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神殺しの禍日主  作者: 三善斗真
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第1話

「姫さま、起きてください。お時間でございますよ」 

 授業終了のチャイムが鳴り響き、放課後に突入した京都市内にある京晏高校は、生徒達の楽しげな喧騒で溢れかえっていた。部活動へ行く者、友人達と楽しげに戯れる者、教室清掃を始める者や教師に絡む者など、様々だ。

 そんな喧騒から少し離れた物静かな、茜色に染まった誰もいない放課後の二年三組の教室で窓から入り込む春のまだ少し肌寒いそよ風に、ハーフアップにした桜色の髪をなびかせながら、机に伏せってうたた寝をしていた二宮優春にのみやゆりは、耳元で囁く誰かの声に長いまつ毛を震わせて微睡みの中、そっと瞼を開けた。

「っ……」

 完全に寝落ちしてしまっていたらしい。

 体を起こし、大きく伸びをして教室を見渡すが、自分以外教室には誰もいなかった。

 ホームルームまでの記憶はあるのだが、ちょっと疲れていたから

軽く目を瞑ろうと思って机に伏せたのが良くなかったようだ。

 春ってなんでこうも眠たくなるのだろう。

 どうも、昔から春のこの優しく穏やかなそよ風には弱いのだ。

いつも心地よくなって眠ってしまう。

 教室に備え付けられている掛け時計を一瞥すると、時刻は

夕方の四時を少し回ったところだった。

 それを確認してハッと思い出す。

 今日は祖母の手伝いをする日じゃないっ!!

「まずいっ!!」

 早く帰らないと、祖母に心配をかけてしまう。

 そう思った優春は弾かれるように立ち上がると、大慌てで下校の支度をして廊下へ向けて大慌てで走り出した。


 教室を後に廊下に飛び出したその時、

「わぷっ!」

「うおっ!? ごめん」

 正面の誰かにぶつかり、優春は思いっきり跳ね飛ばされて尻もちをついてしまった。

「いったぁ……」

 急いでいたとはいえ、前をちゃんと見ないのは自分の悪い癖だ。

 すみません、と謝りながら立ち上がろうとすると、

「二宮?」

 ぶつかった相手にそう声を掛けられ、咄嗟に顔を上げる。

「え……? 小笠原くん!?」

 少し明るい紺の短髪に色白の肌、とろんと垂れた優しげな瞳で

こちらを心配そうに覗き込むのは同じクラスメイトの小笠原優篤だった。

 今から帰りなのか、エナメルバックを肩に掛け、学生カバンを背負っている。

 その彼が尻もちをついた自分に手を差しのばしながら苦笑した。

「やっと起きたんだ? 今起こしに行こうと思ったんだけど」

「やっとって……それならもっと早くに起こしてよ。四時って完全に熟睡じゃない」

「ごめんごめんっ。あんまり気持ちよさそうに寝てたもんだからさ」

 ムクれながらその大きい手に縋って立ち上がる。

 優篤は家が近所のいわゆる幼馴染というやつだ。

 出会ったのは京都に越してきた小学六年からだが、この街で一番長い付き合いで、仲のいい友人である。

 そんな彼がエナメルバックと一緒に肩に細長い筒も一緒に背負っていたのに気づき、思わず首をかしげた。

「あれ? それって部活のだよね。今日って部活動ないの?」

「ん? あぁこれの事か?」

 指差すそれに気がついた彼は、その筒を軽く叩きながらニッと嬉しそうな笑顔を向けてきた。

「へへっ。今日は朝練だけだったんだぁ。だから放課後の練習は無しっ!!」

 彼の所属している部活はうちの学校ではかなり強いとされている弓道部で、いつも毎日のように放課後、夜遅くまで道場で弓を引いていると有名な部活だ。しかし、そんなスパルタな部活が放課後の練習が休みだというのはいささか疑問がわく。

 そんなこちらの内心の気持ちを察したかのように、優篤は苦笑しながらプリントを一枚こちらに見せてきた。

「今朝、部活のミーティングでこれを渡されたんだ」

 それは《生徒の登下校時の安全確保について(お願い)》と書かれたプリントだった。

 最近京都市内で多数発生している連続殺人事件に関しての内容で安全のため、放課後の部活動及び、寄り道はせずになるべく複数人で帰宅するようにと書かれていた。

「連続殺人事件?」

 確か、クラスのホームルームの時に担任の先生が話していた気がする。

 年齢問わず、複数の男女が突然行方不明となり、数日後に人気のない

雑木林などで遺体で発見されるという数ヶ月前から頻繁に発生している殺人事件で、犯人は以前捕まっておらず、現在警察が捜索中とかいう内容だったはずだ。

「この事件の新たな被害者が今朝、オレ達の高校の近くで遺体で発見されたんだよ。それで犯人が近くにいるかもしれないって事で、ほとんどの部活動がそのせいで今日からしばらく休止なってるんだ。

まぁ、二宮は帰宅部だから知らないだろうけどさ」

「そうだったんだ……」

 事件のことは一応知っていたが、放課後の部活動が休止していることは流石に知らなかった。

 物騒な世の中になったものだと内心で嘆息を漏らす。

 何故、人を殺めるのか、自分にはその行為の意味がわからない。

 もっとみんな仲良く暮らせないものなのか。そう思えてならなかった。

 そんなことを思いながら眉をひそめていると、そういえば、と優篤が話題を変えてきた。

「二宮、急いでたんじゃないの?

さっき血相変えて教室から飛び出したろ?」

「あッ!!」

 そうだったッ!

 その時、慌てて自分が急いで帰ろうとしていたことを思い出した。


「今日、早く家に帰らないといけない日なのッ!! 遅く帰ったら心配させちゃうっ!!」

 危うく忘れる所だったと慌てて再び走りだそうとすると、その腕を優篤が咄嗟に掴んで制した。

「え、何?」

「急いで帰る前にまずは連絡を入れたらどう? スマホ持ってるんでしょ?」

「あっ……」

 そう言われて確かにと少し冷静になってみる。

 家に軽く連絡を入れればそんな心配させなくても済むではないか。

「確かに、そうだね」

 なぜそれを早く思いつかなかったのか。

 うっかり屋の自分に少し恥ずかしさを覚えながら、ポケットに入っていたスマホを取り出して祖母に連絡のメールを打つ。

《連絡遅れてごめんね。今日、少し帰りが遅くなります。お客様が来ていたら謝っておいてください》

よし、これでオッケー、これで祖母が心配することはないだろう。

送信ボタンを押してそう一息ついていると、それを眺めていた優篤が面白そうに微笑んだ。

「二宮ってちょっと天然入ってるよね」

「え、そう?」

 思いもしなかった感想に首をかしげる。

 自分でそう思った事などあまりなかったので少し意外だった。

「私は普通だと思うけど」

「だって、放課後のホームルームから今までずっと気持ちよさそうに

寝てたし、早く帰らないといけないって血相掻いて廊下に飛び出して

オレにぶつかった割にはケロッとそのこと忘れてるしさ」

 ははっと愉快そうに笑う優篤に思わずムクれながらそっぽ向いた。

「し、仕方ないでしょう?春は心地いい風が眠気を誘ってくるんだから。

でも、大事な予定を忘れてしまったのは小笠原くんのせいですっ!!

小笠原くんにぶつからなければ忘れていませんでした!!」

「えぇ……オレのせい??」

 きょとん顔をする優篤に少し苛立ちを覚え、そのおデコを

軽く指で弾いた。

 確かに少し抜けてるところは認めるがこの人も人の事言えない気がするのは自分だけだろうか。

 だって……。

「……」

 自分の腕を一瞥すると、彼の手がまだ腕をしっかりと掴んでいた。

 彼はいつこの手を離してくれるのだろう……。

 そんな念を込めながら、いてぇーとおデコをさする優篤を軽く睨む。

「いい加減、手を離してくれないかな?」

「え……あッ!!」

 刹那、彼は思い出しかのように顔を真っ赤に赤らめて咄嗟に掴んでいたその手を離した。

 ほら、人の事言えない……。

「わ、わざとじゃないぞっ!? せ、セクハラとかじゃないからなっ!?」

「別にいいよ? お互いちょっと抜けてるって事で許してあげる」

「えぇーなんだよそれ……」

 少し嫌そうな顔で嘆息を漏らす優篤に思わず笑みを零すと、転んだ

拍子に落とした鞄を拾い上げて彼に視線を向けた。

「じゃあ、メールは送ったけど急いで帰らないといけないのは変わらないから、もう行くね?」

 このまま話しているともっと帰りが遅くなってしまうのは明白だ。

 これ以上、祖母に迷惑は掛けられないと思った優春はそう優篤に手を降って別れを告げようとしたその時、彼が少し慌てたように口を開いた。

「じ、じゃあさ、オレと一緒に帰らない?」

「えっ?」

 思わず振り返ると、彼は顔を先程よりも真っ赤にさせながらこちらを静かに見つめていた。

 その彼の青く澄んだ真剣そうな瞳と目があう。

「私と?」

「だからそう言ってるじゃん。殺人事件が頻繁に起こる世の中だぞ?

