第10話:弱さの意味と、差し迫る戦い
俺は影の中を動き、岩から岩へと身を隠しながら、この“ダンジョン”と呼ばれる広大な開けた地形を、ゆっくりと進んでいた。
正直、ここをダンジョンと呼ぶのは侮辱ですらある。規模がデカすぎる。どちらかと言えば、地下世界――そう呼ぶほうがしっくりくる。
この場所の大きさを例えるなら、丸ごと一つの都市。そんなレベルだ。
目的地へ近づくためのルートは頭の中で組み立てていた。最低限の目安としてだ。だが、いざここへ降りてみた瞬間……俺はあっさり迷った。
で、なぜ俺がこんなに隠れてるのかって? 理由は単純だ。
前にいた閉鎖された洞窟では、出てくるのはランクFのモンスターばかりだった。
ところがこの“ダンジョン本体”の空間に入ってからは、出会うのがランクDの高レベル個体か、ランクCのモンスターばかり。
言うまでもない。見つかった瞬間、俺は即死だ。
ランクDならギリギリ挑める可能性はある……と言いたいところだが、俺はまだレベル1。ランクDでも普通に致命的な相手になる。
せめて、レベルを少し上げられるような弱い個体がいてくれれば……。
でも現実は、そんな甘い飴みたいに簡単には飲み込めない。
降りた直後、いきなりランクCのモンスターに二体ぶつかった。
慌てて元の洞窟へ登り返そうとしたら、今度は入口の周りをランクDの鳥の群れが取り囲んでやがった。
だから俺は、身を隠して、影を這うように進むしかなかった。
幸い、ランクCの二体には見つからなかったし、鳥どもも――見えなければ襲ってこない、たぶん。
……今になってようやく分かった。
この世界の“強さの配置”、いわば食物連鎖だ。俺はその最底辺にいる。
なんで俺が、こんな危険な場所に送られなきゃいけねぇんだよ!!
弱いのに!! どんな嫌がらせだ!!
「ゼロ」とか自称してる汚物め!! 俺をいじめてんのか!? 本気で!?
……くそ。結局、答えは一つだ。強くなるしかない。進化するしかない。
モンスターに気をつけるだけじゃ足りない。人間にも警戒しなきゃいけない。
記憶している限り、ここは冒険者が訓練してレベルを上げるためのダンジョンだ。つまり、人間に遭遇したら――俺を見つけ次第、殺しに来る可能性がある。
だから、とにかく前へ進む。隠れ続けて。
そして、倒せるモンスターを見つけたら、その時は持ってるもの全部で戦う。
俺は岩と石柱の影を縫うように移動し、少しでも距離を稼ごうとした。見つかったら終わりだ。確実に死ぬ。
……今なら分かる。
あのモグラどもが、あのトンネルに潜りっぱなしだった理由が。
外に出た瞬間に殺される。鶏小屋に放り込まれたミミズみたいにな。
「オギイ、オギイ、オギイイイ!」
巨大な石柱の間を通り抜けようとした時、苦痛の叫びが耳に届いた。
俺は反射的に振り返り、上を見上げる。
そこには――巨大な蜘蛛の巣があった。ほとんどビルみたいなサイズ。
その中央に、白いウサギが絡め取られて、必死に叫んでいる。
マジかよ。
……家主は今いないっぽい。なら、あの“うまそうな獲物”は俺が頂く。
あのウサギは俺の世界のウサギよりずっとデカいが、それでも俺より小さい。
強いとも思えない。なら、すぐ死ぬはずだ。
一発の[インビジブル・ランス]で十分。
仮にランクが俺と同じでも、拘束されてる以上、反撃される前に殺せる。
それに、あの巨大な罠を張った蜘蛛も、俺がウサギを殺すだけなら気にしないだろう。
少なくとも、これで“底辺”から少しは抜け出せる。
俺は片手を上げ、魔力を集中させて[インビジブル・ランス]を作ろうとした――その瞬間。
「ギシィィィィィィ!」
不気味な咆哮。
巣の上の影から、巨大な蜘蛛が姿を現した。
高いところからゆっくり巣へ降りながら、耳障りな声で叫ぶ。
体格は俺の倍以上。全身は茶色い長い毛で覆われ、腹部には黄色い縞模様。
