フェリリスの谷 前編
空が静かだった。雲ひとつない晴天なのに、音も風もなく、世界が息を潜めているようだった。
一歩足を踏み入れた瞬間、美穂は立ち止まる。
谷全体が、オレンジ色の光に包まれていた。風もないのに、ひらひらと舞う花びら。岩肌にはびっしりと、オレンジ色の小さな花々が咲き乱れている。
「……ここだ。間違いない。この匂い……」
小さく呟きながら周囲を見渡す美穂。その目元には、かすかに光るものが浮かんでいた。
蓮たちは後ろで静かに控え、声もかけずに見守っている。
美穂はゆっくりと歩を進め、花々の間にしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばし、一輪の花を摘む。
「この花……“死者の呼び声”に使う素材。使ったことがあるから、覚えてた」
そのとき、風もないのに、花々がざわめいた。
「魔力の痕跡がある」
美穂は立ち上がる。誰かがこの谷で、確かに魔法を使っていた痕跡。それを繊細な感覚が捉えていた。
さらに強く、風もないのに花々が大きく揺れた。
谷の奥。揺れる花の向こうに、ぼんやりと人影が立っている。
目を凝らすと、それは──人だった。
痩せた体。乱れた髪。今にも消えてしまいそうなほど儚げな佇まい。
「……っ」
美穂の喉が詰まる。
(まさか……)
「──美穂」
声が届いた。
確かに記憶にある声。けれど、それは夢の中で何度も聞いた幻のように現実味がなく、まるで霧の中から響くような、遠くて淡い音だった。
美穂は一歩だけ踏み出す。でも、それ以上は進めなかった。
「……ママ?」
名前を呼ぶ声が、かすれた。
影は動かない。ただ、じっとこちらを見ている。
「……あなた、本当に……ママなの?」
問いかけは、祈りと疑いが入り混じった声だった。
「ええ……美穂」
母は、静かに答えた。
「どうして……今になって……」
美穂の目に、じわりと涙が滲む。けれど、体はまだ動かない。動けない。心が追いついてこない。
「どうして……私を、あのとき……」
母は小さく顔を伏せる。
「……怖かったの。あなたまでサタンにやられたら、私は──壊れてしまいそうだったの」
そのまま、母は言葉を続けた。
「だから、手放したの。あなたを強くすることで、自分の手の届かない場所へ……逃がしたかったのよ。私の弱さからも、あの世界の恐ろしさからも」
胸の奥に、熱い何かがこみ上げる。
怒りと、悲しみと、どうしようもない寂しさが絡まり合っていた。
小さな頃、何度も母を探した日々が脳裏をよぎる。泣いても帰ってこなかった背中。会いたかった。ずっと、会いたかったのに。
美穂の声が震える。
「それで……私を、ノワルに……?」
それでも、美穂は叫ばなかった。
言葉にならない感情を、ただ唇を強く噛み、飲み込んだ。
母の表情が歪む。苦しげに、唇を噛みしめる。
「会いたかった……何度もそう思った。けど……私はあなたをノワルに捨てたの。もう、会う資格なんて、私には……」
その瞬間、堰を切ったように、美穂が走り出した。
花をかき分け、足を取られても、よろけながらも、まっすぐに。
「確かに私はママを恨んだこともあった。ノワルでの日々は、過酷で、苦しかった。でも──それでも、ママに会いたかった」
母の目が大きく見開かれる。
美穂は、そのまま彼女を抱きしめた。勢いのある抱擁だった。思いのままに、胸に顔を押し付ける。
「……本当に、ママなんだよね?」
「……ええ」
「だったら……今、ここにいてよ」
母の腕が、おそるおそる、美穂の背に回る。しばらくの迷いのあと、やっとその手に力がこもる。
「ごめんね……美穂。あなたを、置いていってしまって……」
「もう……そんなの、どうでもいい。今、会えたから。それより、どうしてここにいるの?」
母は少し顔を上げ、声を絞るように言った。
「私はね、この花を使って……“死者の呼び声”を作ろうとしてたの。私は……あの人に会いたいの。ちゃんと話がしたいのよ」
「……パパのこと?」
母は、こくりと頷いた。
