10 : 偽りだらけの世界のなかで。1
質素かつ荘厳な戴冠式が行われた。
玉座に鎮座するは若き皇帝、サライ・ヴァディーダ・ヴァリアス。その傍らには《天地の騎士》を従え、彼は堂々たる姿で戴冠した。
祝いの席となった夜会では皇帝を賛辞する言葉が絶えず、また彼の玲瓏な容姿を絶賛し、歳頃の娘たちを浮足立たせていた。幾人かの少女は妃候補として後宮入りすることが決まり、またヒョウジュもそのひとりに数えられている。数日の滞在でそれぞれ皇帝と謁見し、その未来を決められるらしい。
そんな、華やかな式典が明けた翌日、リョクリョウ国王を含めた属国の国主たちは、名残惜しさをそれぞれ感じながら帰国の準備を始め、早いところでは昼にはもう出立していた。
リョクリョウ国王ツキヒトは、長居はしないとは言っていたが、もう数日留まるという。父王が滞在している間は後宮入りしなくともよいと許可され、ヒョウジュは気が重いながらも聖国に留まった。
しかしながら、滞在している部屋で、ヒョウジュはほとんどひとりだ。言ってしまえば、やることがないためである。父王は皇帝に呼ばれたり、国と繋がりのある商人のところへ行ったり、或いは視察をしたりと、聖国にいられる間にできる政務に忙しい。ヒョウジュもたまに呼ばれるが、それでも部屋でおとなしくしている時間のほうが多かった。
祖国では部屋に幾日も籠もっていたところで苦にはならなかったヒョウジュであるが、異国でも同じというわけにもいかない。頼んで図書館の蔵書を読ませてもらうことができてからは、蔵書を片手に露台に出て読書に耽ることもあるが、頭を過ぎるのはいつもイザヤのことばかりで、せっかくの珍しい書物を無駄にしてばかりだった。
そんな日を三つ過ごし、四日めを迎えた午後のこと。
妃候補となったヒョウジュは、皇帝と謁見することになった。場所は皇帝が所有する宮廷内の一角、緑を強く感じる庭だ。
緑の強さと、その清浄さにやはり感激したヒョウジュは、呼ばれた場所に早く来ていたこともあって、用意されたお茶の席を少し離れてゆったりと歩く。
「皇城内に、森……すごいわ」
「さすが聖国ですね」
共に来ていた侍女アビと、もの珍しく見てしまう。
リョクリョウ国の城では、こんな空間を作ることはできないし、またそんな贅沢を欲する王族もいない。癒しといえばせいぜい、寒さを皮肉っている温室くらいだ。害獣駆除を深刻に考える国で、聖国のような華やかさを求めることはまずできない。
「綺麗だわ……同じ大陸の上にある国とは思えないわね」
「わが国にも綺麗な場所はたくさんありますよ」
「……、そうね」
これは聖国独特の美しさ。リョクリョウ国にだって、綺麗な場所はたくさんある。それを言うアビに、やはりどんな国でも祖国を一番に想うものなのだと、ヒョウジュはほっと息をつく。
「惑わされて戻れなくなるぞ」
ふとそんな声が、ヒョウジュの歩みを止める。
振り返るとそこには戴冠したばかりの若き皇帝がいて、慌てて礼を取った。
「申し訳ございません。美しさに見とれて、席を離れておりました」
「ああいや、それはかまわない。ただ座って茶を飲むよりも、こうして歩いていたほうが気も休まるだろう」
くすくすと笑った皇帝は、後ろにふたりの騎士と、侍従をひとり連れていた。
その笑い方もそうだが、なんだか全身から優しさやら穏やかさやら、まず皇帝とは思い難いものが垂れ流されているように思う。まるでイザヤを落ち着かせたような人だな、と思って、また自分がイザヤのことしか考えていないことに寂しさを感じた。
「姫は、緑が好きか?」
「え……?」
「おれは好きだ。おれはこの緑に育てられたからな」
「……そう、なのですか」
若き皇帝は、ふわんと笑んで、ヒョウジュがそれまで眺めていた緑を見つめる。森のようになっている緑の奥は、その先がどうなっているのかが見えない。皇帝にはそれが見えているように感じた。
「緑は、好きか?」
「……はい。わが国は一年を通して寒く、作物はおろか草花も育たない時期もありますから、こうして溢れている姿を見ると安堵いたします」
「そうか……貴国ではもう雪が降っているとか」
「ええ。大地はすでに白くなっていることでしょう。聖国ではそれほど降らないとお聞きしました」
「同じ大陸にあるのに、だいぶ違うな。世界は不思議だ」
ふっと、皇帝は歩き出す。
戴冠式のときもそうだったが、真っ白な衣装はリョクリョウ国を覆う雪のようで、柔らかく風に揺れる淡い金の髪はまるで雪に反射した太陽のようだ。綺麗だなと、素直に思う。
だからだろうか。
聖国に嫁ぐのはいやだと思うのに、この皇帝との会話はいやではない。皇帝が持つ雰囲気がヒョウジュにそう思わせているなら、兄王子の判断は間違いではないのかもしれない。
けれども、と思う。
