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狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第6章 機械仕掛けの記憶と罪
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鳥人族のローレ 後編

 ──風が止んだ。


 世界が、ようやく静けさを取り戻す。

 騒然としていた風都アウライアに、束の間の沈黙が広がる。


 けれど次の瞬間、誰かの駆け寄る音と、悲痛な声が風を裂いた。


「脈はある。だけどこのままじゃ……」


 ミネルの声が上ずる。魔法の光を何重にも重ねながら、震える手で傷の深さを確かめている。

 羽根の根元──命に関わる箇所が、深く斬られていた。


 カリュアは、数歩後ろで立ち尽くしていた。

 何も言えないまま、ただその光景を凝視していた。

 自分を庇った少女が、今にも命を落としそうな姿で地に伏している。


「どうして……」


 声にならない呟きが、喉を震わせた。

 けれど誰にも届かない。誰も、彼女を責めなかった。


 蓮は、スミレの頬に触れる。

 その目には、ただ真っ直ぐな祈りしかなかった。


 ***


 ──風が、ない。


 いつものように髪を揺らす感覚も、背を押してくれる力もなかった。

 ただ、白く透きとおった空気が、世界を優しく包んでいた。


 足元には花が咲いていた。どこまでも、風に揺れずに咲く花々。

 その上を歩くたびに、花びらが光の粒となって舞い上がる。

 でも、空は動かない。時間さえも止まっているようだった。


「ここは……どこ?」


 声は出たはずなのに、音にならなかった。

 それでも、不思議と怖くはない。ただ、懐かしいような、懐かしくないような──

 ずっと昔から知っていた場所のような、そんな気がした。


 ふと、肩のあたりに違和感を覚える。

 手を伸ばしても、そこには何もなかった。

 ──翼が、ない。


 でも、不思議と胸が痛まなかった。

「ああ、私、ちゃんと返せたのね」

 心のどこかで、そう思えた。


 どこからともなく、風のような声がした。


「あなたは飛ばなくても、もう、迷わない」


 その声が誰のものかもわからなかったけれど、

 それでも涙がこぼれた。あたたかくて、まるで祝福のような涙だった。


 花の海のなかに、一羽の白い鳥が舞い降りてきた。

 翼は小さく、まだ空を飛べそうにはない。けれど──それでも、光のなかで、ちゃんと立っていた。


「……大丈夫。もう、歩ける」


 自分の声が、風に乗らずに広がっていく。


 そして、静かな風が──ようやく、そっと吹いた。

 目蓋がゆっくりと開く。ぼやけた視界の中で、誰かの輪郭が浮かんでくる。


「……スミレ……!」


 それは、泣きそうな顔をした蓮だった。

 彼の手が、自分の頬をそっと撫でている。

 スミレは、小さく瞬きをした後、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……ただいま……」


 声はかすれていたけれど、確かに届いた。

 蓮は、何も言えなくなって──それでも、自然と声がこぼれた。


「……おかえり」


 涙がまた一つ、頬を伝った。


 今度こそ、もう離さない。

 そう誓うように、彼女の手を、ぎゅっと握り返した。


 静けさの中、ミネルがそっと手をかざし、スミレの肩から背にかけての魔力の流れを確認する。そして静かに言った。


「魔力が感じられない」


 声は静かだったが、どこか痛みを滲ませていた。


「羽根の根元が深く断たれていた……これで命に関わらなかったのが奇跡だ。もう……飛ぶための構造は、完全に……」


 スミレは、黙ってそれを聞いていた。

 うなずくでもなく、うつむくでもなく、ただまっすぐ空を見つめている。


「そう……」


 ぽつりとこぼした声には、悲しみよりも、どこか納得したような響きがあった。


「ありがとう、ミネル。でも……大丈夫。もともと私は、この翼を返すつもりだったから」


 目を閉じて、深く息を吸う。

 風のない空気が肺に満ちていく。


「飛ばなくても、私はもう迷わない。……これからは、自分の足で歩くわ」


