24 : 宴の夜に舞い降りる。2
宴の夜に、狩人は異界より舞い降りた。彼は迷子だった。帰る場所を求めていた。王女が出逢ったのは、狩人が黒犬と共に再び大地に立とうとしたときだ。そしてさまざまな壁を乗り越えて、王女と結ばれた。
「聞こえはいいけど、実際はそんなに多くの壁、乗り越えてねぇよな」
達観するには少々年端の足りない少年が、母親から渡された書物を読みながらため息をつく。少年の傍らには、少年より幾ばくか幼い少女が、少年が呼んでくれる本の内容に目を輝かせていた。
「そんなことないよ。王女さまは、王女さまだったんだよ? すごく大変だったんだよ」
「夢見がちな少女のそれを壊すようで悪いけど、だってこの黒犬つれた狩人って、たぶん父さんのことだぞ? 王女さまって、たぶん母さんのことだぞ?」
「お母さんって王女さまだったのっ?」
「あちゃー……夢ぇ膨らませるだけだったか。てか、あのでかい城をなんだと思ってたんだろうね、この子。あれ母さんの実家だよ? お城だよ?」
「お母さん、王女さまだったんだぁ」
「ああだめだこの子、あっち行っちゃったよ」
少年は短くため息をつき、書物を閉じる。少女が、もっと読んで聞かせて、とねだってきたが、少年は自分で読めと押しつけた。
「ルナ、まだ読めない文字があるの!」
「おれも読めねぇよ」
「お兄ちゃんも読めない文字があるのっ?」
「誰が自分の両親の恋話なんぞ読みたいものか。書いた奴あほだな」
作者は誰だろうと、少女の渡した書物の背表紙をちらりと見て、その名にがくりと肩を落とす。夢見がちな少女を育てた父の名、つまり己れの父でもある人物の名が書かれていた。
「自分で作ったのかよ! あの人あほだな!」
おそらくは母も携わっているのだろうが、こんなものを書いている暇があったとは驚きだ。しかもこの書物が店先に並んでいたところを見たことがないことから、この書物は世界に一つしかない。自分たちで作ったのだろう。どこにそんな暇があったのだと、少年はたびたびため息をついた。
「あ、お母さんだ! おかえり、お母さん!」
人通りの少ない木陰で少女、妹ルナと留守番をしていた少年、キサは、漸く戻ってきた母ヒョウジュの姿を見やった。ちょうどルナが、母の懐に飛び込んでいくところだった。
「ただいま、ルナ。キサも、待たせてごめんね」
「それはいいけど」
「あら……イザヤとギルはどうしたの?」
「宿探しに行くってさ」
「ルナとキサを置いていくなんて……困った人ね」
「いや、おれはだいじょうぶだよ。むしろ父さんのほうが危険だ」
警戒心の強さでいくなら、父イザヤより自分のほうが強い、とキサは常から思っている。実際にそうなのだ。剣の腕は未だイザヤを越せないキサだが、それ以外ではキサのほうが勝っている。だから黒犬、ギルも真っ先にイザヤを追いかけ、キサはルナとふたりで留守番をしていたのだ。
「母さんが戻ってきたことだし、父さんを探しに行くか」
「どこまで行ったかしら」
「見つからなかったら父さんに探させればいいよ。ギルがついてんだし」
「そうね……じゃあ、街に入りましょうか」
「地図は手に入った?」
「ええ、だいじょうぶよ」
ヒョウジュは幾分かおっとりしたところがあるから、店先での交渉などは心配するところだが、そのおっとりとしたところを武器にする人だから、買い物をするときはヒョウジュに任せたほうがいい。今回も、聖国であるヴァリアス帝国に入国する際、ヒョウジュの話し方が多いに役に立った。地図も、ヒョウジュに頼めばこの通り、最新版を安価で手に入れられる。ついで新聞も手に入れてきたようだ。さすがは母である。
「へえ、聖国の世継ぎ、皇女誕生だって。うわ、もう婚約? 産まれたばっかりなのに、もう婚約者。お姫さまは大変だねえ」
「そんな話が載っているの?」
「読んでねぇの?」
新聞をヒョウジュに渡すと、キサが読み上げた部分を熱心に読み始める。さすがは元王女、こういうことには少しでも興味があるらしい。
「ねえねえ、お母さん。お母さん、お姫さまだったんでしょ?」
「あらあら、ルナったら。女の子はみんなお姫さまよ?」
熱心に新聞を読んでいたヒョウジュだったが、ルナに話しかけられると、ぽいっと呆気なく新聞を道端に放り投げた。本当に少ししか興味がなかったらしい。
「だからって捨てるなよ……」
まだ読みたいので、キサは新聞を拾うべく腰を曲げた。しかし、自分で拾う前に、誰かに拾われた。
「あれ……、ギル?」
新聞を拾ったのは、人型になるとイザヤそっくりの顔になる、黒犬のギルだった。
「父さんを追いかけてったんじゃねぇの? まさか見失ったとか?」
「いや、途中で知り合いに逢ったから話し込んでる。おれはおまえたちを迎えにきた」
