鳥人族のローレ 後編
──風が止んだ。
世界が、ようやく静けさを取り戻す。
騒然としていた風都アウライアに、束の間の沈黙が広がる。
けれど次の瞬間、誰かの駆け寄る音と、悲痛な声が風を裂いた。
「脈はある。だけどこのままじゃ……」
ミネルの声が上ずる。魔法の光を何重にも重ねながら、震える手で傷の深さを確かめている。
羽根の根元──命に関わる箇所が、深く斬られていた。
カリュアは、数歩後ろで立ち尽くしていた。
何も言えないまま、ただその光景を凝視していた。
自分を庇った少女が、今にも命を落としそうな姿で地に伏している。
「どうして……」
声にならない呟きが、喉を震わせた。
けれど誰にも届かない。誰も、彼女を責めなかった。
蓮は、スミレの頬に触れる。
その目には、ただ真っ直ぐな祈りしかなかった。
***
──風が、ない。
いつものように髪を揺らす感覚も、背を押してくれる力もなかった。
ただ、白く透きとおった空気が、世界を優しく包んでいた。
足元には花が咲いていた。どこまでも、風に揺れずに咲く花々。
その上を歩くたびに、花びらが光の粒となって舞い上がる。
でも、空は動かない。時間さえも止まっているようだった。
「ここは……どこ?」
声は出たはずなのに、音にならなかった。
それでも、不思議と怖くはない。ただ、懐かしいような、懐かしくないような──
ずっと昔から知っていた場所のような、そんな気がした。
ふと、肩のあたりに違和感を覚える。
手を伸ばしても、そこには何もなかった。
──翼が、ない。
でも、不思議と胸が痛まなかった。
「ああ、私、ちゃんと返せたのね」
心のどこかで、そう思えた。
どこからともなく、風のような声がした。
「あなたは飛ばなくても、もう、迷わない」
その声が誰のものかもわからなかったけれど、
それでも涙がこぼれた。あたたかくて、まるで祝福のような涙だった。
花の海のなかに、一羽の白い鳥が舞い降りてきた。
翼は小さく、まだ空を飛べそうにはない。けれど──それでも、光のなかで、ちゃんと立っていた。
「……大丈夫。もう、歩ける」
自分の声が、風に乗らずに広がっていく。
そして、静かな風が──ようやく、そっと吹いた。
目蓋がゆっくりと開く。ぼやけた視界の中で、誰かの輪郭が浮かんでくる。
「……スミレ……!」
それは、泣きそうな顔をした蓮だった。
彼の手が、自分の頬をそっと撫でている。
スミレは、小さく瞬きをした後、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……ただいま……」
声はかすれていたけれど、確かに届いた。
蓮は、何も言えなくなって──それでも、自然と声がこぼれた。
「……おかえり」
涙がまた一つ、頬を伝った。
今度こそ、もう離さない。
そう誓うように、彼女の手を、ぎゅっと握り返した。
静けさの中、ミネルがそっと手をかざし、スミレの肩から背にかけての魔力の流れを確認する。そして静かに言った。
「魔力が感じられない」
声は静かだったが、どこか痛みを滲ませていた。
「羽根の根元が深く断たれていた……これで命に関わらなかったのが奇跡だ。もう……飛ぶための構造は、完全に……」
スミレは、黙ってそれを聞いていた。
うなずくでもなく、うつむくでもなく、ただまっすぐ空を見つめている。
「そう……」
ぽつりとこぼした声には、悲しみよりも、どこか納得したような響きがあった。
「ありがとう、ミネル。でも……大丈夫。もともと私は、この翼を返すつもりだったから」
目を閉じて、深く息を吸う。
風のない空気が肺に満ちていく。
「飛ばなくても、私はもう迷わない。……これからは、自分の足で歩くわ」
その表情は、どこか晴れやかだった。
蓮は、何も言わずその横顔を見つめていた。けれどその手は、ずっとスミレの手を離さなかった。
しばらくして、スミレが静かに問いかけた。
「……ローレは?」
その声に、一瞬の静寂が場を支配した。
少し離れた場所に、結界で覆われるようにして静かに横たえられた人影があった。
ローレ──その身体は動かず、けれど確かにまだ生きていた。
結界の縁にはミネルが控え、時折、彼の様子を確かめていた。
「ローレなら……大丈夫。あの……こんな私のために……ごめんなさい」
声の主は、カリュアだった。
瞳に涙を湛えたまま、スミレのもとに歩み寄ってくる。
その顔は、罪悪感と安堵が入り混じった複雑な色を浮かべていた。
「本当に……ごめんなさい。私はあなたを殺そうとまでしたのに……あなたは私を……」
震える声で言葉を繋げながら、カリュアはそっとスミレのそばに膝をついた。
スミレは、静かに首を振った。
「カリュア、自分を責めないで。これは私が、私の意志で選んだことよ。後悔なんて、してないわ」
ふと、スミレの視線が遠くを見つめる。
「……それに、あなたとローレが無事でよかった。それだけで、十分」
カリュアは言葉を失い、ただ「ありがとう」と小さく呟いた。
