03 : 大切な幼い命。
イザヤが連れ帰ってきた子どもは、イザヤが目覚めてもなかなか意識を取り戻さなかった。
「そんなにひでぇ怪我、してねぇのに……やっぱり、おれのせいかな」
「だいじょうぶよ、イザヤ。子どもには穢れの耐性がないの。目覚めないのはそのせいよ」
イザヤは自分が怪我人のくせに、つきっきりで子どもの世話をしている。子どもは男の子なので、世話をするにはヒョウジュよりもイザヤのほうが適していたというのもあるが、それ以前にイザヤ自身が、どうしても子どもから離れようとしない。
「ひよに、無理させちまったな……ごめん、どうしても、この子を助けたくて」
「それはいいの。わたしは疲れただけで、お腹の子にも影響はなかったわ」
「うん、ごめん……」
よかった、と呟きながら、イザヤはヒョウジュに腕を回し、抱きついてくる。甘え方は昔から変わらない。
「ところで、訊きそびれていたのだけれど……この子は、いったいどうしたの?」
子どもは、コウガ族の特徴を持っている。おそらく目覚めたときに見られるだろう瞳は、深い蒼色だろう。滅んだとされているコウガ族の、生き残りだ。見た目は三歳か四歳くらいだが、節々が骨張っているから、もしかしたら栄養が足りていなくてそう見えるだけかもしれない。
「コウガ族、よね」
「たぶん、そうだと思う。おれが見つけたのは、この子だけだった」
「見つけた?」
「……間に、合わなかった、んだ」
ヒョウジュに抱きついたイザヤの身体が、ぶるりと震えた。
「……なにがあったの?」
ヒョウジュはイザヤの頭をゆっくりと撫で、落ち着かせるようにイザヤの声に耳を傾ける。
「害獣が、個体でなく、団体でいきなり現われたって、聞いて……ギルに走ってもらって、急いで駆けつけたんだけど……遅かったんだ」
害獣の出現には兆候がある。単体で現われたときには、とくに注視すべき事柄はないが、二体か三体で現われたときには、背後に倍の数が控えていると思ったほうがいい。
このところは害獣の出現率が減り、それほど多くの害獣は現われていなかったのだが、今回ばかりは違ったのだろう。それも兆候なく団体で現われるくらいには、いきなりの出現だったに違いない。
「おれ以外の狩人も、いたんだけど……数に圧倒、されて……気づいたら、おれひとりに、なってた」
「そんな……」
「すっげぇ、怖かった……っ」
ぎゅっと、一段と強く、イザヤがしがみついてくる。
イザヤは狩人だ。害獣を駆逐する、害獣の悲しみを知る狩人だ。けれどもイザヤは、とても強くて、とても弱い狩人だった。狩人なんてやめてしまえばいいのにと、そう言われてしまうくらいに、害獣に恐怖を抱く狩人なのだ。
「もう、だいじょうぶ……わたしがいるわ」
ヒョウジュはイザヤの頭を抱き寄せ、労わり、想いを込めて「だいじょうぶ」と幾度か繰り返し口にする。イザヤの震えはそれでいくらか和らいだが、強張った腕は、なかなかその緊張がとれない。少し昔、深い傷を負った代償で、指の感覚が遠いせいだろう。
「この子は、あのなかで、たった、ひとり……立ち竦んでた」
「……なら、この子は」
本当の意味での、生き残り。害獣の被害に遭いながら、唯一、生き延びることができた命。
「でも! でも…っ…泣かねぇんだよ」
「え……?」
「泣けって、言ってんのに…っ…ぜんぜん、泣かねぇんだ」
害獣は、人を侵す。人を殺し、人を絶望させ、人を壊す。だがその害獣を作りだすのは、この世界に生きる人々。
イザヤの葛藤と苦悩に、ヒョウジュは唇を噛む。
「おれは、害獣が、きらいだ…っ…でも、この子を壊したもんは、それだけじゃねえ」
「……どういうこと?」
「ひよも、見ただろ。この子、足とか、腕とか、痣がある」
「そういえば……」
「く、首にも、あるんだ」
顔を上げて訴えてくるイザヤの目には、もはや涙が溢れ、今にもこぼれ落ちそうになっていた。
「子どもが! 子どもが、なんで…っ…なんで、あんなめに遭うんだっ」
イザヤの双眸に、憎しみの色が浮かぶ。それは痛ましいほど、ヒョウジュの心を揺さぶった。
「まだ子どもだぞ、小さいんだぞ、なんにもできねぇんだぞ! なんで、護ってやらねぇんだよ!」
ひどいじゃないか、とイザヤは泣きじゃくる。
「子どもは笑ってるもんだ! 笑って、泣いて、怒って、素直な心のまま生きてるもんだ!」
「ええ……ええ、そうね。その通りだわ、イザヤ」
「おとなが、親が…っ…人間が、この大切な小さい生きもん、護らねぇなんておかしいだろ!」
イザヤの悲鳴が、悲しみが、恐怖が、耳に痛い。ヒョウジュも思わず泣きたくなってきて、その奔流に逆らえず、涙が浮かぶ。
「そう、そうね、イザヤ……ひどいわね、愚かよね、人間は」
「護れよ……子どもなんだぞ……っ」
正直、イザヤは子どもが苦手だと思っていた。近寄らせることもなく、ヒョウジュが身籠ったと伝えたときでさえ青褪めていたくらいだ。もしかしたら嫌いなのかもしれないと、ヒョウジュは思っていた。
だが、違った。
イザヤは、子どもが苦手には苦手なのだろう。しかしそれは、小さな命に対する、恐怖心からのものだったのだ。だから扱い方がわからなくて、接し方がわからなくて、さらに怖くなって、遠ざけていたのかもしれない。
「こども、なんだぞ……っ」
護らなくてはならない小さな命だから、護らなければならない幼い未来だから、イザヤは子どもに、恐怖心を抱いた。だからこそ、たったひとり、生き延びたコウガ族のこの幼子を、己れの命をかけて助けたいと思ったのだろう。
イザヤは臆病だ。
けれども、優しい。
そして、どうしようもなくお人好しで、どうしようもなく、子どもという存在が可愛くてならないらしい。本当はとても、子どもが好きなのだ。
「イザヤ、この子はもうだいじょうぶ。あなたがいるもの。わたしがいるもの。きっと護れるわ」
ああだいじょうぶだ。お腹の子も、イザヤは愛してくれる。怖がりながら、抱きしめてくれる。
そう思うと、ひどく安心した。
「……ひよ、いいのか?」
「なにが?」
「おれが、この子も護って、いいのか?」
「イザヤはいやなの?」
問い返すと、イザヤは思い切り首を左右に振った。
「護りたい。おれが、ひよが、この子を護るんだ」
「ええ……それでいいのよ、イザヤ」
それは偶然であっても。
目の前にあっただけということでも。
手を伸ばせば届くところにある確かな命を、護りたいと思っている自分に誇りを持って欲しい。
「ひよ、おれ、護るよ」
涙を拭ったイザヤが、その双眸に未だ憎しみを抱きながらも、強く言葉にする。
ヒョウジュは微笑んだ。
「それが、あなただわ」
護りたいものを護れる力があるなら、惜しむことなく命の続く限り護り続ける。それがイザヤで、ヒョウジュだ。
「さあ、この子のためにも、イザヤも少し休みましょう?」
「……うん」
コウガ族の幼子はまだ目覚めない。けれども目覚めたとき、いっぱいの愛情で包み込もう。命を祝福しよう。
ヒョウジュはイザヤとそれを誓い、深く眠り続ける子どもの頬をそっと撫でた。