一度も出会った事などなかった。
だが、ただ見えるだけではない気がするのは気のせいだろうか。
彼にはもっと別の何かがあるような気がする……そう思ったその時、
では、本題へ入ろうかなと彼は呟くと新聞を一枚、こちらに差し出してきた。それを見て思わず息を呑む。
「これは……」
そこに書かれていたのは優篤が教えてくれたあの神職を中心に襲っている殺人事件の記事だった。
「君も知っているだろう?その事件について君と話をしたくてね」
「話?」
彼の言葉に目を細める。それに彼が話を続けた。
「君も襲われたんだろう?この事件の犯人、人食い天狗に」
「っ!!」
天狗。その言葉に先ほどの光景がフラッシュバックする。
天狗に襲われ変わり果てた姿になった祖母や、妖達、首をはねられた河童……。
思い出しただけで吐き気が込み上げ、優春は口を押さえてその場でうずくまった。
「可哀想に……怖い思いをしたね。でも、もう大丈夫だよ。
ここは結界に守られた特殊な場所でね。奴らは入ってこれない。だから安心して」
それに西園寺が背中をさすってくれながら耳元で優しく囁き掛けてくる。
そんな優しい彼に優春は咄嗟に顔を向けた。
「あなた、何か知っているんですか!? 祖母はッ?他のみんなはどうなったんですか!? 彼らも天狗に!!」
ここに寝かされていたのは自分だけだった。
祖母や他の妖達の姿はない。もしかしたらと嫌な予感が脳裏をよぎり、必死に西園寺の着物の襟元に縋り付く。
それに彼はその手を優しく包み込むと、穏やかな笑みを返してくれた。
「大丈夫。君のお祖母様はご無事だよ。今、京都の病院で治療を受けている筈だ」
「無事、なんですか!?」
その言葉に一気に力が抜けて彼から手を離す。
「あぁ。重症だけど、なんとか一命を取り留めてね。今は脈拍も安定しているらしい。まだ目は覚めてないけど、近いうちに面会もできる筈だよ」
「よかったっ……!!」
それに安堵して自然と笑みがこぼれる。
無事でよかった……祖母まで失ってしまったら自分はどうしようかと思った。しかし、他の妖のみんなの事を彼は話そうとしない。
「あの、他のみんなは……?」
「……」
恐る恐る聞いてみるが、その問いに彼は眉を潜めて目をそらした。
「残念ながら……そっちは僕が駆けつけた時にはもう……」
「え……? 嘘……」
「……」
問いかけるが、彼は首を振るばかりでそれ以上話そうとしない。
「そんな……」
河童の最後の姿、そして傷つき倒れた他の妖達の姿が記憶に蘇る。
自分を慕い、いつも優しかった妖達……。
『姫……さま……』
『たすけ……て……』
あんなに苦しんで助けを求めていたというのに、
自分は何もしてあげられなかった……。
「みんな……みんなごめんね……」
歯を喰いしばり、彼らを守れなかった無能な自分が悔しくて恨めしくて項垂れてその場に顔を覆って崩れるように膝をつく。
「ごめん……ごめんなさいっ!!」
他者を癒す力を持っているのに、大切な人々を守ることができないなんて、この力に何の意味があるというのか……。みんな、あんなに良い子達だったのに。何も悪いことをしていなかったのに、自分が弱くて何も出来なかったばかりにみんな死んでしまった。
「……」
それに西園寺は優しく頭を撫でてくる。
「君は何も悪くはないよ。大丈夫、自分を責めないでおくれ」
「西園寺さん……でもっ!!」
「犠牲になった君のお友達はきっと君の事を恨んだりしていないよ。彼らは恐らく君を守るために散っていったんだ。じゃないと妖である彼らが同じ妖である天狗に殺されるわけがない」
「え……」
「自分の命を優先としたならば、そこに止まらずに一目散に逃げた筈だ。なのに残って天狗に無残に殺られたところを見るに、そこに何らかの守りたい者があったとしか考えられない。違うかい?」
そう言われ、先程の河童の姿が脳裏をよぎった。
『お逃げください姫さまッ!! 私は、貴女様まで失いたくはないッ!!』
河童は自分を守る為に自ら天狗に立ち向かっていった。そうしなければ、自分はあの刃に斬られていたかもしれない。きっと他のみんなも……。
彼らのおかげで自分はあの場から逃げ出すことができたのだ。
「自分のせいだと咎める事は君を守って亡くなった者達に対して失礼だよ。君は、自分を責めるよりも守ってくれた彼らに感謝をしなくてはならない。それが彼らの魂を弔う唯一の方法だ」
「……」
そう言われ、自然と涙がこぼれ落ちた。確かに彼の言う通りだ……。自分を責めるなど、守ってくれた者達の思いを否定するところだった。何故、それに気がつかなかったのか……。心の中で彼らに謝罪をする。
「みんな……」
「辛い想いをさせてすまなかったね。僕ももう少し早く駆けつけていればもっと被害はでなかったというのに……やるせない気持ちでいっぱいだよ」
縁側の向こうに広がる月明かりを浴びて美しく咲き誇っているしだれ桜を眺めながら、静かにそう口を開く彼に思わず顔を上げた。
「やっぱり……西園寺さん、あなた何か知っているんですね。あの天狗の事や事件の事を」
「……」
なにも答えずにただ黙って庭園を眺める彼に問い詰める。
「教えてください。私、このまま何も知らないのは嫌です。犠牲になった妖達や重傷を負った祖母の為にも」
先程から彼の発言は何かを知っているように感じる。祖母や妖達の事、自分と同じ隠り世の者達が見る事ができる者という事だけではない何かが彼にはあるような気がして、優春は庭を眺めながら遠い目をする彼を必死に見つめた。
それに彼は観念したかのように目を閉じると、静かに口を開く。
「あぁ、そうだね……」
視線をこちらに向けた彼の青く澄んだ瞳は、先程の穏やかな雰囲気とは一変し、真剣さを帯びていた。それに息を呑みながら彼の言葉を待つと、西園寺は飲みかけの自分の湯呑みに入った緑茶を口に含みながら静かに話し始めた。
「君も知っての通り、この事件の犯人は人間じゃない。隠り世に棲まう妖、天狗だ。彼らは人の生き血を求めている。君の首筋に刻まれたその歯型……」
そう言うと、西園寺は優春の首筋を指差した。
「っ!?」
「それは血を吸われたわけではない。気を失わせる毒を注入されただけさ」
「毒、ですか?」
そういえば、
「それで気を失った人を攫い、根城へ持っていって、ゆっくりその生き血を吸い尽くすんだよ。それがか奴らのやり方だ」
「生き血、ですか? 何故、そんな事をするのですか?それに、狙われているのが神職の方々ばかりというのがよく分かりません」
「神職に努める者達とは、神道、神社において神に奉仕し祭儀や社務を行う者達の事を示す。そんな彼らには生まれつき強い霊力が備わっているんだ。生き血をなぜ求めるのか正確には分からないけど、恐らくその霊力が狙いだろうね」
「霊力?」
聞かない単語に首をかしげる。
それに彼はどう説明しようかなと苦笑した。
「この世には神様が作り出した見えない力、科学では証明できない未知の力が存在する。それが霊力だ。その力は空気に、水に、植物に、生物に……この世の全てに宿っている。もちろん、僕の体内にも君の体内にも等しく宿っている」
「え? 私の中にも宿っているんですか?」
ツンツンと胸のあたりを突く西園寺に思わず声を上げる。
「まぁ、一般の生物の中に宿る霊力は微弱な力だから普通の人間には霊力の存在自体認識できないんだけどね。神に近ければ近い程、その力の量は増していき、霊力を感じる事ができるんだ」
初耳の話だった。そんな力が存在し、自分の中にも宿っているなど全く知らなかった。
そんな驚きを隠せないでいる自分に西園寺は面白そうに目をほそめた。
「君も感じようと思えば感じる事ができるはずだよ? 既に隠り世という異界を見る事ができるという事は、通常の人間よりも神に近しく、霊力が一般の人間より多いという事になるからね」
「そ、そうなのですか……?」
彼に言われて必死に周りを見渡すが、どんなに目を凝らしても霊力らしき物は目に見えないし、感じない……これは一体どういう事だろうと唸ると、それを見ていた西園寺は声を上げて笑った。
「ははっ。君は面白いなぁ。霊力を見るのは訓練が必要だから、急には無理かな。でも、訓練や経験を積み重ねれば君程の霊力を持つ強い人間ならば見る事が可能なはずだよ」
「そうですか?」
「あぁ。僕も幼い頃から経験や訓練を重ねてして今は普通に見えるようになったしね」
そう彼に言われて霊力というものが一体どんな物なのか少し気になった。今度彼にその訓練方法を聞いてみるのも良いかもしれない……。しかし、霊力という存在は理解したが、肝心の天狗がそれを狙う意図がわからない。
「では、何故その力を天狗の方は相手から奪おうとしたのですか?」
何気なくそう問いかけると、彼は少し口を噤み眉間にしわを寄せながら視線を逸らした。
「強い霊力を持つ者は、霊術と呼ばれる異能力を使えるんだ……」
「霊術?それは一体なんですか?」
また新たな言葉が出てきて目を細める。
異能力は聞いた事がある。映画や小説によく出てくる架空の超能力のような力の事だろう。それが霊力が強ければ使えるという事は一体どういう事なのか。あの類は架空の話ばかりと思っていたが……。
思わず訝しげな顔になる自分に西園寺はまぁ、信じられないよねと笑うと、持っていた湯呑みをこちらに差し出してきた。
「じゃあ実際に見せてあげようかな。この湯呑みに入っている緑茶を使ってね」
「え……?」
その瞬間、中に入っていた緑茶がフワッと空中に浮き上がり、黄緑色の液体が自在に形を変形させながら小さな龍の姿に変化した。
「なっ……」
目の前で起こったまるで魔法のような信じられない光景に思わず言葉を失う。