……
俺は即座に岩陰へ潜り、遠目からじっと観察した。
今の俺の見た目は目立つ。迂闊に動けば終わる。
あの蜘蛛に、獲物を盗もうとしてるところを見つかったら……想像もしたくない。
でも、ここまで来た。確認だけはする。
目の前の“恐怖”が何なのか、少しでも情報を取る。
【アラクネ:ランクC-のモンスター】
【濃い森の近くに住む村人を恐怖に陥れる巨大蜘蛛。地面に罠の蜘蛛糸を張り、踏んだ獲物を不意打ちで本体の巣へ引きずり込む。アラクネは獲物を白い濃密な糸で巻き上げ、生きたまま捕食する。】
うげぇ……。なんて卑怯で気持ち悪い生き物だ。
結局、やっぱりランクC。しかもC-でも、俺には無理だ。勝てない。
……ごめんな、小さなウサギ。槍で貫かれるより、もっと酷い結末が待ってるみたいだ。
俺は岩陰から、ウサギに小さく手を振って別れを告げ、立ち去る準備をした。
ウサギは必死にもがき、叫ぶ。蜘蛛が迫る。
だが無駄だ。糸は太く、粘り、広い。逃げようがない。
俺が背を向けようとした――その時。
ウサギが蜘蛛に顔を向けた。
赤く光る目。大きく開いた口。次の瞬間、噛み締めるように強く閉じた。
同時に――蜘蛛の頭が、鮮やかな緑の血を噴き上げて爆ぜた。
俺は動けなくなり、口を開けたまま固まった。
巨大な蜘蛛の胴体が落ち、糸にぶら下がる。
まるで、突然操り糸を切られた人形みたいに。
一本の脚だけで糸に引っかかっているが、もう死んでる。反射で引っかかってるだけだろう。
首の断面――いや、頭があった場所から、血と臓物が噴き出している。
ウサギは、苦もなく拘束を外す。
そして脚を振り上げ、空を蹴った。
――その瞬間、周囲の風と一緒に魔力が渦巻き、小さな竜巻になる。
竜巻は六本の風の帯へ分裂し、蜘蛛の巣も死骸もまとめて切り裂いた。
一瞬で、巣も蜘蛛もバラバラになって地面へ落ちる。
自由になったウサギも、勝者みたいなポーズで降り立った。
なんだよそのウサギ!!
ランクC-を一撃で殺したぞ!? こいつ神か!?
【オー・ドッチー:ランクC+のモンスター】
【遭遇した者すべてを恐怖させる“疑似災害”。森でウサギの鳴き声を聞いたら直ちに逃げるべき。白いウサギを見つけた瞬間、頭が落ちるとされる。】
……あぁ、なんて可愛いんだ。思わず赤面しそう――なわけあるか!!
誰だよ、こんな化け物呼んだの!? 神じゃないのは救いだが、相手にできるわけがない!
ランクCは見てきた。だがC+は別格だ。
格が違う。怖さが違う。
あいつは俺を見てない。見てないはずだ。
見つかったら、俺の頭はその場で消し飛ぶ!
俺が必死に“見つかるな”と念じていた、その時。
蜘蛛の死骸を眺めていたウサギが、ふいに――こちらを向いた。
背骨が凍る。全身が震え出す。
臓器があるなら今この瞬間に漏らしてる。
表情が変わった。さっきの静けさが消え、苛立ちと不快感が浮かぶ。
圧力が来た。
脳を、意志を、押し潰すみたいな圧。
まるで全人類から侮辱されてるような感覚。
これは単なる恐怖じゃない。
殺意と威圧が、まっすぐ俺に突き刺さってくる。
弱い俺は、引き裂かれるように感じた。
……見つかった。
それしかない。こいつ、俺を見つけた。
ありえねぇ。俺はずっと岩陰だ。姿なんか一瞬たりとも見せてない。
……じゃあ、どうやって?
理由は分からない。でも、逃げるしかない。
俺は背を向け、反対方向へ全速力で走った。
背中を見せるのは危険だ。でも選択肢がない。
振り返る。追ってきてるか――
……いない。
ウサギは俺を完全に無視し、蜘蛛の死骸へ向き直っていた。
身をかがめて、蜘蛛を食い始める。
俺は足を止め、遠くからそれを見てしまった。
……俺が獲物を奪うと思ったのか? だから威圧した?
でも、奪う気がないと分かって無視した……?