その震える声音には、救われた心の色がにじんでいた。
次に空間を揺らしたのは、ホクトの低い声だった。
「──ミネル。そろそろ、お前の過去を話すときがきたようだな」
ミネルは眼鏡越しにホクトを見つめる。
その視線には、戸惑いと覚悟が静かに宿っていた。
「……いいか、ミネル。お前は、かつて“人間”だった。
そしてそのお前が──ローレの家族を……」
そこまで言いかけ、ホクトの言葉が止まった。
彼の顔には、簡単に口にすべきではないと知っている者の苦悩がにじんでいる。
そのとき、カリュアが口を挟んだ。
「重要なのは、そこじゃないわ」
彼女の声は静かだが、強かった。
「あなたはあの日、ローレに復讐で殺されたはずよ。
なのにどうして……こうして生きているの?」
ミネルはわずかに視線を伏せ、少しの沈黙の後に答えた。
「……分からない。ただ一つ、記憶の断片にあるのは……
“ネイトエール騎士団員として、ホクトの右腕になれ”というプログラムだけ」
その声は機械のように淡々としていたが、その奥底には確かに“人間の疑問”が潜んでいた。
ホクトが、少しだけ顔を歪める。
「──お前はあの日、ローレに殺されかけた。そしてその直後、
“ラミア”と呼ばれる存在に拾われたんだ」
「ラミア……」
ミネルがゆっくりとその名を繰り返すが、その響きに実感はない。
「そいつが、お前の“生みの親”……正確には、“改造者”だ。
ろくでもない、すべての元凶だ」
ホクトの声には珍しく、明確な嫌悪が滲んでいた。
蓮は、その会話に息を呑んだ。
ラミア──再びその名前を聞くことになるとは。
カリュアは俯き、ぽつりと呟いた。
「……あんたたちの言いたいことは分かった。
今さらミネルを責めても仕方ないってことも」
それでも、と言葉を続ける。
「でもね……ローレは、家族を人間に殺されたのよ。それだけは、忘れないで」
また、重苦しい沈黙が場を支配する。
沈黙の中、ふいに──ミネルが口を開いた。
「……私が死ねば、ローレの悪魔化が完全に停止する可能性はあるのか?」
「な……っ、何言ってるんだ、ミネル!」
蓮が即座に反応する。
「今のお前は悪いことなんか……それに、死ぬなんて……!」
しかし、ミネルは静かにかぶりを振った。
「物理的に“死ぬ”ことはできない。
心臓を突いても、首を落としても、私は“機械”だから──止まらない」
そして、少しだけ言葉を詰まらせて続けた。
「……でも、“プログラムの終了”なら……方法はあるかもしれない」
ミネルは、淡々と、けれどどこか寂しげに目を伏せた。
「私の存在が、ローレを縛る鎖の一つだとしたら……私は、もう……」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ミネルの目には恐れも迷いもなかった。ただ静かに、“終わり”を受け入れる者の覚悟が宿っていた。
胸元に手を当てたミネルは、ふと目を伏せる。そこには、小さな脈打つ熱──まるで“心臓”のように、彼女の存在を静かに証明するものがあった。
《記憶素子コア》。
それは、かつて“人間だった頃”の彼女の、最後の願いや想いを封じ込めた、唯一の「本物」だった。
この場所を破壊すれば、命令も記憶も、存在の意味すら消える。
けれど──それで、ローレが救われるのなら。
ミネルは、ほんのわずかに目を細めた。
「……ここを壊せば、私は止まる」
指先に小さな刃が現れる。自壊モードの起動を示すコードが、瞳の奥に流れる。
ミネルは、それを胸元に当てた。
震えはない。痛みもない。
だが──それは、“生”を切り離す瞬間だった。
ミネルは小さく息を吸い、静かに告げる。
「……今から、終了プログラムを──」
その瞬間── 空気が、裂けるような音を立てて弾けた。
結界の一角が轟音とともに砕け、光の破片が宙に散った。
「──やめろ!!」
怒鳴り声とともに、結界の中からローレが飛び出した。
まだ完全に意識が戻ったとは思えない体。けれど、彼の足はふらつきながらもミネルに向かって走っていた。
目は血走り、顔は歪み、傷だらけの身体で──それでも必死に、止めようとしていた。
「ふざけんなよ……お前なんかのために……!」
ミネルの指が、胸もとに入り込んでいた。
だが、寸前のところでローレが彼女に体当たりをするようにして飛び込む。
ローレは、息を切らしながらミネルの襟をつかみ、叫んだ。
「勝手に終わらせてんじゃねえよ……っ!」
沈黙。誰もがその二人の間に割って入れなかった。
ミネルは言葉を失っていた。あの冷静沈着な彼女が、目を見開き、ただローレの顔を見返していた。
やがて、ローレが震える声で、ゆっくりと言葉を続ける。
「お前のことは、たぶん一生憎み続けるだろう。……だが──それ以上に、俺にはやらなければならないことがある」
その声には、かすかに熱がこもっていた。痛みと怒りを抱えたまま、それでも進もうとする、覚悟の色があった。
「……お前を改造したという、ラミア──」
ローレの声が少し震える。