「父さんに知り合い? 話し込むほどの人っていたかなぁ」
「ひよも知ってる奴だ」
「母さんも? 母さん?」
振り返るとヒョウジュはルナを抱っこしたところだった。
「あらギル? イザヤは?」
「知り合いのところに置いてきた。そいつが宿も提供してくれるらしい。迎えに来た」
「そうなの? 探す手間が省けたのはいいけれど……どなたのところかしら?」
「あの奇妙な気配のあるじ」
誰だよそれは、という突っ込みは、しかしヒョウジュのちょっと吃驚した顔に阻まれた。
「いらしているの?」
どうやらギルが表現した人物に見当がつくようだ。そんな知り合いがいるなんて、正直驚きだ。そもそも、ギルのその表現を理解できることすら、驚きである。
「誰かわかるのかよ?」
「え? ええ、なんとなく……そう、あの方が……九年、いえ、もう十年ぶりになるのかしら」
思い出を語るように懐かしそうな顔をしたヒョウジュは、訝しむキサに微笑んだ。
「だいじょうぶよ、わたしも知っている人だわ。というより、お世話になったお方、ね」
「世話になった人?」
「昔、聖国で人生に関わる経験をしたの。それを助けてくれた人よ」
それはまさか、あの書物に書かれているようなことだろうか。あれは真実だというのだろうか。
「母さん、あの話……本当なの?」
書物はルナが大事に抱えている。脚色が多いだろうと勝手に思っていたのだが、そこには真実も埋もれているのかもしれない。
「そうよ。わたしは……宴の夜に舞い降りた狩人に、攫われたの」
微笑む母は、とても懐かしそうにしていた。そしてそこには嘘なんてものもなく、どこか嬉しそうだった。
「……どうりで伯父さんたちの父さんに対する反応がひどいわけだ」
「そうね。わたしたちは、反対されてばかりだったから」
「おれでも反対するよ。だって父さん、ばかだし?」
「わたしには可愛い人なのよ」
ころころと笑う母は、心底、父に惚れている。また父も、心底、母に惚れている。それがわかるから、いつも口先だけで父を貶していた。
「あの父さんがねえ……」
剣の腕だけは信頼しているし尊敬もしているが、それ以外はてんで、父を父とは思えない。それでも、王女だった母を攫うくらいの度量を、父は持っていた。その勇気だけは忘れずに憶えておこう。そして母を想うその心も、疑うことなく信じ続けよう。
「お母さんはやっぱり王女さまなのね!」
「あらルナ、あなたも王女さまよ? わたしはイザヤの王女さまだから、いつかルナもそうなる日がくるわ」
「ルナも王女さまっ?」
「ええ、そうよ」
「お兄ちゃん、ルナも王女さまだって! お兄ちゃんは王子さまだね!」
いやおれは王子なんて柄じゃないけど、とキサはルナの言葉に半ば呆れたが、まあ楽しそうだからいい。
「ルナにとってお兄さまは王子さまなの?」
「そう! お兄ちゃんはルナの王子さま!」
「よかったわね、キサ。ルナはあなたの王女さまよ」
なに言っているのだか、と母にも呆れたが、それもいいか、と思う。
キサはルナの、実の兄ではない。だからルナは、キサにとって実の妹でもない。
けれども。
未来を望んでいいのなら、許されるのなら、この手で永遠にルナを護りたいと思うくらいには、ルナを可愛いと思っている。
「まあ、ルナがおれを王子さまだって言ってくれるなら、それもいいかもしれねぇな」
「お兄ちゃんはルナの王子さまよっ」
「はいはい。とりあえず、父さんのところに行こうぜ?」
書物に真実が埋もれているのなら、あんな経験をしたいと思わなくもない。だが、あれは父の物語で、母の物語で、自分のものではない。今ここにある物語が、キサにとってはいとしいものだ。
ああもしかしたら、だから父は、自分の物語を書物にしたのだろうか。いとしく想う日々が、器からこぼれ落ちてしまうのがいやで、形に残したのだろうか。
「キーサ、行くぞ。荷物を持て」
「ん、ああ。……なあギル」
「なんだ」
「おれは父さんが羨ましいかもしれねえ」
「なんだそれ」
「母さんに、毎日、好きだって言ってる」
「……いつまでも恥ずかしい奴だ」
「はは。ギルって、魔のくせに、たまにすげぇ人間っぽいよな」
「おまえはイーサに似過ぎだ」
「育ててもらってるからなぁ」
ははは、と笑いながら、置いていた荷物を肩に背負った。半分はギルに持ってもらうと、先を歩き始めている母とルナを、追いかけた。
これにて【宴の夜に舞い降りる。】は終幕となります。
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次話からは番外編っぽいものです。
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