第5話 返還要求
朝一番に届いた外交書簡の封蝋には、ルーヴェン王家の紋章が刻まれていた。
獅子と百合を組み合わせた意匠。見慣れているというのに、ヴェステンの執務室で目にすると、ひどく場違いなものに見える。十年間、毎日のように押していた紋章なのに。
エルヴィンが封を切り、中を確認して、一枚の紙を私の机に置いた。
「ルーヴェン王国からの正式な外交書簡です」
読む。
──『アネリーゼ・フォン・ヴェルナーは、ルーヴェン王国の重要機密に接してきた人物であり、他国での就労は安全保障上の問題がある。ヴェステン公国におかれては、当該人物を即刻返還されたい』。
重要機密に接してきた人物。
……ふふ。
笑ってしまった。声に出して。我ながら品がないけれど、堪えきれなかった。
「……何かおかしな点が?」
エルヴィンが怪訝そうにこちらを見ている。彼の表情は相変わらず読みにくい。前髪の下の灰青の瞳が、わずかに細められている。
「いいえ。ただ──『重要機密に接してきた人物』ですって。十年間、その機密を作っていたのは私ですのに」
(予算案の根拠データも、外交書簡の草案も、法令改正の条文も。全部、私が書いたものなのだけれど)
返還。
断罪して追い出しておいて、返還。婚約を破棄しておいて、返してくれ。──なんという身勝手。いえ、身勝手なのは今に始まったことではない。十年間ずっとそうだった。
エルヴィンはしばらく黙って書簡を読み返していた。
それから──白紙を引き寄せて、ペンを取った。
「対応の草案を起草します」
速い。迷いがない。
ペン先が紙の上を走る。私はその手元を見ていた。エルヴィンの字はいつも均整が取れていて癖がない。法令引用の箇所だけ微かに右に傾く──文通時代から変わらない、見慣れた筆跡。
でも今日は、少し違った。
筆圧が強い。
いつもより明らかに。ペン先が紙に沈み込む深さが違う。字の太さが均一でなく、特に「返還」という文字を書く時に、線が一段太くなっている。
(──怒っているのかしら)
仕事仲間を取られるのは困る、ということだろう。通商条約の改定作業の真っ最中に、共同作業者を引き抜かれては進捗に響く。実務者として当然の反応だ。
「読んでいただけますか」
数分で書き上がった草案を、エルヴィンが差し出した。
──『アネリーゼ・フォン・ヴェルナー殿は、ヴェステン公国の正式な官吏として任用されております。主権国家の官吏の身柄引き渡しには、国際法に基づく正当な手続きが必要です。ルーヴェン王国が根拠とする「重要機密」の具体的内容をご提示ください。なお、当該人物が貴国在籍時に従事した業務の詳細は、すべて貴国側に保管されているはずの公文書に記録されております。引き継ぎ書類百二十巻に含まれる業務目録をご参照ください』。
最後の一文で、口元が緩んだ。
百二十巻。引き継ぎ書類。あの日、大広間で突きつけた数字が、外交文書の中にこんな形で戻ってくるとは。
「……完璧ですわ、ランツ殿。ただ一点」
「はい」
「最後の一文、やや挑発的では?」
エルヴィンがほんの一瞬、口元を引き結んだ。感情が見えた──と思った瞬間、もう消えていた。
「事実の指摘です」
「ええ。事実ですわね」
事実は挑発ではない。数字は嘘をつかない。それでも──この人の文章にしては温度が高い気がした。普段の彼の文書は氷のように冷静なのに。
気のせいだろう、と自分に言い聞かせた。
◇
宰相執務室。
ゲオルク宰相は、エルヴィンの草案を一読して頷いた。
「よい。このまま送れ」
それから私に視線を向けた。鷹の目。値踏みではなく、もう少し柔らかい──判断を下した者の、確信のある目。
「ヴェルナー嬢。あなたの任用を正式に国益として承認する」
「……ありがとうございます、宰相閣下」
「有能な人材は国の宝です。ルーヴェン王国が手放したのなら、我々が受け入れるのは当然だ」
淡々とした声。皮肉でも嫌味でもなく、財務報告を読み上げる時と同じ温度。この人にとって、人材の確保は予算の配分と同じ種類の──合理的な判断なのだ。
(──十年間、こういう上司の下で働きたかった)
思ってしまった。思ってしまってから、少しだけ目頭が熱くなって、慌てて書類に視線を落とした。
