妖精スミレ 後編
脱衣場に入った瞬間、甘い香りが広がった。スミレの髪からもした、あの花の匂いだ。
(あ、スミレさんの匂いだ……)
それを感じた瞬間、蓮は自然と意識してしまう。無意識にその香りを追いかけるような感覚が芽生え、少し戸惑った。考えないようにしようとしたが、どうしても身体がソワソワとして、落ち着かなかった。
(あぁ、なんだよ俺。こんなこと、普段なら気にしないのに)
蓮は必死に嫌らしい想像を振り払うように頭を振った。そして服を脱ぎ捨てると、風呂場に向かって歩みを進めた。
風呂場に入ると、目の前に豪華な湯船が目に入る。湯は薄いピンク色に染まっている。なにかの入浴剤でも入っているのだろう、そこからいい香りがした。そして、優しく湯気が立ち上っている。
(なんだか、申し訳ない気持ちになるけど……でも、ちょっとだけこの状況を楽しんでる自分もいるな)
蓮は少し照れながらも、シャワーを浴び始めた。スミレと同じシャンプーを使うと、頭からふわりと花の香りが広がる。花の名前は分からないが、その香りが無意識に心を落ち着けるようだった。蓮は体を石鹸で洗い終わると、ゆっくりと湯船に浸かった。
ふぅ、と自然とため息が漏れる。体が温まり、心地よい安堵感が全身を包み込んでいく。肩の力が抜け、硬かった体が少しずつ柔らかくなっていくようだった。
(ああ、これからどうしようか)
蓮は明日からのことを考える。きっとスミレは、蓮にここを出て行けとは言わないだろう。しかし、だからといってずっと甘え続けるわけにはいかないと感じていた。
「明日、考えよう」
蓮はそんな独り言を呟きながら、風呂から上がったのだった。
部屋に戻ると、食べ終わったはずの食器がきれいに片付けられていて、その代わりにティーカップが二つ、静かに置かれていた。
「あら、出たのね。疲れは取れた?」
スミレはにっこりと微笑みながら、蓮を見つめた。
「おかげさまで。食器まで片してもらっちゃって、本当にありがとうございます」
蓮はそう伝え、濡れた髪をタオルで拭きながら椅子に座った。スミレはティーカップにお茶を淹れ、蓮の前にそれを置いた。コップから立ち上るほのかな湯気が、温かさを感じさせる。
「薬草が入った紅茶よ。臭みがなくて飲みやすいの。きっと疲れも取れると思うわ」
対面に座るスミレは、ゆっくりとティーカップを口に運ぶ。一口、二口と飲み進めるその仕草は、まるでお姫様のように優雅で、まったく音を立てない。そのあまりにも静かな飲み方は、本当に飲んでいるのかと疑うほどだった。
だが、スミレの喉がコクコクとかすかに動くのを見て、その疑いはすぐに晴れた。スミレはまるで、お茶を楽しむことそのものが美徳であるかのように、静かな微笑みを浮かべている。
「ねえ、蓮。明日は城下町を散歩しましょう?」
ふと、思いついたようにスミレが声をかけてきた。
「いいんですかね? 人間の俺がウロウロ出歩いて」
蓮は少し戸惑いながら言うと、スミレはにっこりと答える。
「分からない。でも、部屋にこもってても何もないでしょう? それに、ネイトエールは中立王都。色々な種族が集まっているから、きっと人間の蓮がいても大きく浮くことはないわよ」
スミレはまっすぐに蓮を見つめ、まるでどんな疑問にも答える準備ができているかのように微笑んだ。蓮は、“確かにな”と納得し、小さく頷いた。
「じゃあ、決まりね」
スミレは少し嬉しそうに笑い、その後もゆっくりと紅茶を口にした。蓮はその姿を見つめながら、無言でティーカップを手に取り、口元に運んだ。
カップをクンクンと少し嗅いだ後、ゴクリと一口飲む。スミレのように静かに味わうことはできず、一口飲むごとに部屋中に喉の音が響いてしまった。それが少し気になり、意識すればするほど、その音がやけに大きく感じられる。
(もしスミレが本当にお姫様なら、俺なんかとは住む世界が違うんだろうな)
蓮は心の中で呟きながら、スミレが横にいるだけで心が落ち着かなかった。その魅力に引き寄せられる自分が少し恐ろしい気がした。たまたま自分が彼女と出会っただけで、もっとふさわしい人がいるんじゃないかと思う。
そんなことを考えているうちに、スミレが席を立った。
「上に行ってるわね。蓮もちょっとしたらいらっしゃい」
スミレはそう言うと、足早に階段を上がっていった。
「あ、はい!」
蓮はその背中を見送りながら、小さな欠伸が出る。お茶を味わった後、スミレが待っている二階へ向かうため、階段を登り始めた。
一段、二段と、少しずつ音を立てずに上っていく。その途中、ふと考えた。スミレは普段から一人でここに暮らしているのだろうか。それなら、広すぎるリビングや二階建ての部屋が少し不釣り合いだと感じた。今日、たまたまスミレしかいなかっただけで、家族も住んでいるのかもしれない。もしそうだとしたら、ますます自分の居場所はここにはないと感じ、少し寂しくなる。
「スミレさん──?」
二階はシンプルな部屋で、ベッドとクローゼットだけが配置されていた。蓮の目に入ったのは、ベッドに横たわるスミレの姿だった。彼女は、目を閉じて静かに寝息を立てているように見える。
蓮はそのままスミレのそばにゆっくりと歩み寄り、彼女の顔を覗き込んだ。
「寝ちゃいましたか?」
声をかけると、スミレはぱちりと目を開け、蓮と視線が交錯した。その瞬間、蓮は驚きと共に彼女の腕に引き寄せられ、あっという間にベッドに押し倒されてしまう。
「ちょっ、スミレ、さ、ん……!」
蓮はそのままスミレと一緒にベッドに横たわることとなった。彼の顔が真っ赤になるのも無理はない。女性と同じベッドで寝るのは、これが初めてだったからだ。
「こ、こんなのおかしいって……」
「ふふ、まだ刺激が強いかしら?」
スミレは微笑みながら、蓮を見つめた。その表情があまりにも魅力的で、蓮は目をそらすことができなかった。どうして彼女はこんなにも美しいのだろうか。思わず自分の顔が熱くなり、ドクドクと速くなる心臓の音が耳に響く。
「蓮、おやすみ」
スミレが優しく言い、部屋の明かりが消えた。その暗闇の中、蓮はスミレの温かさを感じている。彼女が横にいることが、どこか安堵を与えてくれる。
これから、初めてスミレと同じベッドで寝る。
その事実が、蓮にとって不思議に感じ、同時に新たな一歩を踏み出したような気がした。蓮はまだ眠くない目をつぶった。