フェリリスの谷 後編
今回で第3章も完結!ありがとうございます!
そしていよいよ長編らしい話数になってきました。
この度ついに第零章「設定集」を作り、投稿しました!今まで未公開だったキャラクターの容姿イラストもアップしています。是非ご覧ください!
母は、しばらくその場で泣き続けていた。
美穂はそっとそばに寄り添い、何も言わずに──ただ、その手を握った。
時間がどれほど経ったかは分からない。
やがて母は、涙を拭い、立ち上がる。
その顔には、まだ悲しみが残っていたが、どこか吹っ切れたような、安らぎがあった。
「ありがとう……美穂」
「……うん」
「あなたが、生きていてくれて……それだけで、私はもう、十分よ」
「……ママ」
「私は、もう行かなきゃ」
その言葉に、美穂の目が揺れる。
「行くって……どこへ?」
母は、微笑んだ。
「分からない。でも、ようやく……あの人と同じ空を見上げられる気がするの」
「……やだ」
美穂は小さく、呟いた。
そして唇を震わせながら言う。
「もうどこにも、行かないで……っ」
母が一歩後ずさると、美穂は慌ててその手を強く握り締めた。
泣きそうな顔を必死にこらえながら、絞り出すように叫ぶ。
「せっかく会えたのに……まだ全然話してないのに……やっと、やっと、ママって呼べたのに……!」
母の目にも、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……ごめんね、美穂。もっと早く……あなたのそばにいてあげたかった」
「じゃあ今いてよ……今からでいいよ……!」
「……だめよ」
母は、優しく微笑んだまま、美穂の手をそっと包み込む。
「あなたは、強くて、優しくて……誰よりも素敵な魔法使いになる。ママが信じてる」
「やだ……!」
美穂は、母の手を離したくなくて、必死にそのぬくもりを握りしめた。
だけど──母の身体が、うっすらと光を帯び始める。
「ママ、お願い、お願いだから、いかないで……っ!!」
涙をこらえきれず、声を上げて泣き叫ぶ美穂に、母は最後の力でその頭を撫でた。
「愛してるわ、美穂。生まれてきてくれて……ありがとう」
その瞬間、光が風に溶けていく。
母の姿が、ゆっくりと淡くなって──消えた。
手の中から、ぬくもりがすうっと抜け落ちていく感覚。
美穂は、崩れ落ちるようにその場に膝をつき、地面に突っ伏して泣き続けた。
誰にも届かず、誰ももう抱きしめてくれない。ただ、空っぽの世界に響くような、寂しさに満ちた泣き声。
いつも強くあろうとしていた少女が、母の腕をもう一度感じたかった少女が──今だけは、ただひとりの娘だった。
オレンジの花びらが、静かに舞い続けていた。
その光景を見つめながら、ホクトが呟く。
「……フェリリスの谷。ここは、死者が彷徨う場所とされている。あのオレンジの花には、あの世に行けずに残された魂が宿ってるんだ」
「そんなっ……じゃあ美穂のお母さんはもう──」
言葉の意味を噛みしめるように、ホクトは険しい顔で続けた。
「でも、美穂の母親は──大丈夫だろうな。きっと、迷わず逝けた」
彼はそう言うと、唇にタバコをくわえ、静かに煙を吐き出した。その目は、遠くを見ているようで、どこか切なげだった。
美穂は、谷の奥にしゃがみこんだまま、動かなかった。肩が小さく震えている。
蓮が声をかけようとしたそのとき──
チャリン、と金属音が響いた。
ホクトが懐から一枚のバッジを取り出し、無造作に美穂の足元へと放った。
「……拾え、美穂」
美穂がゆっくりと顔を上げる。
その目は涙に濡れていたが、確かにホクトを捉えていた。
「泣きたいだけ泣いたなら、次は立て。お前はもう、立派な騎士団員だ」
ホクトの声は低く、穏やかだった。怒鳴り声でも、命令でもない。ただ、まっすぐに彼女を見据える声だった。
美穂は何も言わなかった。
ただ、静かに──バッジを拾い上げる。
そして、ぐっと膝に力を込めて、立ち上がった。
顔にはまだ涙の跡が残っていたが、その表情は、どこかすっきりしていて、前を向いていた。
ホクトはふっと口元だけで笑う。
「行くぞ。……隊長に遅れるなよ」
くるりと背を向け、歩き出すホクトの背中を、美穂はしっかりと目で追い、そして一歩、踏み出す。
蓮もまた、小さく頷き、彼女の後に続いた。
舞い落ちるオレンジの花びらの中、美穂の歩みは、もう決して止まることはなかった。
***
谷を下る風は、昼間よりも少しだけ冷たくなっていた。
橙の花が静かに揺れる中、美穂はゆっくりと歩いていた。後ろに蓮の足音が続いている。
少しして、美穂がぽつりと口を開いた。
「ねえ、蓮」
「ん?」
蓮が隣に並ぶと、美穂は空を見上げたまま、ぽつぽつと話し出した。
「パパに聞いたの。“狭間”のこと。あれって、ただの偶然じゃないんだって」
蓮は少し歩調を緩め、美穂の横顔を見つめる。
「“狭間”は世界の境界だけど、それを越えるには……強い意志とか、特別な力が必要なんだって。歪みによって偶然みたいに現れるけど、それは“誰かの願い”が引き寄せることもある──」
その言葉に、蓮の眉がわずかに動いた。
「……願い、か」
「蓮が架空界に来たのも、偶然じゃないのかもしれない──“何か”を持ってたから、蓮も──」
美穂はそこで言葉を止め、ふっと笑う。
「……ごめん。うまく言えないけど。なんだか、そう聞いて……少しだけ、安心したの」
「安心?」
「うん。私たちの出会いにも、意味があったって思えるから。誰かの想いが、どこかでつながってたのかもしれないって」
蓮はしばらく黙っていたが、小さく息を吐いた。
「……ああ。確かに、わかる気がするよ」
二人の足音が、柔らかな土を踏む音と、ゆっくり混ざり合っていく。
誰かの願いが、狭間を開いたのだとしたら。
この世界で出会った人たちとの縁も、きっと──偶然じゃない。
やがて、ネイトエールの灯りが、遠くに小さく見え始めていた。
《国、地名、用語紹介》
アーラ山脈
王都ネイトエールと妖精国イシュタルの間にある大きな山脈。その中には異種族の共存を象徴する“試練の地”とされるダンジョンがある。通る者には“協力”の証を求められる。
湖上都市メモリア
記憶の街 とも呼ばれる。建物はすべて湖面に浮かび、小舟か水上を歩く魔法を用いて移動する。魔法使いや薬屋が旅の寄り道で通ることが多い、少し大人の雰囲気の都市。
鏡池
メモリアに存在する池。過去、感情を映すと言われている。一定の条件が重なれば、記憶と再接触することも。
妖精国イシュタル
イシュタル災厄から復興を果たした妖精族が暮らす王都。その姫を務めるのはイリアであり、かつてに女王はアンネ。ネイトエールと異種族間をつなぐ『共存同盟』を結ぶ予定。
北区画
イシュタル災厄で失われた土地。現在もそこだけ整備されていない。巨大な樹木が生きており、そのまわりには紫色の花が咲き乱れている。
イシュタル災厄
かつて妖精国が燃え尽くされた事件。火事が広がったと言われている。
フェリリスの谷
死者の魂が集まると言われている谷。
死者と心を通わす薬《死者の呼び声》を作る時に使うオレンジの花が咲き乱れている。




