20 : 大地を踏む。4
イザヤ視点です。
目を開けると、そこにヒョウジュの姿はなく。
身体を包む浮遊感のようなものに、イザヤは首を傾げる。
支えの頼りない感覚に戸惑いながらも身体を起こすと、そこは、秋の気配が漂う草原だった。
ああ、夢を見ているのか。
直感のとおり、草原には以前の夢で見た、黒に近い赤毛の男がぽつんとひとり、空を見上げて座っていた。男が見上げている天は今にも雨が降り出しそうな曇り空で、眺めていて楽しそうには到底思えない。それなのに、口許には笑みがある。
ああ、目が笑っていないのか。
男の横顔から見える双眸は、ひどく虚ろだ。まるで、心がどこか遠くへ飛んでしまっているようだ。
「なあ、あんた……」
イザヤは男に声をかけようとして、しかし急に、目の前の光景が歪む。あまりの歪みに眩暈がして瞼を閉じ、眩暈が治まってから目を開けると、そこはこの数日で見慣れた部屋だった。
どうやら白昼夢を見ていたらしい。
「……ひよ?」
と、いるはずのヒョウジュを呼んで。
「なぁに?」
と、返ってきた声にほっとする。
頬を抓って、これが現実であることを確認すると、イザヤは寝台から身体を起こした。
ヒョウジュは露台に近いところにある椅子に腰かけて、本を読んでいたようだった。イザヤが寝台から起きると、立ち上がって本を椅子に起き、そばに来てくれる。
腕を伸ばして、ヒョウジュを捕まえた。
「イザヤ?」
「……また、夢を見た」
「夢?」
「前にも見た。コウガ族の男の……なんか、楽しくなさそうに、曇った空を眺めてんの」
なぜあの男の夢を見るのだろう。逢ったことはもちろん、会話だってしたことのない人間だ。
あれはいったい、誰だろう。
「ねえ、イザヤ……もし、あなたに前世があるとしたら、どう思う?」
ふとヒョウジュに、そう問われた。
「前世、ね……あるとしたら、たぶんおれは、めちゃくちゃ人好きだろうな」
「どうして?」
問われて、にこりと、イザヤは笑う。
「好きになりたいって、よく、思うから」
ふとした瞬間に込み上げる、人間への憎しみがある。けれどもその裏には、揺るぎないいとしさもある。だからきっと、前世があるとしたら、イザヤは人間が好きだったのだ。
とても、とても、人間が好きだった。
生きている今が、そうしようとすることに疲れてしまうくらいに。
「前世のおれは、獣だったのかもしんねぇな」
「……ギルみたいに?」
「ギル? ああ……うん、ギルっぽいかも。ギルと違うとすれば、不特定多数ってとこかな。ギルはおれとかひよ以外、あんまりよく思ってねぇからさ」
ギルのような黒い犬だったかもしれない。いや、そうだっただろう。もし前世があるとしたら、イザヤは黒い犬だった。そんな気がする。
「逢ったことはないけれど、そういう人をひとり、知っているわ」
「え?」
「イザヨイというの」
ヒョウジュがふと教えてくれたその名に、イザヤはぴくりと眉を動かす。
どこかで聞いたような、いや、その人を知っているような気がしてならない。だのに、はっきりとしない。朧がかって、頭がもやもやとする。
「そいつ、コウガ族の……おれの夢に出てきてる奴?」
「どうかしら……そう思うの?」
「そんな気がする。すげえ人好きそうな顔してたし、子どもが好きみたいだった。ただ、世界に泣いて……絶望もしてたな」
「絶望……?」
最初に見た夢を思い出して、イザヤは考える。
あのコウガ族の青年は、世界に嘆いていたのだ。
「おれの世界を壊さないで、奪わないでって……叫んでた」
素直に泣けばいいのに、泣くこともできず、心で泣いていた。思い出すと、なぜだろう、胸が締めつけられる。
自分も同じようなことを、思ったからだろうか。
「ひよ……ひよは、おれのものだよな?」
「……イザヤ」
「おれだけの、ひよだよな? おれのそばに、ずっといてくれるよな?」
イザヤの世界は、ヒョウジュで回っている。
あの頃、この世界に来るまでは、しがみつくようにしてそばにいた祖父母と同じように、イザヤの世界はとても狭く、そして脆い。
だから、ヒョウジュがいるこの世界を、壊されたくないし奪われたくない。
失ったら、絶望する。
護りたい世界を、破壊したくなる。
夢の青年が護ろうとしていた世界でも。
「ひよ……ひよ、おれのひよ……ひぃよ」
ぎゅっとヒョウジュに、しがみつく。
なんて情けないんだと、なんて恰好悪いんだと、思った。
それでも、縋らずにはおれない。
失うかと思ったその衝撃は、今も、イザヤの胸の裡で燻っているのだ。
「だいじょうぶ。だいじょうぶよ、イザヤ。わたしはイザヤのそばにいるわ。ずっと」
「おれをひとりにしないで」
「わかってる。だから、ね……イザヤも、わたしをひとりにしないで」
手を伸ばせば、空の瞳が優しくも切なくイザヤを見つめている。その瞳がいとしくてならない。ヒョウジュが好きだ、好きという言葉では収まりがきかなくなっている。
ああ、どうすればこの心を、彼女に見せてやれるだろう。
このいとしさは、言葉にならない。
「わたしを置いてかないで、イザヤ」
潤んだ空の瞳が、イザヤの頬にぽたりと、小さな雫を落とす。あまりにも綺麗で、あまりにも温かい。
「泣くな……泣くな、ひよ」
「イザヤも泣いているわ……泣かないで、イザヤ」
ぎゅっとしがみついていたのに、ぎゅっと強く、包みこまれた。柔らかな身体は、もうそれだけで、イザヤを安堵させる。
「ひよ……っ」
誰かをこんなにいとしいと思ったのは、初めてだ。
誰かをこんなに失いたくないと思ったのも、初めてだ。
ヒョウジュに出逢うまでの自分は、ただひたすら生きていただけだったのと、今さらながらに思う。その日常を、当然としているだけだったのだと。
誰かをいとしく思うことが、日常の一つ一つに鮮やかな色をつけていくなんて、知らなかった。
だから。
「逃げよう、ひよ……ここから、国から、すべてから」
「え……?」
「おれがひよを護る。すべてから。だから、おれと逃げて、ひよ」
「イザヤ……」
逃げよう。
夢の青年が、泣けずにいた世界から。
ここから。
ヒョウジュを奪おうとする、国から。
嘘と偽りだらけの、すべてから。
その大地を踏むために。