09 : 広がる空は嘘をつく。4
時間を少し遡り、ギル視点です。
空を仰いだイザヤが、叫ぶ。
嘘つき、と。
その叫び声は大きくはなく、むしろ小さな悲鳴だ。
嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、と。
幾度も繰り返された言葉は、次第に風に流され消えていく。
誰かに向かって叫んでいるというよりも、なにか別のものに向かって叫んでいたように、ギルには感じた。
「魔犬ギルギディッツを相手に、本気でやろうとは思わない。ギルギディッツには恩がある。手は出さない。その温情に報いろ、狩人」
突きつけられた刃など、今のイザヤには無意味だ。話も聞いていない。
いや、聞いていられない。
ヒョウジュという、愛する娘を奪われたイザヤが、平静でいられるわけもないのだ。
「……おまえたちは、またイーサを、利用するだけ利用して、眠らせるんだな」
ギルは、イザヤからヒョウジュを奪った王子を見据え、小さく息をつく。
イザヤの心をわかってくれないのは、二十年前も今も、なに一つ変わらないことらしいとわかると、ただただ悲しい。
「ギル、違うのよ!」
そう声を張り上げたのは、王太后ユキイエ。ヒョウジュと目の前の王子の祖母であり、イザヤを異世界で育て、連れてきた初老の婦人。
「なにが違うんだ、ユキ。二十年前も今も、人間はイーサをわかってくれないじゃないか」
あんなに言ったのに、と思う。
言わなければわからないこともあるんだよ、と教えられたから、だから言い続けてきたのに、やはり誰もわかろうとしてくれないではないか。
イザヤは、イザヨイと呼ばれていた時代も、強くて弱い人間だった。イザヨイのときにはユキイエがそれをわかってくれた。イザヤである今は、ヒョウジュがそれをわかってくれていた。
それなのに、と思う。
「……ひどいよ、ユキ」
なぜ裏切るのだ。
「イーサは、ユキが好きで……ひよを好きになったのに」
イザヨイだった頃は、ユキイエに恋慕していた。今のイザヤがヒョウジュに向けているそれよりも淡いものではあったが、恋い慕っていた。歳の差なんて関係ない。身分なんて関係ない。優しさと愛を与えてくれた人を、ただただ好いた。ただただ、愛した。だから国を護り、民を護り、その命を削って戦い続け、最期にはひとりで眠ったのだ。
神に願い祈り、その身に授かった天恵を差し出してまでも眠りから目覚めさせ、異世界でイザヤを育て、この世界に連れて戻したのは、なんの意味があったのだろう。
「なあユキ、なにが望みだ? なにがしたいんだ? イーサをどうしたいんだ?」
「……わたくしはイザヤを幸せにしたいだけよ」
「じゃあなんで……イーサからひよを奪ったんだ」
知っていただろうに。
イザヤの反応は素直だ。隠しようもないくらい、素直だ。ヒョウジュに一目惚れして、気づくとどうしようもないくらい惚れていて、彼女のために国を護ると決意したイザヤのその姿は、誰が見てもわかるほど素直な反応だったはずだ。
「ヒョウジュは王女だ。たとえその狩人が、イザヨイの魂を持っていようが、ヒョウジュとは比べものにもならない」
「アオヅキ!」
「王太后さま、今は、時代が違うのですよ」
「今のわが国があるのは、イザヨイの功績があってのことよ。イザヨイがいなければ、わが国は滅んでいたわ」
「イザヨイのその功績は認めます。ですが、その狩人は魂を持っているというだけのこと。今はイザヤという、ただの狩人に過ぎません。リツエツが後見人であろうと、狩人は狩人。貴族でもなんでもない」
王子の言葉は、イザヤを想うユキイエの心を両断し、自身も握った剣を光らせる。
ギルは再び、ため息をついた。
二十年前にも、こんな光景を見た気がする。また同じことが繰り返されるのかと思うと、もうこの国を見限ってもいいのではないかと自棄を起こしそうだ。
イザヤを見れば、空を仰いだまま動きもせず、腹部からの出血も放置されたままだ。来てくれたのがユキイエだけであれば、今頃は治療も終わっているはずだったのに、王子が来たせいでこれだ。立ったまま気絶しているのではないだろうかと、そう勘違いを起こすくらい、イザヤは立ち尽くして空を仰いでいる。その横顔は伸びた髪に隠されて見えない。
「……イーサ」
もう、行こう。ここにいたって、ヒョウジュには逢えない。突きつけられた刃は王子のものだけでなく、城の兵士のものだってある。ギルがいることでその剣がイザヤを刺すことはないだろうが、それでも、その剣が為す意味は変わらない。
動かないイザヤの肩を、ぽんと叩いたときだ。
「……ははっ」