オレも一緒に帰るよ」

 思わぬ発言に目を見開く。

「でも、いいの? せっかく部活が休みになって嬉しそうだったし、予定とかないの?」

 先程、優篤の部活が休みになったと言っていた時の笑顔を思い出す。

 そう言ってくれるのは嬉しいが、なんだか気を使わせたみたいで少し申し訳なく感じた。

 それに、部活が休みなら早々に帰ってもおかしくないのに、教室までわざわざ戻ってきたところを見るに何か予定があったのではないだろうか。

 そんなこちらの思いを察したかのように優篤が首を横に振って苦笑した。

「元から二宮と帰ろうと思ってたんだ。じゃないと、わざわざ寝ていた二宮を起こしに来たりしないよ」

 ニッと笑みを浮かべる彼の顔が若干赤い。

「そ、そう……?」

 それを見てこちらも反射的に少し頬を赤らめると 

優篤が更に顔をリンゴのように真っ赤にさせて慌てて反論してきた。

「ち、違うよっ!? そういう……へ、変な意味って訳じゃないからね!?」

 変な意味って……。

 それを聞いて一気に冷めた頬を摩りながら深いため息を吐いた。

「はいはい。それなら一緒に帰りましょうか?」

 いつも一言余計なんだよなぁ。

 そんな内心の気持ちを込めながら二宮は冷めた一言を吐き捨てると

未だに顔を赤らめている優篤を軽く一瞥して、昇降口のある一階へと足を進めた。



「今日はお婆ちゃんの手伝いの日か?」

「そう。巫女のお仕事ね」

 階段を降りて、一階の廊下を昇降口へ向けて歩いていると

隣を歩いていた優篤の問いかけにそう苦笑した。

 それに彼が笑みを浮かべる。

「二宮はすごいよな、高校二年でもう働いてるんだからさ」

「働いてるっていうか、家の手伝いのようなものだよ?」

 褒めてくる優篤に少し複雑な思いを抱きながら笑みを返す。

 自分は祖母と二人暮らしなのだが、祖母は小さな神社の宮司を勤めており、二人で暮らし始めた時から祖母の神社のお手伝いをする約束になっていた。それはほぼ毎日と言ってもいい。そのおかげで自分は毎日学校が終わったら手伝いの為に早々に帰らないといけなかった。まぁ、今日は寝てしまい遅れてしまっているが……。

「でも、お金はもらってるんだろ?」

「お小遣い程度にはね」

 彼の言う通り、手伝いといっても家の家事のお手伝いとかではなく、巫女として神社を切り盛りする役目を一応担っているので、申し訳程度にはお金は貰っている。

 まぁ、そんな多い額ではない。一日数千円といった所だ。

 そんな優春の答えに優篤はいいなぁーと嘆息を漏らした。

「小遣い程度でも羨ましいよ。うちの学校って基本バイト禁止だろ?

だからいつも金欠で困ってるんだよなぁ」

「あぁ、確かにそんな話、他の子達もしてたかも。

友達がバイト隠れてやっているのを生活指導の先生に見つかって

停学処分を受けた生徒がいるって言ってた」

「そうなのっ!?」

 うちの学校は以外と生活指導に厳しく、バイトは基本禁止となっている。

 バイトで風紀が乱れるとは思えないのだが、その辺先生方はお堅いのだ。

 この前、クラスの女子達が隠れてバイトしているのを生活指導の先生に見つかり、こっぴどくお叱りを受け、停学処分を喰らっていたぐらいだ。

 金欠で困っている生徒は以外と多いのかもしれない。

「でも、小笠原くんってその代わり部活動してるじゃない」

 そう言いながら優篤の肩に背負っている筒に再び視線を向けた。

 自分的には、毎日家の手伝いで神社に籠っているよりは、学校で友達と一緒に大会やコンクールに向けて部活動をしていた方が羨ましく感じる。

 しかし、彼はそうかな……と怪訝な顔でため息を吐いた。

「部活は金湧かないし……むしろ、部費やら道具やらで貴重なお金が消費していくだけ」

「あぁ……弓道って道具とか色々あって見るからに高そう。さっきからすっごく気になっているんだけど、この細長い筒?とかいかにも高そうかも」

「矢筒のことか? これはそこまで高くないけど、《ゆがけ》っていう弓を引くための道具と弓道着は結構するかな」

「へぇー? 道着はなんとなく分かるけど、《ゆがけ》って何?」

 弓道の存在は知っているが、その世界の専門用語はさっぱりわからない。

 いつも彼が背負って登下校時に持ち歩いていたこの筒の名前も《矢筒》だという事を今知ったぐらいだ。

 そんな優春の疑問に彼はエナメルバックから何かを取り出した。

「ん? あぁ、これだよ」

 出てきたのは、子犬並みの大きさをした手袋のような道具だった。

 素材は革製のようで、触るとなめらかな肌ざらりを感じる。

 持たせてもらうと、以外と重量があった。

「へぇ〜。すごいっ! これを嵌めて弓を引くの?」

 少し興奮しながらそう視線を向けると彼が嬉しそうに微笑む。

「そうそう。具体的な値段は覚えてないけど、道着も合わせて軽く三万は超えた筈」

 さっ、三万っ!?

 刹那、驚いた拍子に持っていた《ゆがけ》を落としそうになり、慌てて抱きかかえた。

「た、確かにそれは高いね。でも、小笠原くんのお父さんとお兄さんって

確か流鏑馬やっているんでしょう?道具とか譲ってくれなかったの?」

 流鏑馬やぶさめとは、走る馬上から鏑矢を射る日本の伝統的な儀式の一つだ。

 優篤の家系は代々、その流鏑馬をやっており、彼の父と兄はうちの神社で時たま開かれる祭りの時に流鏑馬をしに来てくれるのを見た事がある。

 両者とも、馬に跨って弓を弾くその姿はとても凛々しく、カッコよかった。

 まぁ、それを言うと優篤は拗ねるので言わないが……。

 ゆがけを返しながらそんな素朴な疑問を放つと、彼は少し複雑そうな顔で口を開いた。

「ユガケと道着以外は父ちゃんと兄貴のを譲ってもらった。

でも、ユガケは自分の手に合わないといけないから自分用がないといけないし、道着は二人とも体大っきくてサイズが合わなかったんだよ」

「あ、そうなの?」

 聞けば、ゆがけは自分の手に馴染むものを使わなければ危ないらしく

譲って頂いた物や借り物ではダメなのだそうだ。やはり弓道の世界は奥が深い。

「でも羨ましいな。私は家の手伝いで部活動している時間とか取れないから」

 まぁ、弓道の云々は置いといたとしても、部活動をしている生徒たちにはやはり羨ましさを感じてしまう。それなら、祖母に相談して部活をやらせて貰えばいいと言われたこともあるが、祖母と暮らす時に交わした約束を破るみたいで、どうしても言う事ができなかった。

 今は部活や友人との関わりよりも、住まわせてもらっている祖母へ

恩返しすることが今の自分がすべきことだと思っている。

「そういうものかね」

「そういうものだよ」

 二人でそんな話をしながら昇降口まで来ると、

あたりが騒然としているのに優春は眉をひそめた。

「うわぁー。いつも以上に人が多いね。」

 昇降口に着くと、いつも以上に生徒たちで賑わいを見せていたのだ。

 まぁ、それもその筈だろう。先程優篤が見せてくれたプリント通りならほぼ全ての部活が休止になっている筈である。

 いつもより、早めに帰ろうとする生徒が多いのも頷けた。

 しかし、それにしても……。

「部活がなくなったとしても、やけに人が多いような気もするのは私だけ?」

 それが本当だったとしても、やけに人が多い気がする。

 特に女子が。学年は関係ないようだが、みんなどこかソワソワと浮つき、

頬を赤らめている生徒たちばかりだ。

 中には何故かサイン色紙を大切そうに抱えている子もいて、ただ帰るために昇降口に来たようには到底見えない。

 そんな周りの異様な様子に呆気にとられていると、隣の優篤があれじゃない? と呆れ顏で入り口付近を指差した。

「?」

 人混みを掻き分けるようにその指差す方向に視線を向ける。

 刹那、女子に囲まれキャーキャーと黄色い歓声に包まれている一人のモデルのように背が高い男子生徒が視界に入った。

「っ!!」

 女性のようなスラッと細くしなやかな手足、肌は透き通るように透き通るように白く、玄関から漏れる夕日の光を背に、長く結った白銀に輝く髪を靡かせて、女性陣に囲まれて優雅な微笑を浮かべるその青年を見て思わず息を呑む。


 なんて、美しいの……


 思わず内心でそんな感想が漏れ、

優春は唖然としたまま固まってしまった。

 その人物はこの世のものとは思えない絶世の美青年だったのだ。

 白く長い睫毛に、宝石のように済んだ青く輝く穏やかな瞳が特徴的で、

〝幽玄〟と言う単語が一番よく似合う人だと思った。

 そんな呆気にとられる優春に優篤が囁く。

「あぁ。副生徒会長様だね。相変わらず目立ってるなぁ」

「副生徒会長?」

 思わぬ単語に首を傾げると彼は驚いたような顔を向けてきた。

「二宮、まさか副生徒会長のことを知らないの??」

「え? ま、まぁ……」

 そこまで驚かれると思ってなかったので、若干困ったように眉をひそめると彼は嘆息を漏らしながら説明してくれた。

「あそこの彼の名前は西園寺翠蘭…今年から副生徒会長に就任した俺らと同じ学年で特進クラスのエリート君さ。

容姿端麗で頭脳明晰、運動神経抜群の完璧超人で、老若男女問わず高い人気を誇るこの学校で二番目に人気のあるイケメンで有名だよ?」

「そ、そうなの…!?」

 確かにイケメンだったけど……。

 そう言われて改めて見ると、彼は腕に生徒会の腕章を付けていた。

「あまりのイケメンな故、彼の周りにはいつも人集りが出来るんだ。

特進クラスの入り口には休み時間になると、すごい数の女子生徒達が群がり、彼の登下校時には彼を追いかける女子達の行列ができるお祭り騒ぎさ。本当、勘弁してほしいよ。群がるのは勝手だけど、人の邪魔にならない場所でやってほしいって感じ」

「はぁ……」

 呆れ顔で困り果てる優篤に苦笑する。

 確かに、この人集りでは自分の下駄箱にすら行けない……

 聞けば、彼には独自のファンクラブが存在し、彼のファンである学校の女子達は必ずそのクラブに所属しているらしい。彼のブロマイドや写真集などが中では売買されているとか……

