第二楽章 精霊と湖
「んー……。」
ラミアは朝の練習を終え、練習場として借りていた、フーデリア楽団の舞姫たちが普段使っている建物から外へと出た。昨日にエグゼルによって選ばれたらしい楽士達とはこの日の昼に顔合わせになっており、それまでの数時間は自由時間として与えられていた。
ラミア以外の舞姫たちは、何度かこの町に訪れたことがあるのもあり、町の中に出るでもなく、さっさと自分の部屋へと戻ってしまった。
そのため、ラミアは一人でひょこひょこと町中を歩き回っていた。
市場には、湖でとれたらしい魚や貝が多く並んでいる。川の近くに店を構えて、川の中にいれた大きな網に生きたまま魚を入れて売っている店も多かった。
ラミアの目から見ると、十分漁獲量がありそうに見えたが、話を聞いてみると、少しではあるが量は減っているらしい。
ラミアはそのまま川を辿って、ラドリア湖の湖岸まで出た。
「大きいのね…。」
静かに揺れている湖の対岸は、見えはするもののはるか向こうで、その向こうの森の木々もとても小さく見える。もう朝の漁は終わったようで、見渡す限りに人は居なかった。
ラミアは湖のまわりを歩きながら、湖の様子を観察した。湖の元を姿を知らないラミアだったが、湖の中の魚などの生き物に、特に変わった動きは感じなかった。
湖を半周くらいすると、町は大分向こうになって、人の気配も無くなり、聞こえるのは湖の波の音や木々のざわめき、鳥の囀りくらいだった。
「……?」
そのとき、微かにどこからか笛の音が聞こえた。自然の音に溶け込むような優しい音色、それは山の方から聞こえてくる。
ラミアがきょろきょろと辺りを見渡すと、山に入る小道があった。土地に不慣れなラミアが山に入るには、この道を辿るほかない。
ラミアは意を決すると、ゆっくりとその道を上りはじめた。
最近は、山に住む精霊達が減ってしまった…。
ルテスは山の中にある小さな湖の傍に腰を下ろして、手をつっと差し出した。
すると、木の葉の陰にいた花の精が、嬉しそうに近寄ってきて、ルテスの指にきゅっと掴まって、また離れていった。
大昔は町にも現れ、いたずらをしたりしながらも、人間達と共存してきたらしい精霊達。しかし彼らはいつしか町を去り、それに伴って精霊を見ることのできる人間も減って、彼らも山などの人の少ない場所へ身を隠すようになってしまったという。
精霊達はたとえ見えないと分かっていても、殆ど人間の前には現れない。ルテスの前に彼らが現れるのは、精霊達を見ることが出来、害意が無いこと。
「今日は…あの曲にしようか。」
そして、彼の吹く笛の音が好きだからだ。
少し前までは、ルテスが笛を吹いていると、無数の精霊達が彼の周りに集まって来たものだが、今では数えるほどしかいない。
おそらくは湖の水位低下と関係があるのだろうと、ルテスは思っていたが、精霊達は人の言葉を解すが、話すことはないので、直接理由を聞くことは出来なかった。
ゆったりとしたその曲を吹いていると、何人かの精霊達が集まって、ルテスの周りでうとうとしたり、ご機嫌な様子で揺れていたりしていた。
曲が佳境に入った頃、頭の上で寝転がっていた精霊が、ぴくりと動いて少しだけ身を起こした。他の精霊達もルテスの後ろの方をじっと見ていた。だが、動こうとはしない。普段、人が近付けばさっと逃げていく精霊達にしては珍しい反応だった。気にしているところを見ると動物とも思えないのに、動かない。ルテスは不思議に思いながらも、気にしないようにして、吹き続けた。
程無くして曲が終わり、ルテスが笛から口を離したが、“誰か”は出てこなかった。
「―――隠れてないで、出てきたら。」
ルテスの声に、後ろの茂みががさっと動く。そして、ばつの悪そうな顔をして、木の陰から出てきたのは、ラミアだった。
「……いつから、ばれてたの?」
「最初から。」
ラミアは茂みから抜け出すと、そっとルテスの傍に近寄って、彼の隣に腰を下ろした。
「邪魔しちゃダメかな、って思ったの。ごめんね。」
「別に……。」
ルテスはラミアの突然の出現よりも、彼女が近付いても逃げない精霊達の方に驚いていた。
ラミアは反応の薄いルテスに、そう、と小首を傾げながら言うと、再び立ち上がって、湖の方へ歩いて行った。湖と言うにはいささか小さな池のようなそれは、水中は透き通って、無数の小さな魚たちが泳ぎ回っている。
ラミアはその水に手を浸して、その水をすくい上げた。そして、一口だけ飲む。
