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狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第3章 魔法の光は過去を映す
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フェリリスの谷 前編

 空が静かだった。雲ひとつない晴天なのに、音も風もなく、世界が息を潜めているようだった。


 一歩足を踏み入れた瞬間、美穂は立ち止まる。


 谷全体が、オレンジ色の光に包まれていた。風もないのに、ひらひらと舞う花びら。岩肌にはびっしりと、オレンジ色の小さな花々が咲き乱れている。


「……ここだ。間違いない。この匂い……」


 小さく呟きながら周囲を見渡す美穂。その目元には、かすかに光るものが浮かんでいた。

 蓮たちは後ろで静かに控え、声もかけずに見守っている。

 美穂はゆっくりと歩を進め、花々の間にしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばし、一輪の花を摘む。


「この花……“死者の呼び声”に使う素材。使ったことがあるから、覚えてた」


 そのとき、風もないのに、花々がざわめいた。


「魔力の痕跡がある」


 美穂は立ち上がる。誰かがこの谷で、確かに魔法を使っていた痕跡。それを繊細な感覚が捉えていた。


 さらに強く、風もないのに花々が大きく揺れた。

 谷の奥。揺れる花の向こうに、ぼんやりと人影が立っている。

 目を凝らすと、それは──人だった。

 痩せた体。乱れた髪。今にも消えてしまいそうなほど儚げな佇まい。


「……っ」


 美穂の喉が詰まる。


(まさか……)


「──美穂」


 声が届いた。


 確かに記憶にある声。けれど、それは夢の中で何度も聞いた幻のように現実味がなく、まるで霧の中から響くような、遠くて淡い音だった。

 美穂は一歩だけ踏み出す。でも、それ以上は進めなかった。


「……ママ?」


 名前を呼ぶ声が、かすれた。

 影は動かない。ただ、じっとこちらを見ている。


「……あなた、本当に……ママなの?」


 問いかけは、祈りと疑いが入り混じった声だった。


「ええ……美穂」


 母は、静かに答えた。


「どうして……今になって……」


 美穂の目に、じわりと涙が滲む。けれど、体はまだ動かない。動けない。心が追いついてこない。


「どうして……私を、あのとき……」


 母は小さく顔を伏せる。


「……怖かったの。あなたまでサタンにやられたら、私は──壊れてしまいそうだったの」


 そのまま、母は言葉を続けた。


「だから、手放したの。あなたを強くすることで、自分の手の届かない場所へ……逃がしたかったのよ。私の弱さからも、あの世界の恐ろしさからも」


 胸の奥に、熱い何かがこみ上げる。

 怒りと、悲しみと、どうしようもない寂しさが絡まり合っていた。

 小さな頃、何度も母を探した日々が脳裏をよぎる。泣いても帰ってこなかった背中。会いたかった。ずっと、会いたかったのに。


 美穂の声が震える。


「それで……私を、ノワルに……?」


 それでも、美穂は叫ばなかった。

 言葉にならない感情を、ただ唇を強く噛み、飲み込んだ。

 母の表情が歪む。苦しげに、唇を噛みしめる。


「会いたかった……何度もそう思った。けど……私はあなたをノワルに捨てたの。もう、会う資格なんて、私には……」


 その瞬間、堰を切ったように、美穂が走り出した。

 花をかき分け、足を取られても、よろけながらも、まっすぐに。


「確かに私はママを恨んだこともあった。ノワルでの日々は、過酷で、苦しかった。でも──それでも、ママに会いたかった」


 母の目が大きく見開かれる。

 美穂は、そのまま彼女を抱きしめた。勢いのある抱擁だった。思いのままに、胸に顔を押し付ける。


「……本当に、ママなんだよね?」


「……ええ」


「だったら……今、ここにいてよ」


 母の腕が、おそるおそる、美穂の背に回る。しばらくの迷いのあと、やっとその手に力がこもる。


「ごめんね……美穂。あなたを、置いていってしまって……」


「もう……そんなの、どうでもいい。今、会えたから。それより、どうしてここにいるの?」


 母は少し顔を上げ、声を絞るように言った。


「私はね、この花を使って……“死者の呼び声”を作ろうとしてたの。私は……あの人に会いたいの。ちゃんと話がしたいのよ」


「……パパのこと?」


 母は、こくりと頷いた。


「サタンに奪われた。あんな無残な形で。でもね、それでも……あの人に……会いたくて。謝りたくて。伝えたくて……」


 声が震え、花を握る指に力が入りすぎて、茎がぷつりと千切れる。血がにじんでも、母は気づかない。


「私が……もっと強ければ……! あの人を、守れたのに……!」


 突然、地面に膝をつき、泣き出しそうになる。


「なんで、なんで……なんであの人が死んで、私は生きてるの……っ?」


 美穂は母を見つめ、ぎゅっと自分の胸を押さえる。


(……私が、冷静にならなきゃ)


