13 : 偽りだらけの世界のなかで。4
朝目覚めて、驚いたのは、隣で眠っているはずのイザヤの姿が消えていたことだった。
「イザヤ……っ?」
慌てて起きて、そうしてヒョウジュの声に気づいたイザヤの、のんびりとした声を聞く。
「なにぃ?」
その間延びした声はあまりにものんびりとしていて、見ると長椅子で毛布に包まったイザヤが、にこにこと笑っていた。
「……どうして寝台にいないの」
イザヤがいなくなってしまったのではないことにほっと安堵したヒョウジュだったけれども、いるのに寝台を離れているのは許しがたい。
イザヤの怪我は、けっこう深刻だ。もしかすると指が動かなくなるかもしれないと、医師は真面目な顔で言っていた。どうやら斬られ方が悪かったらしい。すっぱりと綺麗に斬られたのではなく、引っかかるかなにかして抉るように斬られていたことで、身体に異常をきたす可能性が高いのだとその医師は説明してくれた。
だから、ふらふらと動ける怪我ではない。高熱が長く続き、起き上がることさえしばらくは難しいだろうと、医師に診断されていた。
それなのに、イザヤは寝台を抜け出して、長椅子にいる。
「眠れねぇから、起きてた」
「起きてって……ずっと?」
「うん」
にこ、とイザヤは笑う。笑い続けるイザヤに不気味さを感じたのは、これが初めてだ。
「ここに来て」
「やだ」
「イザヤ」
「腕、痛くて眠れねぇもの。そこ、行きたくねえ」
「我儘言わないで」
「やだ」
ふふ、と笑いながら寝台に戻ることを拒絶するイザヤに、仕方ないのでヒョウジュは自分が寝台を離れた。
そばに行こうとしたら、なぜかイザヤに逃げられる。
「動かないで、イザヤ」
「着替えておいで、ひよ」
すっと、イザヤは後ろを指差す。
扉が叩かれて、アビが朝の挨拶をしながら入ってくるところだった。
意外と頑固なイザヤの説得には、まず自分のことをやってしまってからにしたほうがいいのかもしれない。
仕方ない、とヒョウジュは動いた。
「おはよう、アビ。急いで」
「は、急ぐ?」
「イザヤを捕まえなければならないの」
「はい? ……、まあ!」
寝台を抜け出しているイザヤに気づいたアビも、まずはなにをしなければならないか、わかっただろう。捲くし立てるヒョウジュに倣って、素早く朝の支度を整えてくれる。
「姫さま、これ……を……」
顔を洗って髪を整えて、衝立の向こうで寝間着からドレスに袖を通そうとしたところで、アビが真っ赤な顔をして視線を逸らした。どうしたのだろうと首を傾げて、ふと、虫刺されのような発疹があることに気づいた。
「これ……」
なにかしら、と視線を胸許に落とすと、その発疹はたくさんあった。どこまで広がっているのだろうというくらい、たくさんだ。しかし、痛みはないし痒みもない。
着替える手を止めてしばらく考えて、そういえば昨夜、やけにくすぐったい感覚がしたことを思い出し、ハッとなる。
ぼっと頬に、熱が集中する。
「ま……さか」
怪我人だから動けない、というか数日は動くこともままならないだろうと聞いていたから、その隣で休んだのに。
なにもされないだろうと、思っていたのに。
これまでだってそんなことはなかったから、あり得ないと思っていたのに。
けれども、眠らないで、あんなところで毛布に包まっていたのなら。
この発疹は、唇に吸われて作られたものだ。
「衣装を変えてちょうだい」
「首まで隠れるものをご用意します。少々お待ちください」
肌着を手繰り寄せて、両腕で胸許を隠すと、アビはヒョウジュの意を汲んでくれて素早く別の衣装を用意してくれる。首まですっぽりと隠れるドレスは一着しかないが、仕方ない。
着替えて衝立から出て、のほほんと長椅子に座っているイザヤを恨みがましく睨んだ。
「わたしになにしたの」
「んー?」
「なにしたの」
「ん」
にこ、とイザヤはなにごともなかったかのように笑う。
いつまでこの笑顔は続くのだろう。熱のせいで、思考回路がおかしくなってしまっているのではないだろうか。
拍子抜けさせられるイザヤの笑みに、自分が怒っているのか恥ずかしがっているのか、わからなくなった。
「ひよ、ひよ」