「ね、ここの水も減ってるの?」
ラミアは手に付いている雫をさっと払うと、ひょこひょことまたルテスの隣に戻ってきた。ラミアは一ノ姫の証である房飾りを、顔の両脇に付けている。ルテスにはそれが、軽やかに舞っていたラミアにはひどく重く見えた。
「…いや、山の中の湖は減ってはいるけど、減り方は少ないよ。一番酷いのは、ラドリア湖だ。」
「そう、なのね…。」
うーん、と何かを考えるように顎に手をやっていたラミアだったが、すぐに、表情を一転させて、にこにことルテスに微笑む。
感情の起伏が激しい人だ、とルテスは思った。
「そういえば、何ていう曲だったの? さっきの曲。」
「ああ……。曲名は知らないんだ。ずいぶん昔に、人に教えてもらっただけの曲だから。」
もう十年程前のことだ。この曲を教えてくれた少女も、今はどこで何をしているのか、生きているのかさえ、ルテスは知らなかった。
「そうなの…。でも、優しくて素敵な曲。あなたによく、似合っている気がするわ。」
「そうかな…。」
風が吹く。
ルテスはラミアを見た。彼女は風に吹かれた髪を押さえながら、湖を見つめていた。
舞い上がる彼女の金髪に、この房飾りはやはり重たい。
「ねえ、笛…吹いて。近くで聞いてみたいから。」
そう言って微笑むラミアに、ルテスは頷くと、湖の方を向いて、笛を構え目を閉じた。
昼から始まった練習は日が落ちる頃まで続いた。
残りの九人の楽士は、打楽器四名と弦楽器五名で管楽器はルテスの一人だけだった。
しっかり場を整え、神に舞を奉納する儀は五日後。舞姫楽士も気を抜けないが、周りの準備も慌ただしく進んでいた。
自由の身になったのは夜半のことで、他の舞姫たちは夕飯を済ませるとさっさと寝静まってしまっていた。だがラミアは、ちゃりちゃりと音をたてる房飾りや耳飾りなどを外すと、上着を着て、そっと自分に宛がわれた部屋から外へ出た。
夜の空気は暖かかった昼間とはまた違って、ひんやりと気持ちが良かった。
しかし、それを堪能するのは後回しにして、ラミアは明るいところを避けて移動していく。夜中に出歩いている事がばれるといけないので、身を屈めつつ、足音をたてないように気を付けながら町を走り抜けた。
「……?」
何かの気配を感じたような気がしたルテスは、目を擦りながらベッドから起き上がった。外はまだ真っ暗で、明かりはと言えば、月明りで湖の水面が反射して明るいぐらいだった。こんな時間に誰かがうろついているのは考えづらい事だったが、ルテスは何故か無視しきれずに、椅子にかかっている薄手の上着だけ掴むと、外へと出た。
家の辺りをぐるりと見回したが、特に何も変化はないので、無駄足だったかと溜息を吐いて、家に入ろうとした。その時、ふと何かがチラついたような気がして、振り返った。
「光……。」
山の辺りから、月や星の光とはまた違った、ほわほわとした光が浮かんでは消えている。そして、その光の出ている場所は、昼間にラミアと会った湖の辺りと思われた。
精霊が集まっている……?
精霊達が沢山現れていた時には、極稀にたくさん集まって、彼らが光の玉のように見えることがあったのをルテスは思い出していた。明るい日中は決して見えないほど弱い光がこんな遠くから見えるなどあり得ない事だった。
ルテスはゆっくりと扉の取っ手から手を放すと、くるりと後ろを向いて、湖の方へ向かって歩いていった。
近付いて行くと、光はより一層強くなっていった。山に入れば、すぐに精霊達はルテスを見つけて近づいてくる。ここ最近見た事が無いほど、楽しげな様子の精霊達に驚きつつ、光の方向へルテスは歩いて行った。
光を辿って行くと、やはり、その先には昼間ラミアと会った湖、そして、今度はラミアがいた。
ラミアは何とか誰にも見とがめられずに、山へ入ると昼間ルテスがいた湖を目指して早足で歩いた。嫌な感じこそしない山だったが、薄暗い夜の山はやはり怖い。
「ここだわ。」
湖の上には木々が無い、また満月の夜のだからか、湖が覆われるように強く月に照らされ、幻想的だった。ラミアはそれを見てにっこりと笑うと、羽織ってきた上着を地面にするりと落とし、靴を脱いだ。そしてゆっくりと湖に向かって歩いて行く。
そして、湖の水面にそろりと足を下ろす。しかし、ラミアの脚は沈むことなく、まるでそのまま地面が続いているかのように、水上を歩いて行った。水面には波紋だけが広がっていく。そして、湖の中心まで来ると、ラミアは少しだけ水を掬って、前にその水を払う。そして、その手の流れのまま、水上で舞った。