 感情に呑まれそうになる自分を必死に抑え、深く息を吸い込む。


(こんな時こそ、私は魔法使いで、娘なんだ)


「ママ……でも、もういないんだよ、パパは……」


 その言葉を口にした瞬間、胸が締めつけられる。


「分かってる……でも、わかりたくないのよ……! それでも……あの人に、もう一度だけ……!」


 母は頭を抱え、花を踏みつけてしゃがみ込む。


「お願い、美穂……お願いだから……薬を……もう、自分じゃ作れなかったの。魔力が足りなくて……でも、あなたなら……できるでしょう?」


 美穂は黙って母を見つめた。


(もし、ここで薬を渡したら……ママは、また何かを失ってしまうかもしれない)


そんなことを思った時、ふと、背後から声が聞こえる。


「……美穂」


 すぐそばにいた蓮が、低く声をかけた。


「あの薬……“死者の呼び声”……今使うべきなんじゃないのか?」


 蓮は懐から、小さな瓶を取り出す。


 澄んだ紫色の液体。薬草と魔力の調合によって完成した、美穂が作った唯一の薬。


「美穂の判断に任せる。でも、後悔しない方を選べよ」


 美穂はしばらく蓮を見つめた後、そっと頷く。その指が、震えながらも瓶を掴んだ。

 蓮は何も言わなかった。ただ、美穂の決意を尊重するように、目を伏せ──そして、そっと背を向けて歩き出した。


 美穂はそっと小瓶を手に取り、静かに立ち上がった。

 その中に揺れる紫色の液体は、まるで過去の記憶を閉じ込めたように、どこか懐かしい色をしていた。


分かっている。薬を使えば、五分だけ魂と繋がれる。でも、相手は死者。もう戻らない人。会えば、もっと辛くなるかもしれない。絶望に沈むかもしれない。


 けれど──


(……それでも、会いたいなら)


