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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第3章 魔法の光は過去を映す
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面影

 蓮はイリアの部屋に通された。

 白を基調としたその空間は、柔らかな陽光に包まれ、王族の部屋にしては驚くほど飾り気がなかった。けれど、丁寧に整えられた調度品の一つひとつに、彼女の人柄が滲んでいるようにも見えた。


「来てくださって、ありがとうございます」


 イリアは微笑みながら蓮に紅茶を差し出すと、自らも向かいの椅子に腰を下ろす。どこか張り詰めたような空気を纏いながら、ゆっくりと口を開いた。


「……蓮さま。少し、個人的なお話をしてもよろしいかしら?」


「ええ、もちろん」


「先日の会談で、“北区画には近づかないように”とお願いしましたわね。そして私は……あの時、“詳しくは知らない”と申し上げました」


 蓮は静かに頷いた。イリアの瞳が、ほんのわずかに揺れていた。


「実際、記録はほとんど残っていません。けれど──私は、あの場所に何かが“ある”と感じているのです」


「……何か、とは」


「言葉にするのは難しいのですが……。あそこは、過去に誰かの“想い”が封じられた場所のように思えるのです。……強くて、深くて、けれど誰にも理解されないまま、ずっとそこに残されている」


 その言葉に、蓮は思わず息を呑んだ。


「ホクト様には……言えないのです。あの方はまっすぐな人だから。きっと“正しい手段”を選ぼうとする。でも、そこにあるものは、ただの“正しさ”だけでは測れない気がして……」


「そこにある“何か”を、あなたは守りたいんですね」


「……ええ」


 イリアの声が、わずかに震えていた。


「……蓮さま。あなたには、分かる気がしますの。あの場所にあるものを、きっとただ“怖い”とか“危険”とか、そんな言葉だけで切り捨てたりしない……そんな気がして。だから……あなたにだけ、お話しました」


 そう言ったイリアは、そっと椅子から身を乗り出し、窓の方へと視線を移した。


「……あちらをご覧になって」


 蓮もつられるように視線を向ける。窓の向こうには、遠くに広がる王都の街並みと、そのさらに奥──


 ひときわ異様な空間が、静かに横たわっていた。


 かつてイシュタルの災厄で失われた土地。今もなお整備されず、人の手も届かぬまま、まるで誰かに見捨てられたように、ひっそりと隔離されている。


 その地を取り巻くように、一面、紫色の花々が無数に咲き乱れていた。風に揺れるその花々は、どこか冷徹で不気味で、まるでこの荒れ果てた大地に生えること自体が、自然の法則に背いているかのように感じられた。


 花の色は、やけに深く、暗く──そしてその香りが、ほのかに漂っては消えていく様子が、何とも言えぬ不安感を呼び起こす。まるでそこに眠る“何か”を隠すかのように、花々が広がっている。


 そして、ただ一つ、荒れ果てた大地に不釣り合いなほど、巨大な樹木が天を貫くように聳え立っていた。その樹は、枯れることなく今もなお生き続けており、ひどく異質な存在感を放っていた。根元からは、まるで何かが這い出してきそうな気配すら感じる。