水面に触れている足はひんやりとしていたが、冷たすぎることはなく、上も向いた時に見える月は涙が出るほど美しかった。
しばらく踊っていると、ラミアには見えなかったが、周りに小さな何かが沢山集まってくるような気配を感じた。
ラミアは故郷の森を思い出していた。舞の練習を抜け出しては、駆け回っていたあの森。この山の空気ととても似ている気がしたのだ。
ラミアは懐かしい想い出を振り払うように目を閉じると、湖の上で舞い続けた。
「………。」
ルテスは木陰に立ったまま、湖の上のラミアを見ていた。
湖の上で一心不乱に舞うラミアは、息をのむほど美しかった。
湖の中央を照らす月明りと、精霊達の発する淡い光、そしてそれらを纏って、輝く金髪と白い肌は、さながら一枚の絵のようだった。
何故湖の上にいるのか、どうしてこんな時間に、といった疑問は、すっかり頭から飛んで行ってしまい、ルテスは息をするのも忘れたようにその光景を見つめていた。
ルテスはふらふらと彼女の方へ再び歩きはじめる。そのとき、服が引っ掛かりでもしたのか、ルテスの腰ぐらいまでの小さな木がガサッと音をたてた。
その音にようやく他人の存在に気が付いたのか、ラミアがちらっとルテスの方を見た。しかし次の瞬間、ラミアの体勢ががくっと崩れた。
「きゃっ……。」
「――――!」
ラミアが小さな悲鳴と共に水中に消えたのと、ルテスが湖に飛び込んだのはほぼ同時だった。
「あ、ありがとう……。ごめんね…?」
ルテスの突然の登場に驚いて、湖に落ちたラミアは、気が付くと湖の真ん中より少し縁に近いところで、ルテスに抱えあげられていた。ルテスは呆れたように溜息を吐いて首を振るとラミアの顔を見る。
「別に平気。そっちは?」
「あ…、大丈夫。ルテスが助けてくれたから。」
ラミアがルテスに微笑むと、ルテスは照れたようにそっぽを向いてしまった。
ルテスは、そう、とだけ言うと、ラミアをしっかりと抱えなおして、湖の外へ歩き始めた。
湖の上で舞っていた時と違い、湖の水は驚くほど冷たかった。この湖はそれほど深くもなく、足が付かない程の場所はほとんどなかったため、そうそう溺れそうにもない。それなのに、こんな冷たい水の中に、躊躇わずに助けに来てくれたルテスに、ラミアは驚きつつも、嬉しさで胸がいっぱいになる思いを感じた。ラミアはルテスのびしゃびしゃになってしまった服を、きゅっと掴んで寄り添うと、じんわりと温かみを感じた。
ルテスはきゅっとラミアを抱き寄せる。
「上位の舞姫には、人智を超えた力があることがある、って聞いたことがある。君みたいな人のこと? ラミア。」
突然そう問いかけるルテスの顔をラミアは見つめた。
「そういう話は聞いたことがあるわ。そうかも、しれないわね……。」
ラミアはすっと目を伏せて、ラミアは足に感じた水面の感触を思い出していた。小さい頃から無意識に出来るこれが、普通の人間は出来ない事なのは十分理解していた。親にも誰にも見られないようにしていた。不気味がられることが分かっていたからだ。
しかし、ルテスからは、それを気味悪がる様子は感じられなかった。
ルテスは宙を見つめ、たまに視線を、何かを追うように彷徨わせている。舞っているときから感じていた何かの存在は、本当にいて、ルテスには見えるのかもしれない。
「怖くないの?」
「え?」
驚いたようにラミアを見た顔は、本当に何のことを言っているか分からないような顔だった。
「だから、湖の上に立ってた事。普通、出来ないでしょ。」
「ああ……。別に…、そういう人もいるだろうし。」
もしかして、私には見えないこの“何か”のこと、考えてるのかしら。
今の人間にはほとんど見ることがかなわない、というこの何かが見えるとすると、ものは違えど、同じ様なものかもしれない。
ラミアはにこにこと、そっか、とだけ言うと、再び、ルテスにしっかりと掴まって、黙った。
ルテスもそれきり黙ったまま、湖を出ると、一旦ラミアを下ろして、ラミアが最初に落としたままにしていた彼女の上着と靴を取って戻ってきた。
「一度、僕の家に行こう。水浸しじゃ帰れないだろ。」
「そうね…。なら、ご迷惑じゃなければ。」
ルテスは分かったというように頷くと、上着を彼女の肩にかけた。そして、ラミアの足に靴を履かせると、手を引っ張って立たせた。
「行こう。」
そして、二人で山を下りた。