「……この薬は、一度きりしか使えない。効果は五分。パパが本当に来てくれるかも分からない。それでも、使いたい?」


 母は、涙に滲んだ瞳を見開き、声を震わせながら答える。


「それでも……もう一度だけ、会いたいの。たとえ……幻だったとしても」


 美穂は、静かに息を吐いた。

 そして──瓶の栓を開け、花々の中心にそっと薬を垂らした。

 紫色の液体が、オレンジの花びらに染み込んでいく。


 風が吹いた。


 今まで静まり返っていた谷に、優しい風が舞い、花々がざわめく。

 淡い光が、花の中心から立ち上がり、やがてひとつの影を形作っていく。

 ──それは、男の人だった。

 柔らかな笑みを浮かべ、光の中で微笑むその姿に、母は震える声を上げた。


「……あなた……?」


 男は、確かに微笑んだ。

 黒髪、優しげな目元。どこか美穂に似た面影がある。


「久しぶりだね」


 その声は、確かに聞き覚えのある──優しく、温かい、懐かしい声だった。

 母は、何かを押し殺すようにして一歩踏み出す。そして、そっと手を伸ばした。

 けれど、その手は彼に触れることなく、光をすり抜ける。


「……そんな……」


 母の足元が、ふらりと揺れた。そして声が震えた。


「……ごめんなさい」


 続けて、ぽつりと、母が呟いた。


「私、あなたを守れなかった。美穂を……置いていってしまった。あなたを失ったのに、私は生きていて……ずっと、ずっと、後悔してた……」


 男は、ただ静かに首を振った。


「ありがとう。君が、美穂を生かしてくれたことに、感謝してる」


 その言葉に、母の目からぽろりと涙が落ちた。


「私は……何もしてない。何一つ、守れなかった」


「それでも、君は前に進んだ。美穂は強く育って、こうして君のそばに戻ってきた。君の願いは、ちゃんと届いたんだよ」


 母は、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、声を殺して泣いた。


「……パパ……」


 美穂が、呆然と呟く。

 まるで時間が止まったように、呼吸さえも忘れてしまう。

 男の目が、美穂を見た。


「……美穂か」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


「……大きくなったなぁ」


 その目には、確かに愛情が宿っていた。

 何年も、何十年も会えなかった時間を、たった一言で埋めるような優しさ。

 美穂は唇をきゅっと噛みしめた。


「なんで……」


 涙が止まらなかった。


「なんで……死んじゃったの……!」


 その問いは、責めるようでいて、ただ深い悲しみに沈んでいた。

 父は静かに目を閉じた。


「守りたかった。ユナと、美穂を……それだけだったんだ」


 母は声を震わせながら言った。


「美穂、あなた、本当にごめんなさい……私が、あのとき──」


「違うよ、ユナ。君のせいじゃない」


 父はそっと歩み寄る。


「君は、ずっと頑張ってきた。……辛かっただろう。君は、本当に強い人だ」


 母は顔を伏せ、肩を震わせた。


「私は……逃げたのよ……あなたがいないことに耐えられなくて、美穂からも……」


 父は優しく微笑む。


「でも、君は戻ってきた。美穂に、ちゃんと会えたじゃないか。それが、なによりの答えだよ」


 その言葉のひとつひとつが、心に深く染み込んでいく。


 そして、父は美穂の前にしゃがみ込み、そっと目線を合わせた。


「美穂」


 やさしく名を呼ばれる。


「君は、立派に生きてきた。……ありがとう」


 その一言で、美穂の堪えていた想いが決壊した。

 父にしがみつく。


「会いたかった……っ……ずっと……!」


 幻のような体温──それでも、たしかにそこにある温もりを、美穂は感じていた。

 父は静かに抱きしめ返す。


「……ごめんな。そばにいてやれなくて」


「ううん……もういいの。今、こうして……抱きしめてくれるだけで……」


 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 父の輪郭が、少しずつ淡く揺らぎ始める。


「……時間が、来たみたいだ」


 母が目に涙を浮かべながら言う。


「待って、あなたっ……!」


 叫びとともに、母は咄嗟にその腕にすがりついた。

 時間を止めるかのように、必死に、離れたくないと願って。


「もう少しだけ……もう少しだけでいいから……っ」


 その願いに、父は微笑みながら、そっと母の髪を撫でた。


「ありがとう、ユナ……ずっと君のことが、愛おしかったよ」


 母は泣き崩れながら、彼の胸に顔を埋めた。

 けれどその胸は、もう光となって、少しずつ世界から溶けていく。


 父は、もう一度だけ美穂を見つめた。

 その瞳が、ふっと優しく細められる。


「……待って、パパ」


 美穂の声に、父は少し顔を上げ、美穂を見つめる。


「パパに、どうしても聞きたいことがあるの。……私の友達が、知りたがってて」


 美穂は、少し早口に、それでも確かな意思を込めて言った。


「どうして、パパは……ママと出会えたの? それに、“狭間”を、どうやって通ったの?」


 父は、少し驚いたようにまばたきをしたあと、微笑んだ。


「……“狭間”か。あれは、ただの“空間の歪み”じゃない。強い意志や、ある種の特別な力を持った者じゃないと通れないんだ。偶然のように見えても、実は“誰かの願い”が引き寄せていることがある」


「……誰かの、願い……」


 小さくつぶやく美穂に、父は頷いた。


「俺がユナと出会えたのも、きっと……何かの願いが導いたんだ。そして、美穂。君がここにいるのも──意味があることなんだよ」


 ほんの一瞬、父の視線が遠くの空を見つめた気がした。

 そして、もう一度だけ美穂に向き直る。


「美穂……君は、ひとりじゃない。たくさんの人に愛されてる。それを、忘れないで」


「待って……!」


 美穂の手が伸びたが、彼には届かない。


 最後に──懐かしい微笑みを浮かべて、父の姿は光となって空へと溶けていった。


 谷に、静けさが戻る。

 風は、さっきまでよりも少しだけ、あたたかく吹いていた。

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― 新着の感想 ―
狭間の謎が少しずつ輪郭を帯びてきましたけど、蓮を引き寄せたのが何だったのか……まだまだミステリアスな部分がとても気になるので、今後も楽しみです。 (╹▽╹)
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