オレを取り巻く環境について、あるいは異世界の説明の序章、つまり無事生まれました
気づけば水中にいた。
別に生まれてまもなく川に流されたとかではない。
それどころかまだ生まれてもない。
つまりは羊水の中だった。目を開けても完全な闇。聞こえるのは母の鼓動だけ。
そういえば前世はこの時ちょっと焦ったな。
もしかして、転生に失敗したんじゃないかと思った。前々世は記憶にない。
しかし、わかっていればおなかの中に居るのも悪くない。
なんてったって何もしなくていい。食べなくていい、呼吸しなくていい、小便も寝ながら垂れ流す。
これは言ってみればニートの極みではないか。
ここにネット環境があれば最強のネトゲ廃人になれるのに。いや大量の睡眠が必要だから無理か。
そんなアホみたいなことを考えたり、とにかく寝たりして過ごした。
ある時、ポンポンポンとおなかを叩くときがあることに気づいた。これは……。
オレは軽くキックをした。するとまた腹を叩いてくる。それにも律儀にキックを返す。
たぶん、これは胎内教育というやつだ。
予想でしかないが、まだ見ぬオレの新しい両親は『今、この子が私のおなかを蹴ったわ!』『そうか~、これは元気な子供が生まれきそうだなあ』とか話しているだろう。
あ、オレ教育受けてるじゃん。そうか、ニートは卒業か……。
でも、クラシックを流したりしているなら無駄なので止めてほしい。母の声でさえ満足に聞こえてないから。
日付の感覚は無いに等しいが、そろそろ出産の時らしい。
おとなしく胎児やってたし、楽に出産できるかな。そういうのはあまり関係ないのかな。
子供を産んだ経験とかないからわかんないや。さらに言えば性行為の経験さえない。
体がちゃんと下を向いているのが感じられる。心の準備ができていると楽だ。前世は(以下略)。
頭の先に骨盤が触れる感覚。少しドキドキしてきた。たぶん何回やっても慣れないだろうな。
来た!
沈んで、沈んで、くるくるポンっ。
オレ、誕生である。
オレはこの世界にきて初めての空気を吸うと同時に泣いた。
いやホント泣きたくなるぐらい生まれるって大変だよ。半分は演技が入ってるけどね。
たまに全然泣かないで産まれてくる子もいるみたいだけど、それはあれだね。もうびっくりしすぎて泣くに泣けないって感じだろうね。
オレは抱き上げられて産湯につけられた。
部屋には母の他には、女が二人、男が一人。
たぶんこの男がオレの父だろう。
その父は落ち着かない様子でなにやらブツブツと言葉を発していた。早口で何言ってるかわかんねーぞ、落ち着け。というか、オレはこの世界の言葉を知らないのだからわからないのは当たり前か。
また新しく言語を覚えないといけないと思うと正直うんざりだ。英語を覚えるのにも相当苦労したというのに。
あ、そうだ。あれを使ってみよう。チートのおまけのやつ。
オレは神様からもらった補助記憶能力を使ってみた。使い方は直感で理解できた。
さっきの父(たぶん)の言葉を再生してみる。自分の記憶なので、少しなら速さの調整もできた。なんと高性能なリスニング教材なんだ。
そんなことをしていて、気づけばベットの上だった。あ、しまった。泣くの忘れてた。もう面倒くさいし寝たふりで誤魔化そう。
テンションの上がった男の声が聞こえてくる。
あのー、寝てるんですけど。もうちょっと静かにしてくれませんかね。この調子ならリスニング教材の出番はなさそうである。
まあ、ハイハイができるくらいになるまでは、オレが自由にやれることもないしのんびりこの世界のことを学ぼうかな。
そうそう、おなかの中にいるときからたぶんそうかなと思ってたのだけど。
オレ、今世は女じゃん。
オレが生まれて三ヶ月が経過した。
言葉はだいたい覚えた。この短期間で言語を習得したことを、だれかに褒めてほしい気分だが、さすがにまだ言葉を発したりしたらヤバいので、そのことを知っているのはオレだけだ。
語彙力はまだ乏しいが、文構造はだいたい理解したつもりである。
主語、述語、目的語と修飾、被修飾の関係に加えて、よく使う言い回しを理解することが大事だね。
父も母もオレに熱心に話しかけてくれるのも助かった。これは明らかに初めての子供に対するそれであった。