 ──あれが、北区画。


「あの場所には、決して触れてはならないものが眠っているような気がして……けれど、それでも……」


 イリアはゆっくりと指先を窓辺に伸ばし、かすかに北の方角を指さした。


「誰かが、忘れたくなかった“想い”が、確かにそこにある気がするのです」


 その横顔は、まるで遠い昔を見つめるかのように静かだった。


 しばしの沈黙が、部屋の空気に溶け込む。

 やがてイリアは、そっと視線を逸らし、部屋の壁の一角を見つめた。蓮もつられるように、同じ方向へと目を向ける。


 そこには、一枚の古びた写真が飾られていた。窓の景色から見えたものと同じ、紫の花々を背景に──小さな少女たちと、その後ろに立つ男女。

 あの、不気味なほど静かに咲き乱れていた花が、そこではまるで別物のように、どこか優しく見えた。


 自然と目が、白髪の少女に吸い寄せられる。


「スミレよ」


 背後から聞こえたイリアの声に、心臓が跳ねた。


「……え?」


「この写真に咲いている花の名前。“スミレ”というの」


「ああ、花の……名前、ですか」


 蓮は写真に映る紫の花に目を留めながら、静かに呟いた。


「……スミレの花、人間界でも見たことがあります。まさか、架空界にも咲いてるなんて思いませんでした」


 イリアが少し目を細め、微笑を浮かべる。


「まあ、そうなの。……不思議ですわね。二つの世界を越えて、同じ花が咲いているなんて」


「……境界を越えて咲く花、ですか。なんだか、ロマンチックですね」


 イリアは、ふっと視線を落として続けた。


「子供の頃の写真ですの。……もう随分昔になりますけれど」


 蓮は黙ったまま、写真を見つめた。

 ──まさか。

 目の前の少女。その笑顔。その雰囲気。どこかで──いや、何度も見た気がする。


「……きれいな写真ですね」


 喉がひどく乾いていた。蓮は紅茶に手を伸ばし、ひと口だけ流し込む。

 しばらくの沈黙のあと、イリアはふっと目を細めて言った。


「……あなたと話していると、なぜか昔の夢を見ているような気持ちになりますわ」


「夢、ですか?」


「ええ。……大切な誰かが、もう一度会いに来てくれたような……そんな気がして。だからあなたに、話しましたの」


 蓮は何も言えなかった。

 ただ心の中で、“スミレ”の名をもう一度、そっと呼んだ。

 静寂を破ったのは、イリアの穏やかな声だった。


「……今日が、旅立ちの日ですわよね?」


 蓮は、はっとして振り返る。


「ホクトさま方、きっと今ごろ城門のあたりでお待ちになっているかと。ふふ、私にあなたを引き止める時間は、あまり残されていないみたい」


 蓮はゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


 イリアは優しく微笑んで、頷き返す。


「また、いつでも来て。あなたと話すと、なぜか心がほどける気がするの。……不思議ね」


 イリアの部屋を後にした蓮は、ゆっくりと廊下を歩いていた。

 扉が閉まる音が遠くで響いた気がした。だが、それすらも曖昧になるほど、頭の中はさっきの写真でいっぱいだった。


 ──白髪の少女。あの笑顔。あの目。


 蓮は、心の中に確かに刻まれている“スミレ”の姿を思い浮かべた。静かに微笑む彼女。どこか哀しげで、でも優しさに満ちた表情。


 ──似ていた。あの少女は……。


 蓮は立ち止まり、手すりに寄りかかって空を見上げた。


「……まさかな」


 そう呟いてみたが、自分の中で何かが確かに震えていた。偶然の一致にしては、出来すぎている。

 だが、スミレが妖精国の王族だった? 本当に? そんなはずは──


「……でも、イリア姫……どこか、似てるんだよな」


 見た目も、声も違う。けれど、ほんの時折に覗くあの表情や口調の端々に、スミレを思い出させる何かがある。

 蓮は胸を押さえた。妙な高鳴りを、無理やり落ち着けるように。


「……会いたいな、スミレ」


 ぽつりと漏れた声が、春の風にさらわれていった。

 遠くで誰かの笑い声が聞こえる。朝市の活気が城の外から届いてくる。

 だが蓮の心は、どこか遠くへ引き寄せられていた。


 ──もし、あの写真の中の少女が本当に“彼女”だったのだとしたら──

 そう思った瞬間、胸が痛くなった。


「……まさかな」


 ──もう一度そう呟いたが、心の奥に生まれた小さな確信は、静かに、しかし確かに根を張っていくようだった。


「……あの場所をご覧になったようですね」


 突如、背後から静かな声がした。蓮がはっとして振り返ると、そこには長い廊下の端に佇む一人の男がいた。

 まるで最初からそこにいたかのように、微動だにせず、ただこちらを見ている。


 ──ザイラス宰相。


 冷ややかな双眸と、無表情の面差し。気配すらなかったはずなのに、その存在は確かにそこにあった。


「……あなたは、ザイラス宰相」


「はい」


 彼は一歩、ゆっくりと蓮の方へと足を運ぶ。靴音が石造りの廊下に、乾いた音を刻んだ。


「姫とは、何を話されました?」


「……ただ、少し、昔のことを」


 蓮の言葉に、ザイラスの目がわずかに細められた。その奥で、何かがかすかに揺れたように見えた。


「過去は、残すべきではありません。特に北区画──あのような場所の記憶は」