夢!?幻覚!?そう思い慌てて頬を抓るが、鋭い痛みが走るだけで、これが紛れもない現実なのだと思い知る。
「嘘でしょ……」
まるで最新の3DマッピングやVRを見ているような現象だ。恐る恐る目の前を飛ぶ龍に触ってみようと指を差し出すと、その龍は指に懐くように顔を擦らせてきた。刹那、ひんやりと冷たい液体の感触が伝わって思わず飛び退ける。これ、普通に本物の液体だ。触れた指を一瞥すると微かに水滴が付着していた。その光景を眺めていた西園寺は愉快そうに微笑む。
「これが霊術だよ。君達の世界で言うところの異能力という代物かな。
僕は基本、水系統の霊術を扱える。今のように周りの液体を操ったり、空気中の水素を自在にコントロールする事を得意としているんだ。自分の霊力が強ければ今のように霊術を扱う事ができる。まぁ、霊力を見る事ができないとまず難しいけどね」
そういう彼は、緑茶から作った小さな龍に何か指示を出すと、その龍は湯呑みの中に戻り、何事も無かったかのようにただの緑茶へと戻った。
その光景に思わず目を輝かせながら拍手をする。
「す、すごいっ!! これが霊術……初めて見ましたっ!!」
まさか自分や祖母の他に隠り世を見る事ができ、こんな人知を超えた力を扱える人間がいるとは思いもしなかった。
まるで魔法みたいですね、と興奮しながら笑いかけると、彼は複雑そうに苦笑した。
「そんなに驚く事かい? 君も見たところ相当霊力が強いと見受けられる。隠り世を見る事ができるとなれば、君も何か霊術が使える筈だよ?心当たりがあるんじゃないかな」
「っ……!!」
そう言われ、思わず自分の両手を見つめた。確かに自分にも人知を超えた力がある。あの他者を癒す力……あれも、もしかしたら霊術と呼ばれる類なのだろうか……。それに西園寺は言葉を続けた。
「この力を天狗達は欲しがっているのさ。人間に限らず、すべての生物の血液の中には霊力が流れているんだよ。天狗達はその血液の中に流れている霊力を強い力を持つ者達から奪おうとしているのだろうね」
「そんな……でも、どうして人間なんですか。他に強い霊力を持つ者だって自然界には溢れているのでしょう?それなのに、強い霊力を持つ人間を好んで襲うのはおかしいです……」
というより、人間よりも妖や霊の方が強い霊力を持っているイメージが自分の中にはある。神の使いである霊獣や精霊などいかにも人より強い力を持っていそうなものだ。しかし、天狗は霊力の高い人間しか襲わない……。
その疑問に思わずそう詰め寄ると彼も目を細めながら呟いた。
「あぁ。確かに……。奪う事を目的とするならば人間以外にも強い霊力を持つ妖や霊だっている筈。なのに彼らは人間に何故か拘っているんだ」
「どうして……」
「それは僕にもわからない……でも何か、人間に拘る理由があるのかもしれないね……」
「霊力は霊魂のような物なんだ。魂も触れないし、直接手に入れたりは出来ないだろう?」
「なるほど……」
確かに魂はこの世に存在するものだが、好きに手に入れたり出来ない。
霊力もそういった類のようだ。
「霊力は生命エネルギーのような存在……対象者が死ねば、その者の霊力は自然に溶けてまた違う者の霊力となる」
つまり、自分の中に宿っている霊力も西園寺の霊力も、この森羅万象に溢れているという霊力は全て、自然に宿り、いつかは消えていくモノのようだ。
本当に魂のような存在である。それに西園寺は言葉を付け足した。
「だが、霊力は奪う以外で、己の努力や影響次第で力を強める事は可能だよ」
「えっ?」
強める?
その言葉に首を傾げると、彼はそれが魂とは違った点だねと笑った。
「全く微弱な霊力しか持たなかった普通の人間が、霊体験をしてから力が強まり、隠り世を見ることが出来るようになったり、僧侶などが過酷な修行をして己の霊力を高めたり。そういう何かのきっかけや厳しい修行を得て強める人はいるんだ。だから……本当は霊力を高めたいのなら、奪おうとせず努力すればいい話なんだけど」
西園寺はそう言うと、残念そうに湯呑みのお茶を眺めながら苦笑した。
「なら、天狗の方はその事実を知らないで……」
「だろうね。一体、血を吸ったら相手の霊力を奪えるなんて、どこからそんな情報を得たのか……皮肉な話だよ」
そう言い放つと、彼は静かに立ち上がり、身に纏っていた青く美しい狩衣をはためかせながら、障子に手をかけて縁側に出た。
そんな夜風に白銀の髪をなびかせて気持ち良さそうに目を細める西園寺に静かに視線を向ける。
「それにしても、ずいぶんお詳しいのですね。霊力や天狗の話に」
「……」
それに彼は目の前に広がる庭園を眺めながら沈黙すると、一呼吸おいてこちらを振り返る。
「僕は、その天狗の事件を追っている者の一人なんだ」
「追っている?」
それは一体どういうことなのか……
その言葉に目を細めると、彼は言葉を続けた。
「それが僕の仕事なんだよ。悪さをしている妖や霊を退治する事が僕に課せられた使命。だから僕は今回、この事件を引き起こしている天狗を、一般の人間達に悟られぬように退治するために、君の前に姿を現したわけだよ」
「それが仕事って……」
そう言って微笑む彼に思わず息を呑んだ。
この彼は一体何者なのか……。
霊力や霊術の事、天狗が起こしている事件のことを色々知りすぎている気がする。それに退治って……。
「あなたは一体……」
何者なんですか? そう問いかけようとした時、
「おい、翠蘭。ここにいるか?」
突然、低く威圧感のある若い男性の声が縁側の方から聞こえてきた。
「?」
誰だろう……。
それに思わず声のした方へ視線を向けると、縁側からこちらを覗く一人の袴姿の青年が視界に入った。刹那、
「っ!!」
その姿を見て咄嗟に体が硬直する。
なんとその人物は、意識を失う前に出会った、襲ってきた天狗を一撃で仕留め、こちらに刃を首筋に押し付けてきたあの朱色の瞳を持つ怖い青年だったのだ。
なぜあの彼がここにいるのか……。
その彼の姿を見て、刃を押し付けられた時の恐怖が蘇り、また再び刃を向けられるのではと咄嗟に思った優春は、必死に座った姿勢のまま彼から距離を取ろうと後ずさった。だが、それとは裏腹に西園寺はとても親しげに彼に笑みを浮かべながら歩み寄りよる。
「やぁ颯斗、何用だい? 珍しいね、君から僕を訪ねて来るなんて 」
「お前に長様からの文を届けに来た」
知り合い、なのだろうか……。
二人のやりとりはとても親しい雰囲気を醸している。
警戒しながらそんな二人を伺っていると、西園寺がこちらを振り返ってきた。
「あぁ、二宮さん、紹介がまだだったね。彼は僕の従兄弟で幼馴染の一ノ瀬颯斗。今は僕と一緒の任務を担当している仕事仲間だ。敵じゃないから安心して」
「一ノ瀬?」
朱色の瞳の青年はどうやら一ノ瀬颯斗という名らしい。
仲間と言っていたが、ということはこの一ノ瀬と呼ばれた朱色の瞳の青年も、西園寺と同じく天狗を追っている者の一人なのだろうか。
しかし、敵じゃないから安心してと言われても、刃を首筋にあてられておいて、安心してと言われても少し無理がある……。
西園寺とは全く違う、少し怖い雰囲気を感じる彼にどうも警戒を緩める事ができずにいると、そんな内心の気持ちを察したのか、西園寺は申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「二宮さん、先程は怖い思いをさせてすまなかったね。ウチの颯斗に刃を向けられたんだろう?」
「え……」
どうやら、刃を向けられたことは西園寺も知っていたようだ。
それに彼は嘆息を漏らしながら颯斗に視線を向ける。
「全くっ……。すまないね二宮さん。颯斗は昔から誰にでも攻撃的でね。すぐに人に牙を向けてしまうんだ……。ほら、颯斗も彼女に早く詫びを入れて……」
そのまま西園寺は隣の一ノ瀬にも詫びを入れるよう促す。しかし、そんな西園寺の手を一ノ瀬は怪訝な顔で乱暴に振り払った。
「詫びるつもりなどない。人間のくせに、妖の者たちと親しくしていたこの女が悪い。むしろ、首を撥ねられなかっただけでも有り難いと思うんだな」
低く、威圧感のある声音。
彼はそう言い放つと、相手を刺すかのような鋭い眼光をこちらに向けてきた。その敵意むき出しの爛々とした瞳に思わず体が竦む。
「こ、こら颯斗っ」
「……」
彼はそれ以上何も言わず、懐から一枚の文を取り出して、それを彼の胸元に押し付けると、早々に和室を去って行ってしまった。
それを呆然と眺めていると、西園寺が受け取った文を開きながらこちらに視線を向けて苦笑する。
「ごめんね二宮さん。悪い奴じゃないんだけど……。今日はどうも機嫌が悪いみたい。後で僕からキツく言っておくから、どうかうちの颯斗を許してやってほしい」
「え、えぇ……」
そう呟いて優春は一ノ瀬が消えた縁側に視線を戻した。
やはり、彼の眼差しは意識を失う前に見た時と同じ、鋭い敵意を感じた……。
なぜそこまで敵意をむき出しにされるのか分からない。それに、人間のくせに妖の者たちと親しくしていたこの女が悪いって、一体どういうことなのか……。そういえば、刀を向けられた時にも似たような事を言われた気がする。同じ隠り世の者たちを見ることができる者同士なのに、分かち合えないのが残念だった。
そんな内心の気持ちを感じ取ったのか、それに西園寺は静かに口を開いた。
「さっきの話の続きだけど、僕たちは、幼い頃から人に悪さをする妖や霊を退治する仕事をしてきたんだ。それで仕事上、妖や霊など隠り世の者たちは全て、狩るべき対象だと教え込まれてきた。だから、君があの神社で隠り世の者達と親しくしていたのが颯斗は気に食わなかったんだと思う」
隠り世の者たち全てが狩るべき対象?