 その表情は、どこか晴れやかだった。


 蓮は、何も言わずその横顔を見つめていた。けれどその手は、ずっとスミレの手を離さなかった。


 しばらくして、スミレが静かに問いかけた。


「……ローレは?」


 その声に、一瞬の静寂が場を支配した。


 少し離れた場所に、結界で覆われるようにして静かに横たえられた人影があった。

 ローレ──その身体は動かず、けれど確かにまだ生きていた。

 結界の縁にはミネルが控え、時折、彼の様子を確かめていた。


「ローレなら……大丈夫。あの……こんな私のために……ごめんなさい」


 声の主は、カリュアだった。

 瞳に涙を湛えたまま、スミレのもとに歩み寄ってくる。

 その顔は、罪悪感と安堵が入り混じった複雑な色を浮かべていた。


「本当に……ごめんなさい。私はあなたを殺そうとまでしたのに……あなたは私を……」


 震える声で言葉を繋げながら、カリュアはそっとスミレのそばに膝をついた。


 スミレは、静かに首を振った。


「カリュア、自分を責めないで。これは私が、私の意志で選んだことよ。後悔なんて、してないわ」


 ふと、スミレの視線が遠くを見つめる。


「……それに、あなたとローレが無事でよかった。それだけで、十分」


 カリュアは言葉を失い、ただ「ありがとう」と小さく呟いた。

 その震える声音には、救われた心の色がにじんでいた。


 次に空間を揺らしたのは、ホクトの低い声だった。


「──ミネル。そろそろ、お前の過去を話すときがきたようだな」


 ミネルは眼鏡越しにホクトを見つめる。

 その視線には、戸惑いと覚悟が静かに宿っていた。


「……いいか、ミネル。お前は、かつて“人間”だった。

 そしてそのお前が──ローレの家族を……」


 そこまで言いかけ、ホクトの言葉が止まった。

 彼の顔には、簡単に口にすべきではないと知っている者の苦悩がにじんでいる。


 そのとき、カリュアが口を挟んだ。


「重要なのは、そこじゃないわ」


 彼女の声は静かだが、強かった。


「あなたはあの日、ローレに復讐で殺されたはずよ。

 なのにどうして……こうして生きているの?」


 ミネルはわずかに視線を伏せ、少しの沈黙の後に答えた。


「……分からない。ただ一つ、記憶の断片にあるのは……

 “ネイトエール騎士団員として、ホクトの右腕になれ”というプログラムだけ」


 その声は機械のように淡々としていたが、その奥底には確かに“人間の疑問”が潜んでいた。


 ホクトが、少しだけ顔を歪める。


「──お前はあの日、ローレに殺されかけた。そしてその直後、

 “ラミア”と呼ばれる存在に拾われたんだ」


「ラミア……」


 ミネルがゆっくりとその名を繰り返すが、その響きに実感はない。


「そいつが、お前の“生みの親”……正確には、“改造者”だ。

 ろくでもない、すべての元凶だ」


 ホクトの声には珍しく、明確な嫌悪が滲んでいた。


 蓮は、その会話に息を呑んだ。

 ラミア──再びその名前を聞くことになるとは。


 カリュアは俯き、ぽつりと呟いた。


「……あんたたちの言いたいことは分かった。

 今さらミネルを責めても仕方ないってことも」


 それでも、と言葉を続ける。


「でもね……ローレは、家族を人間に殺されたのよ。それだけは、忘れないで」


 また、重苦しい沈黙が場を支配する。

 沈黙の中、ふいに──ミネルが口を開いた。


「……私が死ねば、ローレの悪魔化が完全に停止する可能性はあるのか?」


「な……っ、何言ってるんだ、ミネル!」


 蓮が即座に反応する。


「今のお前は悪いことなんか……それに、死ぬなんて……!」


 しかし、ミネルは静かにかぶりを振った。


「物理的に“死ぬ”ことはできない。

 心臓を突いても、首を落としても、私は“機械”だから──止まらない」


 そして、少しだけ言葉を詰まらせて続けた。


「……でも、“プログラムの終了”なら……方法はあるかもしれない」


 ミネルは、淡々と、けれどどこか寂しげに目を伏せた。


「私の存在が、ローレを縛る鎖の一つだとしたら……私は、もう……」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。

