18 : 大地を踏む。2
少しでもなにか喋らせると騒ぎかねない父王を隣室に押しやり、呆れている宰相と並べて座らせると、ヒョウジュもその向かいにある椅子に腰かける。
朝食をいただきながら話をしよう、ということになったので、宰相はともかく、父王の分の朝食も卓には並べられていた。だが、朝食に手を伸ばすのはヒョウジュだけで、父王はぎゅっと握った拳を震わせながら、ヒョウジュからの言葉を待っている状態だった。
わが父ながらなんだか情けない、と思ってしまう。
「皇帝陛下から、なにか御達しがありましたか? それとも、おばあさまからですか?」
そう切りだしたとき、父王はあからさまにびくついた。つまり、皇帝からも祖母からも、なにかしら言葉があったということだろう。
「そうですか。それで父上さまは、なにをおっしゃりにこちらへおいでなさったのでしょう?」
「ヒョウジュ……父に向かって、それは」
「わたしは申し上げました。お忘れですか?」
父王の言いたいことを切り捨て、ヒョウジュは容赦なく睨みつける。父王は困惑したように顔を歪ませたが、少しすると諦めたようにため息をついた。
「あの迷子……いや、狩人とのことは、本気なのか」
「わたしがおばあさまに振り回されているとでも?」
「母上ならやりかねん。おまえを丸め込むことなど、あの人には容易いことだ」
「それは失礼というものです。わたしは自分の目で確かなものを見て、感じて、判断しました。わたしはイザヤと共に在り続けます」
「……ヒョウジュよ、考え直さぬか」
「いやです」
あんな、心がずたずたに引き裂かれるような想いは、もう二度と味わいたくない。今回のことで、ヒョウジュはそれを思い知った。ここで父王が諦めてくれないのなら、本気で、一生の願いでもって聖国のあの皇帝陛下に助力を求めようと考えている。
ひとりでひっそりと生きよう、などと思っていた頃が懐かしい。ほんの少し前のことだというのに、今は、どうしてあんなことを考えられたのかがわからない。それくらい、ヒョウジュの中でイザヤの存在は大きくなっていた。
「それほどまでに、おまえの決意は固いか」
「決意しているのではありません。考え直すことなどできないだけです」
「ヒョウジュ……」
わが父ながら、とても情けない顔だ。娘の強気に、どうしようもできなくて途方に暮れている。
少し、おかしな光景だった。
「逆にお訊ねしますが、なぜ父上さまはそれほどまでに、わたしを聖国へ嫁がせようとなさるのですか? 迷子だったイザヤを保護し、その後見まで用意してくださったのは、父上さまではありませんか。わたしがイザヤと共に在ることの、なにがいけないのですか?」
矢継ぎ早に訊ねると、父王は困惑顔のまま視線を泳がせ、そうして言葉を捜すように俯いた。
「イザヨイは、余にとって兄であったのだ」
そんな言葉から始まった父王の言葉に、ヒョウジュは口を閉じる。
「逢う機会はそれほど多くなかったが、イザヨイは確かに、余にとって兄だった。誰にでも優しく、穏やかに微笑み、狩人とは思えぬほど柔らかな人だった。むろん剣を握らせれば、とたんに人が変わったように強かった。そんなイザヨイが……余には誇りだったのだ」
だがな、と父王は続けた。その行に、ヒョウジュは悪いものを感じる。
「イザヨイを快く思わない連中が、少なからずいたのも確かだった。イザヨイはコウガ族だったからな。その戦闘力に恐れを抱く者がいたのだ。その者らの手引きで、イザヨイは休む暇すら与えられることなく次から次へと害獣駆除に引っ張り回された。たまに帰ってきたかと思えば怪我だらけ、治り切らぬうちにまたすぐいなくなる。それの繰り返しだ」
それは、とヒョウジュは眉間に皺を寄せる。
まるで、今のイザヤのようだ。
「イザヨイさまはおばあさまとおじいさまの義弟でしたのに、どうして」
仮にも王族のひとり、そういう立場にあるはずのイザヨイがなぜ、とヒョウジュは思う。
「王族の系譜に、イザヨイの名はないのだ」
「え……?」
「イザヨイにあるのは騎士の謚。王族であるとされておらぬ」
「……どうして」
王族の系譜を見たことがあるわけではないが、祖父母が決め、言ったことに嘘はないはずだ。書き記されていないわけがない。
