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宴の夜に舞い降りる。  作者: 津森太壱。
【宴の夜に舞い降りる。】
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02 : 行こうか。





 イザヤは穏やかな人だ。いつも仄かに笑って、どこかふわふわとしている。だから狩人だということが信じられないくらい、剣も似合わない。

 けれども、イザヤは狩人で、片刃の双剣を自分の身体のごとく自由に操り、害獣を駆除する。


 そんなイザヤが剣を握っていないときは、ふだん以上にほんわかと微笑んでいることが多かった。


「ひぃよ?」


 珍しく暖かい日、どこにも行かず住んでいる邸の庭で、相棒の黒犬ギルと一緒に転寝しているイザヤを見つけたヒョウジュは、そっと歩み寄ってそばに座り、文字の読み書きを練習しているイザヤのための教材を作ろうと紙を広げた。


「起きていたの……?」

「んー……まだ、眠い」

「なら、眠って。このままそばにいてもいい?」

「うん。いて」


 ころん、とヒョウジュのほうに転がってきたイザヤは、どこか寝ぼけているようで、ヒョウジュの膝を枕にしてきた。


「眠いのね、イザヤ」

「ひよ、ふわふわ……あったかい」


 ふにゃっと微笑むイザヤのほうが、ふわふわしている。まるでどこかに、ふっと消えてしまいそうだ。


 イザヤは、たまにこうしてヒョウジュに甘えてくることがある。けれども、それは眠そうにしているときだけで、それ以外はこんなふうに擦り寄ってくることはない。顔を真っ赤にして、ヒョウジュから逃げ回っていることのほうが多い。どうやら免疫が皆無らしいというのはシスイから聞いたが、なんの免疫かは教えられていないので、ヒョウジュはイザヤのその正反対な行動の意味がよくわからなかった。

 ただ、嫌われているわけではないということだけは、はっきりとしている。ヒョウジュの外見を不気味がることも、恐れることもないイザヤは、ヒョウジュにやんわりと微笑むのだ。嘘に塗り固められた者たちの態度を見慣れているせいか、それがイザヤの心からの笑みであると、ヒョウジュは感じている。


「……触ってもいい?」

「うん……ひよは、あったかいから」


 瞼を閉じたイザヤの、黒というより鈍い灰色の髪をさらりと梳き、ゆっくりと頭を撫でる。見た感じは硬質そうなのに柔らかくて、すぐに寝癖がつく髪は、ヒョウジュの手を楽しませてくれる。


 しばらくそうしてイザヤの頭を撫でていると、寝そべっていた黒犬ギルが、唐突に身体を起こした。


「ギル?」

「おれも」


 のそりと立って、ゆったりとヒョウジュに歩み寄って背中に回ってきたギルは、イザヤに熱を奪われている分を与えてくれるかのように、寄り添ってくれる。出かけてから帰ってくるとすぐにギルは洗われるので、ふよふよとなびく黒毛は柔らかく、暖かだ。


「ありがとう、ギル」

「ん」


 イザヤもそうだが、ギルも、害獣を駆除して帰ってきて、また害獣を駆除するために出かけるまで、ほとんどこうして転寝している。たまに起きているかと思えばイザヤはヒョウジュから逃げ回り、しかしヒョウジュに頼まれたギルが捕まえてくる。剣の稽古をしているときは逃げない。眠気が勝っているときは今のように甘えてきて、ヒョウジュのそばから離れない。ヒョウジュを枕にする。

 気が向けば、文字が書けないイザヤは、読み書きの勉強をした。気が向いたときにしか勉強しないせいで、イザヤは未だ自分の名前すらきちんと書けない。短時間なら人型にもなれる賢いギルのほうが、読み書きができた。


「……ひよ」


 陽光に暖められた風を頬に感じたとき、ふっとイザヤの両目が開かれた。


「眠らないの?」

「誰か……来た」


 来訪者を感じたらしい。ヒョウジュの背にいるギルも、僅かに身じろぎする。


「リツエツが帰ってきたのかしら……」


 カク・リツエツは、イザヤの養父となった人で、このリョクリョウ国の王、つまりヒョウジュの父を補佐する王佐だ。だからイザヤが帰ってくるこの邸はリツエツの家で、ヒョウジュがイザヤに逢うために訪れる場所だった。

 しかしながら、もっとも王のそばにいるリツエツが邸に帰ってくることは少なく、またこんな昼間に帰ってくることもない。

 なにかあったのだろうかと、振り向いたとき。


「ヒョウジュ!」


 大きな呼び声に、身が竦む。びくりと震えた身体は、素早く起きたイザヤに抱きしめられ、ギルに護られた。


「おま…っ…ヒョウジュから離れろ!」


 イザヤにしがみつきながら見た、大きな声を上げた人物は、イザヤと出逢ってからは久しく逢っていなかった兄たちだった。その後ろでは、呆れた顔をしている王佐リツエツもいる。