それってどういう事なのか……。
「狩るべき対象って……みんなが、悪い妖や霊ってわけじゃないと思います。 確かに中には今回のように悪さをする妖などはいますけど……大半はみんないい子達です。少なくとも、私は隠り世のみんなが好きでした」
思わず彼に詰め寄ってそう訴えかける。
隠り世の者たちは皆、すごく優しくて穏やかな者たちが多い。世間ではよく娯楽番組で怖い話特集を放映したり、娯楽施設でお化け屋敷など公開したりして、隠り世の者たちは怖くて恐ろしい存在なのだと人々に教え込んでいるが、実際は違う……。中には確かに怖い者もいるが、それはごく少数に過ぎないのだ。そこを人間のみんなは勘違いしている。
「人間だって、良い人や悪い人がいますよね。それと同じだと思うんです」
しかし、西園寺はその言葉に目を細めると、目線を逸らしながら口を開いた。
「同じ隠り世の者たちを見る事が出来る者同士だとしても、その隠り世の存在をどう思っているかは、人それぞれだという事を二宮さんは覚えておいたほうがいい。少なくともウチの颯斗は、隠り世の者たちをあまりよく思っていないんだ……」
「……」
その言葉に優春は彼から一歩離れて俯いた。
同じ隠り世の者たちを見ることができる者同士なのに、隠り世の者たちの価値観がそれぞれ違うのは少し残念だった。せっかく同じ境遇の人間に出会えたと思ったのだが、どうやら根本的に違うらしい。妖や霊は人に害をなす狩るべき対象の存在だなんて。なんだか胸が締め付けられてしまう。
そんな事を考えていると、それを見ていた西園寺が徐に明るい声で話を切り替えてきた。
「まぁ、その話はとりあえず置いといておこうかな」
「?」
西園寺はそう言うと、さっき一ノ瀬が渡してきた文をチラつかせながらこちらに手を差しのばしてきた。
「二宮さん、君には今すぐ会ってもらいたい人がいるんだ」
「会ってもらいたい人?」
「あぁ。長様からの招集の文が届いたんだよ。だからこれから、君を我が一族の長様の元へお連れしなくてはならない」
「長、様?」
一体誰だろうか……
その疑問を察したかのように彼が言葉を続ける。
「僕や颯斗の一族を束ねている人物だよ。何、怖い人じゃない。」
「西園寺さんや一ノ瀬さんの一族を束ねている人って……」
その言葉に思わず立ち上がる。
つまりその人物は、一ノ瀬や西園寺に隠り世の者達は全て、狩るべき対象だと教え込んだ人ということか。そう思った優春に、西園寺が微笑して見せた。
「知りたいんだろう?天狗の事件だけではなく、この僕たちの事も。付いて来れば君が知りたい事が分かると思うよ?」
「待ってくださいっ!!」
それに縁側に出て行こうとする西園寺の袖を咄嗟に掴む。
「こ、これだけは……。今教えてくださいませんか?」
「ん?」
先程からずっと疑問に思っていたこと……。
これだけは、今どうしても聞いておきたかった。
「貴方は……いえ、貴方達は一体何者なんですか?」
「……」
やっと口にできた疑問に西園寺は縁側の庭園を眺めながらしばらく沈黙した。縁側から何故か鈴虫の音色が聞こえ、和室の行灯の炎が奇しくゆらめく。そんな静寂中、月明かりを背に青く美しい瞳の眼光を放ちながら、彼は静かに口を開いた。
「僕達は《禍日主》。隠り世と現世の秩序を守る、異能力者さ」
異能力者。その存在は祖母から幼い頃に聞いたことがあった。
何でも今より数百年ほど前、この日本全国には霊や妖を見る事ができ、不思議な力を操る特殊な人間がいたと。その彼らは人々に異能力者と呼ばれ畏れられていたのだと教えてもらった事がある。有名なのが、陰陽師や霊能者らしい。しかし、異能の力を持つ者達は人々に恐れ忌み嫌われ、歴史の裏では多く迫害を受けてきたのだという。そして生き残った僅かな異能者達も、時代は移り変わり、近代化が進むにつれて徐々に力を失い、歴史から人知れず消えていったのだという。
和室を出て月明かりに照らされた縁側を先に歩く西園寺について歩いていた優春は、そんな事をふと思い出して目の前を歩く彼の背を静かに見つめながら目を細めた。
その祖母の話を受けて、異能力者という特殊な力を持つ人間はもうこの現代には残っていないと思っていたので、彼が自分は異能力者だと名乗った事には少し驚きだった。だがまぁ確かに、あの霊術という液体を自在に操った力を見せられた限りでは、特殊な力を持つ存在なのは本当なのだろう。あんな事、普通の人間には到底できない事だ。隠り世を見る事ができる自分にもまず不可能な力である。見ただけで常人ではないのは理解できた。しかし、《禍日主》という言葉は初めて聞いた言葉だった。それは祖母からも聞いた事がない。恐らく、ただの異能力者ではない気がする……。
そんな思いに耽っていると、庭園の方から小さな淡い光の玉のような物体が目の前をふわふわ飛ぶんで行くのが視界に入り、優春は思わずその光景に我に返った。
「?」
蛍、だろうか……。
小さい光の球は青や黄緑、黄色と色を変化させながら飛んでいく。
その不思議で綺麗な光に見惚れていると、それに目の前を歩いていた西園寺が気づいて足を止め、少し驚いた表情を浮かべながらこちらを振り返えってきた。
「おやおや、すごいね二宮さん。君にはもうあれが見えるのかい?」
「え?」
西園寺は驚きの声を上げると、庭園を自ずと指差してくる。
その指差す方へ視線を向けると、庭園の方に今、目の前を通った光の球と同じ物が、小さい色とりどりの光を発しながら無数に浮遊しているのに気がついた。
「っ!?」
数は軽く数百を超えているように見える。枝垂れ桜を始めとする花々が咲き誇る薄暗い庭園の空中を漂うようにピンクや黄緑、水色に黄色など、色とりどりの淡い光の玉たちが飛び交っていて、とても幻想的な光景が広がっていた。
「えっ? こ、これは一体何ですか? 」
こんな無数の光の玉、さっき和室にいた時には見えなかった筈だが……。
そんな疑問を感じながら近くに飛んできた光の玉に触れてみようと手を翳すが、光はまるで生き物のように自分の手を逃れ逃げていく。
やはり蛍だろうか……。
一瞬そう思った考えを咄嗟に首を振って否定する。
今の季節は春。蛍が飛ぶのは夏の筈だ。それに、昔は多く見られた蛍は近代化によって京都の都市部ではもう見ることはできない筈……。それに、蛍はこんな色とりどりの色を発したりはしない。
そんな驚きを隠せないでいる優春に西園寺が口を挟んだ。
「見ればわかると思うけど、これは蛍じゃない。この光の粒たちは、この森羅万象に生ける隠り世の住民、《精霊》と呼ばれる生き物だよ」
「せ、精霊?」
思わぬ答えに目が瞬く。
妖や霊などは今まで多く見てきたが、精霊などは生まれて初めて見た。
確かによく見れば蛍より随分と大きい。直径十五センチ弱ぐらいだろうか。丸い球体に小さい手が生え、愛らしいクリクリとした瞳が薄っすらとついていた。
「この子たち、今初めてその存在に気付きました。こんなにたくさん、一体どこから出てきているのですか?」
それに彼が微笑しながら言葉を続ける。
「何を言っているんだい? 彼らは最初からこの庭園に多く浮遊していよ?ただ君が今まで見えていなかっただけさ。でも、もうこれが見えるということは、君がここの場所に目が馴染んできた証拠だよ」
「この場所に、目が馴染んできた?」
謎の問いかけに首をかしげると、彼が愉快そうに微笑む。
「さっきも言ったと思うけど、己の持つ霊力は修行や経験を得たり、霊力の濃度が強い環境に身を置くことでその濃度を濃くできるんだ。さすれば、今まで見えなかった者や世界が自ずと視界に入ってくる」
「どういう、ことですか……」
それがここを飛び回っている精霊と何の関係があるのか。今の言い方だと、精霊を見ることができるようになったのは、何らかの修行や経験を得たか、霊力の濃度が強い環境に身を置いて己の霊力が更に濃くなったと言っているみたいだった。その内心の気持ちを読み取ったのか、彼が正解とばかりに静かに頷く。
「君は元々霊力がとても強い。だから修行や経験を積まなくとも、ここにいるだけでこの場所の濃い濃度の霊力に感化されて、今まで見えなかった者達が見えるようになったんだ」
「この場所の霊力は濃い濃度なのですか?」
それにはすぐ答えず、彼は無数の精霊たちに手を差しのばした。それに何故か、あたりを浮遊していた精霊たちが彼の手元にフワフワと集まってくる。
「精霊は霊力の濃度が高い神域と呼ばれる場所に棲まう生命体でね。別名《木霊》と呼ばれている。滅多に見れる生き物じゃないんだ。人間が住まう世界、現世にも神社など神域と呼ばれる場所はいくつかあるけれど、現在では精霊が住まう程の霊力の濃度が高い神域は無くなってしまった。だから、二宮さんが初めて見る隠り世の住民たちだね」
そう言って微笑む彼に思わず視線を向ける。
現世にはいない霊力の濃度の濃い神域?そこに棲まう生き物?それって一体どういう……。
「あ、あの……。ここって一体……どこなんですか?」
月明かりが照らす薄暗い縁側を、色とりどりの精霊達が淡い光を発行させながら飛び回る幻想的な光景の中、目の前の彼に思わずそう問いかける。 そういえば、まだ彼にここがどこなのか聞いていなかった。
しかし、西園寺はそれには答えずに微笑を浮かべたまま更に先を歩き始める。その対応に途端に不安になり、慌てて彼の袖口を掴みながら彼の後ろを置いて行かれないように必死についていく。
精霊は霊力の濃度が濃い場所にしか存在しない生物。そして、そんな霊力の濃度が濃い場所は現世には無いという。という事はつまり、精霊がいるこの場所は現世ではない、ということなのだろうか……。
そう思うと、途端に不安になってきた。そして、徐にふと思い出した。先程見た庭園に植えられている花々たちの事を。枝垂れ桜があるのは今の季節が春なので分かる。しかし、その周りに咲いていたアジサイや、椿、ハイビスカスや彼岸花などは全て違う季節に咲く花々たちだ。一緒に同じ季節に咲く筈が無い……。それに気づいて静かに息を呑む優春に西園寺は優雅な微笑を浮かべて振り返った。
「二宮さん、僕はここが現世だとは一言も言ってないよ?」
「っ!?」
その時、西園寺は縁側の奥にある巨大で豪華な襖の前でふと立ち止まると、その襖を静かに開け放った。刹那、
「なっ……」
目の前に広がる思わぬ光景に目を疑った。
「おぉっ!! 西園寺家の坊主の翠蘭じゃねーか!! お客人はお目覚めかい?」
「あんた、話してないでこっちを手伝っておくれよ。霊術を施せないじゃないか」
「おーいっ!! そっちにわしの使い魔が逃げてこなかったかい?」
豪華絢爛な煌びやかな装飾が施され、和と洋の要素が混じり合った木造建築の中、西園寺と同じ狩衣を着た男性や、平安貴族が着ていたような十二単の着物を身にまとった女性。袴姿の者や着物姿の者など、数百人以上の人々がひしめき合い、炎や風、電気を操ったり、空中を浮遊したりと賑わいを見せていた。その様々な霊術が飛び交い、現実離れした光景に思わず言葉を失う。
「ここは、一体……」
それに目の前の西園寺が自ずと手を差しのばしてきた。
「ほら二宮さん。ここは広いから、ボーとしていると迷子になってしまうよ? ちゃんと僕に付いて来てね」
平然と爽やかな笑顔を浮かべながら賑わう人混みに紛れるようにして颯爽と先を行く西園寺に慌てて付いていく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!こ、ここはどこなんですか!?」
人々の間をすり抜け、必死に西園寺の背に追いつくと、彼は徐に口を開いた。
「ここは、僕たち禍日主たちが暮らす屋敷、《禍日屋》だよ」
「《禍日屋》?」
その聞き覚えのない屋敷の名に眉をひそめた。
不思議な名の屋敷だ。禍日主たちが暮らすということは、ここにいる人々は皆、西園寺と同じく禍日主という異能者たちなのだろうか。この現代にまだこれ程の異能者たちがいたなんて思いもしなかった。
「僕たち禍日主たちは僕の西園寺家、さっき和室に来た颯斗の一ノ瀬家の二つの一族で構成されている組織だ。僕ら両家はここで霊術の研究や仕事の依頼を受けたりしながら一緒に暮らしている。昔に比べてだいぶ少なくなったけれど、現在は両家含めて計、五百人ほどいるかな」
五百っ!?