おいでおいで、と手のひらで呼ばれて、素直に応じるのは少し癪に障ったけれども、イザヤのこの笑顔を前に怒っているだけ無駄だとヒョウジュは覚る。
はあ、とため息をつくと、イザヤの隣に腰かけた。
そのとたんに、イザヤはヒョウジュのほうに身体を倒してきて、膝を枕にすると長椅子の上で丸くなった。
「……眠るの?」
「うん」
「なら寝台に」
「やだ」
「イザヤ……」
「ここでいい。ここがいい」
やはりどうしても寝台では眠ってくれないイザヤに、ヒョウジュは苦笑をこぼした。
イザヤの額に手のひらを当て、その体温を調べれば、やはりひどい高熱だ。こんな状態でよく起きていられるものだと、逆に感心させられてしまう。アビに冷水は頼んであるが、大量に用意してもらったほうがよさそうだ。
「どうして、こんなに無茶をするの……」
「……ん」
「熱が高いわ」
「ん」
「少しでも眠らないと、楽にならないのよ」
「んん」
「……んもう、頑固者」
「ふはっ」
「笑いごとではないわ」
「ひよ、可愛い」
「かわ……っ、イザヤ」
怒っても呆れてもふわふわと笑って嬉しそうにするイザヤには、さすがのヒョウジュもお手上げだ。寝台に移動してくれないなら、仕方ない、ここで休んでもらうほかないだろう。
ふっと息をつくと、イザヤの頭を撫でた。
「ねえ、イザヤ。わたしね……あなたのそばにいたいわ」
「……うん、いて」
「ずっと、ずっと一緒にいたいの」
「うん……いたらいい」
「イザヤは? イザヤも、そう思ってくれる?」
「おれもひよと一緒にいたいよ」
本当に、イザヤも同じように思ってくれているのか。
ただただ笑っているイザヤから、その本心を感じることはできない。ましてこんな、熱に浮かされている状態では、それが本音とも言い難い。
それでも、自分と同じように想ってくれている言葉を聞くと、とても安心できた。
だから。
イザヤがふと動いて、その柔らかい微笑みが迫ってきても、ヒョウジュは逃げなかった。
「イザ、ヤ…っ…ん」
服の上からでも感じるイザヤの唇が、胸許から首筋を辿って耳朶をくすぐる。ぎゅっと抱き込まれると、ただもうほっとして、自分からすり寄った。
なんで涙が出そうになっているのだろうと思ったとき、感じていたぬくもりが唐突に去った。
「怪我人が姫さまになにをしているっ!」
出ていたアビが、イザヤを引っ張って、その行動を諌めようとしていた。
「あぁー……なにするんだよ、アビ」
「あんた、怪我人でしょう!」
「おれはひよに触りたいんだよ」
「自分の状態をまず把握なさい!」
「ひよに触りたい」
「そうじゃないでしょうっ! んもう!」
アビのそれはヒョウジュが呆気に取られるほどで、ヒョウジュから引き剥がされたイザヤは長椅子を転がり落ちて不満そうにしていた。
しかし、アビに叱られても、それでもめげないのがイザヤである。長椅子をよじ登ってくると再度ヒョウジュの膝を枕にして、両腕でヒョウジュにしがみついてぴったりとくっつくと今度こそ瞼を閉じ、動かなくなった。
「油断も隙もあったものじゃない……昨夜はギルさまが諌められていたからよかったものの」
「え?」
「ああいえ、こちらの話です。さあ姫さま、朝食ですよ。昨日お世話いただいたお方はラクウィルどのと言って、皇帝陛下の侍従長だそうです。その侍従長どのが、滞在期間中は責任を持ちますと、いろいろと整えてくださったんですよ」
アビは手際よく、動かなくなったイザヤをよしとして、朝食の準備をしてくれる。アビを手伝うのは見憶えのない女官で、彼女たちは侍従長だという人が寄こしてくれたらしい。
そこで気になったのは、父王のことだ。
「アビ、父上はどうしているかしら」
「侍従長どののお話ですと、とりあえず皇帝陛下のお言葉を待っておられるとか。姫さまにお逢いしたいと願い出てはいるようですが」
「そう……そうよね」
これからどうなるのだろう。
今さらだが、ヒョウジュは少しだけ不安になる。もちろんイザヤと離れるつもりなど二度とないが、このままでいられるわけがないというのは、よくわかっている。
国に帰るにしても、ヒョウジュはもう、王女ではいられない。いや、王女でいたくない。
「……アビ」
「はい?」
「ごめんなさい」
「……なにを謝られておいでなのですか?」
