第十一章-2 「ジークフリート」
私は間違っている。しかし、世界はもっと間違っている。
:アドルフ・ヒトラー
《二〇二〇年 岐阜》
「この者の前世人格の内に、ナチスドイツ時代の将校だった者はおりますか。出ておいでなさい」
龍堂寺の声がどこか遠い所から響くように聞こえる。
わたしは目を閉じてソファに横たわっている。知らない人が見たら眠っているように見えるかもしれないが、眠ってはいない。意識ははっきりしているが、世界に紗のヴェールがかかっているような感覚である。
「出てきたらこの者の左手の人さし指に宿りなさい」
龍堂寺の誘導が続く。
宿るって、どうやって・・・・?と思った瞬間、思いがけないことが起こった。力を抜いて体の脇に置いていた左手の人さし指が、わたしの意思とは全く無関係に、ひとりでに動いて持ち上がったのだ。龍堂寺の本やブログ、またクライエントの書きこみなどは読んでいるから予備知識はあったが、いざ体験するとやはり驚いた。
「いらっしゃるようですね」
龍堂寺の嬉しそうな声が、厳かに響いた。
《一九四四年 六月 ベルリン》
「お父さん、いるの?」
書斎の扉を叩く小さな音がした。
「クリスティアンか。お入り」
安楽椅子にかけたまま、昼間の疲れで微睡みかけていたオスカーは目覚めて返答した。遠慮がちに扉が開き、小学校三年の息子が顔を覗かせる。
「生き写し」という言葉の意味を今まで全然知らずに使っていた、とオスカーは思う。亡母デスデモナがホームからうちに遊びに来る度に、またホームに子供たちを連れて行く度に驚いていたように、この子はオスカーの兄、デスデモナの息子、本人にとっては伯父に当たるクリスティアンに生き写しだ。兄はオスカーより八歳年上だったので、今の息子の姿はオスカーの最も古い記憶にある年頃の兄のそれだ。
元々、クリスティアンとオスカーはあまり似ていない兄弟だと言われていた。髪の色が違うし、顔立ちもクリスティアンは母に、オスカーは父に似ていたし、長じれば背丈もオスカーの方が高かった。
「どうした?」
オスカーが尋ねると、クリスティアンは扉の所に立ったまま、悲しげに言った。
「パウラが言ってた。お父さんはどこかに行っちゃうかもしれないって」
オスカーは黙って息子を手招いた。
「お父さん、どこにも行かないで。どこにも行かないでよ」
言いながら、息子は入ってきてオスカーに近づき、そっと彼の頬に口づけた。
オスカーはクリスティアンを抱きしめ、その両肩に手を置いて、ローゼンシュテルン家由来の碧い目を覗きこんだ。
「クリスティアン、よく聞きなさい。お父さんは戦争に征かないといけないかもしれないし、帰ってこれないかもしれない。そうなったらおまえがお母さんやパウラや、ミュンヘンのおじいちゃんおばあちゃんを守るんだよ。男の子なんだから」
クリスティアンは何も言わず、かぶりを振って涙を流した。
息子の茶色の髪を撫ででやりながら、オスカーは言う。
「来週の日曜日、久々に家族みんなで教会に行こう」
《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》
「ルナ、ソル、ゆっくりおやすみ」
シャルギエルは双子の寝顔に声をかけ、彼らの父の形見である「幸運のコイン」を枕元に置いて、隠れ家を出る。
もし自分やユーノが生きて帰れなくても、あの幼い姉弟のことは同志に託してある。
自分は必ず、この間違った世界を変える。どうか強く生きてほしい。
白い月明かりが彼の足元を照らす。
「シャルギエル・・・・今度会ったら嬲り殺してやる」
豹のように、イルシェナーが唸る。
「程々にな。俺、こう見えてあんまり暴力を好む方じゃないんだよな。元々絵描きだから」
ザイサーはそう言って電話を切る。
《一九四四年 六月 ベルリン》
「本日与えられました聖書箇所は、『フィリピの信徒への手紙』二章十四章から十八節です。拝読致します」
さほど大きくない静かな礼拝堂に老境のドレーヘル牧師の声が凛と響く。
「『何ごとも、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、咎められる所のない清い者となり、邪な曲がった時代の中で、非の打ち所のない神の子として、世にあって星のように輝き、いのちの言葉をしっかり保つでしょう。こうして私は、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなた方が生贄を捧げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様に、あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい』」
オスカー、エルスベット、パウラ、クリスティアンの一家四人は、ベンチの最前列に並んで腰かけ、朗読と説教に耳を傾けている。