その数字に思わず開いた口が塞がらなかった。
ここの屋敷の中にそれほどの人数の禍日主がいるというのか……。
改めて周りを見渡してみるが、確かにすごい数である。何かのお祭り騒ぎのように室内で賑わいを見せる禍日主たちに優春は唖然とした。
昔に比べてと言っていたが、なら昔はどれほどいたのだろうか。想像もできない……。
それに、驚くのは人だけではない。先程は小さな和室に居たのでよくわからなかったが、改めて室内も見回してみるが何とも大きく立派なお屋敷である。こんな建築物、今の時代なかなかお目に掛かれない代物だろう。建築技術がかなり古い時代の物に感じる。恐らく、重要文化財になってもおかしくないレベルだ。
現代人とはかけ離れた服装を身にまとった不思議な力を操る異能者、禍日主たちが賑わいを見せるこれまた現実離れしたとても古い和風建築の屋敷。まるで古い時代にタイムスリップしたかのような光景だ。
そんな周りの様子に言葉を失っていると、優春はふと、煌びやかな室内の至る所に、鮮やかな赤色や、美しい白木の鳥居が立て掛けてあることに気がついた。
「っ?」
かなりの数が置かれているが、これは一体何なのだろうか……。
インテリア……?
一瞬そう思ったが、普通室内の至る所に鳥居を置いたりはしないだろう。
そのサイズは大小様々で、室内に所狭しと敷き詰められている。
それに、ただの鳥居ではない。ここの鳥居一つ一つ全てが淡い光を帯びているのだ。光を帯びる鳥居など、聞いたこともない……。
そんな不思議な光景に目を細めると、それに気づいた西園寺が言葉を挟んだ。
「あぁ。鳥居の事かい? 《禍日屋》は霊術で施した強力な結界で守られていてね。周りに溢れている大小様々な鳥居たちがその結界の基盤となっているんだ」
「基盤? この鳥居全部、結界になってるんですか?」
思わぬ言葉に目を見開く。光っているのは結界が発動しているせいだろう。しかし、見た感じすごい数の鳥居で結界を張っているようだが、一体なぜそんな数の鳥居で結界を張っているのだろうか。
その内心の疑問を感じ取ったかのように西園寺は口を開いた。
「僕たちは長い歴史の中、人に悪さをする妖や霊を退治する仕事をしてきたという話はさっきしたよね。そんな仕事をしていると、逆恨みした妖や霊などの物の怪たちに奇襲を受ける事が多々あってね。それでここは、物の怪から身を守る為に結界を張り巡らせているんだ。平安時代の数千年前からね」
「へ、平安時代からっ!?」
道理で建物が古いわけだ。驚き思わず声を上げる自分に西園寺は苦笑した。
「そうだよ。僕たちの歴史はとても古いんだよ。そして、鳥居とは結界と同時に神域を繋ぐ門としても有名だ。ここにある数えきれない量の大小様々な鳥居からは常に大量の霊力が溢れ出し、この《禍日屋》は常に濃い濃度の霊力で満たされている。故にここは、神域と呼ばれる場所にもっとも近しいところなんだ」
「っ……」
「という事は、先程飛び交っていた精霊たちは……」
「そうだよ。この鳥居から溢れ出る霊力で、ここが神域と同じ濃度の霊力が満ち溢れているから集まってきているんだ」
まさか、この場所がそんな凄いところだったとは思いもしなかった。
精霊が見えるようになったのも、自分の霊力がここの濃い濃度の霊力の影響を受けて高まったからなのだろう。
信じられない話だが、嘘ではないのは分かる。現に精霊や摩訶不思議なことも実際この目で見ている。とても現実で起っている事だとは思えないが、起こってしまっているので信じるしかない。
自分は、隠り世を見る事ができ、他者を癒す力を持っているが、それが何だかとても些細な事のように感じられた。世の中にはまだこんな凄い人々や場所があったなんて考えもしなかった。
「西園寺さん、あなたはずっとここで暮らしているんですか?」
思わずそう呟いて目の前を歩く彼に視線を戻す。それに彼は前方に視線を向けたまま小さく頷いてみせた。
「あぁ。生を受けた数百年前から、ここで暮らしているよ……」
「え?」
数百年前?