 しかもそれが本人の許可なしで行われているというから驚きだ。

 恐らく、彼女達にとって西園寺翠蘭というイケメンは、世間一般で言う芸能人か、アイドル的な存在なのだろう。

 だが、人気にも限度というものがある、この人気ぶりは少し異常に感じた。

 本人もさすがにこれは迷惑になっているのではないだろうか……


 そう思って西園寺さんに視線を向けるが、とりわけ迷惑そうな表情は見せていない。

 むしろ、嫌がるどころか、群がる女子一人一人にご丁寧に愛想を振りまいていた。

 メンタルが強いのか、懐が深いのか、どちらにしても只者ではないように感じる。

「二宮、君って以外とそういう世間的な事に疎いよね。

西園寺君の事ならこの学校に通ってる生徒なら普通知ってる情報だと思うけど」

 それに比べ、ニコニコと面白そうに微笑みながらデリカシーのない

発言をする優篤はどうにかならないものなのか……。

 同じ男性とは思えず、優春は深いため息を吐いた。



 うちの神社があるのは、「鞍馬口」と言う京都市営地下鉄の駅から徒歩数分の所にある。

 京都の地下鉄は烏丸線・東西線の二つの路線があり、西京区を除く京都市内一〇区と宇治市を通っている「鞍馬口」は烏丸線にあるので、

東西線である「京都市役所駅前」から乗り換えの駅「烏丸御池駅」で

烏丸線へと乗り換えねばならなかった。

『次は­——烏丸御池、烏丸御池です』

 アナウンスが車内に響き渡る。

 地下鉄の車内で、つり革に揺られながらスマホを眺めていた優春は祖母から返信が来ていないかメールを確認していた。しかし、

「あれ?まだ見てないのかな」

 祖母からの返信はまだ来ていなく、眉をひそめる。

 単に仕事が忙しくて返信していないのか、ただ気がついていないのか。

 電話した方がよかっただろうか……。

 そんなことを考えていると、同じく隣でつり革に掴まってスマホを

いじっていた優篤が徐にこちらに視線を向けてきた。

「おばあちゃん?」

「うん。返信こないなぁって……」

 いつも連絡を入れると、必ず返してくれる祖母らしくない。

 電車は烏丸御池に着き、優春達は帰宅途中の学生やサラリーマンの人達に紛れて烏丸線へ乗り換える為に電車から降りると、人の波に流されるように烏丸線のホームへと向かった。

 その移動の際に祖母の携帯に電話をかけてみる。

「……」

 しかし、どれだけコールを鳴らしても祖母が通話に出ることはなく、

仕方なく優春は留守番電話を入れてスマホをしまった。

 きっと電話に出れないほど忙しいのかもしれない。

 これは早く帰って手伝いに行かなければならないかなと思っていると

ふと、隣を歩く優篤のスマホに何かのニュース記事を表示されているのが目に入った。

「小笠原くんは何を見ていたの?」

「ん? あぁ。さっき学校で話していた連続殺人事件の記事を見てたんだよ」

 そう言いながら差し出されたスマホの画面には確かに先程学校で話していた事件の記事が大々的に表示されていた。しかも、全国ニュースになっている。

 そこまで大きな事件だったとは知らなかったので少し驚いた。

「へぇ。結構有名な事件だったんだね」

「普段、特定の事件とか調べたりしないけど、この事件の影響で部活動が休止になったし、少し気になって調べてたんだ」

 聞けば、殺害された被害者の数は合計で三十人以上だとか。

 皆、夕暮れ時に一人でいるところを何者かに連れ去られ行方不明になっており数日後に最後に目撃された場所から数キロ離れた人通りのない雑木林や土手で発見されるという内容だった。

 その間、犯人に関しての目撃者は皆無で都内の監視カメラにも写っていないらしい。

 遺体からも犯人の痕跡はもちろんゼロ、被害者はまるで神隠しにでもあったかのように姿を消し、次に人前に姿を現した時には変わり果てた姿ということだ。

 警察はさぞや頭を抱えてしまっていることだろう。

 確かに、これだけ殺されれば全国ニュースにもなる筈である。

 部活動が休止になり、生徒に早く下校を命じた学校側にも納得ができた。

「殺された人達は性別、年齢はみんなバラバラなんだ。だけど、共通点がいくつかあるみたい」

「共通点?」

 烏丸線のホームに着いた優春達は、ちょうど来た国際会館行きの地下鉄に乗車すると、車内は先程よりも人でごった返していた。

 この時間帯のこの車両は大学生さんやサラリーマンの帰宅時間が被るのでいつも混雑しているのだ。

 人の邪魔にならぬよう端に寄ると、彼は別の記事を読ませてくれた。

そこには、先程の記事には書いていなかった殺害された人達の詳しい詳細が記載されていた。

 

 殺された者達の共通点は大まかに二つ。

一つは殺された者達の首筋に歯型のようなモノが刻まれている事。

二つ目は遺体からは血液が全て抜き取られているということだった。

今まで発見された遺体全てにこれらの特徴が一致している事から

警察は同一の犯行だと認識したらしい。

 死因は血液を多く失った事による失血死だったとか。

という事は生きている時に血を取られたという事だろうか。

考えただけで怖気が走る。本当に物騒な世の中になったものだ。

「どうやって血を抜き取って殺したのか分からないらしいけど、とても人間業とは思えないよね」

 眉をひそめながらそう呟く彼に同情して頷く。

 どうやって殺害したのかは置いといたとしても、普通に考えてそんな大勢の人数を目撃者も監視カメラにも引っかからずに攫って殺める事が果たして可能なのだろうか。

 内容があまりにも不可解すぎる。それゆえに不気味だと思った。

 眉間にしわを寄せてそんな事を考える優春に、もしかしたらさ……と

優篤は声をひそめて耳元で囁いてきた。

「犯人は人間じゃない、とか?」

「え……?」

 それに思わず目を見開いて咄嗟に彼を見遣る。

「人間じゃ、ない?」

「うん。だっておかしいだろ? 普通の人間が犯人だとするなら不可解な点が色々と多すぎる。

まず、目撃情報が一切ないのも変だ。被害者はまるで神隠しにでもあったかのように豁然と消えてるしね」

 確かに、彼の言う通り普通では到底できない犯行なのは確かだ。

これが人間ではない何かの仕業だと仮定すれば不可解な現象もおのずと納得できる。

しかし、それだと……。

 そう考え込んで眉間にしわを寄せた優春に彼は、ははっと苦笑しながら背中を軽く叩いてきた。

「冗談冗談っ! そんなわけないじゃん。殺害された人達の役職がちょっとファンタジーぽかったからそれっぽいジョークを言ってみただけ」

「ふ、ファンタジー?」

 首をかしげると、優篤は画面をスライドさせて殺害された被害者の

詳細が書かれた一文を見せてくれた。

「今朝、学校の近くでこの事件の被害者が遺体で発見されたって話は学校でしたろ?その被害者は男性なんだけど、役職は陰陽師だったんだって」

「えっ!?」

 陰陽師っ!?

 予想外の単語に思わず声を上げる。

 陰陽師など、日本史の授業で習った安倍晴明ぐらいしか知らない。

 現在もそういう役職の人がいるとは思わなかった。

 しかも、それだけではない。

 その前に殺された女性は占い師、その前の老人は霊能者だと書かれていた。

 よく見ると、殺された被害者の多くはそういった神職に携わっていた人々ばかりである。

 それに彼が何でだろうなぁと呑気な声を上げた。

「なんか、変な事件だよなぁ。いくら京都は神社が多いからって

わざわざ神職に携わっている人達を狙うなんて、罰当たりにもほどがあるよね」

「う、うん……」

「まぁ、そんな事よりさ­­­­­——」

 優篤はそう言うと、事件の話を早々に切り上げて別の話題を話し始めてしまった。

 どうやらこの事件に対して興味が完全になくなってしまったらしい。

 まぁ、こちらはただの高校生、自分の身の回りの危険性が感じられなければ刑事でもあるまいし、一々事件を詳しく知ろうとは思わないだろう。

 彼にとってこの事件の話題はただの世間話に過ぎなかったのだと思う。

 しかし、優春は殺された被害者達の共通点を知って彼のように別の話題へ切り替える事ができなかった。

 殺されているのが神職に携わっていた人達ばかり。一応、うちの神社は陰陽師や占い師、霊能者的なことはやっていないないが祖母は宮司を勤めている。宮司も立派な神職だ。

 考えすぎかもしれないが、どうも嫌な予感が拭いきれず、

優春は不安な顔で連絡が未だ来ないスマホを握って眉をひそめた。


「二宮、大丈夫?さっきから顔色悪いけど……」 

 どうしても先程の話が頭から離れず、優春は鞍馬口に着き、改札を出るまで上の空だった。

 神職の人が襲われているかもしれない……。

 そう思うと連絡が取れない祖母の顔が脳裏に浮かんで離れない。

 どうしても嫌な考えばかり浮かんで眉間にしわを寄せていると

「あの、ごめん……さっきの事件の話で心配させてちゃったね」

 前を歩いていた優篤が心配そうに顔を覗き込んできた。

 それに慌てて我に返り、首を振るって苦笑する。

「う、うんん。私の方こそ、せっかく一緒に帰ってくれていたのに空気悪くしてしまってごめんなさい」

「そ、そんな事……!!」

 何か言いかけた彼はそのまま口ごもると、ふと何か思い出したかの様な仕草を見せ、そういえばさ……と話題を変えてきた。

「そういえば、さっきの陰陽師の話で思い出したんだけど」 

「お、陰陽師?」

 唐突な話題転換に俯いていた顔が自然と上がる。

「前々から気になってたんだけどさ、二宮って巫女の仕事してるじゃん?

