第7話 百二十巻の真実
「返信をしないのですか」
朝の執務室。エルヴィンの声はいつもと変わらない。低くて平らで、条項の番号を読み上げる時と同じ温度。視線は手元の書類に落ちたままで、こちらを見てはいなかった。
薄桃色の便箋は、机の引き出しにしまったままだ。社交夜会の晩から二週間。一度も開いていない。聖女リリアーネの丸い字が綴っていた「どうかお戻りくださいませ」を、もう一度読む気にはなれなかった。
「戻る理由がございませんので」
声は平らに出せた。感情を混ぜずに、事実だけを。
エルヴィンのペンが一拍止まった。それから──微かに、息を吐いた。吐いた、というより、胸の中で何かをほどいたような、小さな音。
すぐにペンの音が戻る。何事もなかったように。
(……今の、何だったかしら)
聞き返すほどのことでもない。私は手元の通商条約最終案に目を戻した。数字が並んでいる。数字は嘘をつかない。数字の前では、薄桃色の便箋のことを考えなくて済む。
──戻る理由はない。ない、はずだ。
でも「あなたにしかできないこと」という一文が、書類の行間に透けて見える気がして、ペンを強く握り直した。
◇
昼過ぎ。マルグリットが紅茶と一緒に持ってきたのは、紅茶よりもずっと濃い情報だった。
「旧国の話。面白いのが入ったわよ」
彼女は窓際の定位置に座り、カップを片手に切り出した。
「あなたの引き継ぎ書類、ようやく読み始めた人がいるらしいの」
「殿下がまた挑戦なさったのですか。三巻の次は四巻目かしら」
「違う違う。若手の文官よ。名前までは分からないけれど、優秀な子らしくてね──十巻目まで読破したって」
十巻。
百二十巻のうちの十巻。たった一割。でも、あの書類の一割を通読するだけで、どれだけの時間と集中力が要るかは私が一番知っている。予算の根拠、法令の引用、代替案の比較検討、各部署との連携記録。一巻あたり数百頁。真面目に読めば、一巻で丸二日はかかる。
「それでね。その文官が周囲に言ったそうよ。『この書類は壟断の証拠ではなく、完璧な行政記録です。予算配分から法令の根拠、代替案の検討まで全て記されている。これを書いた人物は──』」
マルグリットが言葉を切った。私の反応を窺うように。
「『──国政の全体を一人で支えていた』ですって」
紅茶が、少しだけ温く感じた。
(……そうよ。そうなのよ。あの百二十巻は壟断の記録ではない。十年間、一つ一つの案件に向き合った結果を、誰でも追えるように残しただけ。それが行政の基本でしょう)
「聖女様は何と?」
「相変わらずよ。『あのような複雑な書類で行政を独占していたこと自体が問題です』って」
「……そうですか」
「でもね。今度は文官たちの反応が違ったの」
マルグリットがカップを置いた。碧い瞳に、楽しげな光が浮かんでいる。
「『書類が複雑なのではなく、国政が複雑なのです』って、若手が反論したらしいわ。──聖女様、何も言い返せなかったそうよ」
国政が複雑なのだ。
当たり前のことを、ようやく言える人間が出てきた。それだけのことなのに、胸の奥が軽くなった。私は何もしていない。あの百二十巻を書いただけ。書類の品質が、勝手に真実を語り始めている。
「よかったですわね」
声が少し揺れた。紅茶を飲んで、誤魔化した。
「よかった、で済ませるあたりが本当にあなたらしいわ」
マルグリットが呆れたように笑って、私も少しだけ笑った。
◇
夜。
通商条約の最終確認が大詰めを迎えていた。
宰相府の他の文官たちはとうに帰り、廊下に足音はない。魔導灯の淡い光の下で、私とエルヴィンの二つの机だけが明るい。
こういう夜が当たり前になっていた。深夜の執務室で、二つのペンが紙を擦る音。時折交わす短い確認。窓の外が暗くなっても、隣に誰かがいる。ルーヴェンの王宮では一度もなかった光景。
「ヴェルナー嬢。第十二条の経過措置、最終版です」
エルヴィンが書類を差し出した。
受け取ろうとして──指先が触れた。
書類を持つ彼の指と、受け取る私の指。紙一枚分の距離を越えて、肌が触れた。
温かかった。
インクの匂いがする指先。爪の先が少し黒い。細い指なのに、関節がしっかりしていて──
(──何を観察しているの、私は)
引くべきだった。手を引いて、「失礼」の一言で片付けるのが正しい。