 ミネルの目には恐れも迷いもなかった。ただ静かに、“終わり”を受け入れる者の覚悟が宿っていた。


 胸元に手を当てたミネルは、ふと目を伏せる。そこには、小さな脈打つ熱──まるで“心臓”のように、彼女の存在を静かに証明するものがあった。

《記憶素子コア》。

 それは、かつて“人間だった頃”の彼女の、最後の願いや想いを封じ込めた、唯一の「本物」だった。

 この場所を破壊すれば、命令も記憶も、存在の意味すら消える。

 けれど──それで、ローレが救われるのなら。

 ミネルは、ほんのわずかに目を細めた。


「……ここを壊せば、私は止まる」


 指先に小さな刃が現れる。自壊モードの起動を示すコードが、瞳の奥に流れる。

 ミネルは、それを胸元に当てた。

 震えはない。痛みもない。

 だが──それは、“生”を切り離す瞬間だった。


 ミネルは小さく息を吸い、静かに告げる。


「……今から、終了プログラムを──」


 その瞬間── 空気が、裂けるような音を立てて弾けた。

 結界の一角が轟音とともに砕け、光の破片が宙に散った。


「──やめろ!!」


 怒鳴り声とともに、結界の中からローレが飛び出した。

 まだ完全に意識が戻ったとは思えない体。けれど、彼の足はふらつきながらもミネルに向かって走っていた。

 目は血走り、顔は歪み、傷だらけの身体で──それでも必死に、止めようとしていた。


「ふざけんなよ……お前なんかのために……!」


 ミネルの指が、胸もとに入り込んでいた。

 だが、寸前のところでローレが彼女に体当たりをするようにして飛び込む。

 ローレは、息を切らしながらミネルの襟をつかみ、叫んだ。


「勝手に終わらせてんじゃねえよ……っ!」


 沈黙。誰もがその二人の間に割って入れなかった。

 ミネルは言葉を失っていた。あの冷静沈着な彼女が、目を見開き、ただローレの顔を見返していた。

 やがて、ローレが震える声で、ゆっくりと言葉を続ける。


「お前のことは、たぶん一生憎み続けるだろう。……だが──それ以上に、俺にはやらなければならないことがある」


 その声には、かすかに熱がこもっていた。痛みと怒りを抱えたまま、それでも進もうとする、覚悟の色があった。


「……お前を改造したという、ラミア──」


 ローレの声が少し震える。

 息を呑むようにして、絞り出すように言った。


「──あいつに会って、話をつけたいんだ」


 一瞬、空気が凍ったような静けさが場を包む。

 その言葉を受けて、蓮の胸にじわりと苦味が広がった。


 ……ローレが怒るのも、当然だ。

 家族を失い、しかもその原因が、今こうして目の前にいるミネルであり──その背後に、ラミアという存在がいるのなら。


 だが──それだけじゃない。


 蓮はふと、息を止めた。

 ローレの口調に、どこか違和感があった。怒りだけではない、もっと深い、複雑な感情が滲んでいた気がした。


 ホクトは黙ったまま額に手を当てる。

 珍しくも、彼が頭を抱える仕草を見せた。


「……ローレ……気持ちはわかるが、ラミアは──」


 そこまで言って口をつむぐ。

 低く、重く、吐き出すような声だった。

 ローレはわずかに目線を逸らしながら、続けた。


「なんだよホクト、怖いのか? 元凶に会うのがよ。俺はラミアに会って──話をつける。あいつをぶん殴ってでもな」


 その口ぶりは軽く見える。だが、ローレの眼はどこか冷えていた。

 まるで、自分の未来ごと断ち切ろうとしているような……そんな覚悟が見え隠れする。


「……その後は、俺のことも……ホクトのことも、焼き殺せばいい。

 それが、俺たち“五大悪魔”の運命なんだろうからな──」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 焼き殺していい、と。