どちらにせよ、ここにいる理由はない。
気が変わって追ってきたら終わりだ。
ただ――逃げる前に、手の届く距離にいる今だけは。
ステータスを見ておく。外の基準を知るのは重要だ。
――――――――――――――
種族:オー・ドッチー
状態:正常
Nv:56/65
HP:280/280
MP:302/319
攻撃力:336
防御力:247
速度:501
魔力:473
ランク:C+
スキル:
[バイト:Nv4][アディション:Nv2][デンティション:Nv3][アソート:Nv4][フル・パワー:Nv4][アウトドーン:Nv1][オートマチック・MP・リカバリー:Nv4][オートマチック・HP・リカバリー:Nv3][マジック・クローク:Nv-][マジック・コントロール:Lv4][エイベイシブ:Nv5][ウィンド・アトリビュート:Nv6][ランナー・ファイター:Nv2][スタボーン:Nv4][プレゼンス・センス:Nv4]
魔法:
[ウィンド・マジック:Nv4][クイック:Nv3][ウィンド・スラッシュ:Nv4][ウィンド・ムーブメント:Nv1][ハイ・スクリーム:Nv2][ヒドゥン・ウィンド:Nv3][レッド・マーキング:Nv2]
耐性:
[レジスタンス・トゥ・インパクツ:Nv2][フィジカル・レジスタンス:Nv3][レジスタンス・トゥ・フォールズ:Nv3][レジスタンス・トゥ・フィア:Nv1][オキシジェン・ディプリベーション・レジスタンス:Nv1][レジスタンス・トゥ・ポリューション:Nv1]
称号:
[オブスティネイト:Nv-][パースーア:Nv3][ダーティ・プレイ:Nv3][アサシン:Nv-][マイナー・カラミティ:Nv-][ガーベッジ・イーター:Nv-]
――――――――――――――
……!!!!!!!!!!
俺は即座に向きを変え、可能な限り遠くへ、全速力で走った。
ヤバいヤバいヤバい!!!!
あれは危険すぎる!
……ていうか、なんで俺は走ってる?
あいつの速度は俺の十五倍だ。俺が全力で走ったところで、逃げ切れるわけがない!
運が良かっただけだ。俺が“標的”じゃない。
もし標的だったら、とっくに死んでる。
それでも離れる。できるだけ距離を取って、追ってこないことを祈るしかない。
なんで俺は、いつもこんな危険な化け物に囲まれてるんだよ、くそが!!
強くならないとダメだ。
せめて、自分のレベルに見合う相手と戦える場所へ行かないと。
……
いや。
俺はもう決めていた。
リスクを取らなきゃ、一生強くなれない。どこかの隅で腐るだけだ。
次に見つける“俺と同じランク”のモンスターは、必ず戦う。
相手が高レベルだろうが、“+”だろうが関係ない。
俺は戦う。勝つ。強くなる。
このダンジョンの頂点に立つまで!
---
俺は岩の間を走り続けた。見えるのは岩、岩、岩――それだけ。
正直、さっき見えた“木々”の方へ行きたかった。
最初は枯れた森に見えた。
だが見れば見るほど、その光景は奇妙だった。
森全体が、何か薄い布で覆われているように見えたのだ。まるで隠されているみたいに。
好奇心は刺激された。でも焦るな。
あそこは峡谷に近い。予想が当たってるなら、強いモンスターがうじゃうじゃいる。
とはいえ急ぐ必要もない。
峡谷へ向かう道はあの森を通る。いずれ踏み込むことになる。
今、俺が歩いているのは崩落でも起きたような岩の山だ。
遮蔽物がない。完全に丸見えだ。
普段ならこんな場所は避ける……だが、もう何時間も歩いているのに、ここに入ってからモンスターの気配が一切ない。
この場所を嫌っているのか、それとも別の理由か。分からない。
ただ事実として、近くに生き物がいない。だから自由に動ける。
……油断はしない。落ち着いてはいるが、周囲の警戒は続ける。
何か見えたら、何か聞こえたら、即反応する。
そんなことを考えながら岩の上を歩いていると――
思考を叩き割る異変が起きた。
地面が震え始めた。
最初は微弱で、ほとんど分からない。だが数分で揺れが増し、まるで地震になった。
俺は必死にバランスを取る。
しかも、揺れているのはこの一帯だけらしい。
ダンジョンの壁や天井を支える石柱は、まったく動いていない。
……何なんだ、これは?
