記憶の中 後編
──だが。
背後に鋭い気配。
振り返る間もなく、空を裂いて黒い影たちが迫る。
その群れの中、一際異質な存在がいた。
紫の髪をたなびかせる妖精族の男──
イリア姫の右腕にして、イシュタル王国の宰相・ザイラス。
「見つけたぞ、災厄の娘」
静かな、だが鋭く突き刺さる声。
(ザイラスっ……どうしてお前がここに)
蓮は必死に飛んだ。だが、相手は空を支配する術を心得ている。
あっという間に包囲される。
スミレを抱えたままでは、思うように動けない。
矢が、魔力の刃が、間合いを詰めてくる。
ザイラスは刃を向けながら言った。
「その娘を渡せば、見逃してやる。それが嫌なら──悪いが、ここで死んでもらおう」
蓮は、スミレを抱きしめる腕に力を込めた。
「ふざけんな。何が目的か分かんないけど、絶対に渡さない!」
怒鳴り返す蓮に、ザイラスは唇を歪める。
「……俺は、あの日、すべてを失った。家族も、仲間も、子どもも──何もかも、あの娘に焼き尽くされたんだ!」
声が震えていた。
怒りと、悲しみと、絶望に。
スミレが、蓮の腕の中で固まる。
小さく、嗚咽が漏れた。
「わ、わたし……わたし、そんな……!」
目をぎゅっと閉じ、かぶりを振る。
だが、心の奥に、疼くものがあった。
黒く、重い罪悪感が、胸を締め付ける。
「……ごめんなさい……っ」
かすれた声で、スミレが謝った。
蓮は、スミレを強く、強く抱きしめた。
「違う! スミレは、今ここで震えてる!何かを壊すために生きてるんじゃない! 俺は──スミレを信じる!」
叫ぶ声が、空に響いた。
ザイラスの表情が、さらに歪む。
「なら、力づくで奪うまでだ!」
ザイラスの背後。
サタンたち──黒き獣たちが蠢き、翼を広げる。
「くっ!」
蓮は剣を抜き、スミレを庇いながら必死に飛ぶ。
背中の翼を羽ばたかせ、空を駆ける。
(まずい──っ!)
そのときだった。
──ドン、と。
空気が震えた。
押し寄せる強烈な魔力。
影たちが、一斉に動きを止める。
「──またせたな」
低く、しかし凛と響く声。
顔を上げた蓮の目に映ったのは、陽光を背に浮かぶホクトだった。
その背には、巨大な翼。
──蓮の背に生えたものと、同じだった。
だが、ホクトの翼は、蓮のそれより遥かに大きく、圧倒的な存在感を放っていた。
ホクトは無言で剣を抜き、一振り。
空気が震える。
「貴様らに、俺の連れに指一本、触れさせない」
静かに、だが絶対の意志を込めた声。
次の瞬間──空が、裂けた。
ホクトの剣閃が、群がる影を薙ぎ払う。
ザイラスが小さく舌打ちし、部下たちに指示を飛ばす。
だが、ホクトの前では──無力だった。
蓮は、その背を見つめた。
圧倒的な力。絶対的な守護。
──どこか、懐かしかった。
耳の奥に、微かに聞こえる。
「パパは生きてる。今は会えないけれど、必ず会える日がくるわ」
母、未彩の声。
──父さん?
目頭が熱くなった。
なぜか、涙があふれて止まらなかった。
「蓮──泣くのはまだ早い。終わらせるぞ」
ホクトの声に、蓮は涙を拭った。
そして、スミレを抱えたまま、戦闘へと飛び込んだ。
剣を抜いた蓮は、スミレを片腕に抱えたまま、迫るサタンたちを必死に捌いた。
だが、数が違う。
次々と飛びかかってくる黒き獣たち。
それを、ホクトが圧倒的な剣閃で薙ぎ払っていく。
「蓮、無理はするなよ」
「ああ、俺だって──!」
蓮は食いしばった。
背中の翼をばたつかせ、何とか体勢を保ちながら応戦する。
刃と刃が空中で激しく弾け合う。
空が、魔力の奔流で染まる。
ザイラスもまた、鋭い一閃でホクトに斬りかかる。
だが、ホクトは一歩も退かない。
その大剣を振るうたび、ザイラスの剣圧さえ押し返していく。
徐々に、ザイラスが追い詰められていった。
紫の髪をなびかせ、歯噛みするザイラス。
一瞬の隙を狙って蓮へと飛びかかろうとする──
そのとき。
「ザイラス──!」
高く、透き通った声が空に響いた。
蓮がはっと顔を上げる。
光の中に、ひとりの少女が浮かんでいた。
黄金の髪をなびかせた、見覚えのある顔。
──イシュタル王国の姫、イリアだった。
彼女は驚愕の色を浮かべ、ザイラスを見つめた。
「どうして、あなたが──」
困惑と痛みを滲ませた声。
だが、イリアはすぐにスミレへと視線を移した。
