1 孤島
魔法なんて伝説上の存在だ。
子供の頃は魔法があると信じていた時期も確かにあった。しかしそれは、成長するにつれ、現実を知るにつれ、あり得ないのだと確信した。
魔法なんて存在しない、してたまるものかと、いつかの私は呟いた。
彼女の乗っていた船が難破し、運良くどこかの浜辺に流されたのが昨夜のこと。もう一度寝て起きると、既に太陽は高く昇っていた。
「誰も、いない……?」
昨夜眠りに落ちる前、あやふやな意識の中、砂を踏む足跡を聞いた気がしたリザは、辺りを見回す。辺りには足跡どころか、他に流れ着いたものもなかった。
周囲に人影はなく、人が造ったと思われる建造物らしきものも見当たらない。
まさか無人島なのではないのかと、リザの脳裏に不安がよぎる。
ぐうぅぅぅぅぅぅ
獣の鳴くような音が静かな浜辺に響き渡る。どこかで獣が鳴いているのだろうか。いや、どこかではない。自分の腹からだ。
「……」
そういえば、船にいるときからろくに食べ物を食べていなかった。思い出すと、どんどんお腹が空いてくる。
とにかくここはどこなのか状況を確認するために、そして食料を確保するためにもリザは島の散策始めた。
すっかり乾いた服や髪は海水でパキパキになっている。腰まで伸びる長い髪を手櫛で梳かしながら歩く。
島なのか、大陸なのか、浜辺から見る限り判断はできなかった。もし、島だとしたのならそこそこ大きな島だろうと、奥に見える山を見ながら想像を膨らます。
無人島かもしれないという最悪の予想はすぐに消え去った。海岸に沿って浜辺を歩いていると、遠くの方から人が歩いてくるのが見える。シルエットからして男だろうか。
リザの瞳に一筋の希望の光が宿る。震える足をなんとか抑えつけ、彼女は必死に人影の方に向かって走った。
向こうも走ってくるリザに気がついたのか、立ち止まってこちらを見つめる。
「すみませーん!」
リザは藁にもすがる思いで声をかけながら駆け寄る。しかし、疲れた身体で足場の悪い砂浜を走ったせいで、足がもつれて顔面から砂浜にダイブする。
「……」
「大丈夫ですかっ」
恥ずかしくて起き上がれないリザに、先ほどの男がこちらに向かってきた。
ぶへっ
しかし、男はリザと同じく足をもつれさせて砂浜に倒れ込んだ。
「え、なに?」とリザは顔を上げる。そこには転んだらしき人物の綺麗なブロンドの髪と頭頂部のつむじが見えた。
「……あの、大丈夫?」
リザが恐る恐る声をかけると、向かいに倒れている男もゆっくりと顔をあげて答えた。
「……大丈夫です。君は?」
「大丈夫……」
お互い砂だらけの顔を見つめていると、どちらともなく笑い出した。
「ふふっ。あなた、顔が砂だらけよ」
「君も、ですよ」
男はそう言うと、立ち上がってリザに手を差し伸べた。リザは手を取って立ち上がると、体中に付いた砂を落とす。男もパタパタと衣服を叩く。
「変わった服装ね」
男が着ているのはローブだろうか。灰色のひらひらとした服は昼間の海には似合わない。
「そうでしょうか? ここでは普通ですよ。それより、君は随分とボロボロの格好をしていますが、何が合ったんですか?」
「それが……」とリザはこれまでのことを話し始めた。船に乗っていたら嵐に遭って船が難破したこと。気がついたらここに流れ着いたこと。……お腹が空いていることも。
「そうか、船が難破したなんて災難でしたね……。安心してください。ここは3つの街がある島です。人も多く住んでいます。飢え死にする心配はありません」
ただ、と男は続ける。
「この島の周囲に他の島などはなく、また、この島には大海を渡れるような大きな船はありません。もちろんこの島を訪れる船もないんです。ここは、いわゆる絶海の孤島という訳です」
「絶海の孤島……。じゃあ私が元居たところに戻る手段は?」
「ない、ということです」
男はハッキリと告げた。
「……もう、あそこには帰れないんだ」
リザは男に気付かれないように手を強く握る。
「? どこか嬉しそうですね」
男はリザの顔を覗き込むように見た。彼女の顔はどこかほっとしているような安心しているような顔だった。
「うーん、元々船で別の場所に移住する予定だったし、絶海の孤島ってなんだか楽しそうだと思って」
目の前に居る男はどこか呆れたように笑った。
「可愛い顔して意外と肝が据わっているんですね」
「か、可愛いって、あなた意外とはっきり言うのね」
リザは顔を赤くして俯いた。さすがに、男の人に面と向かって言われるのは恥ずかしい。彼女が照れていると、「あっ」と男が突然声をあげた。
「すみません。これから大事な用事があるのを忘れていました。面倒を見てあげられなくて申し訳ありませんが、僕はそろそろ失礼しますね」
「いいえ、こちらこそ色々と教えてくれて助かったわ。街があると分かっただけで十分よ。ありがとう」
リザは丁寧にお辞儀をする。これ以上見知らぬ人に迷惑をかけるわけにはいかない。
「そうだ、これあげます」
男は思い出したようにローブの中から腰に下げていたらしい布袋を取り出してリザに差し出す。
「リンゴです。ちょうど熟していておいしいやつですから食べてください。それと、ここから一番近い街はこのまま海岸沿いにまっすぐ歩けば見えてきますから、転ばないように気をつけて行ってください」
「むっ、あれは油断しただけよ。もう転んだりしないわ」
「そうですか。それなら安心ですね。では、機会があればまた会いましょう」
男はにっこりと笑うとリザの横を過ぎる。
直後、彼がリザの耳元で囁いた。
「気をつけて下さい、君がよそ者だとばれないように」
リザは勢いよく男の歩いて行った方向を振り向く。しかし、そこには既に彼の姿はなかった。
「いない……」
周囲に人の気配は感じられない。隠れるような場所もない。なにより足元を見ると、足跡が途中で人が消えたように無くなっていた。まるで手品のように忽然と姿を消してしまったのだ。
「もしかして幽霊……? は、あり得ないか」
先ほど貰った布袋を見つめる。確か彼はリンゴだと言っていた。姿を消した正体不明の男より、空腹の方が勝った。去って行った彼のことは取りあえず頭の隅に追いやり、急いで布袋の開ける。
しかし、布袋に入っていたのはリンゴの形をした何かだった。
「……騙された」
本来、リンゴは赤い色をしている果物だ。熟す前は緑色をしているが、大半の人がリンゴと聞いて想像するのは赤色だと断言しても良いのではないだろうか。
仮に、黄色いりんごやオレンジ色のリンゴがあるとしてもあまり不思議ではない。だが、これは一体何なのだろうか。リザは手にした黒い物体を見て頭をひねる。
赤黒いわけではない。暗黒物質かと思うほどに、そのリンゴの形をした物体は真っ黒な色をしていた。
どうみても毒りんごだ。熟していると言っていたが、腐っているの間違いではないのか。これを食べようとするほど飢えてはいなかった。しかし、親切にしてくれた相手から貰ったものを捨てる気にもなれない。
リザは毒りんごを再び袋にしまうと、街があると言われた方向に歩きだした。
本当に街があるのかさえ疑わしくなってきた。しかし、今の彼女には、彼の言葉を信じて歩くことしかできなかった。