「『フィリピの信徒への手紙』はパウロが殉教直前、ローマの獄中で書いたとも言われる書簡で、彼の遺言とも言える文章です。特に信仰を持たない人でも響くものがあるのではないかと思われる絶唱であり、私は、新約聖書の書簡部分ではここがクライマックスだと思います。
フィリピの信徒への手紙は別名、『喜びの書簡』とも呼ばれ、わずか四章の短い間に『喜び』『喜ぶ』という言葉がなんと十六回も使われています」
使徒パウロはキリスト教の教義を確立し、三〇~五〇年代の地中海世界一帯に教えを広め、教会を建てて回った人である。新約聖書の多くの部分は彼の布教活動の記録と、彼自身が信者に書き送った手紙で構成されており、キリスト教という宗教の開祖はイエスというよりも彼と言った方が事実としては正確であると言っても良い。というのも、「イエスをキリスト=救世主と信じる宗教」が「キリスト教」であって、「イエスの教えを信じる宗教」ではないからである。
初期キリスト教会はローマ帝国の激しい弾圧を受け、パウロも六三年頃、ネロ帝の下で殉教したと言われる。
「パウロは当時としては珍しく、一生妻帯しなかった人でもあります。私は、語学が得意で、敢て家族を持たなかったからこそ色々な所に伝道旅行ができたのだと思います。
パウロには妻も子供もいなかったが、我が身を犠牲にしてもいいと思うくらいに人が人を思う深い愛を知っていた。それがこの『フィリピの信徒への手紙』、別名『喜びの書簡』に切々と著されています。
『俺はおまえらのために死ねたら本望なんだよ』と、死の間際に喜びに溢れて言うことができたなんて、つくづく、パウロという人の人生は何という満ち足りた、楽しい人生でしょうか。実際、彼は幸福な男だったと思います。それは私の想像によるパウロなので、それとはまた違った印象を持つ人もあるのだろうと思いますが」
二千年という時を超え、あたかもパウロその人を目の前に見ているかのように、温厚にして激烈なるドレーヘル牧師は恍惚と、夢見心地に、朗らかに語る。
「一言お祈り致します」
説教を終え、牧師が長い祈りの言葉を唱え始める。この教会に集う人々に、この街に、この国に、この世界に、なるべくなら幸いなる日々が多くありますようにと。
オスカーも頭を垂れ、目を閉じて祈った。
神よ、私のしようとしていることが間違っているというのなら、どうか教えて下さい。この国を、人々を救うために、他にどんな方法があるのかを。
《二〇一九年 東京》
「ミクちゃんって独身やんな?彼氏いるの?」
有田亜紗子のインド舞踊一日体験で衣装に着替えたわたしを見て、亜紗子が尋ねる。といっても、参加者は講師の亜紗子を除き、わたし一人だったのだが。
「いませんけど、急になんでですか」
面喰らって答えると、亜紗子は黙って自分の左の鎖骨よりちょっと下の辺りを示す。
「あ~。いやいやちゃいますよ、生まれつきの痣です。ほんま誤解を招きますよね~」
わたしは苦笑いして左手の甲で鼻を擦り上げる。
虫刺されのようにも見える胸元の小さな丸い赤痣を気にしているわけではないのだが、こんな肩丸出しになるような露出の高い服装も、化粧も、昔は絶対にしたくなかった。でも、上京して、堂本あやかのセッションを受けた直後くらいから、「してみてもいいか」と思うようになった。理由は自分でもよくわからない。
「自分の女性としての魅力を強調する」とかいう言説には相変わらず苦手意識があるし、あの合わなかった折田臨床心理士に屈したみたいで、その点はちょっと納得できないんだけど。
「今は全然いいんやけど、ステージに立つんやったらその痣はファンデーションで隠した方がいいね。いや、よう似合うわミクちゃん」
亜紗子は腕組みして言う。
わたしは素直に頷く。今日このワークショップに参加したのは、インド舞踊に興味があったのと、亜紗子のことが好きだからだ。女性性がどうとか関係ない。今日は思いきり踊ろう。
《二〇二〇年 岐阜》
「あなたはどこにお住まいですか?ベルリン?」
龍堂寺の質問に対し、左手の人さし指が勝手に動いて反応する。
もし指が動かなければ、龍堂寺は次々と思いつく限りのドイツの都市を挙げていっただろう。
わたしの意識は醒めていて、やっぱりベルリンか、と思っている。
しかし、次の質問でいきなり、
「あなたの階級は何ですか?」
と訊かれるとは思わなかった。考えてみれば、相手が軍人ならば最初の質問としてそれは非常に適切なのだが、不思議なことに、その時わたしが思ったのは、
「えっ。どうしよう」
と、
「やっぱり男の人ってそういうことに関心あるんだな」
だった。
わたしは「静寂の海」のような小説を書いていたのに、あまり軍隊のシステマチックな事柄に興味がなかったのか、シャルギエル´が最終的にどこまで出世したのか考えたこともなかった。うちの母なんて外国の映画をよく観る割には大佐と大尉ではどっちが偉いのかも知らないし、その下に軍曹や伍長などの下士官、その上に将軍や元帥がいるのも知らない。わたしは一応それくらいはわかっていたのだが。
