19 : 大地を踏む。3
足早に父王が立ち去った部屋で、ヒョウジュは呆然としながらも考える。
頭はまだ混乱していた。
それでも、確かなことがあった。
祖国の脅威は、ここにはない。
祖国の脅威は、どこにもない。
それだけは確かなのだと、ヒョウジュは思った。
もしかしたら、脅威はすでに去っている可能性もある。
「あれえ?」
ふと、少し間抜けた感じの声が露台から聞こえて、ヒョウジュはびくりと肩を震わせた。
「変な気配がこっちからしたんですけど……間違えましたかねえ」
欄干に、見憶えのある青年が立っていた。思わずヒョウジュは瞠目する。
「陛下の、侍従長……?」
「へ? あ……王女殿下のお部屋でしたか。これは失礼しました」
欄干から部屋側に降り、露台に立った聖国皇帝の侍従長は、丁寧にその頭を下げてにっこり笑った。
「このようなところから、申し訳ありません。ちょっと不思議な気配を感じたもので、さすがにこう何度も感じますと、確かめたくなってしまいましてね。追いかけてみたらここに来てしまいました。お許しください」
一瞬、ぎくりとする。ギルの存在は知られていない。それなのに、侍従長はその気配を、それも最初から知っていたような様子だった。
なんだか得体の知れない侍従だ。
「王女、ここになにか来ませんでしたか?」
「い、いいえ」
「……そうですか。どうしてそんな気配がここからしたんでしょうね。いえ、今もその気配はあるんですけどね。なんでしょうねえ」
どうしよう、と無駄に焦ってしまう。このままギルの存在は伏せておいたほうがいいのか、それとも知られてしまったのなら明かしたほうがいいのか、わからない。イザヤは逃げるための手段に、ギルの存在を隠しているのだ。
「王女殿下、そういうの、なにかご存知ありませんか?」
侍従長は笑みを崩すことなく、ヒョウジュになんらかの答えを迫ってくる。
「お答え、できかねます……わたくしには、わかりかねますゆえ」
「へえ……なるほど。そういう答え方もありますね。上手いです」
両手を叩いた侍従長は、まるで遊んでいるかのような態度だった。すべて見透かしているようですらある。
この人は、本当に侍従なのだろうか。
「しかしですね」
と、侍従長が唐突に、笑みを深めた。
「隠しごとはいけませんよ、王女殿下」
ハッとしたときにはすでに遅く、ヒョウジュは唇を噛んだ。
「サリヴァンは言いましたよね。派手なことはするな、と。釘を刺したはずなのに、あなた方はなにをなさろうとしているのでしょう?」
「……なにも」
「してませんか? ならいいんですけどね。ただ、どんな目的があるのか、それくらいは教えて欲しいですね」
もしかすると、すべて、わかっているのではないだろうか。
この侍従長も、聖国の皇帝陛下も、なぜヒョウジュがここに来たのか、なぜ妃候補として連れて来られたのか、各国の王の思惑すらすべて承知しているのではなかろうか。
侍従とは思えない侍従長の深い笑みに、ヒョウジュは息を飲む。
「……わたしに目的などありません。わたしは、イザヤと共に在りたいと望むだけの、ただの女です」
「つまりそれは、ご自身が国とは関係がないと、そういうことですか?」
「わたしの心はすべて、イザヤにあります」
「……そうですか」
侍従長が笑い方を変えた。不気味にも思えた笑みから、人好きする優しい笑みに。
だから、わかった。
この侍従長は、すべてを知っている。
わかっている。
リョクリョウ国のみならず、各国の王の思惑をすべて、承知している。
「あなた方の近くに感じる気配に、伝えてください。ありがとうございます、と」
「え……?」
「あなたのような聡明な方と、そして無鉄砲だけど真っ直ぐな方に出逢えたことは、わが国主にとって幸いなことです。とてもよい関係が築けそうで、これからが楽しみですよ」
侍従長はギルの存在を不審には感じているようだが、それをヒョウジュやイザヤにこれ以上問い詰めるつもりはないらしい。むしろ、安心して欲しい、と言っているような気さえする。
「では、このような場所から失礼してしまったので、帰りもこちらから失礼しますね。淑女のお部屋にお邪魔して、申し訳ありませんでした」
きっちりと頭を下げた侍従長は、欄干に足をかけると、ひらりと外へと姿を消した。その身のこなしは、どう見ても侍従とは思えない。
本当に彼は侍従なのだろうか。
首を傾げたところで、どうやらギルのことは見逃してもらえたらしいとわかって、ヒョウジュはほっと息をついた。
「ひよ!」
「……ギル?」
侍従長が消えたところから、ギルが再び姿を見せた。今度は人型ではなく、黒犬の姿だ。
「変な気配がした。ひよ、無事か?」
露台からこちらに駆け寄ってきたギルに両腕を広げ、その柔らかな黒毛に顔を埋める。
「変な気配って……侍従長も同じことを言っていたわ」
「じじゅうちょう? おれが言ってるのは、人間だけど人間じゃない奴のことだ。この近くから感じた。だいじょうぶか?」
どうやら侍従長に対し、ヒョウジュが不思議に思ったように、ギルもなにかおかしな感覚がするようだ。
「あの人、ギルのことをわかっているわ」
「だろうな。ずっと探り合いだ」
「そうなの?」
「最初は気にならなかった。おれも疲れてたから」
「そう……でも、もうだいじょうぶ。あの人、言っていたわ。ありがとうって」
「ありがとう? なんのことだ」
「とてもよい関係が築けそうで、これからが楽しみだそうよ」
「……なんだそれ」
意味がわからない、とギルは首を傾げ、その顎をヒョウジュの肩口に乗せる。ヒョウジュも、あの侍従長がどんな意味を込めてそれを口にしたのか、それはわからない。けれども、彼が悪意あっていたわけではないというのは、わかる。彼はさまざまなことを心配しているのだろう。そんな気がした。
「ところでギル、あなたに訊きたいことがあるの」
「うん?」
ヒョウジュはその腕からギルを話すと、灰色の双眸をじっと見つめた。
「リョクリョウ国は、滅ぶなら、もう二十年も前に、滅んでいるはずなのね?」
「イーサがいたからそうならなかっただろう」
「そう……やっぱり、そうなのね」
やはり祖国の脅威は、どこにもない。
「ねえギル、わたしたちは、なにを、怯えていたのかしら?」
「知らない。おれには理解できない」
「……そうよね。わたしたちは、なにもないのに、怯えていたのね」
ばかだ、と思った。
父王も、父王の考えに賛同した者たちも、みんなばかだ。
どうして、気づかなかったのだろう。
どうして気づけなかったのだろう。
脅威など、ないのに。
「だから言うんだ。どうしてイーサをわかってくれないんだって」
「ええ。みんなイザヨイを……イザヤを、わかってくれないわ」
「ひよはイーサと一緒にいるべきだ。イーサからひよを奪う奴は、おれが噛み砕いてやる」
「……ありがとう、ギル」
おそらく父王は気づいた。ギルの言葉で、見過ごしてきたものに気づいたはずだ。それをどう修正していくか、父王は見せつけなければならない。イザヨイの魂を持つイザヤに、イザヤにつき従うギルに、そして利用しようとしたわが娘に、その結果を見せつける必要がある。
父王は、イザヨイの行いのみならず、その想いを正しく理解できなかったのだから。
間違わないで、とヒョウジュは願う。
イザヨイが護った国は、今も、護られ続けている。
見誤らないで、と祈る。
滅んでもおかしくはなかった国が、今も苦しいながらも生き延びているその理由が、今ここに有るのだ。