プロローグ
よろしくお願いします
冷たい世界だった。何もない。誰もいない世界にその人はただ一人。大きな石造りのソファに気だるく座っていた。
人類の敵――などとは見る影もなく、青年は気だるく彼女――オルガに黒い双眸を向けた。
『我を滅ぼすのだな? 選ばれた聖女よ――』
低い声にもはや力など無い。白い肌はやつれて、もはや死人のようでもあった。それはどこか可哀想にも思えたが、それをおくびにも出すことは無かった。
相手は倒すべき敵なのだから。ここに来る前にたくさんの屍を乗り越えたのだから。
凛とした表情で見つめ返し静かに言葉を紡ぐ。
「それが定め。私が死ぬかあなたが死ぬか――そうでなければこの仕掛けられた『遊戯』は終わらないのです」
コツ。静かな靴音が響く。それはオルガの隣。視線を少しだけずらせば『勇者』と湛えられた青年がゆっくりと歩いていた。
手には刃こぼれ一つしていない優美な大剣。それを携えながら『敵』の方に歩いていく。
『――愚かしい神々よの。良かろう』
『敵』である青年はため息一つ。ノロノロと力なく立つと空間を撫でる様になぞった。そこから現れるのは『錫杖』。柄の先には天使が待っているような彫刻が施されている。青年は流れる様にそれを持つとカツンと軽く地面を叩いて見せた。
『勇者』はまるでその行動に呼応するように走り出していた。だんっと力強く地面を蹴ればより早く青年との距離は縮まる。
振り上げる剣――しかし。
刹那。青年の姿は霧散していた。あえなく剣は宙を切る。舌打ち一つ。身を翻す勇者は次の瞬間息を飲んでいた。
青年がオルガの目の前に居るのだ。
しかしながらオルガは驚いた様子もなく、身動ぎ一つしない。じっと青年を見つめていた。予想していたわけではない。
けれど覚悟を決めてここに居る。
「オルガ!」
悲痛な声。勇者は身を翻し力強く走る。
『聖女よ。お前の力で無いと我は倒せまい? ――しかしお前は無力だ。どう倒す?』
オルガはちらりと勇者に目を向けてみせた。間に合うだろうか。――まぁ、どちらでもいい。オルガは視線を青年に戻す。
「でも――貴方の負けです。どうあがいても。もうあなた一人しかいない。それにあなたを倒す役目は私の力ではありませんよ?」
なるほど。と青年は特に興味もなさそうに言うと、もう一度カタンと錫杖を叩いた。浮き出るのは足元の魔法陣。それが何を示すのかよく分からない。嫌な予感がしたのは確かだった。
『終わりだ』
すべて。
その声を聴くことは彼女にはもうできなかった。滑るように落ちる頭。朱に染められた世界の向こうには勇者が鬼のような形相で剣を構えていた。
彼はオルガが無事を確認するようにして目を滑らせると安心したように表情を崩す。と、同時に彼は一歩踏み出そうとした。
その時にはもう――オルガは異変を感じていた。
鈍くなっていく身体。足の先から木が弾けていくような音がしている。ちらりと目線を向ければ足が『黒化』しているのが見えた。
いや――これは。
オルガは眉を潜めて見せた。未だうっすらとそこにある魔法陣を確認すると張りあげる様に声を上げようとした。
が。遅いのは自分でも分かった。考えるより早く、感じるより早く。すべては進行していたのだ。声にならない声。被せるようにして勇者の声だけが辺りに虚しく響く。抱えられた細い肩はいつの間にか固く、冷たく。
ままならない身体。視線だけを勇者に向け、彼女はその姿を確認した。どうやら魔術は自身だけに効いているようだ。変わらない温もりにホッと胸を内心撫で下ろす。
泣きそうな勇者の顔とは裏腹に。
「――そ、んな。どうしたら」
上擦る声。仲間手であり、魔術を扱う女を名を呼んだが現れることは無かった。それはそうだろう。彼女は命がけで二人をここに送ったのだから。とオルガは思う。
そんな事も覚えていないほどに混乱しているのだろう。そんな事は初めてだった。どんな仲間の死でも眉ひとつ動かさなかったと言うのに。――いや。その弱さを見せることなど無かったと言うのに。
こんな時に思うのもなんだがこの人もやはり『人間』だったのだ。
落ち着かせるためにオルガはすべての力を総動員して口許に集め笑って見せた。
「オルガ」
「――」
その時オルガ自身は、何を言ったのかどういったのか覚えていない。ただ、『逝かないでくれ』と願いを請うような声が聞こえただけだった。