その時、
「おい、あんた邪魔だよっ!! そこをどきたまえっ!!」
周りの景色に目を奪われていると、突然背後からそう怒鳴られ、弾かれるように振り返ると、背後から担架に乗せられた傷だらけの者達が数名、着物を着た人々に引かれ慌ただしく通り過ぎて行った。
その光景に西園寺が目を細める。
「あぁ……。また新たに数名、人食い天狗の被害にあったようだね……」
「え?」
その言葉に思わず彼の方を振り返ると、西園寺は苦笑しながらこちらに視線を向けてきた。
「君と同じ、天狗に襲われた者達だよ。君以外にもここには天狗事件で傷を負った負傷者が多く搬送されてきているんだ」
「私以外にも天狗に負傷を負わされた人が!?」
まったく初耳の話だった。
改めて担架に乗せられ運ばれていく人々に視線を向けると、彼らは自分よりもかなり負傷を負わされていた。苦しそうに悲痛で顔を歪ませ、その人物の首筋にも自分と同じく首筋を噛まれた跡が付いている。
「あの天狗事件の被害者は負傷者も多数出ている。その者達を見つけここで保護するのも僕たちの仕事でね。ここだと結界があるから安全だし、出来る限りの治療もできるからね」
「テレビやネットの記事では、そんなこと……」
負傷者の事など、テレビやネットなどは取り上げていなかった。亡くなった者の遺体を見つけたとか犯人の目星がつかない、だとかは何度も放映されていたが……。まさか自分の他に天狗の魔の手から逃れた人々がいたなんて。
それに西園寺が眉をひそめる。
「世間は負傷者の存在は知らないよ。もちろん、君が被害にあった事も君のお祖母様が重症を負ったことも含めてね」
「ど、どうして……」
「それは僕たちが隠しているからさ」
「っ!?」
その言葉に目を見開く。
隠しているとは一体……。
「どういう、ことですか?」
再び歩き始める彼にそう問いかけると、彼は振り返らずに答えた。
「世間に人食い天狗の存在を知れ渡ればどうなると思う?」
「え? そ、それは……」
優篤の言葉が思い浮かぶ。
〝幽霊とか妖怪なんてこの世にいるわけないから〟
「世間では霊や妖、隠り世の者達は存在しない事になっています。もしその存在が世間に知れ渡れば、パニックに……」
「なるだろうね。世間一般では、妖や霊、隠り世の存在自体、おとぎ話のようなことになっている。さっきも話したけれど、僕たち禍日主の仕事は、隠り世と現世の秩序を守る事。だから僕たちは、その物の怪たちの存在がバレないようこの事件のことは、出来るだけ世間に知れ渡らないようにしているんだ。亡くなってしまった者達はさすがに世間から隠す事は出来ないけれど、負傷者達を事件が終息するまでここ《禍日屋》で匿ったり、天狗の痕跡を消すことは出来るからね」
「天狗の痕跡を消すって……まさか、目撃者も監視カメラにも天狗の痕跡が残っていなかったのって……」
「世間から犯人が天狗だとバレないよう僕たち禍日主が痕跡を消して回っているんだ」
「そ、そんなことまで……」
そんな事まで禍日主たちが行っていたなど知らなかった。
確かに、目撃者も痕跡も何も見つからないというのはさすがにおかしいとは思っていたが、まさかこの禍日主という異能者たちが消していたとは。
しかし、驚くこちらとは真逆に西園寺は、でも……と眉をひそめた。
「それも限界にきている。いくら世間からその存在を隠せたとしても、これほど死人が出てしまった現状、これ以上は事件の全貌を隠し通せない」
「えっ?」
その時、ずいぶん歩いてきてやっと、西園寺は絢爛豪華な室内の中で一際美しい輝きを放つ襖の前で立ち止まった。そしてこちらを静かに振り返ってくる。
「ここが長様の部屋だよ。粗相がないように気をつけてね」
「え、えぇ。分かりました」
その襖は全体を金箔で覆われ、紅葉を迎えた紅の鮮やかな紅葉が美しく際立っていた。その襖に西園寺は顔を近づけて声を張り上げる。
「長様。西園寺家が嫡子、西園寺翠蘭でございます」
刹那、襖の奥からしわがれた声が返ってきた。
「翠蘭か。入るがよい」
「はっ」
それに西園寺は威勢良く返事を返すと、引き戸に手をかけて襖を勢いよく開け放った。
「失礼致しますっ!! 例の娘を連れて参りました」
「うむ。ご苦労」
室内には微かにお香の芳しい香りが漂い、外の賑わいとは打って変わって物静かな雰囲気が立ち込めていた。その薄暗い行灯の明かりだけが灯る小さくシンプルな和室で、奥に老人が二人、静かに鎮座しているのが見える。
それに背後で西園寺が小さく囁いてきた。
「奥に見える二人の老人が、僕たち禍日主の長様だよ」
長様と聞いていたから一人だと思っていたが、どうやら二人いたらしい。
白髪の仙人のような穏やかな笑みを浮かべる老人と、閻魔さまを思わせる立派な黒髭を生やした凛々しい老人の二人だ。歳は、両者共かなり高齢に見える。その時、白髪の老人が西園寺に似た穏やかな笑みを浮かべた。
「やぁ。お主が天狗の被害にあったお嬢さんですな? ようこそ我らが砦、《禍日屋》に。歓迎いたしましょう。私は西園寺家の長を務めさせていただいている、西園寺魍魎と申します。以後お見知り置きを」
「も、もうりょうさん?」
変わった名の人だ。一体どういう字を書くのか……。
それに、その白髪の老人の隣で今度は黒髭の老人が口を開いた。
「わしは一ノ瀬家の長、一ノ瀬魑魅と申す。娘よ、我ら一ノ瀬家は其方を歓迎しよう」
みち。また変わった名前の人だ。
古い時代の人だから名も変わっているのかもしれない。
「こちらこそ。私は二宮優春と申します。この度は天狗に襲われていた処を助けていただき、ありがとうございました」
そんな事を考えながら二人にそう頭を下げると、白髪の老人が口を開いた。
「よいよい。顔を上げよ優春殿。体の具合はどうですか?」
「はい。おかげさまで」
「それは良かったです。天狗に襲われ怖い思いをしてお辛かったでしょう。でも、ここにいればもう大丈夫ですよ。現在、この《禍日屋》には貴女の他に人食い天狗に襲われた数十人程の人々を匿っております。ここは悪い物の怪が入ってこれないよう結界を張っておりますのでね。うちの、禍日主の事に関しては翠蘭から聞いておりますかな?」
「はい。さい……翠蘭さんからこの屋敷の事や、禍日主さんたちの事を少しお聞き致しました」
その答えに背後に控えていた西園寺が小さく頷く。
「そうですか。我々禍日主は隠り世と現世の秩序を守る為存在する異能集団です。隠り世の者でありながら、現世の人間の尊い命を殺めてしまっている人食い天狗と呼ばれる悪しき物の怪は、秩序を守る者として退治せねばなりません」
それに今度は黒髭の老人が口を開いた。
「其方をここに呼んだのは、今世間を騒がしている人食い天狗に関する其方が知っている情報を、我々に提示していただきたいからだ」
「情報、ですか?」
その言葉に目を細めた。
天狗に関する情報とは一体なんだろうか……。
その問い掛けに疑問を浮かべていると、それに白髪の老人が答えた。
「我々は現在、天狗討伐の為、人食い天狗の情報の提示を求めています。なので、貴女に襲われた時の状況を詳しく教えていただきたいのです」
「襲われた時の情報?」
「人食い天狗の一件は現在、この京都都市部で被害が急増している。死者は五十人を超え、負傷者もそれを上回る数じゃ。このままでは事態は深刻化し、物の怪という存在が人々に知れ渡るのも時間の問題となるじゃろう」
「ち、ちょっと持ってくださいっ!! 」
黒髭の老人の発言に優春は思わずそう口を挟んだ。
「私を襲った天狗は一ノ瀬さんが仕留めてくださった筈です。もう、世間を騒がしていた天狗はいない筈では……」
先ほどからずっと疑問だったのだが、まるで人食い天狗がまだ生きているような発言ばかりだ。そういえば、先ほど担架で運ばれてきた被害者たちを見て、西園寺がまた新たにと発言していた気がする。しかし、襲いかかってきたあの天狗が一ノ瀬さんの刀が急所を貫いて絶命したのを間近で確認している。生きている筈などありえない……。
それに背後で今まで沈黙していた西園寺が口を開いた。
「二宮さん。確かに君に襲いかかってきた天狗は僕の仲間である颯斗が確実に仕留めた。でも、人食い天狗は一匹じゃないんだよ。奴らは集団で行動する群れ。一匹仕留めたとしても、まだ数十匹残っているんだ」
「っ!?」
人食い天狗は集団で行動する群れ!? 信じられない話に体が硬直した。つまり、先程見た担架に乗せられた負傷者たちは、自分が襲われた天狗とは別の天狗に襲われたという事か。その事実を知った途端、全身から血の気が引けた感覚がした。それに黒髭の老人が話を続ける。
「故にお主にその人食い天狗の情報の提示を求める。襲われた際に奴は何か言ってはいなかったか?」
「そ、れは……」
天狗に襲われたあの時のことを思い返そうとすると、首を飛ばされた河童のことや、変わり果てた祖母の姿、周りに倒れた妖達の記憶が再び蘇ってきて、優春はこみ上げてくる吐き気と恐怖を抑えるように両腕を抱えて思わずその場にうずくまった。思い出そうにも、その事が先走ってうまく襲われた時の事を思い出せない。のしかかられた時に天狗が何かを言っていた気がするが、それもうまく思い出せなかった……。
それに背後から西園寺が頭を撫でてくれる。
「長様方。失礼ながら、彼女は辛い経験をしたばかり。もうしばらく心身とも療養が必要かと思われます」
「そのようですね……。二宮さん、無理に辛い事を思い出させてしまいすみませんでした。何か天狗の事で思い出したら教えていただけますか?」
白髪の老人の優しい声音に顔を上げる。その問いにただ頷くことしかできなかった。襲われた時の事を思い出すだけで体が恐怖で震えるなど我ながら情けない……。事件の解決に向けて何の力にもなれない不甲斐ない自分が悔しかった。
それにまさか、人食い天狗がまだ他にもいたなんて……。すっかり天狗の脅威は去ったと思い込んでいたので、思わぬ不意打ちだった。だとすると、まだ事件は終わっていないということになる。今も誰かが天狗に襲われ命を落としているかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられた。
それに白髪の老人が再び口を開く。
「では……。事件終息までの間、この《禍日屋》が貴女の安全をお守りいたしましょう。翠蘭? 彼女にくつろげる自室の提供と屋敷の案内をしてあげなさい。二宮さんはこれから長い事、ここで暮らす事になるのだから」
「畏まりました我が長よ」
白髪の老人の発言に自分の真横で深く頭を下げる西園寺。その二人のやりとりに目が瞬く。
これから長い事、ここで暮らす?
それって一体どういう事だろうか。
「あ、あの……。ちょっと待ってください。これから長い事、ここで暮らすというのは、一体どういう事でしょうか……」
思わずそう穏やかな笑みを浮かべる白髪の老人に内心の疑問を問いかける。それに答えたのは横にいた西園寺だった。
「ん? 言葉通りの意味だよ。再び人食い天狗に襲われないよう、君はこの《禍日屋》で暮らすんだ。ここだと強力な結界に守られて安全だし、飲食にも困らないからね。言ってなかったっけ?」
「え……?」
言ってない。そんな話は初耳だ。
唖然とする自分に西園寺は言葉を続ける。
「あぁ。でも、結界の外、《禍日屋》からは出てはいけないよ? それだと君を守っている意味がなくなってしまうからね。大丈夫、心配ない。事件が終息するまでの間だけだから」
「そ、それっていつまでですか?」
「んー……。正確には分からないけど、早くて数日、遅くても数年といったところかな?」
「なっ!?」
爽やかにそう答えた西園寺に言葉が詰まった。冗談ではない……。
それに慌てて彼に詰め寄る。
「そ、そんなにここにいられませんっ!! 私にも生活がありますっ! 学校や家の神社の事もしなくてはなりませんし」
祖母が病院で治療を受けているとなれば、あの祖母が今まで守ってきた神社には誰も管理する人がいないという事だ。このままでは神社は荒れてしまう。あの神社は亡くなった祖父が大切に守ってきた神社なのだと祖母は言っていた。だから亡くなった祖父に変わって私が守っていくのだと。だから今度は祖母の孫である自分が管理しなければ……。せっかくの祖父と祖母が二人で築いてきた大切な神社を失くしたくはない。
「私……あの神社に戻ります」
優春は俯いたまま、拳を握りしめて目の前で鎮座する二人の禍日主の長たちにそう言い放った。
祖母はあの時自分を拾って育ててくれた大切な家族。だから今度は、自分がその救ってくれた祖母の力にならなければ……。
そう思いを込めて長たちに顔を上げると、白髪の老人の方が困ったように眉をひそめてきた。
「困りましたね……。ここを一歩出れば、貴女は確実に天狗に再び狙われてしまいますよ?」
「確実って……一回襲われてそんなすぐには……」
そう言いかけたその時、
「貴女の首筋の天狗の歯型……」
白髪の老人は畳み掛けるようにそう呟いてきた。
「え……?」
歯型っ?