巫女の仕事って実際何をするの?」

「お、お仕事?」

 そう突然問いかけられ、思わず戸惑ってしまう。

 どうやらこちらの様子を案じて話題を変えてきてくれたらしい。

 せっかく気を使ってくれたのだから話に乗ろうと無理やり頭を切り替える。

「そういえば、話した事とかなかったね」

 いつも、彼の話を聞くばかりで、彼に自分の巫女としての具体的な仕事内容を話した事はなかった。

 神職の仕事など、関わりがあまりない人にはきっと分からないことも多いのだろう。

 どう話せばいいか悩んでいると、彼は戸惑うこちらの顔を不思議そうに見つめてきた。

「ん? 何複雑そうな顔してるの?いつも夕暮れ時に神社の仕事があるみたいだけど神社が運営しているのって普通、日中だろ?夕暮れに行う巫女の仕事って何かなって思ってさ」

「えっと……」

 思わぬ的確な質問に言葉が詰まる。

「うちは……その、ちょっと特殊で、夕方からはお客さんは社内には入れないんだけど、一応、夜も稼働はしているの……」

 なんとか言葉を選びながらそう答える。それに彼は目を輝かせながら更に質問をぶつけてきた。

「へぇ! そうなんだ! 神社にも色々あるんだなぁ。

じゃあさ、普通の巫女の仕事のイメージって舞を踊ったり、神社を掃除したり、お守りやおみくじを売ったりとかするイメージなんだけど、実際の巫女さんって何をしている?」

「ん、ん〜……。神社によるけど、舞は偶に踊ったりはするよ? でも、

ウチでは掃除やおみくじなどの販売は、バイトの学生さんにお任せるようにしているの」

 覗き込む彼の顔がすごく近い、微かに額に浮かぶ冷や汗を悟られぬよう咄嗟に顔を逸らすと彼は感心したように頷いてみせた。

「へぇ〜あれって学生さんなんだ。本物の巫女さんかと思った」

「まぁ、普通違いとかわからないよね」

 階段を上がり、地上へ出ると辺りはすっかり薄暗くなっていた。

 春になったとしてもまだまだ四月、日の暮れるスピードはまだ早い。

 車が忙しなく走り抜ける車道に隣接するように並ぶ街灯は既に稼動し、周りの建物や住宅街から漏れた光が街路樹として植えられた満開に咲き誇るソメイヨシノの桜の木々を淡く照らしている。

 そんな花びらが舞い散る桜の下を歩きながら夜風に吹かれ優篤が首を傾げた。

「ん? だとしたら、夕方から巫女として働く二宮は

いつも何をしているの?いつも舞を踊っているの?」

「え? そんな毎日舞ったりはしないけど、いつもは……

相談とか聞いてる、かな」

「相談?」


 鞍馬口駅周辺は車の行き交いが激しい烏丸通から一本中道に入れば、

そこは明るい烏丸通とは一変し、街灯も少なく薄暗い、閑静な住宅街が広がっている。

 その人通りも少ない住宅街を彼と歩いていると、ふと、灯りが漏れる家々から夕飯の良い香りが漂ってきたのに気がつき、優春は突如やってきた空腹にお腹を押さえた。

 きっと誰かのお母さんが夕飯の支度をしているのだろう。

 少し羨ましく感じ目を細める。

 それに優篤がおーい聞いてる?と視界に手を入れてきて我に返った。

「あっごめん……」

「それで、相談ってどんな相談を受けるの? やっぱり、占い的な何かか?」

 彼の目がいつも以上に輝かせているように見える。よほど巫女の仕事に興味があるようだ。

 しかし、目の前に神社の鳥居が見えてきたのに気がついた優春はその前で立ち止まると、静かに彼に視線を向けた。

「ごめんさない。そういう踏み込んだ話はデリケートな事だから、あまり話せないの」

「あ、そう、なんだ……」

 心底残念そうに項垂れる彼に内心申し訳なく感じて苦笑する。

 彼には可愛そうだが、こればかりは彼には話せない……。

 そんなことを思いながら、ちらっと、鳥居の奥に見える神社を一瞥すると、境内にはうっすらと明かりが灯っていた。

 それを確認した優春は、そのまま彼に向きなおる。

「今日は、ウチまで送ってくれてありがとう。久々に二人で帰れて楽しかった」

 それに彼も優しそうな笑みを浮かべて首を振る。

「うんん。こちらこそありがとう。色々話せて楽しかった。それじゃあ、また明日学校で」

「うん。また明日」

 手を振って彼の背中を見送る。

 その時、彼は突然立ち止まると、こちらを徐に振り返ってきた。

「あ、そうだ。さっき、殺人事件の犯人は人間じゃないかもって話だけど……」

「ん?」

地下鉄で話した殺人事件の犯人像の仮説の事だろう。

それがどうしたの?と首をかしげると、彼はすごく真面目そうな真剣な顔で口を開いた。

「幽霊とか妖怪なんてこの世にいるわけないから」

「え……?」

突然のカミングアウトに目が見開く。

口ごもっていると、彼はそのまま言葉を続けた。

「あれは人が勝手に作り出した嘘話さ。

何より、存在しないって証明ももう既に科学で実証済みだし」

「そ、そうなの?」

思わず聞き返すと、それに彼は静かに頷く。

「詳しい内容は忘れたけど、電磁波の影響で人に幻覚作用が発生するんだって。それで人の目には幽霊や妖怪を見たように感じるらしいよ」

「そ、そうなんだ……」

「だから安心して。幽霊や妖怪なんていう存在は最初からいないんだからさ」

「……」

そう言い残すと、彼は颯爽と住宅街へ走り去っていった。 

一人、神社の前で取り残された優春は複雑そうな顔でそれを見送る。

 きっと、自分が落ち込んでいる事を彼なりに感じ取ってくれたのだろう。

 その原因は自分の(犯人は人間ではないかもしれない)と言う仮説だと思った彼は、あぁ言ってくれたのかもしれない。今思えば、改札を通ってからの巫女の話もこちらの沈んだ気持ちを切り替えさせる為にワザとしてくれたのかもしれないなと思った優春は薄闇の中で苦笑した。

「ありがとう、小笠原くん。そして、ごめんなさい……」

 そう独り言を呟きながら、鳥居を潜り、もう夕刻なので固く閉ざされている四脚門と呼ばれる木製で出来た巨大で立派な西門にたどり着くと、横に設けられた小さなドアの鍵を開け、優春は境内に入った。再びドアの鍵を閉めて灯篭に照らされた白砂が敷かれた境内を歩く。

 歩きながら優春は、優篤はやはり、幽霊や妖怪なんているわけがない、そう信じている人間なのだと知って眉をひそめた。

「まぁ、そうだよね……それが普通の考えだものね」

 独り言を呟きながら、神楽殿を横切り、境内に隣接した『鬼一』と書

かれた表札が目立つ年季の入った木製住居の社務所の《悪霊退散》のお札が貼られた玄関のドアを開けると、

「姫さまぁ〜!! 遅いでございまするっ!!」

「姫さま、おかえりなさいっ!」

 河童や座敷童、その他諸々の多くの妖達が飛び出してきた。

 そんな彼らを受け止めながら苦笑する。

「ただいま、みんな。ごめんなさい、ちょっと遅くなってしまいました。留守中良い子にしてましたか?」

「はいっ姫さま!! ちゃんと私達でこの神社をお守りしておりましたよ」

 物心ついた時から、自分は普通の人々には見えないものが見えた。

 それは〝隠り世〟あの世、黄泉と呼ばれる自分たち人間などの生きた者たちが暮らす現世に重なるようにして存在する、もう一つの世界に棲まう者達の事。この世の者ではない存在、霊や妖と呼ばれる者達だ。

「いつも神社を守ってくれてありがとうございます」

「いえいえ。姫さまのお頼みでございますので」

 そう言って笑う可愛くて小さな妖達の頭を優春は優しく撫でる。

 自分を姫さまと慕う妖の彼らは、幼い頃からいつも側にいてくれた友人達だ。今は祖母と住むこの神社を共に守ってくれている大切な仲間でもある。

 物心ついた時から持っていたこの体質は、自分以外もちろん誰もいなかった。日常の周りにあふれている隠り世の者達…それらの存在を訴えても誰にも信じてもらえず、友人や家族にも逆に不気味がられ…忌み嫌われて哀感を覚えた事が子供の頃に何度もあり、あの頃はよく独りぼっちだった。

 それ以来、霊感があるという事は頑なに隠し、周りの友人達の前では

〝普通〟の人間のフリをして生きている。

 先ほど一緒に帰ってくれた友人の優篤はこの事をもちろん知らない。と言うより、知らせたくなかった。知ればきっと、間違いなく嫌われてしまうから。優篤も言っていた、幽霊とか妖怪なんてこの世にいるわけがないと。彼の言う通り、世間一般では幽霊や妖怪などの存在は架空の事とされている。だからきっと、話せば頭のおかしい子だと思われて間違えなく嫌われてしまう。それが怖いのだ。せっかく体質を隠して普通の人として昔に比べたら多くの友人達に出逢えたというのに、それをすべて水の泡にはしたくはなかった。独りでいるのは、何よりも辛い……