「今後、ルーヴェン側から追加の要求があった場合の対応方針も整理しておく。ランツ、頼めるか」
「承知しました」
宰相の視線がエルヴィンに移った時、一瞬だけ──本当に一瞬だけ、何かを測るような目をしたのが見えた。エルヴィンの顔を見て、草案の文面を見て、もう一度エルヴィンの顔を見た。
何だったのだろう。私には分からなかった。
◇
午後。執務室に戻ると、マルグリットが待っていた。
紅茶は二つ。もう片方は私のぶんだ。すっかり定位置になった窓際の椅子に座って、カップを傾けている。
「聞いたわよ。ルーヴェンから返還要求ですって?」
「ええ。宰相閣下が退けてくださいました」
「そりゃそうでしょう。あなたを手放すほど、うちの宰相は馬鹿じゃないわ」
マルグリットが紅茶を一口飲んで、ふと声を落とした。
「ねえ、ヴェルナー嬢。あの書簡が届いた時、ランツ殿──初めて見る顔をしていたわ」
「……初めて見る顔?」
「普段あの人、書簡を読む時って無表情でしょう。外交文書だろうが苦情だろうが、眉一つ動かさない。でも今朝は違った。書簡を読み終わった瞬間、顎が上がったの。ほんの少しだけ」
顎が上がる。何かを飲み込む時の仕草。
(……ああ、それ、先週の宰相報告の時にも見た)
「怒っていたのかしら。仕事仲間を取られるのは困りますものね。通商条約の改定が大詰めですし」
マルグリットが黙った。
紅茶のカップを置いて、私をじっと見て──それから小さく、本当に小さく首を振った。聞こえるか聞こえないかの声で何か呟いたけれど、私の耳には届かなかった。
「何かおっしゃいました?」
「何でもないわ。──ルーヴェンの続報、聞いた?」
話が変わった。マルグリットの情報網は宰相府でも随一だ。どこから仕入れてくるのか分からないが、他国の宮廷事情まで妙に詳しい。
「王太子殿下、あなたが残した引き継ぎ書類を読もうとしたらしいわよ」
「まあ。ご自分で?」
「三巻で挫折したそうよ」
三巻。百二十巻のうち、三巻。
(……二十年かければ読み終わるかしらね)
「それで、聖女様がこうおっしゃったんですって。『あのような複雑な書類を作ること自体が、アネリーゼの壟断の証拠です』」
──は。
一瞬、言葉を失った。
複雑な書類を作ること自体が壟断。それはつまり、「国政が複雑であること」を否定しているのと同じだ。予算の配分も、法令の根拠も、外交の経緯も、単純な一枚紙に収まるとでも思っているのだろうか。
(──思っているのでしょうね、あの方は。治癒魔法と涙があれば国が回ると本気で信じている)
「旧国の文官たちは?」
「苦い顔をしていたそうよ。でも聖女様には逆らえない。社交界の支持が強いから」
マルグリットが肩をすくめた。
私は紅茶を飲み干して、カップを置いた。手元の書類に目を戻す。ヴェステンの通商ルートの最適化案。数字が並んでいる。整然と、論理的に。
複雑なのは書類ではない。国政が複雑なのだ。それを一人の人間が整理して、誰にでも追えるように記録する。それが行政官の仕事であり、私が十年間やってきたことだ。
壟断の証拠、と呼ぶのなら──呼べばいい。あの百二十巻を最後まで読んだ人間だけが、判断する資格がある。
「ヴェルナー嬢」
エルヴィンの声。隣の執務室からだ。扉越しに聞こえる、低くて平らな声。
「第七項の第六案、修正版が出来ました。ご確認ください」
「今参りますわ」
立ち上がる。マルグリットが私の背中に向かって何か言った。
「──ねえ、あの人、あなたに声をかける時だけ少し声が低くない?」
振り返ったけれど、マルグリットはもう紅茶を飲んでいて、何事もなかったような顔をしていた。
……気のせいだろう。
隣の執務室に入る。エルヴィンが修正案を差し出す。受け取る時、指先が触れた──いや、触れていない。書類の端を持っただけ。紙一枚分の距離。
それだけなのに、なぜか指先がちりっとした。
乾燥した空気のせいだ。ヴェステンの秋は乾いている。そういうことにしておく。
窓の外では、ルーヴェン王家の紋章が押された書簡が、宰相府の文書棚に「却下」の印とともに収められていく。
──旧国はまだ、引き下がらないだろう。「壟断の証拠」という言葉の裏に、誰の意志が動いているのか。考えないわけにはいかなかった。