息を呑むようにして、絞り出すように言った。
「──あいつに会って、話をつけたいんだ」
一瞬、空気が凍ったような静けさが場を包む。
その言葉を受けて、蓮の胸にじわりと苦味が広がった。
……ローレが怒るのも、当然だ。
家族を失い、しかもその原因が、今こうして目の前にいるミネルであり──その背後に、ラミアという存在がいるのなら。
だが──それだけじゃない。
蓮はふと、息を止めた。
ローレの口調に、どこか違和感があった。怒りだけではない、もっと深い、複雑な感情が滲んでいた気がした。
ホクトは黙ったまま額に手を当てる。
珍しくも、彼が頭を抱える仕草を見せた。
「……ローレ……気持ちはわかるが、ラミアは──」
そこまで言って口をつむぐ。
低く、重く、吐き出すような声だった。
ローレはわずかに目線を逸らしながら、続けた。
「なんだよホクト、怖いのか? 元凶に会うのがよ。俺はラミアに会って──話をつける。あいつをぶん殴ってでもな」
その口ぶりは軽く見える。だが、ローレの眼はどこか冷えていた。
まるで、自分の未来ごと断ち切ろうとしているような……そんな覚悟が見え隠れする。
「……その後は、俺のことも……ホクトのことも、焼き殺せばいい。
それが、俺たち“五大悪魔”の運命なんだろうからな──」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
焼き殺していい、と。
そう、今、確かにローレは言ったのだ。
蓮の胸がぎゅっと痛む。
本気だ、と思った。冗談ではない。
その言葉の裏にある、血のように重たい決意が、ひしひしと伝わってきた。
(……なんで、そんなことを言えるんだよ……)
いろんな感情が一気に溢れてきて、飲み込むしかなかった。
「ローレっ!!」
カリュアが思わず叫び、彼に抱きついた。
「大丈夫なの? あなたの悪魔化は……」
「……ああ。何でかはわからないが、いったんは落ち着いたらしい。けど、俺を野放しにする必要はない」
ローレは静かにカリュアから身を離し、赤い瞳をまっすぐホクトに向けた。
両手を前に出す。差し出された手は、まるで──捕まえられるのを待つ囚人のようだった。
「拘束しろ、ホクト。お前と行動をともにする。
その代わり、俺に協力してほしい。……ラミアに会うために」
しばしの沈黙のあと、ホクトが口を開いた。
「……もともと俺たちも、ラミアを探していた。
五大悪魔の暴走をすべて抑えた今──次に向かうべき場所は、ラミアの元だからな」
それは、ホクトの覚悟だった。
過去を知る者としての責任。罪の上に立つ者としての選択。
その言葉に、ミネルがそっと目を閉じて頷いた。
スミレもまた、表情を引き締め、小さく肯いた。
蓮も、迷いながらも口を閉じ、ただローレを見つめる。
──置いていかれるわけには、いかない。
「……そうと決まったら出発だ。まずはネイトエールに戻り、騎士団に報告しよう」
ホクトが言うと、ローレはふっと笑みを浮かべた。
「……ようやく、動き出せるんだな」
そのときだった──雲の奥から、複数の人間の声が響いてきた。
「カリュアお嬢様!? ご無事ですか!?」
「一体何が起きているんだ!?」
「“風の呪い”ローレを捕らえろ!」
騒ぎはすぐそこまで迫っていた。
カリュアはぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「……行って! 私はここに残って、都の混乱を抑える! 早く!」
そうして、ローレは腰から下げている大きなカナリアを吹く。
ローレが吹いたカナリアの笛から、音ではなく“風”が鳴った。
空が軋み、雲が螺旋を描いて裂ける。
その裂け目から──光の帯をまとった存在が降りてきた。
それは風を纏った鳥にも、龍にも見える。けれどどこか、人のような気配さえあった。
その体には幾千もの風紋が浮かび、羽ばたくたびに空が震えた。
風の幻獣。風都アウライアが古より祀る、伝説の空の守り神。
「さあ、行って!」
幻獣の背に飛び乗る一行。
大気が反転し、身体ごと浮き上がる。風が唸りを上げ、空が軋む。
風の幻獣が翼を広げた瞬間、空気が裂けるような音が響いた。
その背には、迷いを捨てた者たちの決意が集っている。
ローレが乗り込もうとした、そのとき。
カリュアがそっと彼の腕をつかんだ。
「ローレ……」
その目には涙があった。だが揺らぎはない。
「都は私が守る」
そして彼女は、そっとローレの肩に唇を落とす。
それは恋情ではなく、戦士としての誓い。見送る者の祈りだった。
「だから、必ず……戻ってきて」
ローレは短く頷いた。
「……ああ」
たった一言。けれどその声には、まだ見ぬ“明日”への誓いが込められていた。
風の流れが一行を包み込む。幻獣が羽ばたき、雲を裂いて天へと翔び立つ。
地上は、もはや霞の彼方。見えるのは、果てのない空だけだ。
世界は風に飲まれ、音を失った。
ただ、ひとつの願いだけが、空を貫いていく──。




