城下町の猫
カーテンの隙間から、淡い朝の光がこぼれ落ちる。部屋の空気はまだ静かで、窓の外では鳥のさえずりがかすかに響いていた。
ああ、架空界での朝が来てしまったのか──。
蓮はゆっくりと上半身を起こし、伸びをしながら両手を大きく上に伸ばした。そのまま眠い目をこすり、体をほぐす。
隣には、穏やかな寝息を立てながら眠るスミレの姿があった。蓮はその寝息を聞き逃さないよう、耳を澄ませた。そして、その音を確認すると、まるで安心したかのように胸をなで下ろした。
スミレが隣にいる。目を閉じたまま穏やかな寝息を立てる彼女の姿を見て、蓮の胸の奥がじんわりと温かくなった。ああ、本当にここにいるんだ。夢のような話だったが、こうして隣で眠る彼女を見ると、それが確かに現実なのだと実感できる。蓮は静かに寝ている彼女に顔を近づけ、無意識にその顔をじっと見つめた。そのまま唇をつけてしまいたい───心の中でそう思い、理性を必死に抑え込んでいる自分に気づいた。
なんだろう、このむずむずとした気持ちは。
蓮は気づかぬうちに身体をモゾモゾと動かしながら、その感情に戸惑っていた。
そのとき、突然、スミレの声が耳に届いた。
「蓮、大丈夫?」
スミレは目を見開き、クスクスと笑いながら蓮を見つめていた。蓮はその言葉に驚き、心臓が跳ね上がるのを感じた。まるで驚きすぎて胸が飛び出しそうだ。
「なに驚いてるの? さっき起きたわよ。寝てる間にイタズラされたら困るでしょ?」
蓮は顔を真っ赤にして後ずさりながら、慌てて答えた。
「別にそんなつもりはっ!」
「ふふっ、ならいいの。おはよう」
スミレは小さなあくびをしながら、ニコリと笑った。その笑顔は、蓮の心をふっと和ませ、どこかほっとさせる。
蓮は少しだけ安堵しながら、スミレを見つめていた。彼女が微笑むその瞬間、蓮の胸の中に温かい感情が広がっていくのを感じた。
***
蓮とスミレは、昨夜交わした約束通り、城下町を歩いていた。
城下町には住宅街と商店街があるそうで、彼女に連れられて向かったのは商店街の方だった。そこは人間界で言うフリーマーケットに近い雰囲気で、道の両側には小さなテントや天幕を張った多くの店が並び、その下で商品を並べて商売をしていた。
「それにしても、すごい人ですね!」
蓮は目を輝かせ、まるで初めてテーマパークに来た小学生のように周囲をキョロキョロと見渡した。
獣人族の親子が長い獣のしっぽを楽しげに揺らしながら蓮の前を通り過ぎる。肉の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐり、道端では商人たちが活気のある声を張り上げていた。反対側からは、羽を背中に広げた鳥人族が、軽やかな足取りで通り過ぎていく。
「蓮、こっち来て!」
スミレは蓮の腕を引っ張り、衣服が並んでいる店へと案内した。どうやらそこは服屋らしい。
ハンガーにかけられた服は、蓮の目から見るとコスプレのようなデザインのものばかりだった。
「変わった服が多いですね」
蓮は素直にそう言い、特に興味深そうな顔をせずに呟いた。
普段、私服をほとんど着ない蓮にとって、洋服にはあまり関心がなかった。現に今も、高校のジャージにジャケットを羽織ったスタイルで街を歩いていた。
「あなたの服を買うのよ。どれがいいかしら?」
「え、俺の服ですか!? でも、それなら今着ているのが……」
「ダメよ。せめて洋服だけでも、この世界に馴染んでもらわないと」
スミレはハンガーにかかっている洋服をいくつか眺めた後、気に入ったものを手に取り蓮に見せた。
「これとかどうかしら?」
恐らく翼が生えている前提でデザインされたであろうその服は、後ろに大きな穴が開いていた。
「それはちょっと…」
スミレは次々に服を渡すが、蓮はどれも「ちょっと違う」と首を振る。とうとうスミレが「もう! あなたが選びなさい」と呆れたように言った。
蓮は慌てて洋服に目を向け、頭を抱えながら自分に似合う服を選び始めた。
少なくとも変なところに穴が開いた服や、色が派手すぎるものは避けたい。ハンガーにかけられた洋服を一枚ずつ確認していくが、なかなかピンとくるものが見当たらない。