「イザヨイが断ったのだ」
「断った?」
「自分という存在を見てくれるだけでいい、とな。それほどまでに、優しい人だったのだ。コウガ族の生き残りであっても、血統を重んじられれば、出自もわからぬ己れがその立場にあるのは、そもそも似つかわしくないことだ、と」
ふと、思う。
誰もが一様に、イザヨイは優しかったと言う。穏やかで、剣など似合わない人だったと言う。
それなら、祖父母の申し出を自ら断るのも、当然ではなかろうか。
「イザヨイの優しさに甘んじる、そんな日常が一変したのは、害獣の被害がもっとも多かった二十余年前、王都にまでその被害が及んだときだ。われらはもう国が終わるのだと覚悟した。世界の調和を司る聖国が傾き始めていたのだ、覚悟したのも当然のことだ。だが、イザヨイだけは諦めなかったのだ。その超人的な力で、王都を護り続けた。休むことなく、眠ることすらなく、ひたすら戦い続けた」
今でも鮮明に思い出すことができる、と父王は言った。あの後ろ姿を、剣を構えた立ち姿を、忘れることなどできやしないと言った。
「余は、イザヨイの隣に並ぶことも、ましてその背を追いかけることもできなかった。王太子だったからな……皆に止められて、挙句閉じ込められた。漸く外に出たときには、すべてが終わったあとだった」
「終わった……というのは」
「ギルギディッツが、その背にイザヨイを乗せて、帰ってきたあとのことだ……目覚めぬ人となっていた」
父王の言葉は、まるで懺悔だ。二十年前、王太子であったからこそなにもできなかったがゆえの、悔しさと悲しさだ。
「だから余は決めたのだ。なににも屈せぬと。けして諦めぬと。そうやって紡いだ日々が、この二十年余りだ。余はイザヨイが犠牲者であったと思いたくない」
「犠牲者……?」
「あの狩人は確かにイザヨイの魂を持つであろう。だから保護した。イザヨイはわが兄も同然、わが国にとっての恩人だ。しかし、それと聖国との問題は別なのだ」
父王が、それまでの表情を一変させ、ヒョウジュの父としてではなく、一国のあるじとしての顔で、ヒョウジュを見やってきた。
「国を秤にかけることなどできぬ。イザヨイが護り通したわが国を、聖国の揺らぎに潰されるわけにはゆかぬ。そのために、今回の縁談を持ち上げたのだ」
それはつまり、とヒョウジュは考える。
父王は、ヒョウジュの気持ちよりも、祖国を想う気持ちを優先させたのだ。きっとそれは、兄王子と同じものだ。
そして、なぜ急にそんなことになったのかといえば、先帝ヴェナートの崩御が世界に轟き、皇太子が戴冠すると決まったからだろう。皮肉にも、皇太子はヒョウジュとそう歳も変わらない。偶然が重なったというよりも、二十年も前からそういう動きがあって、計画が練られていたとしか思えない。
「余はな、ヒョウジュ、新たな皇帝を見極めるつもりで聖国へ来たのだ。もしもヴェナートと同じような人間であれば、わが国の滅びを以って弾劾せんと考えている」
父王の決意に、ヒョウジュはハッとする。
「……戦争を仕掛けるおつもりで?」
「わが国は、これ以上の疲弊にはもう耐えられぬ。聖国を軸としたわが国、この大陸にとって、聖国の歪みは民を徒に苦しめるだけなのだ」
父王の祖国を想う気持ちは、痛いほどわかる。ヒョウジュも王族の端くれだ。民を護りたいと思う。己れの気持ちと、祖国を秤にかけることは、難しいことだ。これが一国の王である父なら、祖国を秤にかけることなどできるわけがない。
「そのお考えは、今も?」
「変わらぬ。おそらく各国の王の思惟も、余と同じであろう。聖国に並ぶヴェルニカ帝国の出方によっては、世界規模の戦争にもなりえる」
父王の、王たる者の発言に、ヒョウジュは愕然とした。
「それほどまで……」
祖国の未来を、考えようとしていなかったわけではない。王女として、国の象徴たる王族のひとりとして、祖国に貢献できることをいつも考えてきた。
ただそこに、イザヤという、ヒョウジュを「ひよ」と呼ぶ人が現われただけで。
「おまえに無理強いをさせていることはわかっている。それでも、余は王だ。国を護らねばならぬ。戦争が無用のものであって欲しいのは余とて同じことだ」
