副作用だにゃ
スミレがじっと思案してから、口を開く。
「ケイの狙いは、初めからタオのように見えたわ。お父さんの話までしていたけれど、一体何が目的なのかしら……」
リリスはそれを聞き、急に表情を変えて呟く。
「ケイ……思い出した。あたしがティナに拐われた時、ずっと傍にいた熊男──あれは間違いない、ケイだった」
その言葉が、まるで電撃のように響いた。蓮は、点と点が繋がった気がした。
ケイ……あいつが、全ての裏で動いていたのだ。
蓮は驚きながらも、冷静さを保って問いかける。
「でも、ケイはどうしてそこまでタオに執着するんだ?」
リリスは少し黙った後、顔を曇らせながら答えた。
「分からない……けど、タオのお父さんのことを知ってた。それも、友人だったって──嫌な予感がする」
その言葉に、蓮も表情が固くなる。
「騎士団長ガオス──かつては彼がネイトの騎士団長だった……彼が悪魔化するまでは……ね。ネイトエールじゃ、有名な昔話よ」
スミレの言葉に続くように、リリスが冷静に言った。
「ガオスが死んだ後、タオが孤児院に入れられたなら、話がまとまる。タオの父親は、ガオスだったのね……」
一瞬、部屋の空気が重くなる。
リリスがさらに踏み込んだ声で語る。
「もしかしたら、今回のことは大きすぎるのかもしれない。サタンも、ネイトエールも関わってくる──大きな事件よ」
その言葉に、蓮は少し息を呑む。
「サタンと、ネイトエール……」
蓮の口から漏れたその言葉に、全員の視線が集まる。誰もが、これから起こるであろう事態の重大さに気づき始めていた。
スミレが言葉を続ける。
「私たちが今関わっているのは、単なる個人的な復讐や計略の範囲じゃない。もっと大きな波が来ている。これを止められるかどうか、分からないけれど、覚悟しておかないと」
リリスも力強くうなずく。
「そうよ、私たちがこれに巻き込まれるのは避けられない。でも、どうにかしてタオを取り戻さなきゃ」
蓮は、静かに拳を握りしめ、決意を固めた。
「どんな危険が待ち受けていても、タオは絶対に取り戻す。それが、今の俺にできる唯一のことだ」
その言葉を聞いて、スミレもリリスも少しだけ安堵したような表情を浮かべる。
スミレが最後に静かに言った。
「それなら、行動あるのみね」
その時、蓮は心の中で強く誓った。この戦いが、彼にとってただの戦いに留まらないことを。
「ねえ、提案があるの」
スミレはそう言うと、少し悩むようにして、言葉を切り出す。彼女の目にはわずかな躊躇が見えたが、それでも心の中で決意が固まるのを感じ取っているようだった。深呼吸を一つして、意を決したように視線を真っ直ぐに向ける。
「ホクト様に頼ってみない? 最初から、この任務はホクト様がタオに与えたものだったはず。状況を伝えれば、何か手助けしてくれるかもしれない……」
スミレの提案が、部屋に静かな重みをもたらす。リリスが少し考え込むように眉をひそめ、やがて答える。
「確かに、いいかもしれない。ガオスとケイが知り合いなら、団長もケイを知っている可能性が高い。団長は、今回の事件の鍵を握っているかも」
その言葉が蓮の胸に深く響く。何かが胸に引っかかり、心が揺れ動く。少し黙り込んで、視線を床に落としながら悩む。やがてゆっくりと顔を上げ、決意を込めて言葉を紡いだ。
「それじゃあ──美穂も呼ぼう。ホクトさんが信頼できないわけじゃないけど、もし万が一のことがあった時、仲間が多い方がいいだろ?」
蓮の言葉に、リリスとスミレが無言で頷く。どちらも、蓮の心情を理解しているからこそ、その慎重さが必要だと感じているのだろう。スミレは少し間を置いてから静かに答える。
「そうね。信頼しているとはいえ、どんな事態が待ち受けているか分からない。それに、美穂ちゃんは強力な助っ人になってくれるもの」
スミレは冷静に口を開くものの、その言葉の裏には強い決意と覚悟が滲み出ている。そして、蓮に向かってゆっくりと頷いた。
「二人には別の伝令鳥を送って、このことを知らせるわ」
その言葉が部屋に響くと、すべてが動き始める予感がする。リリスと蓮は、お互いに目を合わせ、静かに頷いた。その頷きに込められたのは、ただの同意ではない。これから迎えるであろう困難に立ち向かうための覚悟を確かめるような頷きだった。
