07 : 広がる空は嘘をつく。2
ギル視点です。
ハッと、イザヤが顔を上げた。その急性さに、珍しくギルは驚いて、飛び跳ねる。
「な、なんだよ、どうした、イーサ」
あまりにも急だったせいだが、それでも獣としての誇りが少し傷つけられた気がして、ギルは思わず睨むようにイザヤを見つめてしまう。ギルのその様子など気にもせず、というか見もせず、イザヤは一点を見据えて動かない。
「イ、イーサ?」
イザヤが俊敏さを見せるのは、害獣と対峙しているときだけだ。それ以外はぼんやりとしていたり、なにを考えているのかひたすら微笑んでいたりするため、反射神経を疑いたくなる。それだけに、急性に動いて、とたんに硬直したイザヤのそれは、ギルには意味不明だった。
「ひよ……が」
「ひよ? ひよなら城だろ」
ヒョウジュはイザヤの好い人だ、という認識がギルにはある。それは間違いない。イザヤはヒョウジュに惚れていて、どうしようもないくらいだ。見ていればわかる。ヒョウジュの前で、とたんに情けなるのだ。ヒョウジュの前では情けなるイザヤの姿は、見ていて楽しいし、面白い。眠る前、イザヨイという名だった頃もそういう姿は見ることができたが、報われることがなかった。
だからギルは、今がとても楽しくて面白い。イザヤとヒョウジュが互いに想い合っているから、なおさらだ。
そのヒョウジュを城から連れ出して、害獣駆除につき合わせたのは三日くらい前になる。遭遇した害獣に思った以上の時間がかかったせいで、イザヤは連れて行きたかった場所にヒョウジュと行くことができず、ヒョウジュは城に帰ってしまった。
残念だ、とイザヤは肩を落としていたが、漸く復活してきたところで、つい数刻前に害獣の一団を駆除した。さあヒョウジュのところに帰るぞ、となって、足止めをくらっているところである。
イザヤがしくじった。
眠る前のときに比べるとやはり剣の腕が落ちているために、イザヤはよく傷を作る。あちこち傷だらけだ。とくに脇腹と腕の傷は多い。治りきらないうちから傷を作るせいで、いつでも身体は包帯に巻かれている。
数刻前に駆除した害獣から受けた傷は、やはり脇腹と腕だ。痛いくせに痩せ我慢してくれて、少し前に気づいたばかりである。ふらついて倒れたから気づいた。血の匂いがするなとは思っていたが、黒い服で見た感じがわかり難かった。ここでも獣としての誇りを傷つけられたギルである。
なので、荷物から薬と包帯を取り出して治療している最中に、ギルは二度めの、獣としての誇りを傷つけられた。
「あ、わ、ちょ、イーサ、動くな。血が止まってないんだぞ」
硬直を解いたイザヤが唐突に立ち上がった。止血したばかりの傷がそのせいで開き、血が滲んで包帯が汚れる。
「おい、イーサ」
「ひよ……」
「だから、ひよは城だ。どうしたんだ、イーサ」
「ひよが……ひよ、ひよ?」
ふらふらと歩き出したイザヤが、ヒョウジュを呼んで彷徨う。
そろそろ熱を出し始めて頭が危なくなってきたのかと、ギルはため息をつきながら治療の道具を片づけ、汚れた服に火をくべて燃やしてしまうと、新しい上着を持ってイザヤを追いかける。
「風邪引くぞ、イーサ。服くらい着ろ」
「ひぃよ? ひぃよ……ひぃよ?」
「ひよは城なのに……ああ、そっちは城じゃない。城はあっちだ、イーサ」
ヒョウジュを探し求めて歩くイザヤは、立ち止まってくれそうもない。仕方ないので、ギルは人型を維持したまま、歩きながらイザヤに服を着せ、先ほどまでいた場所に戻って荷物を持つと、火の後始末をしてからイザヤを追いかけた。
「ひぃよー……?」
「そっちは城じゃないんだけど……どこに行くんだ、イーサ」
ヒョウジュなら城にいる、と言っているのに聞かず、イザヤはどんどん城とは反対方向へと進んでいく。
このまま歩き続けると、夜がくる。夜は害獣の動きが活発化し、危険も多い。どこか村か街に身を寄せなくてはならない。
だが、イザヤは村にも街にも向かわない。
「この道……道というか方向……聖国?」
極端だが、聖国がある方向へ、イザヤは歩いている。中継地点はいくつあっただろうと考えながら、とりあえずギルはイザヤが進む方向へついて行く。
さすがに、一時間もイザヤがヒョウジュを呼びながら歩く姿を見続けると、ヒョウジュがそちらにいる気がしてきた。
「おれ、負けた……犬なのに」