「知り合い?」

「兄のアオヅキとナガクモよ」

「へぇ……いたんだ」


 そういえば逢ったことはなかっただろうか。まだどこか眠そうな顔をしたイザヤの体温が離れていくのを寂しく思いながら、しかし握った腕は離さず、ヒョウジュは怒りの形相で歩んでくる次兄ナガクモと、困惑気味な顔をした長兄アオヅキを見やった。

 だが、ナガクモの視線も、アオヅキの視線も、ヒョウジュにはない。


「おまえ、なに者だ! おれたちのヒョウジュになんてことしていやがる!」

「……眠い」

「ああっ?」

「ひよ、おれ、眠ってるから」


 怒鳴られていたのはヒョウジュではなく、イザヤのほうだったのだが、イザヤはそれらをばっさりと切り捨てると、再びヒョウジュの膝を枕に寝転がる。

 とんだ自由気儘なイザヤの態度を、もちろんナガクモが許すはずもない。


「人の話を聞け!」

「まあ落ち着け、ナガ」

「ふざけろ! なんだ、この男はっ!」


 イザヤを蹴ろうとしたナガクモを、アオヅキがため息をつきながら押さえる。

 ナガクモが激昂し、アオヅキが表現し難い顔つきをしている理由がなんとなくわかっているヒョウジュは、さてどうしたものかと考えながらも、周りを無視したイザヤの頭を撫でた。


「おいヒョウジュ! おまえ当事者だぞ!」


 そんなことを言われても、と思う。


「……考えている最中です」


 どうすればいいだろう。


「ヒョウジュ、落ち着き過ぎだよ」


 そう言われても、と思う。

 落ち着いているわけではない。かといって焦っているわけでもないのだが、状況に困っていることは確かだ。


「……どうしてここが、おわかりになりましたの?」

「リツエツに聞いた!」


 それならヒョウジュが改めて説明する必要はないだろう。

 怒っているナガクモ、小難しい顔をしたアオヅキ、そっぽを向いて呆れているリツエツを流し見て、ヒョウジュは目を硬く瞑ったイザヤに視線を落とすとことさらゆっくり頭を撫でた。


 ヒョウジュがイザヤのところに通っていることを、兄たちには知らせていない。とくに知らせる必要があるものでもない。祖父母からも、両親からも、好きにしていいと言われていることだ。ヒョウジュが思うように行動していいと、その自由を得たものだ。だからヒョウジュは、イザヤがいるときはずっとそのそばにいようと、心が感じるがままここを訪れている。


「リツエツに聞いたのなら、もうよろしいでしょう?」

「よくない! なにを考えてこの男の許に通っている!」


 怒鳴るナガクモの声に、イザヤの眉がぴくりと動いた。ギルの耳もピンと弾かれた。

 ああ、邪魔になってしまっている。

 申し訳なく思いながら、ヒョウジュはイザヤの耳に手のひらを当てることで、それを護った。


「どうしてそんなに、怒るのですか……以前はよく外に出ろと、おっしゃっておられたではありませんか」

「それとこれとは別だ!」

「……ナガクモ兄さま、声をお控えください。イザヤが眠れません」

「起こせ! そもそもおれは、その男に話があるんだ!」

「イザヤのことはもうご存知でしょうに……」


 祖父母が頼み、父が捜していた迷子。それがイザヤだ。城にいて、父や祖父母と直接関わりがある者なら、誰でもそれを知っている。イザヤがイザヨイという騎士の魂を宿していると、それを知っている者たちは少ないだろうが、イザヤの存在はべつに隠されているわけではないのだ。