地震が“狭い範囲だけ”で起きるなんて、見たことがない。異常すぎる。
理解しようとしている間に、揺れはさらに激しくなり、岩が篩みたいに跳ね出した。
俺は足を取られて倒れた。
すぐ横へ転がり、俺を押し潰しかけた岩を回避する。
立ち上がって、さらに距離を取った。
危なかった。
ようやく安全そうな場所を見つけたところで、揺れは急速に弱まり――突然止まった。
……何だったんだよ、今の。
周囲を慎重に見回す。
地形が変わりすぎて、どっちから来たのかすら分からない。
いや……地平線の見え方を頼りにすれば、方向は取り戻せるはずだ。
そうして見つけたのが――直立する巨石。モノリスみたいな岩だ。
地震で掘り起こされ、揺れでバランスよく立ったんだろう。間違いなく、さっきまではなかった。
高さは二十メートルくらい。
登れば、周囲を俯瞰できる。
洞窟入口付近にいた鳥の群れを思い出し、上から襲われる可能性を警戒する。
……だが、すぐに冷静になった。
この一帯には何かある。
モンスターが寄り付かない“違和感”。飛ぶ奴らですら近づかない。
原因は分からないが、さっきの地震と関係している気がする。
……いや、飛ぶ奴が地震を怖がる理由は薄いか。
まあいい。今は理屈より結果だ。ここは俺に都合がいい。死にやすい連中が来ない。
俺はモノリスへ近づき、しっかり掴み、登り始めた。
普通なら骨の指じゃ滑る。
だがこの形態の俺の指先は、爪のように鋭い。岩に引っかけやすい。
それに、肉のない骨だけの体は軽い。出せる力の割に、負担が少ない。
……改めて思う。
この[ダーク・スカル・メイジ]の姿、かなり悪魔っぽい。
角や尻尾が生えてないのが不思議なくらいだ。
できれば早く、人間に近い種族へ進化したい。
頂上へ到達し、足を固めて周囲を見渡す。
峡谷は見えない。だが湖のようなものが見えた。
距離の計測は正確じゃないが……十五キロくらいか。
前にダンジョン全体を頭で地図化しようとした時に見えた位置と同じだ。
ひとまず、あそこへ向かう。休憩にも使えそうだ。
止まらず歩けば、二〜三時間で着けるはず。
骨になってから、筋肉疲労はない。眠りも不要。
それでも俺は疲れている。たぶんこれは……精神的な疲労だ。
「ギジギギギギギ」
思考に沈んでいた時、下から奇妙な音がした。
俺は即座に身を伏せ、慎重に観察する。
音が大きくなる。
さらに、声のようなものと一緒に――何十本もの剣が地面にぶつかるような金属音が響いた。
粉塵がゆっくり落ち、姿が見えてくる。
巨大なムカデが、岩の間を這っていた。
不気味なほど鋭い脚が、地面を掻き鳴らす。
体は赤褐色。頭部には六つの目が一直線に並び、その下に細長い触角が二本。
口は歯で埋め尽くされ、涎が垂れている。
デカい。でも、脅威には見えない。
虫は好きじゃないが、倒せる相手なら戦うと決めた。
こいつはたぶんランクD。俺と同じ。何より、まだ俺に気づいてない。
全力の不意打ちを入れれば、反撃される前に終わらせられるかもしれない。
周囲への注意も薄い。隙がデカすぎる。見逃す方が損だ。
俺は立ち上がり、片手を掲げる。
空中へ魔力を集中させ、見えない槍を二本生成した。
遠距離で一番強い手札――[インビジブル・ランス]。
さらに威力を上げるため、魔法[ライトニング・アキュムレーション]を上乗せする。
洞窟にいた時に試して、効果は確認済みだ。
速度が上がり、威力も増す。加えて感電効果。掠っただけでも効く。
欠点はコストが高いこと。
今のMPだと、六〜八回が限界。
でも関係ない。相手は無警戒だ。二本で沈める。
俺はムカデを睨み、狙いを――頭部に定めた。
目標を確定すると、魔法が発射された。
二本の槍が空を裂き、風を切る音とともに、電気を散らしながら突き進む。
一瞬で、命中寸前――
【称号[ダーティ・プレイ]のレベルが1から2に上昇しました】
文句があるなら言え。
でもこれは必要だ。確実に、綺麗に勝つためにな。
俺は拳を握り、経験値通知が来るのを待った。
――だが。
ムカデは突然、地面を蛇みたいにうねらせ、異様な動きで二本の槍を回避した。
槍は地面へ突き刺さり、電気だけが弾ける。
俺が驚いた、その瞬間。
ムカデは口元で触角を振り、緑色の液体の球体を作り出した。
直径は頭よりデカい。
それが、モノリスの頂上にいる俺へ向けられる。
そして――撃ってきた。
砲弾みたいに速くて大きい。
反応が間に合わず、俺はとっさに両腕を顔の前に上げる。
衝突。
凄まじい衝撃で押し飛ばされる。だが、俺は踏ん張って落下だけは防いだ。
……何だ今の!?
どうして避けられた!? そもそも、最初から俺の位置を知ってたのか?
だから無防備に見せた。囮だった。俺を誘って、反撃するために。
こいつ、頭が良すぎるだろ……!
それに、あの緑の液体は何だ!?
まさか、嫌がらせで吐きかけてきたのか――!?