引かなかった。
エルヴィンも引かなかった。
三秒。
魔導灯の光が微かに揺れて、書類の端が影を落とす。どこかで夜番の足音が遠く鳴って、消えた。
「……第十二条ですわね」
私が先に声を出した。書類を受け取る。指先が離れる。温もりが、一瞬だけ残った。
「はい」
エルヴィンの声はいつもと同じだった。同じ──のはずだ。でも、ほんの少しだけ間があった。普段なら即座に返す「はい」が、半拍遅れた。
気のせいだろう。気のせいにしておく。
◇
翌朝。
「昨夜、二人きりだったでしょう」
マルグリットの第一声がそれだった。紅茶を差し出しながら、にやにやしている。
「仕事をしていただけですわ」
「知ってる。あなたはいつもそう言う」
マルグリットが椅子を引いて座った。紅茶を一口。それから、少しだけ声を落とした。
「ねえ、ヴェルナー嬢。一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「ランツ殿の字、見たことある? あなた宛の注釈と、他の文官宛の注釈と」
「……書類は毎日見ていますが」
「比べたことは?」
首を傾げた。比べる理由がない。エルヴィンの字は几帳面で癖がなく、読みやすい。それだけだ。
マルグリットが机の引き出しからファイルを取り出した。宰相府の通常決裁書類。エルヴィンの注釈が書き込まれたもの。
「これが、カール宛の注釈ね」
見慣れた字。均整が取れていて、速度重視。法令引用の傍線が少し粗い。
「で、これがあなた宛」
もう一枚。同じエルヴィンの字──のはずなのに。
違った。
線が丁寧だった。はねの角度が揃っている。法令引用の傍線が、定規を当てたように真っ直ぐ。文字と文字の間隔が均一で、まるで清書したかのような──
「……気づいてないの?」
マルグリットが顎を乗せた手の下で、静かに笑っている。
「あの人、あなたの前でだけ文字が丁寧になるのよ」
心臓が一つ、跳ねた。
(──仕事の正確性でしょう。上司に見せる書類と同僚に見せる書類で、丁寧さが違うのは当然で──)
「上司はカールにもいるわ。でもカール宛はこの通り。あなた宛だけ、別人みたいに丁寧なの」
返す言葉が見つからなかった。
二枚の書類を並べて、もう一度見る。確かに違う。確かに──あなた宛だけ。
「……仕事熱心な方ですのよ、ランツ殿は」
「ええ、ええ。仕事熱心ね。そういうことにしておいてあげるわ」
マルグリットは紅茶を飲み干して、何事もなかったように立ち上がった。
私は二枚の書類を見つめたまま、しばらく動けなかった。昨夜の指先の温もりが、まだ消えていない。
◇
午後。宰相ゲオルク閣下から呼び出しがあった。
宰相執務室に入ると、いつもの鷹の目。ただし今日は、書類を読んでいる時の目ではなかった。もっと遠くを見ている──何かを量っているような。
「ヴェルナー嬢。通商条約の最終案、良い出来だ。来月の閣議に諮る」
「ありがとうございます、宰相閣下」
「それとは別に、一つ伝えておきたいことがある」
宰相が葉巻を灰皿に置いた。煙が天井に向かって細く昇っていく。
「通商会議に向けた準備で、ランツの補佐を引き続きお願いしたい。ただし──」
一拍。
「彼は、単なる補佐官ではない」
呼吸が一つ、飛んだ。
「……どういう意味でしょうか」
「いずれお知らせする時が来るでしょう。今はまだ、ランツ自身が決めることだ」
宰相はそれ以上何も言わなかった。視線が書類に戻る。面談の終了を示す、この人特有の仕草。
「失礼いたします」
一礼して、執務室を出た。
廊下を歩く。足音が木の床に吸い込まれていく。窓から差し込む西日が、白い石壁を橙色に染めている。
──単なる補佐官ではない。
それは何を意味するのだろう。貴族の出か。あるいは──
ヴェステンに来た最初の日。エルヴィンの机の隅に、見慣れない紋章の入った封書があった。あの時は「公文書かしら」と思って、深く考えなかった。
(……ランツ殿。あなたは、誰なの)
執務室の扉が見えた。半開きの向こうで、エルヴィンが書類に向かっている。西日が灰青の瞳に映って、琥珀色に滲んでいる。
丁寧な文字を書く、その手元を。
私はしばらく、廊下の端から見つめていた。