その謎の言葉に目を細める。
天狗に噛まれた時に付いたこの歯型。これで何を言いたいのか理解できない。それに彼は言葉を続けた。
「それは、人食い天狗のマーキングになっております」
「マーキング……!?」
その発言に咄嗟に首筋の人食い天狗の噛み跡を手で押さえた。
それは一体どういう事だ。そんな疑問に今まで腕組みをして黙っていた黒髭の老人が重い口を開く。
「彼らは仕留め損ねた獲物は確実に仕留める習性があり、噛み付いた獲物にマーキングを施すのだ。故に、それがあるうちは天狗達にどこにいるのか瞬時に把握される」
「っ!?」
その言葉に唖然と立ち尽くした。
という事は、結界の中から出ればまた、天狗が襲ってきて前回のような恐怖を味わうという事になるというのか。そう思っただけで背筋に怖気が走った。そんな様子に白髪の老人が穏やかな笑みを返してくる。
「なので、ここにいれば安全です。この結界がある限り、奴らにマーキングを感知される事もなければ、万が一にも入ってくることもない。それにここにいれば、食事や身の回りの事に困る事もありません。私たち禍日主は貴女の安全を保障し、事件終息までお守りいたしましょう」
しかし、そう優しく微笑みを浮かべる彼に簡単にはい、とは頷けなかった。
「そ、それでも……。私にはやらなくちゃいけないんです。祖母のあの神社を私は守らなければなりません。祖母が倒れた今、あの神社を守れるのは私だけなのですっ!! たとえ天狗に再び襲われようとも、祖母のあの神社だけは守らなけらばならないのですっ!!」
祖母は私や神社の事など気にせずに自由に暮らしなさいといつも言ってくれた。でも、そんなの出来るわけない……。そんな資格なんて自分にはないのだ。たとえ……人食い天狗に再び狙われようとも、祖母と祖母が守ってきたあの神社を守らなければ。
「……」
それに二人の禍日主の長は何かを考えるように目を瞑って沈黙すると、ゆっくりと白髪の老人の方が再び口を開いた。
「そうですか……。なら、仕方ありませんね」
神社へ戻る事を許可してくれたのだろうか……。
それに彼は言葉を続ける。
「悪しき物の怪から人々を守る事が我らの使命。ならば、貴女に護衛をつけましょう」
「護衛?」
思わぬ提案に目を見開いた。
護衛とは一体どういう事だろう……。
「外へ出れば、確実に他の人食い天狗達が貴女の生き血を求め襲いかかってきます。次に襲われれば貴女は確実にその命を散らしてしまう。それは我々の本意ではありません。なので、その貴女を守る為、襲ってくる天狗と対峙できる禍日主を一人、護衛にお付けいたします。それなら人食い天狗が襲ってきても安全でしょう」
「それなら、ウチの神社に戻ってもいいのですか?」
「はい。異例ではありますが。私が許可しましょう。いいですよね?魑魅」
「あぁ。禍日主の護衛をつけるなら外へ出るのを許可しよう」
「あ、ありがとうございますっ!!」
自分の意見に了承してくれた長の二人に優春は深く頭を下げた。しかし、それに黒髭の老人はただし……と言葉を続ける。
「これはあくまで連れ去られないよう守る護衛、もしも敵に連れ去られてしまえば、その時点で護衛の任は終了とする」
「え……」
黒髭の老人の発言に思わず固まると、それに白髪の老人が優しげな笑みを浮かべる。
「もしもの話です。そう成らぬ為に、護衛をつけるのです。なに、心配せずとも良い。貴女をみすみす敵に渡す程、我ら禍日主は柔ではない。それとも、やはり外へ行くのをやめて、ここの屋敷で身を守りますか?」
「……」
その言葉に優春は口をつぐんだ。
護衛がいるとはいえ、外へ出るということは危険がここよりもずっと強いということになる。しかも、万が一、自分が敵に連れて行かれてしまえば、救出はしてくれないという。これはあくまで攫われぬようにする護衛だと。それが嫌ならば、この屋敷に残れと。確かにここにいれば確実に身の安全は保障される。しかし、
「分かりました。でも私は、危険が伴おうとも、やっぱり外へ行きます」
このままここに残って守られるのだけは嫌だった。それでは祖母の役に立つことはできない。
そう決心して老人たちを見つめると、彼らは堪忍したかのように重たい口を開いて見せた。
「分かりました。貴女がそこまで言うのならば、護衛の件を改めて了承いたしましょう。よろしいですか? 魑魅」
「あぁ。そこまで言うのならば仕方あるまい。許可しよう」
「ありがとうございますっ!」
その言葉に優春は彼らに改めて礼を言って深く頭を下げた。
これでまた祖母の役に立つ事ができる。そう思うと少し嬉しかった。
しかも、自分の安否を心配して護衛を付けてくださるとは、禍日主の長様方はとても良い人たちだ。自分の為に、そこまでしてくれる彼らに感謝するのと同時に少し申し訳なさも感じる。
それに白髪の老人は、では……護衛は誰にしようかなと首を傾げた。
「翠蘭。貴方はこの任を引き受けてくださいますか?」
しかし、真横にいた西園寺はその問いかけに静かに首を横に振った。
「残念ながら長様。僕は別件がありまして、二宮さんの護衛を務めるのはいささか力不足かと」
「ん——……それは困りましたね。他に二宮さんに近しい歳の者はウチにはいませんし……」
その時、難しそうな顔で考え込む白髪の老人に黒髭の老人が口を挟んだ。
「ならば、うちの一ノ瀬家から一人出そう。丁度一人、先日京都へ戻ってきた者がおりますからな」
それにパァッと白髪の老人の顔が明るくなる。
「あぁ。あの赤眼の子ですか。彼なら人食い天狗を一匹仕留めておりますし、実力も申し分ない。問題ないでしょう」
「っ?」
その二人のやりとりに優春は首を傾げた。
赤眼の子?一体誰だろうか……。それに天狗を一匹仕留めたって……。
眉間にしわを寄せながらそう考え込んでいると、それに西園寺が何故か嬉しそうに耳元で囁いてくる。
「きっと彼だろうね。よかったね二宮さん」
「っ?」
彼?
その時、黒髭の老人が声を張り上げてその名を呼んだ。
「颯斗、そこにおるか?」
「はっ。ここに」
「っ!!」
刹那、自分の首筋に刃を向け、先程の和室で冷ややかな視線を向けてきたあの朱色の瞳の青年、一ノ瀬颯斗が忽然と黒髭の老人の前に現れて跪いた。
その彼の姿に思わず目を見開く。まさか、自分の護衛になるのは……。
「一ノ瀬颯斗。お主に二宮優春殿の身辺警護の任を命じる。異論はないな?」
「承知致した我が長よ」
ウソ……。
思いもしなかった状況に優春はどう反応したらよいか分からず、ただ唖然とその場に立ち尽くした。
「いやぁ。二宮さん、良かったね」
長様たちの自室を後に先程の和室に戻る為に来た道を引き返していると、横を歩いていた西園寺が爽やかにそう微笑んできた。だが、今は彼のように爽やかに微笑みを返す事ができない。
恐る恐る背後に視線を向けると、先程自分の護衛役に任命された一ノ瀬颯斗が不貞腐れた顔でこちらに黙って付いて来ているのを見て眉を寄せた。
まさか、あの一ノ瀬さんが護衛役になるとは……。
その時、ふと目があった一ノ瀬がこちらをジト目で睨み返してきた。
「ジロジロ見てんじゃねーよ、クソ女」
「……」
だめだ……。うまくやっていける気がしない。
視線を前方に戻して嘆息を漏らす。
すごく嫌そうな顔をしていらっしゃるが、ならどうして護衛の任なんか引き受けてくれたのか……。ワガママを言って神社に帰してもらえて更に護衛までつけさせていただいた身の上で文句は無いが、あまりにも相性が合わなさ過ぎて先が思いやられた。もう少し仲良く出来ないものかと思うが、先程から話しかけようとすると今のように突き放されてしまう。
やはり隠り世への考え方が違うからだろうか。一ノ瀬は隠り世の住人を嫌っていると西園寺は言っていた。だから隠り世の者達と親しくしていた自分の事が気に食わないのかもしれない……。
それに西園寺が愉快そうに口を開いた。
「僕は颯斗と二宮さん、最高に良い相性だと思うけどね」
「そ、そうですか?」
「彼、素直じゃないけど、悪い人ではないよ。きっと護衛役を引き受けたのも、二宮さんに負い目を感じていたからだと思うな」
「負い目、ですか?」
そうには見えないのだが……。一体、西園寺は何を根拠にそう言っているのだろうか。考えても分からない。
思わず眉を潜めると、それに彼が颯斗には内緒だよ?と耳元で囁いてきた。
「倒れた二宮さんをこの《禍日屋》に連れて来て、君の意識が戻るまで和室で看病していたのは颯斗だよ」
「えっ!?」
思わぬ発言に目を見開く。
てっきり西園寺が看病してくれていたのだと思っていたのだが……。
「大丈夫。颯斗、口は悪いけど本当は優しい人だから。僕なんかよりずっと強いし、いざって時に頼りになると思うな」
本当に、そうだろうか……。
彼に言われて背後に再び視線を向ける。もう一度目があう一ノ瀬は、もうヤジを飛ばすことすらせず、そっぽを向いて完全にシカトを決め込んでいた。
西園寺の話が本当なら、彼の言う通り優しい人なのだろうが、一ノ瀬のこの冷たい対応しか知らない現状からだと、どうも彼の言っている事はにわかに信じがたい。
その時、
「翠蘭どの〜!!」
「っ?」
賑わう禍日主たちの人混みの中から数名の着物姿の男性達がこちらに慌ただしく駆け寄ってくるのが見えた。
「おや? どうしたんだい?」
自分の名を呼ばれた西園寺がその呼びかけに足を止めて振り返る。
「長様が翠蘭どのをお呼びでございますっ!! 至急、自室に来るようにとのこと」
「おやおや。例の任務の件で何か動きがあったようだね……。伝えてくれてありがとう。今すぐに向かいますね」
例の任務の件?
