妖精スミレ 前編
どうやら俺は本当に架空界に来てしまったらしい。
王都・ネイトエールと呼ばれるここは、架空界の中で唯一、異種族が共存する中立王都だという。スミレに連れられてネイトエール城下町に到着した蓮は、目の前に広がる異国情緒あふれる街並みに驚き、ただただ目をパチパチさせるばかりだった。
石畳の路地を進むと、レンガ造りの家々が並び、どの建物も三角屋根の形をしていた。家々の窓には、民族的な模様の入ったカーテンがかかり、ドアには魔法陣のような模様が刻まれている。
路地裏からは市場のざわめきが聞こえ、どこかスパイスの香りが漂ってくる。魔法の力で浮遊するランタンが優しく町を照らし、異世界に迷い込んだ実感をさらに強くさせた。
「はあ、ここが架空界の城下町か」
まだ現実味がないまま、蓮は目の前を通り過ぎる「動物の耳」や「翼、尻尾」を持った者たちを見て、ようやくこれが夢ではないと実感し始めた。
人間離れした姿を間近で見ると、自然と背筋が強張る。まるで都市伝説の化け物が現れたような気分だった。
蓮は不安な気持ちを抑えるように体に力を入れ、妖精のスミレの後ろについて歩き続けた。その姿はまるで迷子の子どものようだ。
「あのぉ……スミレさん、俺、誰がどう見ても人間の姿だけど、こんな姿で歩いてて大丈夫なんでしょうか? ほ、ほら、俺、こんな見た目だから食べられたりとか……」
蓮は周りをキョロキョロと見回しながら言う。幸い、日が暮れて人通りは少なかったが、それでも時折すれ違う架空ノ者からの視線が気になる。
「大丈夫かどうかは分からないわ。人間を連れて歩くのは初めてだもの。でも、ここを通るしかないのだから仕方ないわよ」
スミレは少し早足で町を進んでいく。
「誰にも声をかけられませんように──」そう願う暇もなく、突然、後ろから誰かに肩を掴まれた。
「おい、お前、人間か?」
蓮の背丈より二回り大きな、トカゲ──いや、ワニに似た爬虫類のような男に声をかけられる。
「え、えっと……」
く、食われる! やっぱり言った通りだ!
蓮が戸惑っている間に、男は話を続ける。
「へえ……本当に人間がいるとはな。久々に見たぜ」
男はギョロリと蓮を見下ろし、ざらついた舌で唇を舐めた。
「おい、嬢ちゃん。こいつを渡せ。こいつを生け捕りにすれば、でとんでもない値がつくぜ」
蓮の喉がゴクリと鳴った。まるで珍しい獲物を見つけた狩人のような目。逃げ出したくても足がすくむ。
「その手を離しなさい。この人間に触れていいのは私だけよ」
スミレは鋭い声で言うと、男の手を払いのける。
「ちっ、なんだよ嬢ちゃん、釣れねえなあ」
男は不満そうに言い捨てると、そっぽを向いて歩き去った。
スミレはその様子を見てホッとしたように息を吐く。
「さあ、行きましょ」
蓮はうなずき、スミレの後を追った。なんだか、飼い主と犬のような関係になった気がした。蓮は自分が無力であることを実感し、少し落ち込んだ。
「そんな悲しい顔をしないで。あなたはまだ架空界に来たばかりなんだから、何もできなくて当然よ」
「すみません。ありがとうございます」
蓮は黙って歩き続ける。途中、歩いている獣にジロジロ見られたような気がしたが、気付かないふりをして歩き続けた。後から聞いた話によると、それは「獣人族」という種族だったらしい。
「蓮、着いたわよ」
少し家の数が少なくなってきた頃、スミレの家が見えてきた。周りにはいくつかの家が並んでいるが、その中でも一番端に建てられたのが彼女の家だった。
「上がってちょうだい」
スミレが家の扉を開け、奥の部屋に進んでいく。蓮は小さな声で「おじゃまします」と言って、勇気を出して一歩足を踏み入れた。
入ってすぐ、木の香りが鼻をくすぐった。小さなランプがほのかに部屋を照らし、机の上にはハーブの束が置かれている。
シンプルな木製の家具に、壁にはいくつかの額縁が飾られていた。
どこか温かみがあり、安心できる空間だった。
