第4話 書類の山を、隣で
「関税の最恵国待遇条件、第七項の但し書きの解釈が貴国と我が国で異なります」
エルヴィンの声は、朝一番でも夕方でも変わらない。低くて平らで、抑揚が少ない。ただ条項の番号を読み上げるだけなのに、不思議と聞き取りやすい声だ。
「第七項は関税率の上限規定ですわね。ルーヴェン側の解釈では『最恵国に対する税率を超えない範囲』ですが、ヴェステン側では『最恵国税率に準ずる税率の適用義務』と読んでいる」
「はい。義務と上限では意味が異なります」
「ええ。ですから──」
私は白紙を一枚引き寄せて、両国の解釈を並列で書き始めた。根拠条文の引用。過去の通商実績との照合。想定される影響額の試算。
ペンが走る。隣でエルヴィンのペンも走る。二つのペン先が紙を擦る音が、朝の執務室に重なった。
ヴェステンに来て、もう二週間になる。
◇
通商条約の改定作業は、予想以上の速度で進んでいた。
私が全体の構造設計と数字の分析を担当し、エルヴィンが法令解釈と条文の整合性を確認する。得意分野が重ならない。穴が噛み合う歯車のように、一方が書いたものを他方が検証し、修正し、次の段階に進める。
宰相府の文官たちが、最初は遠巻きに見ていた。
よそ者。ルーヴェンから流れてきた公爵令嬢。どうせ腰掛けだろう──そういう空気は、肌で感じていた。ルーヴェンの王宮で十年間培った観察力は、こういうところで役に立つ。好意的ではない視線の温度くらい、慣れたものだ。
変わり始めたのは、四日目だった。
「ヴェルナー嬢」
昼食の後、隣の島の文官が声をかけてきた。四十がらみの禿頭の男性。名はたしかカール。
「第十二条の経過措置、先方から回答が来たんだが……この数字の根拠が分からん。あんた、こういうの詳しいか」
あんた呼ばわり。でも、それが嬉しかった。「ヴェルナー嬢」と距離を取られるよりずっと。
「拝見しますわ」
書類を受け取って、数字を追う。三分で根拠を特定した。ルーヴェン側の過去の通商協定に遡る慣例率だ。私が六年前に起草した協定書が基になっている。
「これは二国間で六年前に取り決めた慣例税率です。根拠条文はこちら」
カールが目を丸くした。
「……六年前の協定を暗記してるのか」
(暗記しているのではなくて、書いた本人なのだけれど)
それは言わない。にっこり笑って、書類を返す。
「数字は覚えやすい体質ですの」
その日の午後から、カールは書類を持って私の机に来るようになった。翌日にはもう一人。その翌日にはさらに二人。「ヴェルナー嬢、これ見てくれんか」が口癖のように増えていく。
よそ者の壁が、書類一枚ずつ薄くなっていく。
◇
「ヴェステンの実務、ルーヴェンと勝手が違うでしょう?」
夕方、マルグリットが紅茶を持ってきた。もう日課になりつつある。
「ええ。決裁の階層が浅いですわね。ルーヴェンでは五段階の承認が必要な案件が、こちらでは三段階で通る」
「そうそう。宰相閣下が実務を重視するから、無駄な承認印を減らしたのよ」
「合理的ですわ。ただし決裁者が少ない分、一人あたりの判断負荷が重くなる。ランツ殿の仕事量が多いのはそのせいでは?」
マルグリットがカップを置いて、私をまじまじと見た。
「……来て二週間の人に、うちの制度の弱点を当てられるとは思わなかったわ」
「弱点ではありませんわ。特徴です。どちらが良いかは運用次第」
「あなた本当に二十四歳? 四十年くらい行政やってる顔してるわよ」
(二十四年と、前世の三十二年を足したら五十六歳ですわね。四十年でもおかしくない)
内心で笑って、紅茶を啜った。
◇
問題の条項にぶつかったのは、その夜だった。
最恵国待遇条件の第七項。但し書きの解釈の溝が深い。朝から議論して、エルヴィンと三つの案を出したが、どれも片方の国に不利になる。四つ目の案が必要だった。
日が落ちて、マルグリットが帰り、カールたちが帰り、宰相府が静かになった。
エルヴィンも帰った。「明日でいいのでは」と言われたが、「もう少しだけ」と答えた。
嘘だ。もう少しでは済まない。この条項を解かないと、改定作業全体が止まる。
一人だった。