その言葉に目を細める。そういえば、先程も長様と話している時にそんなことを言っていた気がする。それに西園寺はこちらに視線を戻してきた。
「ごめんね二宮さん。もう少し君と一緒に居たかったけど、どうやら僕の役目はここまでのようだ……。後は後ろで控えている君の護衛役、一ノ瀬颯斗の指示に従って行動してくれ」
「えっ!? ちょ、ちょっと待って……」
戸惑うこちらに西園寺はそう一方的に言い残すと、「じゃあ、僕はこれで失礼するね」と爽やかな笑顔で締め、賑わう禍日主たちの人混み紛れていなくなってしまった。
あっさりと放り出されてしまった優春はどうしたら良いか分からずにその場に立ち尽くす。
どうしよう……。
突然いなくなられてしまうとさすがに困る。西園寺がいなければ後ろの一ノ瀬と一体どうコミュニケーションをとって良いか分からないではないか……。
そう思ったその時、
「おいっ」
突然、背後から一ノ瀬に声を掛けられた。
それにまた何か言われるのではと緊張しながら後ろを振り返ると、彼が無表情で顎を使いながら向こうを示してきた。
「行くぞ」
「え?」
行くぞとは……一体どこへ?
有無を言わさずに勝手に歩き始める一ノ瀬の背を人混みをかき分けて慌てて後を追う。歩くペースが西園寺より早くて見失いそうになるが、彼の袖に必死に縋り付いて行くと、目の前の人混みが急に開け、ホテルや旅館のような無数のドアが連なる廊下に出た。
「?」
ここは、一体どこなのだろうか……。
先程の和風建築の雰囲気とは全く違う。近代的な空間だ。ドアには部屋番号が付けられ、思いっきりホテルの客室廊下を思わせた。それに先程の喧騒とは打って変わって、ここには自分達以外誰も歩いておらず、静寂に包まれている。外へは出ていないはずなのに、まるで別の建物のように感じた。
「この部屋だ。入れ」
そんな状況が理解できない自分を置いて一ノ瀬はその中のドアを適当に開けて中に入っていく。
「あ、あの……ここは」
後を追って恐る恐る中へ入ると、室内は意外に広い七畳半の和室だった。和室の縁側から一望できる庭園は先程目を覚ました和室と大差ないが、その和室と根本的に違うのは、一部屋ではないということ。部屋には他に襖が付いており、浴室とお手洗いが完備されていた。それに一ノ瀬が辺りを見回しながら口を開く。
「禍日屋に来る客人用に作られた客間だ。水洗トイレに浴室、洗面台に台所も完備されている。飯は他の者がここに勝手に運んでくるから心配するな」
「ち、ちょっと待ってくださいっ」
勝手に話を進める彼に慌ててストップをかける。
「あの……私、さっきも言いましたけど、ここで暮らす訳には……」
今の話からだと、まるでこれからここで暮らせと言っているみたいだ。だが、先程も言った通り、自分は祖母が倒れた今、自分が祖母の守ってきたあの神社を守らねばならない。そう彼に言おうとすると、
「アホかお前。今何時だと思ってんだ」
そう吐き捨てられて、彼はこちらに腕時計を投げ渡してきた。
「え?」
それを反射的に受け取って確認すると、時刻は午後十一時をとうに回っているのを知って目を疑う。まさかそんなに時が経っていたとは……。
「今日はもう夜も遅いだろう。だから今日はここで一泊だけしていけ。明日の朝早くに俺がお前をその大好きな神社に送ってやる。そうしたら明日の学校にも間に合うだろ?」
どうやら彼は、時刻が遅くなったことを心配し、ここで一泊させる為にわざわざここの客室へ連れてきてくれたようだ。ここに住まないと決めた以上、迷惑にならない為に早々にこのまま神社に戻ろうと思っていたが、確かにこの時間帯だと夜道を歩いて帰るのには少し抵抗がある。
「あ、ありがとうございますっ!!」
一ノ瀬のその配慮に少し優しさを感じた優春は彼に頭を下げた。
しかも、改めて見渡してみるが、先程禍日主たちで賑わっていた広間の豪華さにはさすがに劣るが、ここも負けじと美しい和式となっていた。ものがあまり無くシンプルなデザインだが、清潔感があってとても心地よい。仄かに香る畳と檜の芳しい香りに精神が穏やかになるようである。
そんな客間にうっとりしていると、彼が徐に何かを持ってきた。
「これは寝巻き、こっちはタオル類だ。それにこっちはドライヤーと歯ブラシ類。他に何か必要な物があれば、後で他の者に言え」
彼の両腕に抱えられていたのは宿泊に必要な道具一式だった。どうやら、どこかから調達してきてくれたらしい。礼を言って受け取ると、彼はそのまま室内の奥にあった押入れを指差した。
「布団一式はそこの押入れに入っているから勝手に使え。他に何か質問は?」
「い、いえ。何から何までありがとうございます」
改めてそうお礼を言って彼に再び頭を下げる。
まさかここまで丁寧にしてくれるとは思ってもいなかったので少し驚きだった。まだ優しいとかはよく分からないが、西園寺が言っていた通り、悪い人ではないのかもしれない。優春はそうふとそんなことを思って彼に穏やかな笑みを浮かべた。
「……」
それに彼は目線をそらして踵を返す。
「そうか。じゃあ、俺はもう行く……。明日の朝には迎えにくるから今日は心身ともにゆっくり休め」
一ノ瀬は、用は済んだとばかりにそう言い残すと、こちらを振り返らずに早々に室内を後に玄関へと歩いて行った。その後ろ姿を見て、まだ彼には言っていない事があったと思い出した優春は、慌てて彼の袖を掴んで引き止めた。
「あ、あのっ……」
「?」
それに彼が不思議そうに振り返ってくる。
「あの……先程は助けてくれてありがとうございました」
「あ?」
怪訝な顔をする彼に若干戸惑いながらも言葉を続ける。
「先程はちゃんとお礼を言えてませんでしたから。天狗に襲われていた時、貴方は私を救ってくれました。でなければ私は恐らく殺されていたでしょう。この命を救っていただき、ありがとうございました」
本当はもっと早くに言わなければいけないことだったが、すっかりタイミングを逃してしまっていた。言うのが今しかないと思ったのだが、彼はどうやら迷惑だったのか、掴んだ袖を勢いよく振り払われた。
「勘違いをするな、ただのまぐれだ。助けようと思ったわけじゃない。
天狗を倒した時にたまたまお前がその下にいただけだ。現に俺はそのあと、お前の首筋に刃を押し付けただろ。助けようと思っていればあんな行動はしない」
「……」
それはそうかもしれないが……。
「それでも、助かったのは事実です。だから勝手ながらお礼を言わせてください。本当に、ありがとうございました……」
どうしてもこの言葉を彼に伝えたかったのだ。一ノ瀬にはいい迷惑だったのかもしれないけれど、自分にとって貴方は命の恩人には変わりないのだから。そんな思いを込めて微笑むと、彼はしばらく何かを考えるような仕草をしてからゆっくりとこちらに視線を向けてきた。
「俺も一つ聞いて良いか?」
「え……?」
その思わぬ言葉に目が瞬く。まさか彼の方から尋ねられるとは思ってもいなかった。それに顔を上げると、一ノ瀬の曇りなき綺麗な朱色の瞳と目があう。
「お前、どうしてあの神社に拘っているんだ? 」
「っ……」
ピンポイントに言われたその言葉に思わず口ごもる。それに彼は僅かに目を細めながら畳み掛けるように問いかけてきた。
「ここを出ればお前はあの天狗どもに殺されるかもしれないんだぜ? なのにそんな危険を顧みてまで、お前はその祖母と神社を守る必要があるのか?」
「……」
それに堪らず目線をそらす。
そんなこと、面と向かって言われたことなんて今までなかったので、正直、どう答えて良いか分からなかった。
「私、自分のことは正直どうなっても構わないのです……」
「?」
絞り出したように呟いた言葉に一ノ瀬が息を呑んだのが聞こえた気がした。
「私なんか、生きる価値も本当はないんです。そんな自分を、祖母は救ってくれました。だから今度は、私が祖母のことを守りたいのです。救ってくれた祖母に恩返しをしたい。それが今の自分が生きる理由だから、私はそのために神社に戻りたいのです」
自分の力のことは言わなかったが、自分の思っていることは言えた気がした。それが生きる理由……。だから天狗から救ってくれた彼には感謝しかない。もしあそこで殺されていたら、救ってくれた祖母に恩返しができなかったから……。
「……」
しばしの沈黙。
辺りに広がる静寂の中、恐る恐る彼に視線を戻すと、今まで黙って聞いていた一ノ瀬は、その静寂を打ち破るように静かに口を開いてきた。
「……なんか、気持ち悪いなお前」
「っ?」
気持ち、悪い……?