「では、姫さま。客人が既にお見えになっております。

巫女装束にお着替えの上、神社の本殿にお越しくださいませ」

「わかりました」

 妖達にそう急かされるように背中を押され、靴を脱いで玄関に上がる。

 ちょうどその時、廊下の奥から無数の足音と共に

「あら?優春、おかえりなさい」

 奥から茶を乗せた盆を持つ一人の人物が顔を覗かせた。

「お、おばあちゃんっ!?」

 それに思わず目を見開く。

 美しく結った白髪に、宮司が着る斎服を身に纏い

穏やかな笑みを浮かべ出迎えてくれたのは自分の祖母だった。

「あらあら。どうしたの?まるでお化けでも見たかのような顔よ?」

「ど、どうしたのじゃないよっ!! 連絡がつかなかったから心配してたんだよ!?」

 慌ててそう詰め寄ると、彼女はあらそうなの〜? と苦笑した。

「ごめんなさいねぇ。お客様が今日はいつも以上に多くて仕事が立て込んでしまって、あなたからメールが来ていたのは知っていたのだけれど、返信することができなかったの」

「なんだ、そうだったの」

 そんな彼女の答えに安堵し、肩の力が一気に抜けた感覚がした。

 てっきり、優篤と話していた連続殺人事件に巻き込まれたのかと思った。

 同時に祖母が無事だと分かり、目からじわりと涙が溢れる。

「良かったぁ、おばあちゃんが無事で……」

「ど、どうかしたのかい?」

 思わずその場にへたり込むと、祖母は慌てて心配そうに顔を覗き込んできた。

 それに苦笑しながら先程優篤から知った連続殺人事件の事を話すと

彼女は少し驚いたかのように目を見開いた。

「あらま、そんなことがあったのかい?」

「うん……神職に勤めている人が狙われているみたいで

おばあちゃんとは連絡取れなかったし、心配で心配で……!」

 そう言いながら祖母に抱きつくと、彼女は優しく頭を撫でてくれた。

「おやおや。それは怖い想いをさせてすまなかったね。

大丈夫よ?おばあちゃんは優春からもう離れたりしませんからね

安心していいのよ。大丈夫、大丈夫」

 耳元でそう優しく囁きながら、ポンポンと背中を叩いてくれる。

 それが心地よくて、程よい安心感があって先程までの不安はいつの間にか消え去っていた。

「ありがとう、おばあちゃん……」

 冷静に考えてみれば、神職の人が狙われているからといって、必ずしもうちが狙われるという事はないだろう。

 京都には多くの神社やお寺が点在し、その数だけ神職を担っている人々が暮らしているのだから神職というそれだけの理由で、ピンポイントで狙われる事など滅多にない筈だ。祖母と連絡が取れなかったから、少し神経質になっていただけだったのかもしれない。

きっと嫌な予感がしたのも、単なる気のせいだったのだろう。

そう思うと少し気持ちが楽になり、顔を上げて笑みを返すと、祖母も笑顔になる。

「そう、よかったわ」

 祖母はいつも優しい。どんなことがあっても穏やかで、おおらかに自分を包み込んでくれる。

そんな彼女が幼い頃から大好きだった。

 ひとまず祖母も無事だとわかったので、事件の事は一旦忘れよう。そう思ったその時、

「姫さま、そろそろ……」

 後ろで控えていた妖達がそう申し訳なさそうに背を突いてきたので、慌てて我に返った。

「あ、そうだった。行かなくちゃ」

 安心しきって巫女の仕事をすっかり忘れるところだった。

 咄嗟に立ち上がると、祖母がそう背中を押す妖達に笑みを向けた。

「いつも孫をありがとうね」

「いえいえ。姫さまは我らの大切なお人ですので当然でございます、宮司殿」

 実は祖母も、自分と同じく隠り世の住民が見える人なのだ。

 彼女は自分とは違い、ここの神社に勤め始めた時から隠り世の者達を見ることができるようになったらしい。

 祖母の持っていた盆が目に入った。

「お客さん、来ているの?」

 盆の上には無数の湯呑みがお茶菓子と共に乗せてあり、

湯呑みからはまだ湯気が立ち上っていた。

 それに祖母は笑みを浮かべながら頷く。

「えぇ。今日はいつもより人数が多くてね。増加で今からこれをお客様に運ぼうと思っていたところなの」

「あ、そうなの!? じゃあ、私もすぐに着替えないと……!」

 どうやら、慌てて帰ってきて正解だったらしい。

 自分も急いで祖母の手伝いをしようと巫女装束に着替えようと咄嗟に自室へ足を向けると、祖母に呼び止められた。

「ねぇ、優春?いつも言っている事だけれど、この神社の手伝いは私からの個人的なお願いのようなものだから、時間がある時でいいのよ? 学業や友人との交流を削ってまで急いで帰ってくる必要はないわ。あなたはまだ高校生で学業や友人との交流が何より大事な時期なんだから、そっちを優先してもいいのよ?」

「……」

 部活とかやりたい事はないの? とニコニコしながら訪ねてくる彼女から視線をそらす。

 そう言ってくれるのは正直嬉しい。

 彼女の言う通り、この神社を手伝う事は何も強制ではない。手伝っているのは自分の意思だ。確かに、友人と放課後に遊びに行ったり、どこかの部活動に所属して大会やコンテストなどを部員のみんなで目指してみたいと言う憧れの気持ちもある。

 しかし……。

 ちらっとそう微笑む祖母の背中を一瞥すると、彼女がその背中をしきりに摩っているのが目に入った。

 実は祖母はここ数年、体調があまり優れていない。

日中は病院に通って薬を貰って治療してもらっているのを知っている。

神社の仕事だって、昔に比べここ数年でかなり辛そうにしている光景を何度も目にしているのだ。

 それに加えて自分を女手一つで育ててもらっているというのに

そんな彼女を放って自分だけ楽しく学校生活を送ろうとはとても思えなかった。

「おばあちゃんの気持ちはすごく嬉しい……けど、私は、大丈夫だから。

おばあちゃんの力になりたいの。これは私がやりたくてやっている事だから」

 祖母の手を両手で優しく包み込んでそう微笑む。

「そう」

 祖母はそれ以上何も言わず、ただ静かに微笑すると、手を包み返してくれた。

「おばあちゃんは優しくて思いやりのある孫を持てて幸せ者だねぇ、ありがとう」




 薄暗い自室で姿見の前に立った優春は、先ほど祖母が見せた笑顔を思い返していた。

「おばあちゃん……」

 きっと、祖母は出来れば自分には学校で普通の女の子として楽しく暮らして欲しいのだろうしかし、祖母やこの神社を放っておく事など、自分にはどうしても出来ない。それに……。

 そんな事を内心で考えながらハーフアップにした髪を解き、制服を脱いでスカートを下ろした。刹那、鏡に桜の花を散らした編みレースをあしらったブラや、フロントに桜柄の編みレースを施したショーツ姿になった自分が露わになる。

 その姿を静かに眺めていると、周りで巫女装束の準備をしていた妖達が口を開いた。

「先ほどの宮司さまとのお話を考えていらっしゃるのですか?」

「っ……」

 まるで内心の心を読み取ったかのような的確な問いかけに、思わず両腕で自分の体を抱きしめて俯く。

 それに真横に控えていた座敷童の少女達が、巫女装束の白衣を背中から羽織らせてきた。

「姫さま、お身体が冷えてしまいますよ」

「あ、ありがとう……」

 羽織られた白衣にそうお礼を言って袖を通すと、背後に控えていた着物姿の河童が何か言いたそうな顔をしていたのに気がついた優春は、そんな彼を鏡越しに問いかけた。

「あなたも、祖母と同じ考えなのですか?」

「……」

 緋色の緋袴を身につけ、用意された椅子に腰掛けると、

次は化粧道具を持って控えていた無数の妖達が顔に化粧を施し始める。

 頭飾りを始め、様々な装飾品で飾られていく様を河童は静かに眺めながら、ぽつりと呟いた。

「わたくしは、姫さまの考えを尊重いたします。

宮司様の仰っていた事もごもっともでございますが、大事なのは姫さま自身がどうしたいかです。我ら妖達の姫として、この神社でお役目を全うしてくださるのはとても有り難いこと。ですが、それ以前に貴女様は我らの友人でもあります。貴女様の幸せが第一。貴女様が本当にやりたい事をやればよろしいと、我ら妖一同は願っておりますよ?」

「本当に、やりたい事……」

 優しく微笑む河童に思わずそう呟く。

 姿見には巫女姿の自分が写っている。ここに越してきてから、学校生活よりもこの神社で巫女として祖母の手伝いに全てを注いできた。お世話になっている祖母の為に必死で。

「私は——」

 祖母達は自分のしたい事をしていいと言ってくれている。

 それはとても嬉しい。しかし、

「私は、自分の望むままに生きてもいいのかな……」

 思わず零れた呟きに気づき、はっと我に返る。

 いけない、いけない。

 何を言っているんだ自分はと首を振って思考を吹き飛ばす。

 きっと、これ以上考えても無意味だと踏んだ優春は今は自分の事より、巫女の仕事の事に集中しようと、両頬を軽く叩いて気持ちを切り替えた。


 巫女の仕事、それは神社によって具体的な役目はそれぞれ違う。

一般的に多いのは主に神職の補助、また神事において神楽・舞を奉仕する役割を担う事だが、この神社は少し違っていた。神社自体、ここは日が落ちた夕暮れ時、言わいる大禍時から本格的にこの社務所で運営が始まる。

「姫さまの御成〜り〜」

 太鼓の音が境内に重く響き渡る。

 その音色を聞きながら、社務所の薄暗い廊下を等間隔に並べられた行灯に照らされながら前を歩く祖母の後に付いて巫女装束を身に纏い、お付きの数名の妖と共に静かに歩く。その時、

「今日のお客人の方々は体の痛みを訴えている方がほとんどよ。

いつも言っているけど、無理せずにね。苦しくなったらおばあちゃんに遠慮なく言いに来なさい?」

 前を歩く祖母がおもむろにそう心配そうな顔で振り返ってきた。

 そんな彼女に笑みを浮かべて答える。

「心配しなくても大丈夫だよ、おばあちゃん。いつものことだし、

これが私の仕事。おばあちゃんには出来ない私のお役目だから」

「そうかい」

 それに祖母は少し安堵の笑みを浮かべると、廊下の突き当たりに設けられた巨大で豪華な装飾で飾られた襖の前で立ち止まり、礼儀正しく正座をした。それにこちらも習って祖母の真横に腰を下ろし、姿勢を整える。