静寂の中で、それぞれが自分の役目を胸に抱き、無言のうちに準備を進め始める。次に起こるべきことを受け入れる心の準備が整いつつあった。
***
翌朝、スミレとリリスが寝静まっていた部屋の空気は、前夜の緊張が抜けて、部屋の空気は少しだけ柔らかくなっていた。
蓮は寝ている間に猫化薬の効果が解け、体を目覚めさせると、首元にわずかな違和感を覚えた。
最初に感じたのは、肌にまとわりつくような、猫の毛の残りだった。身体のあちこちに、猫の毛がひっかかり、痒さと気持ち悪さがじわじわと広がっていく。毛並みが抜けきらず、耳の奥に、“ニャ……”という微かな残響が張り付いているような、奇妙な感覚が全身に広がっていた。
「うわ……こんな副作用、初めてだ……」
蓮は、少し眉をひそめながらもその気持ち悪さを何とか我慢しようとした。
スミレとリリスを起こさないように、静かに部屋を出ると、窓の外に広がるバステトの昼間の風景が目に入った。
昼間のバステトは、夜と違ってどこか静まり返っていた。草食獣が遠くからちらりと顔を出す程度で、普段なら賑わっているはずの市場も、ゴミだらけで活気がなく、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
この街の裏側に潜む不安感が、目の前の景色にも反映されているようで、蓮は心なしか胸がざわつくのを感じた。
部屋に戻ると、美穂からの伝令鳥が窓辺に佇んでいた。まるでスミレが目覚めるのを静かに待っているかのように、じっと動かず羽を畳んでいる。
しばらくして、スミレが小さな欠伸をしながら起き上がった。そして起きてすぐ、副作用を感じたのか険しい顔をしていた。そんな顔を見て、蓮は思わず笑いそうになる。
「おはよう、スミレ」
「ええ、おはよう。身体中が痒くって……最悪ね」
苦笑いしながら、スミレはふと窓の外を見やった。その瞬間、伝令鳥は、ふわりと部屋に飛び込んできた。鳥はスミレの肩に止まると、静かにその心をスミレに開いていった。スミレは目を閉じ、鳥の心の中にある情報を受け取る。
「美穂ちゃんからね……『すぐに向かう』だって」
その言葉を聞いて、蓮はほっとしたように息をつく。美穂が来てくれることに、少しだけ安心感を覚えた。しかし、ホクトからの返事はなかった。それが少し気になるところだった。
「ホクトさんの方は、どうなってるんだろう……」
蓮は少し首をかしげたが、深く考え込むのはやめた。今は美穂の支援を頼りに、行動を開始しなければならない。
そんなことをしているうちに、リリスも目覚める。同じく、彼女も少し不快そうだった。
「ん、おはよう……ニャ」
語尾に不自然に混じった“ニャ”と、ぴくぴく動く兎の耳。それが妙に似合っていたせいで、蓮とスミレは思わず吹き出してしまった。
「さあ、出発しましょう。バステトの状況も気になるわ」
蓮は、再び窓の外を見つめながら深呼吸をし、その後、準備を始めた。
貸部屋を出ようと、蓮が扉に手をかけたその瞬間だった。
「──やっと見つけた!」
聞き覚えのある声と同時に、ドアの向こうから勢いよく飛び込んできたのは、美穂だった。肩で息をしながらも、顔には安堵の色が浮かんでいる。
「無事でよかった……!」
「美穂……!」
蓮も思わず声を上げた。スミレとリリスもすぐに出迎え、短い再会の喜びがそこに生まれる。
「伝令、届いてよかった。早く猫化薬を持っていかなきゃって、すぐ飛び出してきたの」
美穂は鞄の中を軽く叩いて見せる。中には例の猫化薬が数本、丁寧に包まれて入っていた。
「でも……昼間の様子を見る限り、今は変装しなくても大丈夫そうね」
スミレが、町の様子をうかがいながら言う。蓮もうなずいた。市場の様子は変わらず陰鬱だが、人の目は少なく、夜のような監視の厳しさは感じられない。
「薬は一旦温存しておこう。必要になったときに飲めばいい」
「了解。無駄打ちは避けたいもんね」
そんな会話をする中、再び無遠慮に扉が開き、鋭い視線の女が勢いよく入ってきた。
「あんたら誰!?」
部屋に響いた声は低く、野太い。入り口に立っていたのは、狼の耳と尾を持つ女だった。筋肉の浮いた腕と、どこか獣じみた鋭い目。間違いなく、この部屋を貸し出していた当事者──狼女だ。