 そう、今、確かにローレは言ったのだ。


 蓮の胸がぎゅっと痛む。

 本気だ、と思った。冗談ではない。

 その言葉の裏にある、血のように重たい決意が、ひしひしと伝わってきた。


(……なんで、そんなことを言えるんだよ……)


 いろんな感情が一気に溢れてきて、飲み込むしかなかった。


「ローレっ!!」


 カリュアが思わず叫び、彼に抱きついた。


「大丈夫なの? あなたの悪魔化は……」


「……ああ。何でかはわからないが、いったんは落ち着いたらしい。けど、俺を野放しにする必要はない」


 ローレは静かにカリュアから身を離し、赤い瞳をまっすぐホクトに向けた。

 両手を前に出す。差し出された手は、まるで──捕まえられるのを待つ囚人のようだった。


「拘束しろ、ホクト。お前と行動をともにする。

 その代わり、俺に協力してほしい。……ラミアに会うために」


 しばしの沈黙のあと、ホクトが口を開いた。


「……もともと俺たちも、ラミアを探していた。

 五大悪魔の暴走をすべて抑えた今──次に向かうべき場所は、ラミアの元だからな」


 それは、ホクトの覚悟だった。

 過去を知る者としての責任。罪の上に立つ者としての選択。


 その言葉に、ミネルがそっと目を閉じて頷いた。

 スミレもまた、表情を引き締め、小さく肯いた。


 蓮も、迷いながらも口を閉じ、ただローレを見つめる。


 ──置いていかれるわけには、いかない。


「……そうと決まったら出発だ。まずはネイトエールに戻り、騎士団に報告しよう」


 ホクトが言うと、ローレはふっと笑みを浮かべた。


「……ようやく、動き出せるんだな」


 そのときだった──雲の奥から、複数の人間の声が響いてきた。


「カリュアお嬢様!? ご無事ですか!?」

「一体何が起きているんだ!?」

「“風の呪い”ローレを捕らえろ!」


 騒ぎはすぐそこまで迫っていた。

 カリュアはぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。


「……行って! 私はここに残って、都の混乱を抑える! 早く!」


 そうして、ローレは腰から下げている大きなカナリアを吹く。

 ローレが吹いたカナリアの笛から、音ではなく“風”が鳴った。

 空が軋み、雲が螺旋を描いて裂ける。


 その裂け目から──光の帯をまとった存在が降りてきた。

 それは風を纏った鳥にも、龍にも見える。けれどどこか、人のような気配さえあった。


 その体には幾千もの風紋が浮かび、羽ばたくたびに空が震えた。

 風の幻獣。風都アウライアが古より祀る、伝説の空の守り神。


「さあ、行って!」


 幻獣の背に飛び乗る一行。

 大気が反転し、身体ごと浮き上がる。風が唸りを上げ、空が軋む。


 風の幻獣が翼を広げた瞬間、空気が裂けるような音が響いた。

 その背には、迷いを捨てた者たちの決意が集っている。


 ローレが乗り込もうとした、そのとき。

 カリュアがそっと彼の腕をつかんだ。


「ローレ……」


 その目には涙があった。だが揺らぎはない。


「都は私が守る」


 そして彼女は、そっとローレの肩に唇を落とす。

 それは恋情ではなく、戦士としての誓い。見送る者の祈りだった。


「だから、必ず……戻ってきて」


 ローレは短く頷いた。

「……ああ」


 たった一言。けれどその声には、まだ見ぬ“明日”への誓いが込められていた。


 風の流れが一行を包み込む。幻獣が羽ばたき、雲を裂いて天へと翔び立つ。

 地上は、もはや霞の彼方。見えるのは、果てのない空だけだ。


 世界は風に飲まれ、音を失った。

 ただ、ひとつの願いだけが、空を貫いていく──。

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