第6話 社交夜会
踊るくらいなら書類を捌きたい。
これは前の世からの持病のようなもので、治る見込みはない。社交の場に出るたびに「この時間で何件処理できるだろう」と考えてしまう。我ながら重症だ。
「あなた、その顔やめなさい。『書類の方がマシ』って額に書いてあるわよ」
マルグリットが呆れた声を出した。鏡の前で私のドレスの裾を直しながら。
ヴェステンに来て一月余り。季節の社交夜会に出席することになった。宰相閣下の推薦で「臨時顧問」として正式に招待状が届いたのだ。断る理由はない。仕事の一環だ。
「このドレス、わたくしには少し華やか過ぎませんか」
「何言ってるの。あなた、仕事着しか持ってないでしょう。これくらいでちょうどいいのよ」
深い青のドレス。ヴェステン風の衿元はルーヴェンの流行より控えめで、代わりに袖口に銀糸の刺繍が入っている。マルグリットが自分の衣装箪笥から引っ張り出してきたものだ。丈は少し長いが、裾を留めれば問題ない。
(……群青色。インクと同じ色)
そこに気づいて、何故か少しだけ笑ってしまった。
◇
社交夜会の会場は、ヴェステン公国の迎賓館だった。
白い石壁に魔導灯の温かな光が映えて、ルーヴェンの王宮とはまた違う華やかさがある。重厚さより清潔感。権威よりも合理性。この国らしいと思った。
入口でマルグリットと別れた。彼女は彼女で知り合いの文官たちに挨拶に行くらしい。「ランツ殿が中にいるはずよ」と言い残して、人混みに消えていった。
一人で会場を見渡す。貴族の夫人たち、軍人、外交官、文官。見知った顔はまだ少ない。宰相府のカールが遠くで手を振っているのが見えて、小さく会釈を返した。
「ヴェルナー嬢」
声。
低くて、平らで──でも、いつもより少しだけ響きが違う。硬い床に落ちる靴音のように、輪郭がくっきりしている。
振り返った。
エルヴィン・ランツが立っていた。
正装だった。
普段の宰相府の文官服ではない。黒い上着に銀のボタン。襟は高めで、胸元に小さな飾り留めが光っている。白い手袋。髪は──いつもと同じで前髪が右目にかかっているけれど、それ以外が全部違って見えた。
肩の幅。普段は書類の陰に隠れているそれが、正装だとはっきり分かる。文官にしては体格がいい、と初対面の日に思ったことを不意に思い出した。
「……あ」
声が出た。出ただけ。意味のある言葉にならなかった。
(──何を固まっているの、私は。正装の男性を見るのは初めてでもないのに)
ルーヴェンの社交界で十年間、何百人もの正装姿を見てきた。王太子殿下の正装だって毎年見ていた。それなのに、今、なぜか視線の置き場に困っている。
「遅くなりました。通商条約の修正版を宰相閣下に提出してから来たので」
「……正装でも書類の話をなさるのですね」
「すみません」
「いいえ。安心しましたわ」
なぜ安心したのかは、自分でもよく分からなかった。
◇
夜会は穏やかに進んでいた。
エルヴィンと並んで会場の端に立ち、挨拶に来る人々に応対する。宰相府の顧問として、ヴェステンの貴族たちへの顔見せ。これも仕事だ。仕事なら得意だ。
──不意に、声をかけられた。
「これはこれは。ヴェルナー嬢ではありませんか」
聞き覚えのない声。振り返ると、中年の男が立っていた。ルーヴェンの宮廷服を着ている。胸元の徽章はルーヴェン外務省のもの。駐在外交官だろう。
「ヴェステンでは随分とご活躍のようで」
丁寧な言い回し。でも目が笑っていない。唇の端が歪んでいて、社交用の笑みの下に別のものが透けている。
「祖国を捨てた方がよその国で重用されるのは、なんとも……皮肉なことですな」
祖国を捨てた。
──捨てたのではない。捨てられたのだ。婚約を破棄され、断罪され、百二十巻の引き継ぎを残して去った。捨てたのはどちらだ。
(……言い返したい。言い返したいけれど、ここは社交の場で、私はヴェステンの顧問として出席していて、ルーヴェンの外交官と揉めるのは宰相閣下にご迷惑をかける)
一呼吸。
「お心遣い、ありがとうございます」
笑顔を作った。我ながら完璧な社交用の微笑み。十年間、王宮の大広間で鍛えた技術だ。