いや、ただ単に子煩悩なのかもしれないのだけど。
そんなわけで、最初に覚えた言葉は、彼らが最も多くオレに向けて言った単語である。
ミルヴ。
それがオレの名前らしかった。
固有名詞は言葉を探っていくなかで邪魔になることが多い。
犬のことをこの世界ではエーデルって呼ぶのかー、と思っていたら、種の名前じゃなくてこの家で飼っている犬の名前だった。
まあ、これはオレも間抜けだった。犬に向かって、『犬! 犬! こっちおいで』なんて言わないよな。
簡単な言葉はあらかた覚えたわけだし、重要そうなことを補助記憶領域にちょっとまとめてみようか。
まずこの世界のことから。
この星の名前はリガルヅと言う。宇宙のことなんて話してもらえることは少ないが、とりあえずは、大きな亀の上に世界が乗ってるみたいな感じではないらしい。
そしてこの世界には魔法が存在する。あることが前提のオレのチート能力その1なのだけれども。
しかし、実際に確認したというのは重要だ。両親ともに、簡単な魔法を使っているのを目撃した。
隠しているようには見えないので、ある程度の魔法はだれでも使える世界らしい。
もっとも、頻繁に使えるようではなさそうだが。
聞いている言葉を繋いでくと、精霊力が足りないだとか、神の寵愛の度合いの問題だとかそんな感じらしい。
もう少し成長したら、しっかり勉強できる機会もあるだろう。
亜人もたくさんいるらしい。
オレの家族やこの村の人たちは何の変哲もない人間で、区別する際には普遍種と呼ばれるらしい。
だから、実際にはまだ見たことはないけど、角が生えてたり、尻尾が生えてたり、翼を持っていたり、肌が鱗で覆われていたりする人間がいるらしい。
そんな特徴を複数持つ人も稀にいて、さっきの例に全てあてはまると龍人種と呼ばれたりする。
もっとも、この国では、というかこの大陸では、圧倒的に普遍種が多いみたいなので、なかなか会う機会はなさそうである。
オレが生まれたこの場所は、レゴイ大陸のセクシオ連合のプリンテン王国のコメンツァ村という。
大陸や王国のことは、あまり話してくれない(赤ん坊にそんなことを滔々と話す人間がいない)のでおいといて、とりあえずはこの村について。
コメンツァ村は一言で説明すると、ただの田舎である。王都とは山を挟んで離れており、豊かな自然に囲まれたのんびりとした村だ。
酪農より農耕が主のようであり、広大な畑で麦のような植物を育てている。
麦のようなというか、たぶんあれの粉でパンを焼いているみたいなので、小麦ってことにしておこう。とにかくその麦畑が見渡す限り広がっている。
まだ雪が解けたばかりで、無事に育てるためにまだまだ頑張らなければ、とは父の談である。
今世の父は、名をヴァゾン・フェングセンと言う。
フェングセンは姓だが、姓を持っているから由緒正しい血統というわけではなく、プリンテン王国民は普通は姓を持っているものらしい。
金髪碧眼のなかなかの美男子だが、オレの出産の際に見せた頼りなさはどうやら普段通りのことだったらしく、なんだか頼りない感じである。
仕事はちゃんとできるタイプみたいなので、オレとしては食いっぱぐれなければそれで充分である。
真面目で小心者な性格の彼は妻の尻にしかれているようで、妻のお願いという名の命令で、オレに読み聞かせるための絵本を作らされたりしている。
それがまたなかなかのクオリティなのが、なんだかおもしろい。
ヴァゾンの妻、つまりオレの母であるシエロ・フェングセンも良い感じに美人である。
両親の容姿はオレの容姿に直結するので、これは嬉しい。
まだ若いが、かわいい系でなく大人びた美しさを持っていて、青みがかかった黒い長髪に浅緑の目、艶やかな口から発せられる言葉にはヴァゾンでなくたって逆らえそうにない魔力がある。
オレの見た目はまだかわいらしいだけの赤ん坊で将来は予想できないけど、目と髪の色はシエロと同じだし母に似た美人になれたらいいな。
両親の親族も何人かオレの顔を見に来たが、この家に暮らしているのはオレと両親だけの3人家族である。あ、それと飼い犬のエーデルと小屋には家畜の皆さんが少々いる。
そんな家で猫可愛がりされ、穏やかな生活を送っていた。
春の訪れを待つ村に、最悪の予言が届けられるまでは。