「それじゃあ、いくよ」

「はい」

 目線で合図を送り、襖の引き手に手を掛けた祖母は、微かに微笑すると襖を静かに開け放った。

「皆さま、大変お待たせいたしました。我が社の巫女、優春を連れて参りました」

 襖を開け放った室内には、豪華な装飾品で飾られた無数の行灯が燈る薄暗い室内に大勢の妖や死霊達がひしめき合っていた。

「おぉ!! 姫様が来てくださったぞっ!!」

「あぁ!! ありがたや、ありがたやぁ!!」

 化け猫や化け狸、ろくろ首に傘お化け、落武者の霊やランドセルを背負った少年の霊など、その種類は様々だ。そんな彼らが一斉に自分の

巫女姿を見て歓喜の声をあげる中、深々とこちらも頭を下げた。

「祖母である宮司の孫、この社の巫女の二宮優春と申します。今日も皆さまの苦しみが少しでも和らぐよう誠意を込めて清めて参りますので、何卒宜しくお願い致します」

「わしの傷を先に癒してくだされっ!!」

「いいや、私だ。私の傷を先に清めてもらいたい」

「生意気だぞ貴様ら。姫様に先に診ていただくのはこの我であるっ!!」

 捲き起こる歓声と罵声。皆、競うように我先にとこちらに集まってくる。

 そんな騒がしいいつもの光景にため息をつくと、優春は少し深呼吸をして周りの彼岸の者達に声を張り上げた。

「皆様、落ち着いてください!順番に私が皆様を癒して参りますので、

お静かに、私の前に一列にお並びの上お待ちください」

 刹那、そう声をかけた途端に辺りは静寂に包まれ、自分の前に彼岸の者達が礼儀正しく列を作った。

 それに安堵しながら最初の一人に目を向ける。

「最初のお客人は貴方ですね、初めましてこんばんは。今日はどういったご用件でしょうか」

 最初のお客人は着物を着た首が異様に長い、ろくろ首の男性だった。

 初めて見る顔なので、恐らくこの社に初めて来たお客人だろう。

 そのろくろ首が訝しげに眉を顰めながらうねうねと首をしならせて顔を覗き込んでくる。

「わしは、ろくろ首の柔造である。ここの社には初めて来たのだが、お主が妖や死霊達に崇められているという噂の姫君か?」

「えぇ。そういうことになってます」

 そう優しく微笑むと、彼は苦しそうに顔を顰めながら、徐に着物を脱着始めた。刹那、思わず優春は目を疑ってしまった。

「それでは娘よ、この傷を治してはくれまいか?」

 着物がはだけ、露わになったのは、包帯でぐるぐる巻きにされた右腕だった。いや、驚いたのはそれではない。肘の付け根から下が何かに斬り落とされたかのように切断されていたのだ。

「これは……」

 咄嗟に眉間にしわを寄せながら、その切断された腕に手を添える。それにろくろ首の男性は苦笑した。

「事故で失ってしまったのです。ですが、貴女様なら何とかしてくださると聞きましたので……」

「そう、でしたか……。右腕を失くされてお辛かったでしょう……」

 こんな大きな怪我を負ったお客人は久しぶりだった。最近は病やまだ浅い傷を負った者たちばかりだったので、少し気を引き締めながら自分の両手に力を込める。

「畏まりました。では、失礼いたします」

 一言断ると、優春は両手をそのろくろ首の肘の付け根にそっと翳した。

「これより、私の力でその傷、癒して参りますので、少し辛抱してくださいね」

「心得た」

 彼がうなずくのを確認すると、翳した両手に全身の意識を集中させる。

 そして、いつもの通り頭に浮かんだ神言を唱えた。

「我は二宮優春、この世すべてを癒し清める者なり。この者に八百万の加護と癒しの恵みを授け賜え」

 その瞬間、翳した手から淡い桜色の光が溢れ出し、ろくろ首の右腕をその光が優しく包み込んでいく。その瞬間、失われた腕がボコボコと音を立てながら骨や筋肉、皮膚まで形成されて瞬く間に失った腕が再生された。

「おぉ! なんと、これはすごいっ!!」

「それは良かったです」

 手を離し、一瞬だけ己の右腕に走った激痛に顔を顰めながら苦笑する。

 それに周りの妖達が歓声をあげた。

「なんと、素晴らしいッ!!」

「亡くした腕を再生させたのかッ!?」

「神だッ!!神の力だッ!!」

 これがこの神社、巫女である自分の仕事だ。

 幼い頃から持っていた体質は、何も妖や死霊を見る事だけではなかった。

 もう一つの力、それは、他者の傷を癒して清める神力である。今のように他者の体の損傷を治癒する事はもちろん、体の痛みや病気なども何でも治す事ができる。まぁ、代償はあるが……。

 ここに集まる大勢の妖や死霊達は、この力を必要としてやってくる。精神的に病んだ者、負傷した者、流行病に犯された者など様々だ。

 元々、この神社は祖母が彼岸の者達を見る事ができたので、妖や死霊達の悩みを聞いたりするカウンセリングを主として運営されていたらしい。いわば、ここは彼岸の者達のための神社なのである。

 現在は宮司の祖母がカウンセリングとこの神社の運営と管理を主に熟し、自分はそのカウンセリングを受けたお客人達の治療を行っているのだ。

「他者を癒す力ですか、これは素晴らしいものですね。貴方が人間だなんて信じられません。まるで彼岸に舞い降りた女神様みたいだ。これなら妖達が貴女様を姫君と崇めるのも納得ですね。」

 ろくろ首は嬉しそうに微笑んでそうお礼を言うと、静かに空気に解けるようにその場から消え去っていった。。

 それを見送って苦笑する。

 人間なんて信じられないという彼の言葉、彼にとっては褒め言葉なのだろうが、自分にはあまり嬉しい言葉ではなかった。見えるだけに止まらず、他者を癒す力など、こんなの普通の人間じゃない。先程、優篤に巫女の仕事について聞かれた時、誤魔化して話さなかったのはこれが原因だ。

 こんな事をしているなど、普通の人間である彼には教えられるわけがなかった。

「それでは、次は私を診て欲しいっ!!」

「その次はこの我輩じゃっ!! 早く傷を癒してくれ」

 周りの妖がそうこちらにすがり付いてくる。

 それに目をそらして思わず俯いた。

 やはり、普通の女の子として学校生活を送るなんて無理だ。

 周りにはたくさんの隠り世の者達が集まり、自分を羨望の眼差しで見つめてくる。

「姫さまは我らの拠り所ですっ!!」

「まるで人ではないみたいだっ!!」

「我ら隠り世の女神さまっ!!」

 こんな人知を超えてしまった自分は、人間の世界で生きていく事なんてできるはずがない……優篤や他の友人達と同じ場所で生きるなど、

こんな化物みたいな自分には、最初から叶わぬ夢なのかもしれない。

 そんなことを思いながら次のお客人を癒しにかかろうとした時、背後で静かに見守っていた祖母が心配そうに声をかけられた。

「大丈夫かい?なんだか辛そうだけど、どこか痛むのかい?」

「え……。う、うんん。なんでもないよ、おばあちゃん。

心配してくれてありがとう」

 どうやら気持ちが顔に出ていたらしい。

 それに慌てて取り繕って笑みを浮かべる。

 祖母にはもうこれ以上、心配も迷惑もかけられない。

 化物と呼ばれ家族にも周りの人々にも忌み嫌われた自分をそれでも受け入れて救ってくれたこの人には……。

 その時、社務所の玄関でインターホンがなる音が聞こえた。

「っ?」

 こんな時間に誰だろうか……。

 インターホンは何度も繰り返し押され、無機質な機械音が社務所中に鳴り響く。

 最初、人間かと思ったが、社務所は境内の中に存在する。境内に入る為の門には鍵が掛かっていて入れない筈だ。先程帰宅した際、四脚門から入ってきたが、その時しっかり鍵は閉めた筈である。なので、境内の中にある社務所に人が訪ねてくるなど、まずありえない。だとしたら妖や霊だと思ったが、彼らなら現世の壁などすり抜けるられるので、用があるのならインターホンなど鳴らすことなく、そのまま入ってくる筈だ。それに、運営中はドアに鍵はかけていない。インターホンなど鳴らさずとも、中に入ってこられる筈……。

 インターホンは変わらずなり続けている。

 刹那、玄関から声が聞こえた。

「御免くださぁーい。ここに入れないので開けてもらえますか?」

 ねっとりと纏わりつくような男性の声だった。鍵は開いている筈だが、入れないと、今度は玄関のドアを乱暴にドンドン叩く音が聞こえる。

 それに思わず背筋に怖気が走った。

 何か変だ……。

 それに祖母が横で堪らず声を張り上げた。

「お客人の方ですか? ドアは開いておりますよ?ご用があるのでしたら

どうぞ中へ入ってきてくださいな」

 しかし、相変わらず玄関の者は入ってくることはせず、扉を叩き続けている。

 それにさすがに周りの妖や霊達もざわざわと騒ぎ始めた。

「なんだ? 客人か?」

「入って来ればいいだろうに」

「なぜ入れないのだ?」

 何か嫌な予感を感じ、周りの疑問の声を背に優春は恐る恐る腰を上げた。

 どちらにしろ、神社の者が様子を見てこなければならない……。

 それに祖母が静かに制して立ち上がった。

「私が行くわ。優春はお客人の相手をお願い」

「え……でも」

慌てて反論しようとした時、近くにいた河童や座敷童など、お付きの妖達が祖母の周りに集まった。

「大丈夫です姫さま。我らが宮司さまに付いていきますのでご安心ください」

「そうですよ姫さま。貴女のお役目はこのお客人達を癒すことでしょう? 他は我々お付きの妖達と宮司さまに任せてください」

「優春? 大丈夫よ。あなたの仕事はこの広間に集まった者達を癒してあげることでしょう? 私にはお話を聞いてあげることはできても、傷まで癒してあげることなどできませんからね。私の仕事はこの神社の運営と管理。あなたの仕事ではないわ」

