伝令鳥の行方 後編
夜が明け、ネイトエールの空に淡い光が差し込み始めた。
戦いと別れを経た一夜が明け、それぞれが静かな時間を過ごしていた。
イリアは王都に一時的に滞在し、蓮は静かな部屋で剣を磨きながら、昨夜スミレが語った「翼返上」の覚悟を何度も思い返していた。
ホクトは無言のまま訓練場に立ち、剣を振ることで何かと対話するように、自らの内と向き合っていた。
スミレは伝令鳥の返事を待ちながら、朝露が残る庭を歩いていた。空を見上げ、微かに風の流れに耳を傾けている。
その静けさは、唐突に破られた。
──異変は、早朝だった。
蓮が外に出た瞬間、鼻腔を突くような鉄の匂いに眉をひそめた。
「……なんだ、これ……?」
次の瞬間、視界に飛び込んできたのは、想像を超える光景だった。
街の通りに、無数の鳥の死骸が落ちていたのだ。羽根は血に染まり、空を舞うはずの命が地に伏していた。
「うわあああっ!」「なんだこれ……!」
人々の悲鳴が響き、騎士団の兵士たちが慌ただしく走り回る。
街は一瞬でパニックに包まれ、日常は崩壊の瀬戸際にあった。
そんな中、美穂、リリス、タオの姿が蓮の元に駆け寄ってきた。
「蓮! 大丈夫!?」
「こっちは無事だ。でも……何が起きてるんだ?」
リリスは不安そうに空を仰ぎ、つぶやく。
「さっきから……ずっと鳥が落ちてくるの。まるで……空そのものが壊れたみたい」
空は灰色の雲に覆われ、いつもの明け方の輝きはどこにもなかった。
「火災の次は自然災害かよ? ネイトエールもとうとう終わりだな……」
タオの呟きに、リリスが睨むように言った。
「ちょっ……タオ! それ、冗談じゃ済まないから! 今回のは……ネイトエールだけじゃない可能性もあるわ」
そのとき、スミレが走ってきた。風の匂いを感じ取ったかのように、焦りの色を浮かべて。
「蓮! ここにいたのね。それにしても……ひどい……」
彼女は一羽の鳥に近づき、そっと膝をついた。
掌に魔力を込めると、淡い花びらが鳥の体を包み込む。
そのまま鳥の死骸は、静かに花びらへと姿を変え、風に舞っていった。
「可哀想に……一体、何が……」
その問いかけに答えるように、透き通った芯のある声が背後から届く。
「蓮! それから──マ……スミレ!」
言いかけた名を飲み込み、イリアが駆け寄ってきた。いつもは流れるように垂らしていた長い髪が、今日は高くまとめられていた。
緊張を押し隠すように結い上げたその姿は、まるで“姫”ではなく、一人の戦う者だった。
「伝令鳥を呼び寄せてみますわ!」
イリアは銀の笛を取り出し、唇に当てる。
澄んだ音色が空へと昇っていき──しかし、何の気配も返ってこなかった。
「……来ない……?」
彼女の声にかすかな震えが混じる。翼がわずかに揺れていた。
「おかしいわ……これまで一度も、こんなことはなかったのに……!」
そのときだった。
かすかに羽ばたく音とともに、一羽の鳥がよろよろと飛んできた。
羽根は裂け、片目は閉じたまま。まるで命の残り火だけで飛んできたかのような姿だった。
「……!」
スミレが素早く抱き取る。その胸元にはかすかな光が灯っている。
「……伝令、まだ……残ってる……!」
スミレが魔力で心を読むと、苦しげな声が脳内に流れ込んできた。
「……風が……乱れている……北東の空……《《風都アウライア》》で待つ……」
──それは、間違いなくミネルからの伝令だった。
スミレの視界に、嵐のようにかき乱された空と、倒れ伏す鳥人族たちの映像が流れ込む。
そして、最後にかすかに響いた声。
『来て……今すぐ……』
鳥の体がスミレの腕の中で静かに力を失った。
「……ミネルが、呼んでる。空で、何かが起きてる……!」
その言葉に、蓮の胸に静かに火が灯る。今度は空を目指す番だ、と。
「急いでホクト様に伝えないと──!」
スミレがそう言ったその瞬間、低く、よく通る声が空気を裂いた。
「その件についてだが──もう、話は進んでいる」
振り向くと、そこにはホクトがいた。静かに歩み寄るその手には、一羽の鳥が抱かれている。
その鳥もまた、生と死の狭間で震えていた。羽根の隙間から、断続的に小さな光が漏れている。
「風都アウライア──そこに行って、状況を確認する。それからミネル……あいつの安否もな」
彼の声には、決意と、どこか焦りを隠すような硬さがあった。
蓮の脳裏に、あの日の光景がよみがえる。
ピンク色の肌に黄緑の髪を持つ鳥人族の女性──カリュア。
彼女は確か、ミネルと何かを交わしていた。
あのときから、この未来は始まっていたのかもしれない。
「蓮、シェリー ──それからイリア。翼を持つのはお前たちだけだ。俺と共に来い」
その言葉に、蓮とスミレは同時に目を見開く。
「だけど……ホクト様、私は──」
スミレが口ごもる。翼返上の決意は、昨夜確かに口にした。
けれど、今この瞬間、それが正しいのか迷いが生まれる。
ホクトは彼女を見据え、ゆっくりと目を細めた。
「翼の返上──それはアウライアのあとでいい。優先すべきは、命だ。遅れるな」
スミレはしばらく俯いたまま唇を噛み、それから小さく、しかし確かに頷いた。
次に口を開いたのは、イリアだった。
「ホクト様……申し訳ありませんが、私は同行できませんわ」
その言葉に皆が一瞬動きを止める。
「妖精国イシュタルも、きっとこの異変に動揺しているはずです。姫であるわたくしが、一刻も早く戻らねばなりませんの」
ホクトは少しだけ眉を上げると、肩をすくめた。
「ああ……お前が姫様だったな。すっかり忘れていたよ」
その冗談めいた言葉に、イリアは軽く微笑み、しかしその目は真剣だった。
「わたくしの力はお貸しできませんが……この同盟の名のもとに、再び力を合わせられる日を信じていますわ」
言い終えると、イリアは大きく翼を羽ばたかせ、静かに空へと舞い上がっていった。
淡い朝の光を背に、彼女の姿は徐々に小さくなっていく。
「……さあ、行くぞ」
ホクトが静かに言う。
次の瞬間、彼の背中から風が渦を巻くように巻き起こる。
竜の血を引くその体に、大きな、岩のようにごつごつとした羽根が広がる。
バサァッ──!
重厚な羽音が空気を揺らし、彼の体が一気に空へと舞い上がった。
蓮はスミレの手を取り、そっと囁く。
「スミレ、行こう……!」
彼女の瞳に一瞬の戸惑いが宿るが、それでも頷いて手を握り返す。
蓮は深く息を吸い込み、意識を集中させる。
背中に、あの翼の感触が甦る。あの戦いの中で手に入れた、もう一つの自分。
バサァ……
音を立てて翼が開き、蓮の体がゆっくりと宙に浮く。
その姿を見送るように、タオがふっと笑った。
「蓮っ……似合ってるぜ、その翼」
リリスも高く手を振りながら叫ぶ。
「蓮ー! シェリー! 気をつけて行ってくるのよー!」
「2人とも、行ってらっしゃい!」
美穂の澄んだ声が最後に届いたそのとき、蓮とスミレは雲を裂くように空へと飛び立った。
──新たな旅が始まる。
今度は、空を巡る者たちの地へ。
第5章~完~
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