イザヤの本能に負けた気がして、悲しくなった。いや、もともとイザヤの本能は卓越している。眠りから目覚めて剣を握るようになった今も、それは変わらない。ギルが害獣の気配に気づくと、イザヤも一緒に気づいているくらいだ。
「イーサ、わかったから。そっちにひよがいるんだな? もうわかったから、少し休め。身体、つらいだろ」
前を歩くイザヤの肩を掴んで、漸く立ち止まる。いっそ気絶させて近くの街にでも行こうと、ギルは手刀をかまえた。
しかし。
「ギル」
「ぅおう……なんだ、正気だったのか」
てっきり熱にやられて本能が際立っているのかと思ったが、いきなり振り向いたイザヤの双眸は曇っていなかった。だが、様子がおかしかった。
「ひよが国にいねえ」
「……は?」
「いねえんだ……どこにも」
「……城じゃない、のか」
穢れをヒョウジュに祓ってもらっているせいか、ヒョウジュがどこにいてもイザヤはなんとなくその居場所が感じられるらしい。
国にいない、ということは、城に帰っていないということなのか。
いや、そんなはずはない。害獣の駆除を終えたとき、イザヤは「帰るか」と言ったのだ。イザヤが今帰る場所は、ヒョウジュのいるところで、リョクリョウ国王都である。怪我の治療で立ち止まる前まで、確かに王都へ向かっていた。ヒョウジュは城に帰っていたはずだ。
「国を出たのか、ひよは」
「ああ……なんでだ?」
「おれが知るか。けど、ひよは王女だから……そういう関係でなにか、あるんじゃないのか?」
「待ってろって言った」
「王女にそれがきくのか?」
「ひよなら待ってくれる」
「……それなら、なにか事情があって、国を出たんだろうな」
「事情?」
「おれは知らないぞ」
人間のやっていることなど、ギルには到底理解できない。なにか困っていれば助けてはやるが、国政だの国土だの、獣で魔であるギルには関係のないものだ。
「……ばあちゃんに訊きに行く」
くるりと、イザヤは進行方向を変えた。
「行くって、今からか? もう夜だぞ」
「歩き通せば明日の夜には城に着く」
「そうだけど……その怪我じゃ無理だ。休まないと」
「時間がない」
唐突に、イザヤは走り出す。慌ててギルはそれを追いかけるが、イザヤは怪我人だ。走ってもギルは簡単に追いつく。
無茶だ、と思ったとおり、走り出してすぐにイザヤは肩で息をし、速度が落ちた。
「ほら、無理だろ? 少し休むくらい、いいじゃないか」
「いやだ……っ」
「イーサ」
「いやだ!」
なぜこんなに焦っているのだろう。
ヒョウジュが国にいなくても、彼女はもともと王女だ。ギルは知らないが、なにかいろいろなものをヒョウジュは背負っている。他国に赴く用事があってもおかしくはない。そういう事情があって国を出ただけのことだろうに、イザヤが焦る意味がわからなかった。
「もう無理だ、イーサ。また血が滲んできてる。手当てしないと」
ギルはイザヤの前に回り込んでその走りを止めようとするが、いやだとイザヤは突っ撥ねてがむしゃらに前へと進もうとする。
「ひよが……ひよがいない……いやだ……ひよが」
ああもう、なんて惚れ方だ。こんなに真っ直ぐ惚れていながら、どうしてそれを口にしてやらないのか不思議だ。照れて逃げ回っていないで、確実に捕まえておけばいいのに、なんだか情けない。
仕方ないなぁと、ギルはため息をついた。
「イーサ、運んでやるから、ちょっと休め。おれが運んだほうが早い」
ギルは獣だ。魔という生きものだ。天恵を授かった魔の力は、人間の比ではない。イザヤひとりくらい、背負って夜の間に城へ行くことは簡単なことだ。
それに、滲んだ血の匂いが気になる。それまで確かに治癒力が上回っていて気にならなかったのに、やけに匂いが鼻を突く。いやな感じがしてたまらない。
だから、ギルは再びイザヤの前に回り込むと、今度こそ手刀をかまえてイザヤの後ろ首に衝撃を与えた。
「てめ、ギル……っ」
「ちゃんと連れてってやるから」
走っている勢いのままイザヤを背負い、それまでの速度以上に宙へと舞い上がる。背負ったイザヤは、その怪我もあって、もうぐったりとして気絶していた。
できるだけ揺らさないように、とは心がけるが、あれだけ焦っていたイザヤを考えれば、ここは急いだほうがいいだろう。
ギルはひたすら走る。体力的に疲れることはまず滅多にないので、小休止すら挟まず城へと走り続けた。
息を切らせることなく、イザヤを背負って王都へと帰ったのは、空が白み始めた時刻だった。