その目が、部屋の中にいる四人を一瞬で見回す。そして眉をひそめた。
「おかしいわね……あんたたち、猫人の三人組じゃなかった? 一晩で種族が増えてんじゃないわよ」
狼女の言葉に、スミレ、リリス、蓮は固まった。今、部屋には──妖精のスミレ、人間の蓮、兎耳のリリス、そしてちょうど到着したばかりのハーフエルフの美穂がいる。
「え、えっと、状況がちょっと変わりまして……!」
蓮が苦笑しながら取り繕おうとするが、狼女の目は鋭いままだ。
「猫の姿で来たあんたらが、朝になったら別人みたいになってて、しかも一人増えてるって……普通に考えて怪しすぎるわよ」
スミレが慌てて一歩前に出る。
「本当にすみません。姿は変わっていますが、私たちは昨日と同じ者です。変装していたんです。……今は事情があって元に戻っているだけで」
その説明に、狼女はしばらく睨むように彼女たちを見つめていたが、やがてため息をついた。
「はあ……まぁ、ここじゃよくある話だし。裏通りの連中も変装好きだしね。でも、この街じゃ“正体不明”ってのは命取りになるから、気をつけな」
少しだけ警告めいた言葉を残し、彼女は踵を返す。扉を出る直前、ふと振り返って言った。
「タオに会えたら、よろしく伝えて」
その一言を残して、扉は静かに閉じられた。
微かな余韻とともに、部屋に再び静けさが訪れる。誰もすぐには動けず、思わず全員がふぅと息をついた。
「……驚いたね」
蓮が苦笑混じりに呟き、他の三人もどこか安堵の表情を浮かべた。
緊張の糸がほどけるのを感じながら、彼らは静かに部屋を後にした。
***
バステトの静まり返った路地を、四人は並んで歩いていた。
空は白く霞み、昼間だというのに町全体がどこか薄暗い。遠くで草食獣がひょこっと顔を出しては、すぐに物陰に隠れてしまう。まるで空気そのものが怯えているかのようだった。
「……それにしても、まだ残ってる感じがするのよね、変な違和感が」
リリスがぼそっと呟いたその直後。
「ニャ……」
語尾についた小さな音に、三人の足が止まった。
美穂とスミレが顔を見合わせ、そして次の瞬間、蓮が耐えきれずに吹き出す。
「おいリリス、今“ニャ”って言ったぞ」
「言ってない。気のせい。気のせいニャ……」
「ほら! また出た!」
「だからそれは……! ちが……ニャ……!」
リリスが顔を真っ赤にして口元を押さえる。スミレは肩を揺らして笑い、美穂もくすくすと笑みを漏らした。
「やっぱり副作用、後引くね」
「……治らなかったら、どうするのよ」
真剣な顔でそう言ったリリスに、蓮は苦笑しながら肩をすくめた。
「そのときは、俺たち全員で“ニャ”って言い合うチームにするよ」
「悪ふざけがすぎるわよ、もう……!」
その場がひとしきり笑いに包まれた後、美穂がふと思い出したように口を開いた。
「……ちなみにだけど、この薬、今回が一番マシなんだよね」
「え?」
「最初の試作品は、猫じゃなくてウサギ耳が生えたり、くしゃみ止まらなくなったり……」
「それ、薬というか呪いじゃない?」
「鼻が効きすぎてスパイスのにおいだけで気絶したこともあるよ」
真顔で語る美穂に、一同は目を見開いた。リリスなど、もはや絶句していた。
「……そのバージョンを渡されなくて、ほんとによかった」
「うん。それはさすがに自重した。いくらなんでも信用なくすからね」
明るいやりとりの後、ふと、蓮の視線が少し遠くを見つめる。
通りの向こう、朽ちた建物の影に、一瞬だけ誰かの気配を感じた気がした。
けれど、目を凝らしてもそこには何もいない。ただ、風に揺れるぼろ布だけが、かすかに揺れていた。
(ホクトさん……)
ふと、昨夜のことが脳裏をよぎる。スミレが送った伝令に、美穂はすぐに応じてくれた。けれど、ホクトからは何の返事もなかった。
(まさか、もう何かに巻き込まれてる……?)
胸の奥で、冷たい感情がわずかに広がる。けれどそれを顔に出すことはせず、蓮は静かに歩みを再開した。
(いや、今は動くしかない。ホクトさんだって、きっと何か考えがあるはずだ)
風がまた一つ、廃れた市場を吹き抜ける。
その先に待つ夜を思いながら、四人はゆっくりと歩き続けた。