 そう言って祖母は笑みを浮かべると、数人のお付きの妖達と共に玄関の方へと歩いて行ってしまった。

「っ……」

 それを見送って眉をひそめる。

 どうしても嫌な予感がぬぐえ切れない。

 しかし、重なるようにして周りのお客人達が早く治してほしいと嘆願を受けて頭を仕事モードへ切り替える。祖母の事が気がかりだが、彼女の言う通り、彼らの傷を癒す事が自分の役目。

 そう言い聞かせるように神経を集中させ、優春は目の前のお客人の対応に専念した。




「どうもありがとうございました。傷はすっかり癒えましたので、これで失礼致します」

 最後のお客人を癒し終え、満足して空気に溶けて去っていく客人を見送り、やっと仕事が終わって大きく伸びをした優春は、広間に備え付けられていた年季の入った掛け時計を一瞥した。

「……」

 時刻はもう既に午後七時に差し掛かろうとしており、祖母が来客の様子を見に行って既に数十分が経とうとしている。

 しかし、祖母とお付きの妖達は未だ戻ってきてはいない。

 いくらなんでも遅すぎる……。

 さすがに不安になり、優春は恐る恐る広間の襖を開けて、廊下に顔をのぞかせた。

「おばあちゃん……?」

 勇気を振り絞って声を出して祖母を呼んでみるが、返ってくる声はない。

 社務所内は不気味なほど静まり返っていた。

「……」

 何かがおかしい。人の気配は愚か、社務所内にいた筈のお付きの妖達の気配すら一切感じないのだ。

 祖母達に何かあったのではないだろうか……。

 そう思った優春は、意を決すると、不安と緊張が入り混じる中、恐る恐る腰を上げて大広間を後に、行灯の灯りが怪しくゆらめく廊下に出ると、祖母が向かったはずの玄関へ向けて静かに足を進めた。

 ぎし、ぎし……と廊下を歩く自分の足音だけが辺りに響き渡る。

「本当に静か……」

 玄関近くまで差し掛かろうとした時、周りの不気味なほどの静寂さに優春は堪らず目を細めて呟いた。先ほどまで鳴り続けていたインターホンも、乱暴に玄関のドアを叩く音も聞こえない。それどころか、会話すら何も聞こえて来ないなんて、やはりあまりにもおかしい……。

 もう玄関が見えてきたというのに、そこには誰の姿も確認できなかった。

 だが、不可解な点に気がつき、足を止める。

 玄関のドアが半開きになっていたのだ。

「なんで……」

 祖母が先程の来訪者を中へ入れたのだろうか。だが、だとしても半開き状態のまま放置するのはやはり変だ。

 違和感を覚え咄嗟に扉に駆け寄って状況を確認する。

 半開きの扉から外を覗くと、灯篭の明かりに照らされた誰もいない境内が見えた。明かりに照らされた真っ白な白砂に、明らかに自分のモノとは思えない真新しい大きな足跡がこちらに向かって付いているのが確認できた。

 来訪者のものだろうか……。

 足跡から見るに、下駄……だろうか。しかも、かなりの大きさだ。成人男性の足跡よりも遥かに大きい気がする。

 そう首をかしげ、優春は更なる不可解な状況に気がついた。

 その謎の大きな足跡は、この社務所に向かった所までは付いているのだが、そこから帰って行った形跡がどこにも見当たらないのだ。

「え、これって、どういう……」

心拍数が上昇し、額から嫌な汗が滲み出る。

思わず後ずさると、足元に何か落ちているのが目に止まった。

「っ……」

 お札だ。

 間違えなく玄関の扉に貼り付けてあった《悪霊退散》のお札である。

 この札は家に邪悪な者が入ってこないようにと祖母がドアに貼り付けておいていた物である。だが、その札は、無造作に破れており、見るからにもう効力が残っていそうになかった。

 なぜこれが玄関に落ちているのか。まるで、何か良くない者の力に対応しきれずに空しく破れてしまったかのような……。

 そこまで考えると、慌てて首を振ってそれ以上考えるのをやめた。

 先程から良くない風に考えるようになってしまっている。

 ネガティヴ思考は良くない、そう気持ちを切り替えようと両頬を軽く叩いたその時、玄関に最も近い居間から微かに音が聞こえてきた。

「?」

 微弱だが、人の声?のようなものが聞こえる。

 慌てて居間へ駆け寄ると、電気が消え、闇に包まれた室内でテレビが付けっ放しになっていた。

『連続殺人事件の続報をお伝えいたします。先程、京都市上京区の駐車場で新たに殺害された被害者の遺体が確認されました。殺害された被害者は近くで神社の宮司を勤めていた五十代の男性と見られており、警察は——』

 どうやら、付けっ放しになっていたテレビの音だったらしい。

 画面では見慣れたニュースキャスターが先程、優篤と話していた連続殺人事件の続報を伝えていた。

「なんだ、テレビね……」

 安堵して胸をなでおろす。てっきり誰かいたのかも思っってしまった……。

 テレビを消す為、リモコンを探そうと辺りを見回す。その時、飛び込んできた光景に思わず目を見開いた。

「っ……!?」

 居間がまるで泥棒でも入ったかのように荒れ果てていたのだ。

 テーブルはひっくり返り、観葉植物はなぎ倒され、窓ガラスは粉々に割られており、無残に引き千切られたカーテンが夜風に靡いていた。その異様な光景に思わず絶句する。

 いったい何があったのだというのだ……。

 まるで何かと争ったかのような状況だ。

 その時、

「姫……さま、でござい……ます、か……」

 近くで微かに掠れた声が聞こえた。

「誰っ!?」

 慌てて辺りを見回す。

 その時、窓際にお付きの妖である河童が仰向けで倒れているのに気がつき、優春は慌ててその妖の元へ駆け寄った。

「どうしたんですかっ!? 何があったんです!?」

 やっとの事で見つけたお付きの妖は、祖母と共に来訪者の様子を見に行った妖の一人の河童だった。しかも、小さいその者の体は傷だらけで深く傷つき、絶え間なく血が流れ出ていた。

「ひどい怪我……早く、早く治療をッ!!」

「姫……さま……」

「たすけ……て……」

 目を凝らして見れば、他にも周りでお付きの妖達の多くが倒れ血を流し、か細い声で助けを求めていた。

「っ!」

 いったい何があったというのか……。

 今すぐ事情を問いただしたい気持ちで山々だが、まずは目の前で苦しむ河童の傷を癒すことが先である。その後に急いで周りの妖達の治療もしなければならない。

 そう思い、急いで河童を抱き上げ傷を確認すると、腹部に何か刃物のような物で斜め一直線に切り裂かれたような生々しい傷が刻まれており、傷口は深く、肉はえぐり取られてしまっていた。それに、何か壁にぶつかったのか、背骨が骨折してしまっている。これは一刻もはやく治療が必要な状況だ。

「今助けますから、大丈夫ですよ」

 まずは一番ひどい腹部の傷を回復させよう。

 そう思って荒い呼吸を繰り返す彼の腹部に手をかざして神言を唱えようとしたその時、その手を無造作に振り払われた。

「いけません……姫……さまっ! は、やく……早くお逃げくださいッ!!」

「え……」

 逃げる……?

 彼の言っている事が一瞬理解できず目を細めたその時、

「おやおや。誰かと思えば、まだ人間がいたのかい」

「ッ!!」

 ねっとりと纏わりつくような男性の声音。背後に刺すような視線を感じ、優春は咄嗟に声のした方へ振り返った。

 その瞬間、驚愕に目を見開く。

「老婆だけかと思ったら、こんな若い女の人間もいたなんて幸運だねぇ。しかもお前……かなり強い霊力を持っているね? これは上玉だ」

 薄闇の中、居間にヌッと顔を覗かせたのは、直径二〜三メートルの烏のような漆黒の翼を生やし、山伏装束に身を包み、血のように赤い素肌に、逆立った長髪…立派に太く伸びた鼻を生やした長身二メートルは超える巨体の人物だった。その姿に思わず声が漏れる。

「て、天狗……?」

 その容姿が、かの有名な大妖怪、天狗と瓜二つだったのだ。

 天狗とは、人里離れた山の中で暮らす妖怪のことだ。強力な力を持っており、他の妖達のように人と関わる事をあまり良しとしない彼らは自分が住んでいる山から人里へ降りてくる事などまずない。自分も今初めて生で天狗を見たぐらいだ。そんな天狗がなぜこんな住宅地に密集された小さな神社にいるのか……。

 そう疑問に思った時、まるで内心の心を読んだかのように天狗は不敵な笑みを浮かべた。

「全く最悪だったぞ。この家には邪気を防ぐ札が貼ってあって中に入れなかったからな。壊して入るのに結構苦戦してしまってね。おかげでボロボロだ」

「え……」

 札を壊して入った?