蓮にとって、女性の家に入るのはこれが初めてだった。昔、はな美の家に上がらせてもらったことはあったが、それは快人と一緒だったため、今回とはわけが違った。
「狭いけど、気にしないで。適当に座ってて」
スミレはそう言って部屋の奥にある扉を開ける。しばらくすると、蛇口をひねる音が聞こえ、水がジャブジャブと跳ねる音も聞こえてきた。
リビングにいる蓮は、少し不安げに辺りを見回し、ひとまず部屋の隅に座った。
「ふふ、床に座るなんて。せめて椅子にでも座ってちょうだい」
洗面所から出てきたスミレは、蓮の様子を見て笑っている。
蓮はその笑顔を見て、思わず頬が赤くなる。スミレは髪を結って出てきたのだ。
「今、食事を作るから、少し休んでて」
スミレはそう言いながら、キッチンに立つ。
蓮はゆっくり立ち上がると、床に座るのをやめて椅子に座った。そして、ジャケットを椅子の背もたれにかけた。部屋がオープンキッチンだったため、蓮はスミレの動きを見ながら座っていることができた。
ほんの少し肩の力を抜いたものの、蓮は緊張が解けることはなかった。初めて女性の家で食事をするなんて、蓮にとってはかなりのハードルだった。
「蓮、食べれないものはある?」
「いえ、特にはないです」
トントンと、スミレが野菜を切る音が響く。彼女は手際よく食材を包丁で切り進めていった。
蓮はその集中した姿をじっと見つめる。まるで同棲初日の恋人同士が見せるような光景だった。
蓮は体を落ち着けるために何度も姿勢を変える。椅子の上で胡座をかいたり、膝を抱え込んだり、足を伸ばしてみたり。それでも、結局正座が一番落ち着くことが分かった。
その間にも、フライパンで料理が焼かれる音が響き、香ばしい匂いが蓮のお腹を鳴らせた。
「あの、作ってくれてありがとうございます」
ちらりとスミレを見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合った瞬間、蓮は急に恥ずかしくなり目を逸らしたが、それが失礼に思えてもう一度目を合わせた。
「いいのよ。お礼をしたかったって言ったでしょう。それに、あなたが助けてくれなかったら、私はずっとあの森に取り残されていたかもしれないわ」
スミレはそう言うと、両手に料理を持ってリビングのテーブルに並べた。
「気に入らなかったらごめんなさい。食べられるものから食べてね」
机の上には色とりどりの料理が並んでいた。鮮やかな葉物野菜のサラダには、甘酸っぱいドレッシングがかかっている。
コーンスープのような汁物からは、湯気とともに優しいバターの香りが立ち上る。
そして、チキンソテーはパリッと焼き上げられ、ハーブの香ばしい香りが食欲をそそった。
「すごい、美味しそうです」
「ちょっとだけど、召し上がって」
「ありがとうございます!」
蓮は急に自分が正座をしていることに気づき、慌てて足を下ろした。
「ふふっ、蓮って面白いのね」
スミレは楽しげに笑うと、手を合わせた。
蓮は顔が熱くなり、恥ずかしさを誤魔化すように一緒に笑って手を合わせた。
「いただきます」
蓮はまずスープの入った器を手に取り、フーフーと二回ほど息を吹きかける。そして、そっと口をつけ、一口すする。体の隅々に疲れがじんわりと染み渡る感覚が広がった。まるで、徹夜明けにエナジードリンクを飲んだときのような感じだった。そういえば、朝起きてからまだ何も口にしていなかった。
「美味しいです。本当に美味しいです!」
蓮はそう言うと、スープに副菜、主食とおかずを次々と食べ進めていった。
「よかった。疲労回復の効果がある花のエキスを入れているの。効くかは分からないけれど、少しでも元気になればと思って」
「そうだったんですね……。なんだか、優しい味がします。どこか懐かしいというか……」
「懐かしい?」
スミレが首を傾げると、蓮はスプーンを軽く握りしめた。口の中に広がる温かい味が、ふと記憶を呼び起こす。
「はい。久しぶりに、誰かが作ってくれたご飯を食べた気がして」