「わたくしはこちらでお仕事をいただいておりますので、祖国を捨てたというよりは──」
「彼女は当国の客人です」
声。
私の右側から。低い。いつもより低い。抑揚のない声なのに、有無を言わせない何かが滲んでいた。
エルヴィンが、半歩前に出ていた。
私とルーヴェンの外交官の間に、体を滑り込ませるように。左手は背に回したまま。正装の黒い肩が、私の視界の半分を塞いでいる。
「当国の客人であり、正式な官吏です。当国の官吏への侮辱は、外交問題として報告させていただきますが──よろしいですか」
静かだった。
怒鳴りもしない。声を荒げもしない。ただ事実を並べただけ。外交問題。報告。──それだけで、相手の顔色が変わった。
「いや、これは……侮辱などと。ただの世間話ですよ」
「では世間話は終わりですね。失礼」
エルヴィンが会釈して、背を向けた。それだけ。外交官は数秒間立ち尽くしてから、人混みの中に退いていった。
……終わった。
たった三十秒の攻防。声を荒げる人間は一人もいなかった。剣も抜かない。血も流れない。ただ「外交問題」の四文字が、あの男の顔から色を奪った。
(制度で殴るタイプなのね、この人)
……嫌いではない。むしろ好ましい。前の世の上司にもこういう人がいてほしかった。
「……ありがとうございます、ランツ殿」
「仕事です」
また「仕事」。この人は何でも「仕事」と「備品」で片付けようとする。
でも──振り返った時、エルヴィンの横顔が一瞬だけ見えた。顎の角が僅かに上がっている。何かを飲み込んだ後の、あの仕草。怒りを抑えているのだと思った。仕事仲間を侮辱されたのが不愉快だったのだろう。
「アネリーゼ嬢」
──え。
エルヴィンが、私の名を呼んだ。「ヴェルナー嬢」ではなく。
しかもその声が、さっきまでと違った。少しだけ低い。外交官に向けた時の声とも、普段の事務連絡の声とも、仕事中に条項の番号を読み上げる声とも──全部違う。
「お飲み物を。温かいものがよろしいですか」
「……ええ。お願いしますわ」
名前を呼ばれた。それだけなのに、耳の奥がじんと熱い。乾燥した空気のせいではないことくらい、さすがに分かった。
でも──今はそれについて考えない。考えてしまうと、何かが狂う気がする。
◇
夜会の帰り際だった。
迎賓館の玄関ホールでマルグリットと合流しようとした時、使用人の一人が小さな封書を差し出した。
「ヴェルナー嬢。お手紙でございます」
封蝋。──白い蝋に、光神教の印。
ルーヴェンの外務省ではない。王宮でもない。
聖女の印だ。
指先が一瞬だけ冷えた。それでも封を切る。便箋は薄い桃色で、丸みのある字が並んでいた。
──『アネリーゼ様。突然のお手紙をお許しください。王太子殿下が苦しんでいらっしゃいます。国政が立ち行かなくなっております。あなたがいなくなってから、殿下はお食事も満足にお取りになれず、毎夜遅くまで書類と格闘しておられます。どうか、どうかお戻りくださいませ。あなたにしかできないことがあるのです。──聖女リリアーネ・バウアー』
便箋を畳んだ。
手は震えていない。震えてはいない。
(──あなたにしかできないこと)
それは事実だ。少なくとも、引き継ぎ書類を読める人間が育つまでは。あの百二十巻を書いた本人がいなければ、行間を読み解くのは難しいだろう。
事実だから、辛い。
「ヴェルナー嬢? 顔色が悪いわよ」
マルグリットの声。遠くから聞こえた気がした。
「大丈夫ですわ。少し──風に当たりたいだけ」
窓の外を見る。ヴェステンの夜空は、ルーヴェンよりも星が近い。乾いた空気に、冬の匂いが濃くなっている。
(戻る理由はない。戻る理由は、ない。でも──)
「あなたにしかできないこと」。
十年間、ずっとそう思ってやってきた。それが鎖だった。自分を縛る、最も頑丈な鎖。
便箋をドレスのポケットにしまった。薄い桃色の紙が、群青色の布に隠れる。
夜会場の灯りが背中に遠くなって、冷たい夜風が頬を撫でた。エルヴィンの「アネリーゼ嬢」という声が、まだ耳の奥に残っている。
──今夜は、二つの声が頭の中で重なって消えなかった。




