21 : それが真実で。1
逃げよう。
そう言ったあとのイザヤの行動は、早かった。正確には早いのではなく、もともと手荷物がイザヤにはなく、ヒョウジュもまたそれほど持っていなかったので、荷造りをする必要がなかった分だけ行動が早かっただけだ。
イザヤは夜を待って、聖国の皇城を抜け出す算段を立てた。綿密ではなかったが、ギルがいればどうにかなるものだ。
だが。
「ああやっぱりねえ」
と、夜も遅くに現われたあの侍従長が、イザヤとヒョウジュの前に立ちはだかった。
「そろそろ限界かなぁとは思っていたんですけどね」
「……退け」
のんびり笑う侍従長に、イザヤは敵意も剥き出しに威嚇する。どこに持っていたのか、腰には双剣があって、その柄も握っていた。
しかし、侍従長は怯まない。ギルが警戒を露わにしたように、その笑みはどこまでも得体が知れなかった。
「そう警戒しないでください。べつに邪魔はしませんよ」
「? なんだと?」
「隠れているのも疲れるし、つまらないでしょう? だから、そろそろ外に出してあげようかなと、思いましてね」
「……協力するとか、ぬかしてんのか?」
「そうとも言いますね」
各国の思惑やリョクリョウ国王の考えも承知しているのだろう侍従長は、威嚇するイザヤを宥めるわけでもなく、淡々と「ついて来てください」と言った。
「どこに連れてく気だ」
「うちの皇帝陛下の面目が潰れないようにする場所へ」
「どこだって訊いてんだ」
「つまりサリヴァンのところですよ。なんでわかんないですかね」
おれは侍従ですよ、と言うと、苦笑した侍従長はこちらに背を向け、振り返ることなく歩いていく。ついて来ているか確認もしないその姿に、ヒョウジュはどうしたものかとイザヤを窺った。
「どうするの?」
逃げることに、反論はない。このまま隠れていても埒は明かず、また過ちに気づいた父王がこれ以上ヒョウジュを聖国へ嫁がせようと政略的になにかすることもないだろうから、侍女アビには申し訳ないが、ここでヒョウジュが消えても大きな問題にはならないはずだ。
「意図がわかんねえ……とにかく、ばれちまったし、ついてくしかねぇんだろうけど」
「イザヤ、怪我のほうは?」
「なんともねぇよ。頭やばくなるくらいの怪我は初めてだったけど、初めてだった分、かなり休んだし」
「平気?」
「ああ」
それなら、あの侍従長の言うとおりにしよう。そう言うと、イザヤは怪訝そうな顔をした。
「信じんの?」
「あの人はすべてを承知しているわ。だからたぶん、陛下もそう」
「……よくわかんねえ」
「説明は歩きながら。行きましょう、イザヤ」
首を傾げたイザヤを促して、暗闇に溶け込み始めた侍従長の後ろ背を追った。
「わたしが聖国に来たのは、その……嫁ぐためだったの」
「嫁がせねぇよ?」
「わかってる。わたしも嫁ぐ気なんてないわ。そうじゃなくて、父上さまや兄さまがそうしようとした理由よ」
「政治的な……なんかだろ?」
「そのなにか、わかる?」
問いに、イザヤは顔をしかめた。そういうことは考えたことがないらしい。
「大陸の調和と均衡の問題、そう言えばわかるかしら?」
「……おれ、歴史の勉強はしてねえ」
こんなところで残念な生徒を感じたくないが、イザヤらしいといえばらしい姿だ。
「二十年くらい前の害獣被害のことは?」
「それは少し知ってるけど……その辺りから害獣被害が増えたって」
「聖国の先帝が帝位を継いだのが、その辺りのことよ。害獣の被害が増えたのは、先帝のせいだろうと、各国の王たちは考えているの」
「は? なんで?」
「聖国の皇帝が、この大陸の調和と均衡を司るからよ」
「……なんかそれ、聞いたことが……天恵とかいう力だっけ?」
「そう。わたしに穢れを祓う浄化の天恵があるように、聖国の皇帝には調和と均衡の天恵があるの」
「その力があるなら、害獣の被害は増えるはずねぇんじゃね?」
そのとおりだ。
リョクリョウ国に現われる害獣は、言わば世界の塵、澱みだ。そしてそれら塵や澱みは、聖国の均衡と調和のもとに、増えもしなければ減りもせず、ある一定の数で捕捉される。リョクリョウ国は、世界を掃除する国として、またその調和と均衡の狭間にある国として、存在しているのだ。
しかし、それが崩れた。
二十年ほど前のことである。
「先帝には、その天恵がなかったのではないかと、言われているわ」
「天恵がないと皇帝になれねぇの?」
「ええ。その天恵は帝位を継ぐ絶対条件よ」