その言葉に一瞬意味が分からずに硬直する。
それに彼は踵を返すと、客室を後に廊下へと出て行ってしまった。そして、その去り際に、こちらを一瞬だけ一瞥してくる。
「お前に深入りする気はないが、あんたのその考えには失望した。やはり俺はあんたのことが嫌いらしい」
「え……」
その言葉の意味が理解できず、激しく閉められたドアを前に優春は、しばらく身動きを取ることができなかった。
朝の教室は生徒たちの喧騒で賑わいを見せていた。
いつもの朝の光景に何の変わりもない生徒たち。昨日までの出来事がまるで嘘だったかのように錯覚してしまうほど、学校の中はいつもの平穏で溢れていた。自分一人を除いては……。
「はぁ……」
その賑わいを見せるいつもの教室の風景の中で優春は、自分の机に突っ伏しながら窓から見える朝日を浴びて気持ちよさそうに揺れる桜並木を眺めて深い嘆息を漏らした。
結局あの後、一ノ瀬とは一回も話をしなかった。いや、正確に言えば彼が一方的にこちらを無視していたというべきだろうか。
朝、客室に迎えに来て神社まで送ってくれた道のり、彼はほぼ無言だったし、きっと怒っていたのかもしれない。せっかく仲良くなれるかもしれないと思っていたのだが……。
「あの言葉、どういうことだったんだろう……」
思わずそう呟いて再び嘆息を漏らす。
ダメだ……。今日は朝からずっと溜め息ばかりついている気がする。今は考えるのは止そう。いくら天狗から守ってくれる護衛役とはいえ、さすがに生徒ではない彼が学校に入って来ることはないので、下校の時間までにこれからどうするか考えればいいだろう。
そんなことを思っていると、
「ユリちゃーんっ!」
喧騒の中、そんな呼びかけにふと振り返ると、見慣れた二人の少女が元気に駆け寄ってくるのが見えた。それに優春は気持ちを切り替えて笑みを浮かべる。
「あら、二人ともおはよう。そんなに慌ててどうしたの?」
「優春、あなたちょっと聞きたい事があるのだけれど?」
「聞きたいこと?」
ウキウキしながらそう最初に口を開いたのは二人のうち、背が高く、艶やかな黒髪ロングを靡かせた友人の稲荷由花だった。
「昨日の帰り、どうだったのかしら?」
昨日の帰り? どうだったとは一体何の話だろう……。
その言葉の意味が分からず眉をひそめる。
エナメルバックを肩に背負い、バスケットシューズ片手にそう言う彼女は相変わらずモデルのようにスラッと伸びた細く長い手足と、高校生とは思えない大きな胸が目を引く。容姿端麗、運動神経抜群で、特にバスケが得意な彼女は、部活は女子バスケ部に所属しており、何度か試合を見に行ったが、その長身を生かした男子顔負けのプレーは観る者を圧倒させる程。彼女がチームに入れば絶対負ける事はないという噂から最近は『勝利の女神』という大層なあだ名をつけられているとかこの前話してくれたのを覚えている。
そんなスポーツマンの彼女の言いたい事がわからず首をかしげると、由花の隣にいた、ゆるふわベージュ色のショートヘアーを揺らし、大きくクリクリした瞳で可愛らしい笑みを浮かべていたもう一人の友人、山本薫が目を輝かせながら身を乗り出してきた。
「またまたぁ〜? しらを切っても無駄ですよ? 私、昨日見てしまったんですっ!!」
「見たって何を?」
大人の色気が漂う由花とは対照的で甘えん坊で人懐っこく、まだ幼さが残る小動物のようなゆるふわ系の愛らしい彼女は見ているだけで心が癒されると男子に限らず女子の間でも癒し系として人気の少女だ。
部活は美術部に所属しており、絵の才能は一流で、数々の賞を受賞している強者だと文科系の部活では有名人である。
そんな彼女はポケットからスマホを取り出し、こちらに一枚の画像を見せてきた。
「これが証拠ですっ!!」
「?」
そこには、昨日の帰りに優篤と一緒に帰る自分の姿が映っていた。ちょうど廊下で優篤が自分の腕を掴んでいるシーンである。
いつの間にこんな写真を撮っていたのか。全く気がつかなかった自分に驚く。それに薫が更にスマホをこちらに押し付けてきながら得意げに鼻を鳴らしてきた。
「ふふふっ! どうですか私の盗撮技術っ!!昨日、帰りに見てしまったんです。夕日が差し込む放課後の廊下で二人きり、優篤とユリちゃんが仲睦じく手を繋いでいる場面をっ!!」
「手を繋いで……?」
どう見ても手を繋いでいるというよりは、優篤が一方的に腕を掴んでいるようにし見えないのだが……。垂れた前髪を耳にかけ直しながら訝しげにそう画面の写真に目を細めると、由花が興奮しながら両肩を掴んできた。
「ちょっとっ!! どうなの優春? 優篤と付き合ってるの?」
「えぇ!?」
この写真からどう推測すればそうなるのか……。
ガクガク方を揺らされ思わず声を上げると、薫が畳み掛けてきた。
「私、ずっと二人がくっ付くのを待ってたんですっ!! 小学校からの仲のいい幼馴染みで、中、高ともに同じ学校に進学してしかも同じクラス。帰りは一緒にたびたび帰る姿も目撃され、恋愛の要素が揃っているというのにいつまでも付き合わない二人に疑問を感じていましたっ!! でも、こうしてようやく想い合っていた二人がやっと恋仲になれたと知って薫はとても嬉しいですぅ〜!!」
「私は許さないわよ優春っ!! まさかもうキスとかしたとか言わないでしょうねっ!? 不潔よ不潔っ!! 私、優春はそんな子じゃないと思っていたのにっ!!」
「いやいやいやっ!!」
勝手に話を進める彼女たちに慌ててストップをかける。
「そんなんじゃないからっ!!小笠原くんとはタダの友達だから……!!」
「じゃあ、なんで昨日一緒に帰ったのかしら!?」
「そうですよぉ!! 二人で誰もいなくなった教室で待ち合わせなんかして人目を避けるように帰ってたじゃないですかっ!!」
「それは、ちょっと教室で居眠りをしていたら放課後になってて、急いで帰ろうとしたら小笠原くんがたまたま教室に……」
「嘘ですっ!! ユリちゃんは嘘をついてますぅ!! そんな少女漫画みたいなピュアピュア展開あり得ませんっ!!」
「いや、本当なのっ!!」
ダメだ、埒があかない。どうして女子ってこうなんでも恋愛に結びつけたがるのか……。そんなに言うなら本人に聞けばいいでしょう?と辺りを見回すが、朝の教室に優篤の姿はなかった。
「あれ……?」
「ん?優篤ならお休みよ?」
それに由花が呆れ顔でそう告げてくる。
いつも真面目で欠席をしたことがなかった優篤が学校に来ないなんて珍しい……。また明日と昨日別れ際で話していたので今日も学校で会えると思っていたのだが……。
「風邪?」
「いや知らないですけど……。ユリちゃんは聞いてないんですか?優篤さんの恋人さんなのに?」
「いや、だから恋人じゃないからねっ!?」
朝からこの二人相手だと疲れてしまう……。
だが、ちょっと優篤のことは心配だ。今朝は一ノ瀬の事で頭がいっぱいでそれどころではなかったので、今日の帰りにでも彼の家にお見舞いでも行った方がいいかもしれない。
そんなことを思っていると、朝の朝礼のベルが響き渡り、教室や廊下で賑わっていた生徒たちが慌ただしく自分の席に戻り始めた。それに由花と薫も「じゃあまた後でねっ!」と自分の席へ戻っていく。それと同時に教室に担任の教師が静かに入ってきた。
「はいはい皆さん?お席につきましょうねぇ。朝の朝礼を始めますよ」
うちの担任の教師は六十歳を超えたお爺ちゃん教師である。担当教科は古典で、みんなには『じっちゃん』という愛称で親しまれ、人気の教師だ。
「では、今日はプリントが数枚ありますからお家の方々に渡してくださいね。では今日の日直さん、このプリントを——」
そんないつもの朝の風景に優春は何気なく窓の外の景色へと視線を向けた。
やはり、一人になるといろいろ考えてしまう……。
雲一つない青空。僅かに開けられた窓から気持ちの良いそよ風が入り込み、白いレースのカーテンを優しくなびかせている。そんな景色を眺めながら、そういえば……と優春はふとある事に気がついた。
禍日主の護衛が付くと言っていたが、これだといつもと同じ日常ではないか?護衛と言っていたので昼夜問わず、びっちり背後に付き添っているものかと思っていたのだが、案外普通で優春は内心で少しホッとした。びっちり付き添われていたらプライベートもありゃしない。それに一ノ瀬とは今、微妙な関係なので出来れば会う機会はなるべく避けたかったので丁度よかった。
「……」
それに首筋を何気なく触ってみる。
やはりそこには天狗の噛み跡が付いていた。確かこれがマーキングになっていて、他の天狗たちが結界の外に出たらすぐ襲ってくると言っていた気がする。だがまぁ、この護衛がそんなびっちり付き添っていないところを見る限り、そんな心配するような感じではないのだろう。きっと学校のように人が大勢いる場所なら天狗も奇襲をかけにくいのかもしれない。放課後はきっと護衛の一ノ瀬が迎えに来るだろうし、それまで今日は一人にならず人が大勢いる場所で過ごそう。そんな事を思っていたその時、
「え〜では。今日は皆さんに新しい仲間を紹介いたしますね」
担任のじっちゃんがそう言った言葉にふと我に返った。
新しい仲間?
思わぬじっちゃんの発言に他の生徒たちも動揺を隠せないのかあちらこちらでザワザワと騒ぎ始める。
「転校生か?」
「マジで!? 可愛い子なら良いなっ!!」
「カッコイイ男子が良いわねっ!!」
転校生? この時期に?
今はまだ四月の中頃。普通なら新学期が始まる時期に合わせるようにして転校してくる事が多いが、この中途半端な時期とは珍しい。
「では、入ってきなさい」
クラス中の生徒たちが注目する中、教室のドアがゆっくりと開け放たれ、一人の人物が教室に入ってきた。刹那、その人物を見て思わず言葉を失う。だってその人物は……。
「みさなん初めまして。関東から来ました、一ノ瀬颯斗と申します。以後宜しくお願い致します」
教師の横で爽やかな笑みを浮かべてそう答えたのは、あの目つきの悪く朱色の瞳の青年、自分を天狗から守る護衛役として任命された禍日主、一ノ瀬颯斗だったのだ。