「……あなたは、あそこに何があると思ってるんですか?」


 蓮が問いかけると、ザイラスは一拍の間を置いてから、低い声で応えた。


「あそこは、いわば地獄のような場所です。……手を触れれば、きっとまた火がつく」


「それでも、姫は言っていました。あそこには、誰かの想いがあるかもしれないって」


 ザイラスはふと足を止め、ほんのわずかに視線をそらす。だがすぐに、蓮に向き直り、低く囁いた。


「──それが厄災を呼ぶのです。“信じる”という行為が、時に取り返しのつかない扉を開く」


 それきり彼は踵を返し、無言のまま歩き去っていった。

 その背中からは、感情も気配も感じられない。ただ冷たい風のように、通り過ぎていっただけだった。


 蓮はその場に立ち尽くす。

 まるで、自分の思考が読まれていたような──そんな不気味な感覚だけが、胸に残っていた。


 ***


 数時間後、出発の準備を終えた蓮は、城門へと向かっていた。

 澄み渡る空の下、イシュタルの街はいつものように活気に満ちていたが、蓮の胸には静かな余韻が残っていた。イリアの言葉、あの写真、そして、あの少女の面影。


 ──スミレ。


 名前を心の中で繰り返しながら、蓮は足を止めることなく歩き続けた。

 やがて城門が見えてくる。そのすぐ外には、見慣れた三つの影が立っていた。

 ひときわ背の高いホクト。その横で姿勢よく立つミネル。そして、その隣には魔法の杖を手にした美穂の姿があった。


「おーい、おまたせー!」


 蓮の声が風に乗って届く。彼は軽く手を振りながら、そのまま駆け寄っていった。


「遅い。何をしていた」


 腕を組んだままのホクトが、淡々とした口調で言う。


「いや、ちょっといろいろあってさ……」


 蓮が曖昧に笑うと、美穂が小さく首をかしげながら近づいてきた。


「蓮、少しいつもと雰囲気が違う?」


「そうか?」


 不思議そうに蓮が目を瞬かせると、美穂は一瞬だけじっと彼の顔を見つめ、ふっと微笑んだ。


「ま、いいや。後でゆっくり話したい」


「……うん」


 そのやりとりを聞いていたホクトが、辺りをぐるりと見渡しながら声を落とす。


「……もう、ここに用はないだろう。そろそろ出るぞ」


 その言葉に、蓮は自然と振り返っていた。背後にはイシュタルの城。あの姫の微笑みと、静かな部屋で見た一枚の写真が脳裏に浮かぶ。


 ──今はまだ話す時じゃない。


 蓮は胸の奥に芽生えた思いをそっと押し込め、軽く息を吐いて皆に頷いた。


「うん、行こう」


 その時だった。城の中から、聞き慣れた声が響いてくる。


「おーい! 蓮!」

「蓮!」


 快人とはな美だ。

 蓮は二人の姿を見て、胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。懐かしくて、愛しくて、だからこそ、別れが少しだけつらくなる。

 快人は蓮にまっすぐ向き合い、真剣な眼差しで手を差し出す。


「蓮、生きて帰れよ。それでまた、必ず会おう」


「ん、わかった」


 蓮は小さく笑い、しっかりとその手を握り返す。


「絶対だ。約束だぞ」


「ああ、約束だ」


 そのやりとりの傍で、はな美がそっと近づいてきた。


「蓮、行ってらっしゃい」


 そう言って、快人と蓮の握る手の上に、自分の手をそっと重ねた。

 そのぬくもりが、言葉よりも深く、蓮の心に染み込んでいく。

 三人の手がしばらく重なったまま、誰も何も言わなかった。

 けれど、それだけで充分だった。

 静かで温かい時間のあと、蓮は名残惜しさを胸に抱きつつも、ホクトたちの方へと向き直る。


「……行こう」


 その背を、快人とはな美が見送る。

 春の風が、三人の間をそっと通り抜けていった。


 ***


 一行はイシュタルの城門を背に森の道を進んでいた。

 誰もが次なる目的地へと気を向ける中、不意に、美穂が口を開いた。


「ねえ……寄りたい場所があるの。ちょっとだけ、いいかな」


 その声に、全員の足が止まる。


「フェリリスの谷。……“オレンジの花が咲く場所”って、呼ばれてる場所なんだけど」


 美穂はそう言って、視線を伏せたまま、小さく息を吐いた。


「メモリアで見たママの姿が、忘れられないの。きっと……ママはそこにいる気がして」


 彼女の声はかすかに震えていたが、その瞳には確かな決意が宿っていた。


 しばらく沈黙が落ちたのち、ホクトが口を開く。


「……フェリリスの谷、か。あそこは西の山沿いを越えて、森を抜けた先にある。遠回りにはなるが……悪くない選択だ」


 ホクトが短くそう言うと、誰も反対の言葉はなかった。


「じゃあ、決まりだな」


 蓮が微笑みながらうなずき、美穂の隣に立った。


「ありがとう……蓮」


 美穂の呟きが、風に溶けて消えていく。

 そして再び、旅の足音が静かに始まった。


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― 新着の感想 ―
イシュタル滞在は何とも慌ただしい感じでしたけど、収穫は多かったように思います。 スミレのルーツにも触れられたし、改めて再会を誓う二人との約束も出来たし。 スミレとの関係が今後どうなるのかも気になるエピ…
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