「……じゃ、なんで?」
「先帝は、実弟を弑しているの。皇弟が天恵受授者だったと、そういう説があるのよ」
大陸の調和と均衡が崩れたのは、そのせいだと言われている。噂されている程度では済まないほどに、そう密かに囁かれている。これが事実だろうというのは、聖国先帝ヴェナートの御世を鑑みれば、明らかだ。そもそもそうでもない限り、大陸の調和と均衡が崩れるわけもない。
「先帝が崩御したことで、その帝位はただひとりの皇太子殿下に……サライ皇帝陛下に継がれたわ。その人柄や優秀さは誰もが唸るほど敏腕ではあるのだけれど、それでも各国の王は、信じ切れていないのよ」
「だからひよが? おかしくね?」
「わたしが嫁いだところで、聖国の天恵が戻るわけないわ。それはわかっていることなの。けれど、わたしが聖国に入ることで、変えられるなにかはあると父上さまは考えたのよ」
「……反乱か、或いは革命か……そんなところ?」
「そうね……聖国を、弾劾するつもりだったのかもしれないわ。聖国は神の国だから」
「……神?」
「聖国にはいるの。だから、聖国と呼ばれるのよ」
「ふぅん……神サマのいる国ね」
どこか信じられないような顔をするイザヤに、それも仕方ないと思う。ヒョウジュも、聖国に神がおられると昔から教わってきたが、話に聞くだけで逢ったことはない。本当にいるのかと訊かれたら言葉に詰まってしまう。
「あの侍従長を信じてもいいと思うのは……陛下に、天恵があると思ったからよ」
「……まあ、ねぇと皇帝にはなれねぇしな」
「嘘で塗り固めることだってできるのよ。天恵なんて、なんの印もないんだもの」
「それでも、ひよはヘイカに天恵があると思うわけだ?」
「あるわ」
確信を持って、言うことができる。それはギルが、滅ぶのならとうの昔に滅んでいたと、その言葉があったからだ。
「リョクリョウ国は滅びなかった……生き延びた……皇帝の代が変わる、このときまで……それが証明だわ」
「ええと?」
「害獣が世界の塵や淀みだと、知っていて?」
「聞いたことある」
「聖国とリョクリョウ国は密接な関係にあるわ。世界の調和と均衡を司る国だもの、リョクリョウ国はよくも悪くも影響を受ける。それが、害獣の数と比例するのよ」
「害獣が聖国の……あー、なるほど、うん、意味わかった。おればかだから言葉にはできねぇけど、ひよが言いたいことはわかる」
ヒョウジュが説明したいことを、どうやらイザヤは理解できたようだ。
「つまり、天恵を持ってる弟を先帝が殺したから、二十年前の害獣被害がひどくなって……天恵もない先帝のせいで、害獣の被害は増加した、んだな?」
「そうよ」
「新しく皇帝になった奴が天恵を持ってれば、害獣は減る?」
「ええ、確実に減るわ。二十年前の惨劇は繰り返されない」
「ふぅん……そういうことか」
「なに?」
「いやさ、ばかなおれでも、けっこういい線いったなと思って」
「いい線?」
「けっきょくリョクリョウ国は、ひよを傀儡にしたんだよ。国のために」
はん、と嘲るように唇を歪めたイザヤは、随分といやそうにしていた。
「ひよが王女だから、なんだよ。その法則がわかりゃ、どうにでもできんじゃねぇか。ひよを利用しなくても、滅ぶなら滅ぶし、滅ばねぇなら前に進むしかねぇだろうが」
ギルと同じようなことを、イザヤは言った。
「もっと早くに気づけよ……国の過ちに」
そう、イザヤが呟くように言ったときだった。
「それが過ちだと気づいていたら、なにが変わったと思う?」
廊下の窓際に、寄りかかるようにして腕を組み立っていたのは、聖国の皇帝だった。
碧い双眸が、なんの感情もなく、こちらを見ている。
「先帝は考えを改めたか? 皇弟は生き返ったか? 狂った国の天恵は正されたのか?」
矢継ぎ早にくる問いに、ヒョウジュもイザヤも答えられず立ち止まる。
皇帝は続けた。
「聖国にもはや望みはないと、多くの国が主上国たるわが聖国を見捨てた。捨てられたわが国で、欠片でしかない望みを持った者たちが、いなかったと思うか?」
唇を歪めた皇帝は、皮肉るように嗤う。
「たくさんの臣民が、皇帝を見放したよ」
え、と驚かせられる言葉を、皇帝は平然と口にした。
「かくいうおれも、父とも呼ばせてくれぬ皇帝には、見切りをつけていたがな」
「サリヴァン!」
「気にするな、ラク。さすがはリョクリョウ国の姫、そして狩人だ。いい読みだよ」
侍従長に制止を受けても、皇帝は平然としていた。