蓮のその言葉を聞くと、スミレは小さく微笑む。
「ゆっくり食べてていいわよ」
スミレはそう言うと、席を立ち、次の準備を始めた。
「シャワーを浴びてくるわね。あ、覗かないでね?」
蓮は食べていたパンを噛む手を止め、一瞬固まる。
「の、覗きませんよっ!」
蓮は思わず声を上げ、慌てて顔をそらした。頬がじんわりと熱くなるのを感じる。
スミレはクスクスと笑いながら、浴室に向かっていった。
蓮は、そんな彼女がリビングから出ていったのを確認して、肩の力を抜いて、しばらく静かに目を閉じた。
快人やはな美、それに母さん……。大丈夫だろうか。
蓮は、自分が突然いなくなった人間界がどうなっているのかを考えた。快人やはな美のことだから、もしかすると警察沙汰になって、蓮の捜索をしているかもしれない。未彩は、いつまで経っても帰ってこない蓮を心配して泣き崩れているだろう。
蓮は、不安を感じながらも、スミレの手料理をひたすら口に運んだ。食べるたびに味がじわじわと染み込んできて、美味しさが増していった。こんなふうに、誰かの手料理を温かいうちに食べるのは久しぶりだった。
未彩はいつも仕事が忙しく、帰宅が夜中になることが多かったし、珍しく夕方に帰ってきたと思えば、面倒くさいからとコンビニ弁当を買ってきたこともあった。別にそんな生活に不便を感じることはなかったし、蓮にとってはそれが当たり前だった。
スミレの手料理は、未彩との何気ない日常を思い出させる、懐かしい味だった。もしかすると今日も未彩は帰りが遅く、蓮がいないことにまだ気づいていないかもしれない。
蓮の頭の中は、寂しさと不安な気持ちで溢れかけていた。
「ん、もう夜か」
時計のない部屋での時間の流れは、まるで意識の中で溶けていくようだった。彼女が風呂に入っている間、ただただ待っているこの時間。手持ち無沙汰に部屋の隅を見つめることしかできず、空っぽな時間が広がっていく中で、心地よい静けさだけが広がっていた。
その静けさの中で、ふと、自分が手ぶらでここに来てしまったことを思い出す。森に向かったとき、あまりに何も考えず飛び出したせいで、携帯さえ持っていなかった。財布も、手荷物も、何ひとつ。思い返せば無防備にもほどがある。まるで――この世界に来る運命だったかのように。
「異世界転移」なんて言葉が脳裏をかすめる。もしこの世界に、漫画やアニメでよく見る“ステータス画面”があるのだとしたら、自分はきっと「持ち物0、魔力なし、属性なし」――何の面白みもない、ごく平凡な人間として表示されるんだろう。
「はあ……何やってんだろう、俺」
思わずため息が漏れる。冗談のつもりなのに、少しだけ本気で虚しさが滲んだ。
やがて、何かが変わった気がした。風呂の水音が止み、湯気の匂いが薄れていく。静けさが一層深まり、部屋の空気が少しだけ冷えたように感じられた。日が沈んだのだろう。けれど、それがどれほどの時間の経過を意味するのかは、もうわからない。時間の感覚はとうに消え、ただ「待つ」という行為だけがそこにあった。
「大丈夫?」と声をかけられる。
スミレが部屋に戻ってきたのだ。風呂上がりの彼女からは、シャンプーの甘い香りが漂っている。
「あ、おかえりなさい」
「もっと一人の時間が欲しかったかしら?」
スミレは乾かしたばかりであろうサラサラの髪をかきあげると、蓮の顔を覗き込んだ。
蓮は急に視界に入ってきたスミレに、小さな驚きの悲鳴をあげた。
「なっ!」
「ふふ、びっくりした?」
スミレは悪戯っぽく微笑んだ。蓮はそんな彼女の笑顔から目が離せない。
「き、急に近づかないでください!」
「ごめんなさい、だって蓮ってばボーっとしてるんだもの。お風呂、入ってきていいわよ」
スミレは蓮にタオルを渡した。蓮はそれを受け取ると、「ありがとうございます」と言って席を立ち、スミレの方を見て、
「ごちそうさまでした。その、すごく美味しかった」
と言った。自分の言葉が照れくさく感じ、顔を見られないようにしてすぐに風呂場に向かった。