「ヒョウジュ、彼がなに者か、おまえはちゃんと分かっているのかい?」


 アオヅキにそう問われ、もちろんだと、ヒョウジュは頷く。


「本当に? 本当に彼で、いいのかい?」

「なにをおっしゃりたいのですか、アオヅキ兄さま」

「おれはヒョウジュに幸せになってもらいたいだけだよ。ナガと同じようにね。だが彼は、狩人(かりびと)だ。おれは心配だよ」


 アオヅキが言いたいのは、イザヤが迷子だということのほうではなく、ヒョウジュがこうしてそばにいることの真意らしい。祖父母から、その話を聞いたのだろう。


「……わたしはイザヤと一緒にいます」

「その決意は固い?」

「はい」


 まっすぐとアオヅキを見つめれば、アオヅキもまっすぐにヒョウジュを見つめ返してくる。

 ふっと息をついたアオヅキは、押さえていたナガクモを引っ張りながら踵を返した。


「ちょ、アオ! おれはまだ奴に……っ」

「ナガ、あとにしよう。父上から話を聞いてからだ」

「けど、ヒョウジュが……っ」

「だいじょうぶ。おれも認めたわけじゃない」


 立ち止まり、ちらりと振り返ったアオヅキが、ヒョウジュの膝で眠るイザヤを睨む。


「おれは狩人が嫌いだ。認めることなんか、できないからね」

「アオ……?」

「そういうことだからヒョウジュ、忘れないようにね」


 意地悪気に笑ったアオヅキは、ナガクモをずるずると引っ張りながら、来た道を戻っていく。

 その後ろ姿をぼんやりと見送りながら、ヒョウジュは、厄介な人を敵に回してしまったかもしれないと、思った。後悔はしないけれども。


「お邪魔して申し訳ありません、殿下」

「……いいのよ、リツエツ。それより、兄たちにつき合って帰ってきたわけではないのでしょう? 用件はなにかしら」


 残ったリツエツは、律義に礼をするとそばに歩み寄ってきて、背中を向けているイザヤの肩をぽんと撫でた。


「仕事ですよ、イザヤ。詳細は紙に。書斎にあります。目を通して、明日、向かってください」


 やはりそうか、とヒョウジュは肩を落とす。リツエツがこうして家に帰ってくるとき、その大抵はイザヤの仕事を携えているのだ。

 イザヤは返事をせず、またリツエツも返事を聞くことなくヒョウジュに頭を下げると立ち去った。イザヤが身動ぎしたのは、リツエツの気配が完全に消えてからだ。


「行くの……?」

「まだ。もう少し眠る」


 ぼそぼそと小さな声で、イザヤは擦り寄ってきながら答えてくれた。


「ひよ、眠れる薬ちょうだい」

「……また?」

「怖くて眠れない」


 ヒョウジュの腹部にぴったりと額をくっつけたイザヤが、身体を丸める。


 やめればいいのに、と思った。

 そんなに怖いなら、狩人なんてやめてしまえばいいのに。


「……用意しておくわ」

「うん……ありがとう、ひよ」


 ヒョウジュの膝で眠るイザヤは、けっして寝台の上では眠らない。狩人として片刃の双剣を握るようになってから、イザヤが寝台で眠っている姿を見なくなった。ヒョウジュが出逢ったあのとき以来、長椅子の上や庭先、屋根の上、木の上、ヒョウジュの膝で、イザヤは眠っている。

 どうして、と訊いたことがある。

 眠れない、とイザヤは言った。だから眠れる薬をちょうだい、と。

 イザヤは寝台では眠らない。それ以外の場所でも、転寝はしているけれどもなにかの気配を感じればすぐに目を覚ますし、ヒョウジュの膝でも深く眠ることはない。

 安眠を得られないほど怖いなら、狩人なんてやめてしまえばいい。

 そう、幾度思ったことか。

 けっきょく、「狩人だから」と微笑まれることだから、思うだけで言ったことはなく、頼まれた薬を用意してしまう。


「ねえ、イザヤ」

「んん?」


 わたしを連れて行って。

 とは、言えなくて。

 けれども。


「帰ってきて」


 イザヤの頭を抱いて、ヒョウジュはお願いする。


「帰ってきて、イザヤ」

「ひよ……」

「お願い」


 ヒョウジュは知ってしまった。

 ひよ、と呼ばれることの嬉しさを。

 ひよ、と呼ばれないことの悲しさを。

 ひよ、と呼ぶ声のある喜びを。

 ひよ、と呼ぶ声のない寂しさを。

 だから。

 わたしをひとりにしないで、と。

 思うようになってしまった。


「ひよ。ひよ、顔上げて」

「……イザヤ」

「ひよ、来る?」

「え……?」

「おれと来る?」


 ゆっくりヒョウジュから離れたイザヤが、淡く微笑みながら小首を傾げる。


「おれと行こうか、ひよ」


 その言葉は、信じられないもので。


「いいの……?」

「うん。ぼやぼやしてると、邪魔されそうだし」

「邪魔?」

「あ、や、それはこっちの話。とにかく、今回はおれと行こうか、ひよ」


 行こう、とイザヤの手のひらが、ヒョウジュの頬をくすぐる。

 行こう、と言ってもらえたことが思いのほか嬉しくて、ヒョウジュは目を瞬かせた。


「いいの? 本当に?」

「いいよ。ただ、おれ馬には乗れねぇから、歩くことになるけど」


 そんなことはどうでもいい。イザヤが、連れて行く、と言ってくれたことが、重要なのだ。


「行こうか、ひよ」


 うん、とヒョウジュは微笑みながら頷いた。







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