彼はイザヤに似ているけれども、イザヤではない。家族になりたいだなんて思わない。
やはりわたしはイザヤがいい。
そう思いながら、ゆったりと歩く皇帝の後ろに続いた。
歩いている間、とくに会話はない。話しかけられることもなく、ただ緑の中を歩く。
そういえば戴冠した祝いの口上を述べ忘れていたことに気づいたときには、用意されていたお茶の席へと戻っていた。
どう述べればいいだろうかと、迷ったその一瞬である。
「騒がしいな……」
と、皇帝が席に座ることなく周りを見渡した。同じようにふたりの騎士も、唐突になにかを警戒し始める。
「陛下、廷内へお戻りください」
「……いや、待て」
「ですが」
「待て」
騎士たちの警戒は、しかし皇帝を落ち着かせたまま、動かさない。
ヒョウジュには、皇帝や騎士たちがなにを警戒し始めたのか、わからなかった。
「あの……陛下?」
「……迎えかな」
「え……?」
「ラク、違うか?」
皇帝は、同じように落ち着いている侍従にそう問う。なんのことか、ヒョウジュにはさっぱりだ。
「派手な登場ですねえ。まあ、気持ちはわからなくもないですが」
「すごいな」
「こういうのを、無謀と言うんでしょうね」
「そうだな。そういうことだから……ユート、目を瞑ってくれ」
ヒョウジュにはわからない会話が、皇帝と侍従、そして騎士たちの間で交わされる。
彼らが感じているものがわからなかったヒョウジュは、だがアビと身を寄せ合って様子を窺っているうちに、その音に気づいた。
僅かにだが、騒がしい気がする。
「なに……?」
この騒がしさはなんだろう。なにが起きているというのだろう。彼らはなにを警戒し、そしてなにを寛大に見守っているのだろう。
怪訝に思いつつ、なにか情報はないのかと周りを見渡した、そのときだ。
「ひよ!」
「……、え?」
幻聴が聞こえた。
自分を呼ぶ、イザヤの声を聞いた気がした。
「やはり、こちらの姫の迎えだな」
皇帝がヒョウジュを振り返り、くすりと笑う。
「迎え、とは……?」
「おれは、案ずるな、と言ったはずだぞ」
それは確かに聞いている。けっきょく意味がわからないままだった言葉だが、今も、その意味はよくわからない。
ただ、今この事態は、どうやらヒョウジュが原因らしい。迎えというのは、ヒョウジュを迎えに来たということだ。
それなら、幻聴だと思ったあの声は、現実。
ハッとヒョウジュは目を見開いた。
「イザヤ……っ?」
来て、くれた?
ここに?
本当に?
「案ずるな。おれは妃など欲していない。娶るつもりすらない。今も、これからも。だから姫は、自由だ」
「……陛下」
そういう意味の、案ずるな、という言葉だったのか。
「宰相たちに気圧されて、やむなく後宮は開けているが……そもそも父上の側妃を捌くまで、後宮は開けているしかないんだ。それだけのことなのに、ほかの貴族たちは勘違いしたいらしくてな。おれが妃を求めていると、勝手に思い込み続けているわけだ」
「……それは、もしや、わが父も……?」
「いや、リョクリョウ王は真摯に、姫を妃にと進言してきた。おれのところなら姫は幸せになれる、と。だが、その日のうちに断らせてもらった。悪いがおれは、おれがここにいる限り、姫を幸せになどできないからな」
皇帝のその言葉に、すとん、となにかが落ちる。
それが自分の安堵だと気づいたのは、喧騒が近くまで迫ったときだった。
「ひぃよ!」
今度は素直に受け入れることができた声を聞いて、ヒョウジュは込み上げてくるものに空色の双眸を潤ませた。
「イザヤ……っ」
その姿を捜して、視線を彷徨わせる。
どこ、どこ、どこ、と。
逸る心臓を持て余しながら、その姿を捜す。
そうして。
「ひぃよ!」
庭へ下りられる廊下から、恋しくてならない人が、姿を現わした。
「イザヤ!」
呼ぶと、彼はヒョウジュに気づく。
視線が絡んだ瞬間、ヒョウジュの目許は涙で溢れた。
来てくれるとは思わなかった。
こうしてまた逢えるとは思っていなかった。
約束を破ったことを罵るのではなく、ひよと、そう呼んでくれるとは思わなかった。
「ひよ……」
やはりどうしても怪我をしてしまうイザヤは、最後に逢ったときよりも傷が増え、腕や腹部だけでなく、その頬にも血を滲ませていた。だがその血も、ヒョウジュを捜し当てて瞠目した瞳から流れた涙に、さらに滲んで流れ落ちる。
立ち止まったイザヤが、くしゃりと、顔を歪めた。
「ひよ…っ…ひぃよ」
両腕を伸ばし、駆け寄ってくるイザヤに、ヒョウジュも腕を伸ばして駆け寄る。
ぶつかるようにして、抱き合った。
とたんに包まれたイザヤの匂いと、血の匂い、そして恋しさに、くらりと眩暈がする。
「イザヤ……っ」
「ひよ、ひよ、ひよ…っ…ひぃよ」
ぎゅうぎゅうと、力強く抱きしめられて、ヒョウジュはその安堵に吐く息を震わせた。