「えーっと……」
蓮が悩んでいる姿を見て、スミレがしびれを切らしたかのように言った。
「じゃあ、もうさっきの服にするわ」
そして、会計へ向かって歩き始める。
「ちょ! ちょっと待って!」
会計の方に目を向け、蓮が急いで駆け寄ると、レジのすぐ横にマネキンが置かれていることに気づく。
そのマネキンには、黒いフード付きの長いポンチョ──あるいはコートにも見えるものが飾られていた。
「スミレさん! 俺、これがいいです! このマネキンの!」
蓮がそう言うと、レジで聞き耳を立てていた猫人族の店員が、ニコリと小さな笑みを浮かべて顔を上げる。
「兄ちゃん、いいセンスしてるにゃ。でも簡単には譲れないにゃ。なんたって、これは昔、人間が落としたっていう伝説のマント。普通の布とは違うにゃ」
「人間が……?」
蓮は思わず店員を見た。
興味津々に首をかしげると、店員の黒目が急に大きくなった。それはまるで猫のクロスケと目が合った時に襲いかかってくる瞬間のようだった。蓮は思わず目を逸らした。
襲われる──そう思ったが、店員はその場を立ち上がると、目をキラキラさせながら言った。
「って、こりゃすごいにゃ! 兄ちゃん、あんた、もしかして本物の人間だにゃ? 嗅いだことない匂いがプンプンするにゃ!」
蓮は引きつった顔をして、いつでも走って逃げられるように身構えた。無駄な抵抗だと分かってはいるが、もし仮にこの店員が猫のクロスケと同じように足が速ければ、きっと追いかけられたら捕まり、二度と人間界に戻れなくなるだろう。ましてや、スミレにも会えなくなるかもしれない。
「にゃあにゃあ、そんなに構えるにゃ。確かに、人間を売ろうとする悪いやつだっているにゃ。でもあたいは違う、あんたを売ったって何のメリットもないにゃ」
店員は蓮を落ち着かせるように言い、マネキンにかかっている洋服を手に取った。そして、それをスミレに渡した。
「買ってくにゃ?」
スミレは黙って頷き、鞄から小さな巾着を取り出して、それを店員に渡す。中の金貨がジャラジャラと音を立て、金属が重なる音が聞こえてきた。
「猫さん、あなたが今見ている男は人間じゃなく、亜人族のクオーターよ。いいわね?」
スミレは店員に顔を近づけ、もう一度言った。「いいわね?」
店員は巾着の中身を見てから、スミレにそれを突き返した。
「こんな大金いらないにゃ。マントはタダで譲るにゃ。あんたらが望むなら、今見たことも忘れてやるにゃ。代わりに、提案があるにゃ」
店員の耳がピクリと動いた。
「人間の兄ちゃん、いや、今は亜人族の兄ちゃんかにゃ。あんたの身につけてる服、一つと交換でどうにゃ?」
店員の尻尾が嬉しそうにフリフリと揺れている。蓮はクロスケもよく尻尾を振っていたことを思い出した。
「こんな服で良ければ譲りますが、本当にいいのでしょうか」
蓮は着ていたジャージを脱いで、それを店員に手渡す。
「ちょっと蓮、いいの?」
スミレは驚いたように、蓮に言った。
蓮は少し恥ずかしそうに笑った後、
「いや、だってこれ、個人情報がダダ漏れですから」
と、冗談を交えた。ジャージの胸元には『峰野』の刺繍が入っている。それを手放すことで、もう一歩この世界に踏み込める気がした。だけど、袖を握る指先に、ほんの少しだけ迷いがよぎる。人間界の記憶が、ここに残っているような気がして――。それでも、蓮は静かにジャケットを脱ぎ、店員に差し出した。
「ふーん、まあいいけれど。猫さん、本当にこれでいいの?」
スミレが店員に確認すると、店員は嬉しそうに「にゃ」と返事をした。
蓮はペコリとお辞儀をし、黒いポンチョを頭からかぶった。思ったよりも丈が長く、それは蓮の体をしっかりと覆ってくれた。
「そう。猫さんがいいならいいの。取引成立ね、ありがとう」
スミレはそう言い残し、店を後にした。
蓮も一言、「ありがとうシロスケ!」と言い、スミレの後を追った。
「シロスケって! あたいはミーニャにゃ!」
そんな声が背後から聞こえてきて、蓮は思わず笑ってしまった。