06 : 広がる空は嘘をつく。1
ほんの少しだけイザヤに一緒に連れて歩いてもらって、一日。
翌日には夢だったかのように城へ戻ったヒョウジュは、イザヤが言い残していったことを胸にその帰りをひたすら待っている。
あれから二日が過ぎた今でも、イザヤは帰らない。昨日から降り続いている雨が、イザヤを凍えさせていなければいいけれども、と少し不安になる。雪が降り出してもおかしくない季節なだけに、この時期の雨は暖かいほうだが、それでも身体には悪い寒さを伴っているものだ。ちゃんとどこかで休んでいて欲しい。
不安を胸に、リツエツが「帰ってきましたよ」と伝えにきてくれるのを、今か今かと待っていたときだった。
「入るよ、ヒョウジュ」
先触れもなく兄たちが部屋を訪れるのはいつものことだが、扉も叩かず入られたのは初めてだった。
「……アオヅキ兄さま」
イザヤの帰宅かと浮足立っていたヒョウジュは、アオヅキの入室に肩を落とす。
「ちょっと話、いいかな」
「ええ……どうぞ、こちらに」
アオヅキはひとりではなく、アオヅキを補佐する文官と武官のふたり連れていた。ヒョウジュは彼らにも適度に休むよう促し、侍女に頼んでアオヅキのお茶を用意してもらう。
用意されたお茶を一口、ゆっくりと飲んでから、アオヅキは口を開いた。
「聖国のことは聞いたかい」
「ヴァリアス帝国、ですか?」
「そう」
「……皇帝陛下が、病に倒れたとは、お聞きしましたが」
少し前、祖父母が帰国してまもなくだっただろうか。このリョクリョウ国の主上国、聖国とも呼ばれているヴァリアス帝国の皇帝が、病に倒れたという報が届いた。公にはされていないそれは、属国にはすぐ知らせられている。唯一の皇太子がその玉座を継ぐだろうと言われていた。
「昨日、崩御されたそうだ」
ああやはり。神の国、主上国の皇帝も、病には勝てない。
いや、勝って欲しくもないというのが、リョクリョウ国の心情だ。
「……害獣の被害は、減るでしょうか」
「それを期待している。ヴェナート陛下の治世が二十年弱も続いたことだしね。減ってくれないと困る」
アオヅキは忌々しげにため息をついた。
なぜ兄がこんな態度なのか、本来なら主上国に対し不敬であることだが、ヒョウジュは注意しない。
理由は聖国の天恵、そしてその影響を受ける害獣の存在だ。
リョクリョウ国にヒョウジュのような天恵者がいるように、聖国にはさらに多くの天恵者がいて、皇族には特有の天恵があった。聖国の皇族特有の天恵は、この大陸の均衡を保ち国土を安定させる力であり、また世界の調和を支えるものである。
その聖国の天恵が、ヴァリアス帝国皇帝ヴェナートの治世になったとたん、歪められた。狂いが生じ、大陸の均衡が乱れ始め、世界の調和が崩れ始めた。
害獣という世界の澱みや塵と戦い続けるリョクリョウ国は、聖国の影響と余波に直撃され、害獣被害が増えたのだ。
「彼がいったいなにをしたのか、今もそれはわからないままだが……これでわが国も平穏を取り戻せるなら、彼の死を心から嬉しく思うよ」
「……そう、ですね」
なぜ聖国の天恵が歪められたのか、狂いが生じたのか、その原因はわかっていない。ヴェナートはそれらを否定していたし、歪みや狂いが生じているという証拠が聖国では明らかにされず、リョクリョウ国では害獣被害の増加、他の属国では自然災害の多発や賊の増加であったために、どの国も聖国だけを責めることが憚れたのだ。
ただ、リョクリョウ国は害獣という世界の澱みや塵と戦い続けているゆえに、ひび割れた調和の影響を受けるのは当然で、それらを司る聖国に責任があると追及することができる。できずにいるのは、リョクリョウ国という最北端の小国が、ヴァリアス帝国という世界三大国の一つに、戦を仕掛けるなど無謀の極みであるからだった。
「皇太子殿下が賢帝となってくれることを、祈るよ」
歪みや狂いを生じさせた皇帝ヴェナートが崩御した、変革期と呼べるだろう今、リョクリョウ国は慎重に次代皇帝を見定める必要がある。
「及ばずながらわたしも、祈らせていただきます」
「そうだね……ヒョウジュも、王族のひとりだ」
「はい」
「だからね、ヒョウジュ」
「……はい?」
ふとアオヅキは、ヒョウジュをじっと見据えてくる。ヒョウジュと同じ空色の双眸が、細められたとき。
「嫁いでもらうよ」
「……え?」
「ヴァリアス帝国次代皇帝となる、皇太子サライ・ヴァディーダ殿下に、嫁いでもらうよ、ヒョウジュ」
瞬間的に、ヒョウジュは耳を疑い、兄の言葉を疑う。