魔導灯の淡い光の下で、紙の山に埋もれている。ペンを走らせて、消して、また書いて。数字を並べ替えて、条文を引っ張り出して、でも噛み合わない。
(……ルーヴェンにいた頃は、こういう夜がしょっちゅうだった)
一人で執務室に残って、朝まで書類を捌く。誰も手伝ってくれない。誰も隣にいない。それが当たり前だった。
──こつ。
足音。
木の床を踏む、聞き覚えのある静かな足音。
顔を上げると、エルヴィンが執務室の入口に立っていた。上着を脱いで、シャツの袖を肘まで捲っている。片手に書類の束。
「……ランツ殿。お帰りになったのでは」
「自分の仕事が残っていたので」
嘘だ、と思った。さっき「明日でいい」と言って帰ったのに、自分の書類を持って戻ってくる矛盾。
──でも、指摘しなかった。
エルヴィンは何も言わずに隣の机に座った。書類を広げる。ペンを取る。黙々と仕事を始める。
二つのペンの音が、深夜の執務室に戻ってきた。
「……手伝いましょうか、と言うべきですか」
しばらくしてから、エルヴィンが言った。ペンの手は止めないまま。
「いいえ」
自分でも不思議なくらい、声が穏やかだった。
「隣にいてくださるだけで十分ですわ」
エルヴィンのペンが、一拍だけ止まった。
それから何も言わずに、二人で書類を捌いた。窓の外が白んで、魔導灯の光が薄れて、最初の小鳥が鳴くまで。
◇
頬に当たる布の感触で目が覚めた。
──あれ。
机に突っ伏して寝ていた。書きかけの書類が頬に張り付いている。それを剥がして、もう一つ気づいた。
肩に、上着がかかっている。
私のものではない。大きい。男物。袖の裏に、薄くインクの匂いが残っている。群青色ではない。もっと黒に近い、ヴェステン産のインク。
エルヴィンの上着だ。
隣の机を見る。彼はもう座っていた。シャツ姿のまま、新しい書類を読んでいる。
「……おはようございます」
「おはようございます」
視線は書類に落ちたまま。いつもの声。いつもの温度。
「昨夜の最恵国条項ですが、朝までに三案作りました。ご確認ください」
机の端に、きちんと揃えられた三枚の書類。彼の几帳面な筆跡で、第四案・第五案・第六案と番号が振られている。
上着について、何も言わない。
私も何も言わなかった。
ただ──肩に残っている温もりを、もう少しだけ感じていたかった。仕事に関係のない感覚だった。だから少しだけ戸惑って、上着を丁寧に畳んで、隣の机に置いた。
「ありがとうございます。……上着と、三案」
「備品と、仕事です」
(──また「備品」って言った。この人、贈り物を全部「備品」で片付ける気かしら)
少しだけ笑ってしまったのを、書類で隠した。
◇
その日の午後。宰相執務室。
進捗報告のために、エルヴィンと二人で書類を持参した。
宰相ゲオルクは、積み上がった報告書と条文案の束を一つ一つ確認していく。鷹の目が紙の上を滑る。速い。一枚あたり十数秒で要点を掴んでいる。
「……最恵国条項に六案。うち三案が昨夜から今朝にかけて追加されている」
宰相が書類から顔を上げた。
「これを一人で?」
一瞬の間。宰相の視線が私からエルヴィンに移り、もう一度私に戻る。
「いや──二人で、か」
その呟きは、私に向けたものではなかった。独り言のように。でも、そこに含まれていたのは評価だった。十年間ルーヴェンの王宮で一度も聞けなかった種類の──正当な、実務に基づいた評価。
「条約改定の中間報告は来週の閣議に上げる。ヴェルナー嬢、このまま臨時顧問として作業を続けてもらいたい」
「はい。ありがとうございます、宰相閣下」
「ランツ。お前もだ」
「承知しました」
宰相が書類に目を戻した。その一瞬──本当に一瞬だけ──エルヴィンが目を伏せたのが見えた。
伏せた、というより、何かを堪えるような動きだった。唇が微かに引き結ばれて、すぐに元に戻る。
宰相はそれを見ていた。見ていて、何も言わなかった。
(……何だろう。今の)
分からなかった。聞くほどのことでもない気がして、私は書類を抱え直して宰相執務室を出た。
廊下を歩く。エルヴィンが隣を歩く。今日も歩幅が合っている。
──たまたま、だと思う。
でも。宰相の「二人で」という言葉が、不思議と耳に残っていた。