小さく、イザヤが笑い声を上げた。
「イーサ……?」
「ギル、戻れ」
「……なに?」
「黒犬に、戻れ」
人型を維持したままだったギルは、イザヤのその言葉に首を傾げつつ、とりあえず言われたとおり黒犬の姿に戻る。持っていた荷物はその反動で地に転がった。
ふらりと、イザヤが動く。
「おまえらの嘘に、おれがつき合う必要はねえんだよな」
そう言って、にやりを笑った顔を、王子に向けた。その口調と態度に、兵士たちが警戒して剣を構え直したが、イザヤは動じない。王子は不機嫌そうに顔を歪めた。
「きさま……」
「おれ、バカだからさ。そういうの、けっこう簡単に信じるわけ。でもバカだからって、なにも考えてねえわけじゃねぇの。面倒だから考えねえってことはあるけど」
「……なにが言いたい」
「ひよはおまえらの人形じゃねえ」
顔つきが変わった。ぎらりと、イザヤは王子を睨みつけた。
「ひよは、おれがもらう」
そう言うと、地に転がっていた荷物を蹴り、王子の視界を塞ぐ。意図を感じ取ってギルは瞬間的にイザヤに駆け寄り、その重みを確認するとすぐ、空へと高く跳躍した。
「イザヤ!」
「っ追え! 追って捕獲しろ! 城から……国から出すな!」
ユキイエの呼ぶ声と、王子の命令している声が下から聞こえる。だがそれらはすぐに、聞こえなくなった。
「ギル、おれ少し休む。できるだけ遠くまで移動してくれ」
「……だいじょうぶか?」
「怪我は大したことねえよ。痛ぇけど。それより心のほうが、もっと痛ぇし」
「……そうだな」
城の屋根伝いに跳躍を繰り返し、城壁の上で一旦止まると、イザヤを背負い直すために再び人型を取る。獣の姿であればイザヤが望む以上の速度でここを離れることはできるが、怪我人のイザヤの痩せ我慢もそろそろ限界だ。眠るというよりも気絶に近い状態になるであろうから、支えなければならない。
「ひよからもらった薬、なくなっちまったな……」
「拾ってくるか?」
「いや、いい。あってもたぶん眠れねぇから」
「……ひよ、聖国にいるからな」
「今はとりあえず眠れそうだけどな」
くすくすと笑ったイザヤは、まるでどこかの螺子が緩んだか、外れてしまったかのようだ。タガが外れた、とも言うのかもしれない。
「適当にだらだらしてるから、とにかくここを離れてくれ」
「わかった」
イザヤを背負い、ギルは再び跳躍する。ぐったりと体重をかけてくるイザヤは、自分で自分を支える気すらない、というかできずに、短い呼吸を繰り返す。
とにかくここを離れて、どこかで身体を休める必要があるだろう。荷物も手放してしまったことだし、それらも新しく調達しなければならない。
「ギル……」
「ん?」
「おれ……ひよが好きだ」
「そんなの知ってる」
にべもなく言うと、背中のイザヤは笑った。
「帰ってきたら、言うつもりだった。そんで、つき合ってって、言おうと思ったんだ」
「つき合う? 結婚じゃないのか?」
「結婚の前に、おつき合いってものがあるだろ」
「……おれ犬だし」
人間の事情は、獣のギルには理解できない。そもそも、子孫を残そうという気も起きないギルには、好きだなぁと思うだけでそれ以上のことがないために、よくわからない。
「ギルにもいいやつが現われてくれたらいいなぁ」
「おれにはイーサとひよがいる。それでいい」
「おれ、おまえの子ども、見てみたいんだけど」
「……おれ、魔だし」
「魔って、子孫残さねぇの?」
「さあ? おれは欲しいとか思わないだけ」
「ふぅん……」
背中の重みが、少し増す。完全に力が抜けてきたのだろう。
だいじょうぶか、と訊くと、まだ平気だ、と返事がくる。
「聖国には、どれくらいで行ける?」
「人間の足だと、二旬はかかるな。馬を使えば一旬か……そのくらいだな」
「おまえの足だと?」
「たぶん、一旬はかからない。休みなく移動すれば半旬くらいで行けると思うけど」
「十日くらいか」
「もう少しかかる。イーサを乗せて移動したら、確実に半旬はかかる」
「……ひよに追いつけるかな」
「追いつかなくても、攫えばいいだろ。この前みたいに」
「はは……そうだな」
力なく笑ったイザヤの熱い吐息が、後ろ首を擽る。このままでは本当に危ういかもしれないと、ギルはイザヤを支える腕に力を入れ直し、跳躍する足にも踏ん張りを利かせた。
「ギル……」
「ん」
「ギル……っ」
「……ん」
「ひよに逢いたい……っ」
「わかってる。連れてってやるから、少し我慢しろ」
「ひよ……ひよ……ひぃよ……っ」
恋しさあまりにぐずぐずと泣き出したイザヤに苦笑しながら、ギルは速度を上げ、宥めながら聖国へと急いだ。