「……なにを、おっしゃって」
「おまえを嫁がせる、と言ったんだよ」
なぜ、とヒョウジュは瞠目した。
「わ……わたしには、婚約者が」
「あの狩人との話なら、初めから存在しないよ。誓約書もなにもない、ただの口約束だ。そもそもおばあさまの……王太后さまの独断であって、陛下は認めてもいない」
「そんな……」
目の前が、真っ暗になった。真っ白になった。アオヅキの言っていることを、理解したくなかった。
「明日、陛下がヴァリアス皇帝の戴冠式に出席すべく、国を出る。ヒョウジュは陛下と一緒に、ヴァリアス皇帝の妃候補として、聖国に行ってもらうよ」
「そ……そんな急にっ」
「急なことではないよ。おれとナガクモは、ずっとそれがいいと陛下に進言していたし、陛下も悪くない話だと理解を示してくれていた」
それにしても、とヒョウジュは拳を握る。
「今までそのようなこと、一言もおっしゃらなかったではありませんかっ」
「まあね。だって可愛いヒョウジュのことだ。政略結婚なんてさせたくないけど、幸いにもヴァリアス皇帝となるサライ殿下は賢帝を期待できる人柄でね。前に一度お逢いしたとき、彼ならヒョウジュを幸せにしてくれるかもしれないと思ったんだ」
「ですが、わたしは……っ」
「ヒョウジュ、おまえは、王族なんだよ」
グッと、言葉に詰まった。
確かにヒョウジュは、王族の端くれだ。国のために在らねばならない。たとえ外見で不気味がられようとも、忌み嫌われようとも、そんなものは王族という言葉の前には無意味だ。国を一歩出れば、ヒョウジュの外見は目立ちもしないのである。世界を捜せばどこにでもあるのだ。
弊害は、どこにもない。
「いやです、わたし……いやっ」
「ヒョウジュ」
「いやよっ」
心の裡で、イザヤを呼ぶ。そばにいてと、わたしをここから連れ去ってと、呼ぶ。
「わたし、ひとりでいいもの……イザヤがいるからいいもの……嫁がない。どこにも行かない……イザヤと一緒にいるの。イザヤがいいの」
心の叫びを吐露すれば、アオヅキにはため息をつかれた。
「……いつからそんなに、我儘になったのかな」
イザヤと出逢ってからだ。イザヤと出逢って、ヒョウジュは我儘を覚えた。イザヤのそばにいたいから、イザヤの家族になりたいから、ヒョウジュは我儘になった。
「いや……いやよ、兄さま……どうして」
「おれは狩人が嫌いだからね」
「だからって」
「あの狩人におまえを嫁がせるくらいなら、おまえに恨まれたほうがマシだよ」
睨むように、冷えた空色の双眸に射られる。
「なんで……どうして、兄さま……っ」
「あの狩人はおまえに天恵を使わせる。おまえが背負った天恵を。おれは、それが許せない」
アオヅキが授かったわけではないのに、なにが許せないのか、ヒョウジュにはわからない。
「わたしの、勝手よ……自己満足よ。なにがいけないの」
「おまえを否定させる天恵なんか、あの狩人に使う必要はない」
その瞬間、ヒョウジュは、兄の言葉に息を詰まらせた。
好きにはなれない、けれども嫌いにもなれない白い髪。この髪のせいで、ヒョウジュは不気味がられ、怖がられ、嫌われた。色を失くした者だと、忌避されてきた。
アオヅキは、ヒョウジュの心を、悲しんでくれていたのだ。
だから、害獣のいない国へと、天恵を使わずに済むところへと、逃がそうとしている。外見のことでとやかく言われることのない世界へと、送り出そうとしている。
「兄さま……」
「いいかい、ヒョウジュ。もう二度と、その天恵は使うな」
強くそう言うと、アオヅキは座っていた椅子から立ち、離れていく。
「兄さま、わたし……っ」
「ヒョウジュ、おまえは王女だ。陛下に、国に、従う必要がある」
最後通告のように言い放つと、アオヅキは振り返りも立ち止まりもせず、連れてきていた文官と武官を促し、部屋を出て行った。
ぱたん、と扉が閉められてまもなく、ヒョウジュは両手で顔を覆い隠して身を丸める。
「イザヤ……イザヤ、イザヤ……っ」
嫁ぎたくない。イザヤ以外の人と、家族になりたいなんて思わない。イザヤがいい。イザヤのそばで、笑っていたい。
ああ、こんなにもわたしは、イザヤが好きだ。
こんなにもイザヤが恋しい。
「わ、わた、し……っ」
あなたと生きたい。
あなたと死にたい。
あなたと、生きていきたい。
それがわたしの願いで、わたしの素直な心。
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙をヒョウジュは止めることもできず、声を上げずに泣き続けた。