そして、微かに震える声で言った。
「生きていたんですのね──マリア」
その名前に、スミレの体がぴくりと震える。
「わ、たし……? マリア……?」
自分の中に、聞き覚えのない名前が響く。
心の奥深く、何かが軋んだ。
──ザイラスは、イリアの声に一瞬だけ目を伏せた。
だが、その瞳に宿ったのは、救いではなかった。
それは、燃え盛る深い憎悪の焔。
「……間違いない。マリアーーお前こそが災厄の娘なんだ!」
静かに、だが深く突き刺さる声。
その言葉が引き金となったかのように、スミレの胸が締めつけられる。
混乱、恐怖、罪悪感──すべてが雪崩れ込んできた。
“思い出せない”はずなのに、どこかで納得している自分がいる。そんな自分が、何より怖かった。
「ちがう……わたしは、……っ」
頭を抱え、スミレは苦しそうに呻いた。
「やめろっ!」
蓮の叫び。
だが──遅かった。
ザイラスの体が、異形へと変わっていく。
骨が軋み、翼が黒く変色し、獣じみた咆哮が空を震わせた。
「ぐ、あああああああああああ!!」
完全変異。
彼の理性は、もはや残っていなかった。
狂ったように、翼を大きく広げ、蓮へと襲いかかる。
蓮は剣を構え、受け止めようとする。
だが、スミレを抱えたままでは動きが鈍い。
「蓮!!」
ホクトの声が飛んだ。
ザイラスの爪が、蓮の翼を切り裂いた。
「ぐっ──!!」
耐えきれず、蓮はバランスを崩す。
抱えていたスミレと共に、空から墜落していく。
「マリアっ!!」
イリアの悲鳴。
ホクトの剣閃が空を切り裂く。
だが──蓮たちは止まらなかった。
紫の空の中、真っ逆さまに、森へと落ちていく。
空に残ったのは、ホクトとイリア。
彼は大剣を握り直し、完全変異したザイラスと、無数のサタンたちを前に──一歩、浮かぶ空中で踏み出した。
「……行かせるものか」
空を裂く、再びの剣閃。
空中戦は、さらに激しさを増していった。
***
森の中に、鈍い音が響いた。
蓮は地面に背中を打ちつけながらも、スミレを必死に庇っていた。
「く……っ」
痛みが、腕と背中に走る。
それでも、スミレを強く抱き締めたまま、蓮はすぐに身を起こした。
「スミレ……!」
呼びかけるが、スミレは小さく身じろぎしただけで、意識がない。
「大丈夫……守るから……!」
血が滲む腕を押さえながら、蓮は立ち上がった。
辺りは静まり返っている。
空での戦いの音も、ここまでは届かない。
蓮は、スミレを抱えたまま、森の中を歩き出した。
どこかに、身を隠せる場所を探しながら。
──そのとき。
ふと、森の向こうに、小さな家を見つけた。
ぽつんと建つ、古びた木造の家。
誰もいないはずのこの森の中に、不自然なほど静かに佇んでいた。
(……なんだ……この家……)
胸の奥がざわつく。
見覚えがある。
いや、正確には──『知っている』気がした。
狭間で見た、あの不思議な景色。
夢か幻かもわからなかった、あの光景。
(……あのときの……)
蓮は迷わず、家へと向かった。
そっとドアを押す。
ギィ、と木の軋む音。
中は静かで、誰もいなかった。
けれど、どこか温かい空気が流れている。
蓮はスミレをそっとソファに寝かせた。
そして、自分もその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
──助かった……。
心から、そう思った。
だが──
カサリ、と。
床を這うような音がした。
蓮が顔を上げると、一本の蛇が、すうっと這ってくるのが見えた。
細長く、艶やかな鱗を持つ蛇。
その蛇は、まるで蓮を誘うように、家の奥へとするすると進んでいく。
本能的に、蓮はそれを目で追った。
蛇が向かった先。
そこには、暗がりの中に、ひとつの影があった。
ふわり、と。
光が揺らぎ、影が輪郭を持った。
現れたのは、
──上半身が人間の女、下半身が蛇の怪物だった。
艶やかな黒髪に、妖しく光る赤い瞳。
美しくも、底知れぬ存在感。
「ようこそ、我が家へ──」
女は微笑んだ。
どこか懐かしげに、優しく。
「お主のことを、ずっと待っておったぞ。蓮──」
その声は、まるで初めから、蓮のすべてを知っていたかのようだった。
蓮は、ただ呆然と、その存在を見つめた。
──蛇との出会い。
すべての始まりが、いま、静かに幕を開けた。