 その言葉に目を見開く。

 まさか、先程の来客はこの天狗だったというのか……。

 しかも、《悪霊退散》の札がこの者に対して効力を発揮したという事は……。

「あなた、何者ですか……」

 傷つく河童を庇いながら目の前の天狗を必死に睨みつける。

 それに天狗は嘆息を漏らしながら眉をひそめた。

「そう睨むな小娘。私は別に悪い存在ではないのだよ?私はただ、人の生き血が好物な、しがない天狗さ」

 そう微笑を浮かべながらジリジリと近づいてくる天狗にこちらも堪らず後ずさる。人の生き血を好むしがない天狗なんて正気の沙汰ではない。

 微かに香しい血の匂いに目を細める。

 天狗の身体には大量の返り血が付着しており、山伏装束から止めどなくその血がした垂れていた。

 恐らく、この居間で傷つき倒れている妖達を襲ったのはこの天狗だ。

 緊迫した状況に生唾を飲み込む。

 躙り寄る天狗が窓から差し込む月明かりに照らし出され、その姿が鮮明に明らかになる。その時、天狗の腕の中で探していた祖母が意識なくぐったりとしているのに気がつき優春はその場で絶句した。

「え……」

 思わず脱力し、腰が抜けて尻餅をつく。なぜ、祖母が天狗に抱きかかえられているのか……。ぐったりとまるで生気がない人形のように動かない力なく垂れた腕と足、乱れた白髪に血の気が引けた青白い顔が見える。先ほど見た祖母の優しい面影はどこにもなかった。

 それに天狗が不敵な笑みを浮かべながら呟いた。

「あぁ、これか? いやいや。私は最近、霊力の強い神職に努める人間の血を集めていてね。ここの神社の者が強い力を持っていると聞いて来てみたんだ。そうしたら予想以上の成果だったよ。この老婆、強い霊力を持っていて今まで襲ってきた神職の人間の中で一番の強い力を持っていた」

 集めている? 力? 何を言っているのか理解できず、ただただ唖然と目の前の天狗を見上げる。

 祖母の首筋には歯型が刻まれており、そこから血がした垂れ落ちていた。

 まさか、祖母の生き血を……。

 刹那、今まで以上に鼓動が脈打ち、脂汗が溢れ出る。全身から血の気が引けて手足が痺れる感覚が全身を支配した。

 恐怖で身体が硬直して動かない……。

 その時、先ほど優篤が話していた連続殺人事件の話が脳裏を過る。

 殺された者達の首筋に歯型のようなモノが刻まれている事……。

 遺体からは血液が全て抜き取られているという事……。

『犯人は人間じゃない、とか?』

 まさか……

「あなた、最近京都中で起こっている神職の人達が集中して襲われている連続殺人事件の犯人?」

 恐怖で震える身体を必死に抑えて掠れた声で天狗に視線を戻す。

 それに彼はさも当然のごとく笑みをこぼした。

「あぁ。そう言っただろう?」

「っ!!」

 それに天狗は意識のない祖母の首筋を嬉しそうに長い舌で舐めまわすと、こちらを刺すような鋭い目つきで凝視してきた。

「小娘……お前の生き血も、この老婆のように強い力を秘めているのだろうなぁ?」

「ひっ!!」

 全てがパズルのように一致した。

 連続殺人事件の事も、先程祖母が様子を見に行った来客の事も……

 恐らく祖母は、玄関の来客の様子を見に行った際、運悪く札を破った天狗に襲われたのだろう。

 この天狗が、全ての元凶だったのだ。

 急いで逃げなければ……。

 そう悟った刹那、天狗は抱えていた祖母を無造作に床に投げつけると、こちらに向かって翼をはためかせて襲いかかってきた。

「ッ!!」

 身の危険を感じ、慌てて逃げようと身体を踏ん張るが、恐怖で身体が硬直して動かない。

 このままじゃ殺されるッ!!

 そう両腕で膝の上でぐったりとしていた河童を庇うように蹲ったその時、

 腕の中で河童が徐にむくっと起き上がると、腕をすり抜け、襲い来る天狗に向かって思いっきり飛び出していった。

「ッ!?」

「お逃げください姫さまッ!! 私は、貴女様まで失いたくはないッ!!」

 血を吐きながらそう叫ぶ河童は、天狗に向かって思いっきり体当たりをした。それに天狗は不吉な笑みを溢して呟く。

「むぅ……? この神社の妖の一人か。まだ生きていたとはな……しかし、邪魔をするならば今度こそ確実に殺してやろうッ!!」

刹那、天狗は腰に差していた刀を抜き放った。

「ッ!!」

 いけないッ!!

 そう咄嗟に叫ぼうとした刹那、月明かりに照らせれ怪しく輝きを放つ鋭利な刃先が、風を裂いて河童の頭を斬り飛ばした。

「イヤァァァァッ!!」

 空中に舞う河童の頭部と共に噴き上げる血飛沫が室内に飛び散る。

 それに思わず叫び声をあげると身体の硬直が一瞬解け、優春は弾かれたようにその場から逃げ出した。

「誰か……誰か助けてッ!!」

 居間の割れた窓から外へ飛び出し、助けを求めながら足袋のまま白沙が敷かれた境内を懸命に走る。その後ろから天狗が凄まじい勢いで追い迫ってきた。

「逃がさぬぞ小娘ッ!!」

「いやぁッ!!」

 何度助けを求めても周りには誰もいない。境内と外を繋ぐ門は固く閉ざされ簡単に境内の外へ逃げる事などできなかった。

 刹那、背後から天狗にのしかかられて優春はその場に崩れ落ちた。

「さぁッ!! 血を戴こうかッ!! 一滴残らず奪い、大天狗様の供物にしてくれるわッ!!」

「いやッ!!離してッ!!」

 無我夢中で振り解こうとするが、巨体の天狗はビクともしない。

 優春はそのまま、思いっきり首筋に噛み付かれ、血を吸い取られた。

「あぁッ!!」

 口から血反吐を吐き悲鳴をあげる。

 無理やり血を吸われ、激しい激痛と目眩が優春を襲う。

 意識が混濁し、景色が歪んだ。

 自分はこのまま死ぬのだろうか……。

 そんな事を薄れゆく意識の中で思ったその時、

「がはっ……!?」

 天狗の動きが突然止まった。

「っ……?」

 思わず顔を上げ、体にのし掛かる天狗を省みる。

 その時、天狗の胸に深々と刃物が突き刺さっているのが見えた。

「え……」

 何が起こったのか理解できず、ただただ、口から血を流し驚愕で目見開いたまま固まった天狗を見上げる。それと同時に胸を貫いた刃が徐に引き抜かれ、支えを失った天狗はそのまま下にいた自分に覆い被さってきた。

 刹那、近くで声が聞こえた。

「もしもし、俺だ。言っていた人食い天狗を一匹、仕留めたぞ」

 誰……?

 若い男性の声だ。

 咄嗟に覆い被さった天狗の遺体を退けて恐る恐る顔を上げる。

 するとそこには、刀を握り閉めて、乱雑に跳ねた茶髪を春の夜風になびかせながら、月明かりを背に鋭い朱色の瞳を光らせた袴姿の青年が一人、スマホを耳に当て誰かと通話をしているのが目に入った。

「え……?」

 突然の理解できない状況に戸惑う。

 見たところ、人間のようだ。

 友人の優篤や自分と同じぐらいの歳に見える。

 しかし、もし人間だとしたらここにいるのは不自然だ。ここは境内の中、門で閉じられ、外部と完全に遮断されている筈……。隠り世の者ならまだしも、普通の人間が外から閉じられた門を破って侵入できる筈がない。

 この人、いったい何者なの……。

 警戒したまま闇の中で佇むその青年の姿を凝視する。

 青年の握る刀には真新しい真紅の血がべっとりと付着し、絶え間なく白沙の上に鮮血がした垂れ落ちていた。

 恐らくあの刀、今ここに倒れた天狗の心臓を貫いた物で間違えないだろう。

 だとしたら、あの青年がこの天狗を倒したというのだろうか。

 たった胸を貫いただけの一撃で……?

 突然の展開に湧き上がる疑問を一旦押し留め、優春は彼に視線を戻した。

「あ、あの……助けてくれて、ありがとうございます……」

 何者かわからないが、助けてくれたことには変わりない。

 一応そう礼を述べると、それに青年は気がついて通話を切り、こちらに視線を向けてきた。

「ッ!!」

 それに思わず首をすくめる。

 相手をまるで刺すかのような鋭く冷たい瞳……。

 その視線に感情はなく、まるで獲物を狩る野獣のような鋭い殺気が込められていた。

 どうも助けてくれた雰囲気ではない。それどころか、先ほどの天狗よりも何だか不穏な雰囲気を醸し出していた。

 何だかこの人、怖い感じがする……。

 直感的にそう危険を感じ、口籠って青年から恐る恐る後ずさる。

すると彼は、握っていた刀の刃先を咄嗟にこちらに差し向けてきた。

「ッ……!?」

「お前、この人食い天狗の仲間か」

「え……?」

 低く、威圧感のある声音。彼から発せられた言葉に目を見開く。

「ち、違いますっ!! 私はこの天狗のことなんて知りませんっ!! 突然襲われて……」

「黙れ。お前、ここで隠り世である妖や霊共を使役させていた巫女だろう?そんな輩をどうして信用できる?」

 どうやら何か勘違いしているらしい。慌ててそう反論するが、青年は聞く耳を持ってくれず、闇の中で朱色の怪しい輝きを放つ刃が、喉元へ突き付けられた。

「ち、ちが……」

 首に押し付けてくる刃が肌に触れ、血が滲み出る。

 なんとか信じてもらおうと口を動かすが、刃物を突きつけられている恐怖で声が出ない……。


 そう思ったその時、

「ダメだよ、颯斗。彼女はこの事件の被害者だ」

 青年の背後でこの状況にそぐわない爽やかな声が聞こえた。

「え……?」

 それに思わず、声のした方へ視線を向ける。

 するとそこには、青く美しい煌びやかな狩衣を身に纏い、月明かりを背に、透き通るように色白の肌に長く結った白銀に輝く髪を靡かせて、灯篭の灯りを受けて青い瞳を細めながら美しい微笑を浮かべた、また違う青年が佇んでいた。

 その青年を見て思わず息を呑む。

 なんとその彼は、今日学校から帰る際に優篤と見たあの美青年、生徒会副会長の西園寺さんだったのだ。

「ど、どうして……」

 女性陣に囲まれて幽玄な笑みを浮かべていたあの時と同じ笑みを浮かべながら、こちらに優雅に近づいてくる彼をただ驚愕して呆然と見つめる。

 服装は全然違うが、間違えない、うちの学校の生徒会副会長だ。

 どうして、彼がここにいるのか……。

 その時、ぐらっと景色が歪んで意識が朧げになってきた。

「っ……!?」

 どうやら、天狗に血を大量に吸われた影響が出てきたらしい。

 なんとか意識を保とうとするが、ふらつく視界を抑えきれず、優春はそのまま白沙の上に倒れ意識を失った。



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