だけど、何も心配要らなかった。
「大佐ってことはないだろうな。中佐?」
と龍堂寺が尋ねる。指は反応なし。
「少佐?」
ひょんっと指が上がった。龍堂寺が感銘を受けるのがわかった。わたしも「わたし偉かったんや」と内心で驚いている。
「成程。あなたは佐官まで出世していながら・・・・」
龍堂寺が一語一語、噛みしめるように言う。
「信念のために、いのちを捨てたのか」
《一九四四年 七月 ベルリン》
「ローゼンシュテルン?少佐だっけ?悪いねえ、庭先に車乗り入れちゃってさ」
最高級車の後部座席から、窓だけ少し開けて、男が話しかけてくる。夕闇迫る中、半分カーテンが引かれており、車内は薄暗く、痩せて小柄な影しか見えない。
「いい香りがするねえ。百合か何かかな。花壇作ってるのかい?」
「ご機嫌麗しゅう」
車の側に侍ったオスカーは慇懃無礼そのものの態度で答える。
「わかりやすい奴だな。どうも少佐はぼくのことがあんまり好きじゃないみたいだね。でもぼくだってべつに楽しくてここに来てるわけじゃないからね」
「お遣いの方からお聞き致しました。この近所で爆発騒ぎがあり、迂回路を取るためと念には念を入れての運転手交代のため、隠密で手前どもにお車をお寄せされたいと。言っておきますが私ではありませんので」
オスカーが真面目くさって答えると、車内の男は乾いた笑い声を上げた。
「君はなかなかユーモアがあるじゃない。あのね、ゾフィー・ショルだって最初は『ビラを作ったのも撒いたのも自分じゃない』と言ってたんだから。誰だってあんなくだらないビラ如きでいのちを落としたくないものね。ねえ?君も調書を見たろ?」
助手席に座っている別の誰かに話を振っている様子である。
黙っていようかと思ったが、つい口に出してしまった。
「二十一歳の女性の心の内を思えば痛ましいことと思います。私にも娘がおりますので」
白薔薇のように気高く、毅然と振る舞っても、内心ではギロチンがどんなに怖かったことだろうか。
「女の子だから大目に見ろっていうのかい」
男の声が険しくなった。矢継ぎ早に言った。
「あのね、ぼくにだって娘は五人もいるんだよ」
「存じております。映画で度々拝見しておりますので」
観たくもないのに。
「ふーん?まあいいよ」
男はなぜか急に機嫌を直し、
「お嬢ちゃんの名前は?」
と訊いてきた。
仕方なく、オスカーは答えた。
「パウラです」
「ぼくと同じ名前だね」
彼はますます上機嫌で、助手席の秘書官らしい女に呼びかけた。
「ポムゼル、今から少佐の娘さんにぼくのサイン本をプレゼントするから、車から降りて渡してくれる?」
「はい」
と女が返事するのが聞こえた。
誰も頼んでない、とオスカーは思った。
若い女が車から降りてきて、オスカーの手に本を押しつけた。
払いのけたい気分だったが、そうもいかなかった。
オスカーが本を受け取った時、新しい運転手らしいのが屈強なボディガードと共に姿を現した。
「ありがとう。それじゃ、またね、少佐。ハイル・ヒトラー」
動き出す車の窓から、男は手だけ突き出してひらひらと振った。
私宅の広大な庭に一人取り残されたオスカーは、見たくもないのについ本を開いて見てしまう。もうだいぶ暗くなっていたが、辛うじて書かれた文字は読める。こんなものどうしろというのか。
「パウラ・フォン・ローゼンシュテルンへ パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス」
《二〇一八年 東京》
「ゲッベルスと私」というモノクロのインタビュー映画を観た。
撮影当時百三歳の深い皺を顔に刻んだブリュンヒルデ・ポムゼルが、しっかりと知性と意志を持って、ナチス宣伝省秘書官であった自らの過去と、曾て間近で観察したナチス宣伝大臣の人となりを語る姿を、わたしは神田神保町・岩波ホールのスクリーンで見る。
「何も知らなかった私に罪はない」というキャッチが印象的だけど、本編ではその後に続けて、
「でも、当時のドイツ国民全員に罪があったと考えるなら、もちろんわたしも例外ではないわ」
とちゃんと言っている。そこまで拾ってあげないと誤解を招いて気の毒だと思う。
戦死者には花を捧げるけれど、彼らを戦場に送った人たちや体制は未来永劫許さない。でも、その人たちや体制に熱狂したのは外ならぬ国民自身。
映画の原題は「A German Life」(あるドイツ人の生)。ドイツ人はその弁えをきちんと持っている所が、未だに天皇を有難がり、靖国かなんかで揉めてる日本人とは違うと思う。単純に死生観、宗教観の違いもあるのかもしれないけれど。
ブリュンヒルデ・ポムゼル。二〇一七年、ミュンヘンの老人ホームにて死去。享年百六。終戦時、三十四歳でナチス幹部としてソ連軍に拘束され、五年間留置され、許されて帰国してからも広報の仕事を続けた女。六十歳で退職してからの四十六年は長いものだったのか、短いものだったのか。ついに嫁がず、子も持たなかった女。