「サタンに奪われた。あんな無残な形で。でもね、それでも……あの人に……会いたくて。謝りたくて。伝えたくて……」
声が震え、花を握る指に力が入りすぎて、茎がぷつりと千切れる。血がにじんでも、母は気づかない。
「私が……もっと強ければ……! あの人を、守れたのに……!」
突然、地面に膝をつき、泣き出しそうになる。
「なんで、なんで……なんであの人が死んで、私は生きてるの……っ?」
美穂は母を見つめ、ぎゅっと自分の胸を押さえる。
(……私が、冷静にならなきゃ)
感情に呑まれそうになる自分を必死に抑え、深く息を吸い込む。
(こんな時こそ、私は魔法使いで、娘なんだ)
「ママ……でも、もういないんだよ、パパは……」
その言葉を口にした瞬間、胸が締めつけられる。
「分かってる……でも、わかりたくないのよ……! それでも……あの人に、もう一度だけ……!」
母は頭を抱え、花を踏みつけてしゃがみ込む。
「お願い、美穂……お願いだから……薬を……もう、自分じゃ作れなかったの。魔力が足りなくて……でも、あなたなら……できるでしょう?」
美穂は黙って母を見つめた。
(もし、ここで薬を渡したら……ママは、また何かを失ってしまうかもしれない)
そんなことを思った時、ふと、背後から声が聞こえる。
「……美穂」
すぐそばにいた蓮が、低く声をかけた。
「あの薬……“死者の呼び声”……今使うべきなんじゃないのか?」
蓮は懐から、小さな瓶を取り出す。
澄んだ紫色の液体。薬草と魔力の調合によって完成した、美穂が作った唯一の薬。
「美穂の判断に任せる。でも、後悔しない方を選べよ」
美穂はしばらく蓮を見つめた後、そっと頷く。その指が、震えながらも瓶を掴んだ。
蓮は何も言わなかった。ただ、美穂の決意を尊重するように、目を伏せ──そして、そっと背を向けて歩き出した。
美穂はそっと小瓶を手に取り、静かに立ち上がった。
その中に揺れる紫色の液体は、まるで過去の記憶を閉じ込めたように、どこか懐かしい色をしていた。
分かっている。薬を使えば、五分だけ魂と繋がれる。でも、相手は死者。もう戻らない人。会えば、もっと辛くなるかもしれない。絶望に沈むかもしれない。
けれど──
(……それでも、会いたいなら)
「……この薬は、一度きりしか使えない。効果は五分。パパが本当に来てくれるかも分からない。それでも、使いたい?」
母は、涙に滲んだ瞳を見開き、声を震わせながら答える。
「それでも……もう一度だけ、会いたいの。たとえ……幻だったとしても」
美穂は、静かに息を吐いた。
そして──瓶の栓を開け、花々の中心にそっと薬を垂らした。
紫色の液体が、オレンジの花びらに染み込んでいく。
風が吹いた。
今まで静まり返っていた谷に、優しい風が舞い、花々がざわめく。
淡い光が、花の中心から立ち上がり、やがてひとつの影を形作っていく。
──それは、男の人だった。
柔らかな笑みを浮かべ、光の中で微笑むその姿に、母は震える声を上げた。
「……あなた……?」
男は、確かに微笑んだ。
黒髪、優しげな目元。どこか美穂に似た面影がある。
「久しぶりだね」
その声は、確かに聞き覚えのある──優しく、温かい、懐かしい声だった。
母は、何かを押し殺すようにして一歩踏み出す。そして、そっと手を伸ばした。
けれど、その手は彼に触れることなく、光をすり抜ける。
「……そんな……」
母の足元が、ふらりと揺れた。そして声が震えた。
「……ごめんなさい」
続けて、ぽつりと、母が呟いた。
「私、あなたを守れなかった。美穂を……置いていってしまった。あなたを失ったのに、私は生きていて……ずっと、ずっと、後悔してた……」
男は、ただ静かに首を振った。
「ありがとう。君が、美穂を生かしてくれたことに、感謝してる」
その言葉に、母の目からぽろりと涙が落ちた。
「私は……何もしてない。何一つ、守れなかった」
「それでも、君は前に進んだ。美穂は強く育って、こうして君のそばに戻ってきた。君の願いは、ちゃんと届いたんだよ」
母は、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、声を殺して泣いた。