「わたし……イザヤと一緒にいるわ」
離れるつもりは、別々に生きるつもりはないと、そう伝えると、きょとんとしていたアビも神妙な顔つきになる。
「わたしは、姫さまについて行きます。それだけです。ですから、気になさらないでください」
「アビ……」
「正直、わたしはこの方が……イザヤさまが気に入りません。ただそれは、その態度が煮え切らないからです。姫さまを想う気持ちが本物であることはわかっています。だから、それでいいんです。無茶ばかりして姫さまを心配させるこの方を、わたしは敵視しなければならないだけですから」
初めて聞くアビのふとした本音は、今までイザヤに対して取っていた行動の理由だ。そんなふうに自分を想ってくれていたとは知らず、ヒョウジュは苦笑した。
「許してくれていたのね、アビ」
「わたしは姫さま至上主義ですから」
ふふ、と笑うアビに、ほっとする。
イザヤとのことは反対されてばかりで、誰もいい顔をしなかったけれども、いつも身近で世話をしてくれているアビが認めてくれたのは、思った以上に嬉しいことだ。
「ありがとう、アビ」
「どういたしまして。さあ姫さま、食べてしまいましょう。そこのぐうたら狩人の治療は、姫さまがやらなければなりませんからね」
下からイザヤの、誰がぐうたら狩人だ、という声がして、ヒョウジュはアビと笑った。
それから朝食を摂ったあとは、なぜかそのときになって動き始めて逃げ回ったイザヤをアビと捕まえ、様子を見に来てくれた昨日の医師に手伝ってもらって怪我の状態を確認すると、服用したほうがいいという薬をもらった。頑として薬は飲もうとしなかったイザヤだが、さすがに逃げ回って疲れたのか、やはり寝台には移動しなかったが長椅子で丸くなり、おとなしくしていた。
眠ったのはヒョウジュが部屋にひとり残ってからのことで、人目を掻い潜ってギルが姿を見せたときだ。
「久しぶり、ひよ」
「ええ。とても疲れていたそうだけれど、もう?」
「平気だ。もともと造りが人間と違うからな。ちょっと疲れただけで、動けないほどじゃなかったんだ。それより……ひよ、なにもなかったか?」
「わたしはだいじょうぶ。ただイザヤの怪我が……けっこうひどいの」
柔らかいギルの黒毛を撫でながら、寝苦しくないのかと思う恰好で眠っているイザヤを見つめる。包まった毛布に顔は埋まって見えないが、ちらりと見える額には汗が滲んでいた。
「痩せ我慢も限界だな……ひよ、イーサが起きたら、腹も見ろ。たぶん治ってないから」
「腹? そういえば……」
「いい腕の医師だ。言えばわかるだろ。ついでだから、治してやってくれ」
「わかったわ。でも、だいじょうぶかしら」
「今まで動いてたんだろ? なら平気だ。ただもう痩せ我慢はできないだろうから、できるだけ鎮痛薬とか、そういう薬は飲ませたほうがいい。苦しむイーサなんて、見たくないだろ」
笑顔を見続けられるのはいいが、それが痛みを我慢しているうえでのものなら、つらいものだ。
神妙に頷くと、ギルのそばを離れ、冷やした濡れ布を絞ってイザヤの額にある汗を拭う。数度繰り返しても、その熱が引けることはない。
「ひよ、おれは近くにいる。なにかあったら名を呼んでくれ」
「一緒にいてくれないの?」
「まだ油断できないから」
イザヤはまだ逃げる算段でいるが、どうやらそれはギルも同じらしい。どうにかそういう手段を取らずに無事帰国したいものだと思いながら、ヒョウジュは露台から出て行ったギルを見送った。
「……ギル、来た?」
毛布から顔を覗かせたイザヤが、眠そうなというよりも具合の悪そうな顔をしながら、起きていた。
「来たのはギルよ。だいじょうぶ。もう少し眠って」
「ん……ひぃよ」
ぽんぽん、と長椅子を叩くので、ふっと微笑んで座ると膝にイザヤの頭が乗る。
「疲れた」
「でしょうね。あれだけ逃げ回るのだもの。カリステル医師が驚いて呆れていたわ」
「男に触られたくねぇもの」
「怪我を診てくれた医師よ。我儘言わないで」
「ん……」
ゆっくりと頭を撫でれば、瞼を閉じてくれたイザヤの、少し乱れた呼吸が伝わってくる。
早くよくなって、と祈りながら、まもなくして眠り始めたイザヤを、ヒョウジュは撫で続けた。