「……わたしを、皇帝陛下のそばに置くことで、戦争は回避されると?」
「されぬ場合もあろう。だが、情報は須らく各国へもたらされる」
所詮、自分は道具である。国政のために使われる、有力な駒である。
わかっていたことだった。
わかっているつもりでいた。
そのために生まれ、生かされているとわかっていた。
けれども。
わかっていても、痛い。
許されない自由が、恋しい。
「やっぱり裏切るんだな、おまえたちの国は」
ふとそんな声が、露台のほうから聞こえてきて。
振り向いたそこには、イザヤが立っていた。否、イザヤと同じ顔に化ける魔犬ギルギディッツが、静かに立っていた。
「……ギル?」
「イーサが唯一欲したものを、おまえたちは奪う……イーサは強くないのに、どうしてわかってくれないんだろうな。どうしてそんな裏切りが、できるんだろうな」
はあ、と息をついたギルは、開けられた窓に背を預けて、空を見上げる。
「おれはどんなに時間をかけても、イーサをわかってくれないおまえたちを理解することは、できないな」
晴れていた空に、雲がかかったのか、部屋の明るさが落ちる。魔であるギルは身にまとうものまで黒いので、一気に暗闇が押し寄せてきたような錯覚を感じさせた。
「ギル……わたしは」
「いいよ、ひよ」
「え?」
「言わなくていい」
伝えたい言葉があったのに、ギルにそう言われてしまうと、口を開くのも難しくなってしまう。
「たぶん、人間はそんなもんなんだ。おれは産まれたときからイーサのそばにいて、イーサと一緒にいたから、イーサのことならわかるけど……国とか政とか、よくわからないからな」
なにかを諦めてしまったような、考えることをやめてしまったようなギルの言葉に、ヒョウジュは唇を噛む。言い訳を考えようとしていた自分が、愚かしく情けない。
「ひよは悪くない。いや、なにかが悪いなんてことは、どこにもないんだ。おれが求め過ぎた。それだけのことだ」
ふう、と息をついたギルが、窓から離れてヒョウジュたちに背を向ける。立ち去ろうとしていたギルを呼び止めたのは、父王だった。
「ギルギディッツ……っ」
欄干の上に乗ったギルが、ちらりとその呼び声に振り向く。ひどく冷めた瞳に見えたのは、獣特有の細い瞳孔のせいだろうか。それとも、イザヤを理解しようとしない人間への、諦めだろうか。
「余は、イザヨイへの恩を忘れてはおらぬ……っ」
「……だから、なんだ?」
「だ、だから……っ」
「裏切ってなどいない、とか……言うつもりか? はん、ばかばかしい」
鼻で笑ったギルは、灰色の瞳を細め、嘲笑うかのように父王を見下ろす。
「おまえたちはイーサからひよを奪った。これ以上ない裏切りだ。国が滅ぶ? 滅ぶべくして滅ぶのなら、とうの昔に滅んでいる。そんなことにも気づけないのか」
「ほろぶ、べくして……?」
「国を見ろ。大地を見ろ。世界を見渡せ。天を仰げ。おまえたちの脅威とはなんだ」
「……なんだと?」
ギルの言葉は、父王を、そして宰相をひどく動揺させた。それはヒョウジュにもわかる、動揺だ。
「ギル、なにを……」
言っているのか、と訊く前に、ギルは肩を竦めるやいなや、欄干の上から飛び去ってしまった。慌てて追いかけても、魔であるギルの姿を追いかけ見つけることはできず、ヒョウジュは露台から晴れ間の覗く曇り空を見上げる。
「滅ぶべくして滅ぶのなら、とうの昔に……?」
害獣の被害は、二十余年前を境に、増加傾向にある。聖国の歪みが、祖国に影響しているせいだ。だが、逆をいえば祖国は、増加した害獣の被害に二十余年も耐え続けていることになる。
それはつまり、とヒョウジュは視線を父王に戻した。眉間に皺を寄せ、握った拳で口許を覆う父王のその癖は、なにか重要なことを考え込んでいるときのものだ。
おそらく父王も、ヒョウジュと同じことを考えているだろう。
祖国が滅びそうになった二十余年前、イザヨイがいなければ確かに祖国は滅びていた、と。だが祖国は滅びなかった。
ギルの言葉を解釈するなら、二十余年前が、祖国の滅びのときだったのかもしれない。
それなら。
祖国の脅威とは、いったいなにか。
いったいどこに、あるのか。
ヒョウジュはその答えに、父王の反応から、確信を得た。