「……パパ……」
美穂が、呆然と呟く。
まるで時間が止まったように、呼吸さえも忘れてしまう。
男の目が、美穂を見た。
「……美穂か」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「……大きくなったなぁ」
その目には、確かに愛情が宿っていた。
何年も、何十年も会えなかった時間を、たった一言で埋めるような優しさ。
美穂は唇をきゅっと噛みしめた。
「なんで……」
涙が止まらなかった。
「なんで……死んじゃったの……!」
その問いは、責めるようでいて、ただ深い悲しみに沈んでいた。
父は静かに目を閉じた。
「守りたかった。ユナと、美穂を……それだけだったんだ」
母は声を震わせながら言った。
「美穂、あなた、本当にごめんなさい……私が、あのとき──」
「違うよ、ユナ。君のせいじゃない」
父はそっと歩み寄る。
「君は、ずっと頑張ってきた。……辛かっただろう。君は、本当に強い人だ」
母は顔を伏せ、肩を震わせた。
「私は……逃げたのよ……あなたがいないことに耐えられなくて、美穂からも……」
父は優しく微笑む。
「でも、君は戻ってきた。美穂に、ちゃんと会えたじゃないか。それが、なによりの答えだよ」
その言葉のひとつひとつが、心に深く染み込んでいく。
そして、父は美穂の前にしゃがみ込み、そっと目線を合わせた。
「美穂」
やさしく名を呼ばれる。
「君は、立派に生きてきた。……ありがとう」
その一言で、美穂の堪えていた想いが決壊した。
父にしがみつく。
「会いたかった……っ……ずっと……!」
幻のような体温──それでも、たしかにそこにある温もりを、美穂は感じていた。
父は静かに抱きしめ返す。
「……ごめんな。そばにいてやれなくて」
「ううん……もういいの。今、こうして……抱きしめてくれるだけで……」
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
父の輪郭が、少しずつ淡く揺らぎ始める。
「……時間が、来たみたいだ」
母が目に涙を浮かべながら言う。
「待って、あなたっ……!」
叫びとともに、母は咄嗟にその腕にすがりついた。
時間を止めるかのように、必死に、離れたくないと願って。
「もう少しだけ……もう少しだけでいいから……っ」
その願いに、父は微笑みながら、そっと母の髪を撫でた。
「ありがとう、ユナ……ずっと君のことが、愛おしかったよ」
母は泣き崩れながら、彼の胸に顔を埋めた。
けれどその胸は、もう光となって、少しずつ世界から溶けていく。
父は、もう一度だけ美穂を見つめた。
その瞳が、ふっと優しく細められる。
「……待って、パパ」
美穂の声に、父は少し顔を上げ、美穂を見つめる。
「パパに、どうしても聞きたいことがあるの。……私の友達が、知りたがってて」
美穂は、少し早口に、それでも確かな意思を込めて言った。
「どうして、パパは……ママと出会えたの? それに、“狭間”を、どうやって通ったの?」
父は、少し驚いたようにまばたきをしたあと、微笑んだ。
「……“狭間”か。あれは、ただの“空間の歪み”じゃない。強い意志や、ある種の特別な力を持った者じゃないと通れないんだ。偶然のように見えても、実は“誰かの願い”が引き寄せていることがある」
「……誰かの、願い……」
小さくつぶやく美穂に、父は頷いた。
「俺がユナと出会えたのも、きっと……何かの願いが導いたんだ。そして、美穂。君がここにいるのも──意味があることなんだよ」
ほんの一瞬、父の視線が遠くの空を見つめた気がした。
そして、もう一度だけ美穂に向き直る。
「美穂……君は、ひとりじゃない。たくさんの人に愛されてる。それを、忘れないで」
「待って……!」
美穂の手が伸びたが、彼には届かない。
最後に──懐かしい微笑みを浮かべて、父の姿は光となって空へと溶けていった。
谷に、静けさが戻る。
風は、さっきまでよりも少しだけ、あたたかく吹いていた。




