面影
蓮はイリアの部屋に通された。
白を基調としたその空間は、柔らかな陽光に包まれ、王族の部屋にしては驚くほど飾り気がなかった。けれど、丁寧に整えられた調度品の一つひとつに、彼女の人柄が滲んでいるようにも見えた。
「来てくださって、ありがとうございます」
イリアは微笑みながら蓮に紅茶を差し出すと、自らも向かいの椅子に腰を下ろす。どこか張り詰めたような空気を纏いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……蓮さま。少し、個人的なお話をしてもよろしいかしら?」
「ええ、もちろん」
「先日の会談で、“北区画には近づかないように”とお願いしましたわね。そして私は……あの時、“詳しくは知らない”と申し上げました」
蓮は静かに頷いた。イリアの瞳が、ほんのわずかに揺れていた。
「実際、記録はほとんど残っていません。けれど──私は、あの場所に何かが“ある”と感じているのです」
「……何か、とは」
「言葉にするのは難しいのですが……。あそこは、過去に誰かの“想い”が封じられた場所のように思えるのです。……強くて、深くて、けれど誰にも理解されないまま、ずっとそこに残されている」
その言葉に、蓮は思わず息を呑んだ。
「ホクト様には……言えないのです。あの方はまっすぐな人だから。きっと“正しい手段”を選ぼうとする。でも、そこにあるものは、ただの“正しさ”だけでは測れない気がして……」
「そこにある“何か”を、あなたは守りたいんですね」
「……ええ」
イリアの声が、わずかに震えていた。
「……蓮さま。あなたには、分かる気がしますの。あの場所にあるものを、きっとただ“怖い”とか“危険”とか、そんな言葉だけで切り捨てたりしない……そんな気がして。だから……あなたにだけ、お話しました」
そう言ったイリアは、そっと椅子から身を乗り出し、窓の方へと視線を移した。
「……あちらをご覧になって」
蓮もつられるように視線を向ける。窓の向こうには、遠くに広がる王都の街並みと、そのさらに奥──
ひときわ異様な空間が、静かに横たわっていた。
かつてイシュタルの災厄で失われた土地。今もなお整備されず、人の手も届かぬまま、まるで誰かに見捨てられたように、ひっそりと隔離されている。
その地を取り巻くように、一面、紫色の花々が無数に咲き乱れていた。風に揺れるその花々は、どこか冷徹で不気味で、まるでこの荒れ果てた大地に生えること自体が、自然の法則に背いているかのように感じられた。
花の色は、やけに深く、暗く──そしてその香りが、ほのかに漂っては消えていく様子が、何とも言えぬ不安感を呼び起こす。まるでそこに眠る“何か”を隠すかのように、花々が広がっている。
そして、ただ一つ、荒れ果てた大地に不釣り合いなほど、巨大な樹木が天を貫くように聳え立っていた。その樹は、枯れることなく今もなお生き続けており、ひどく異質な存在感を放っていた。根元からは、まるで何かが這い出してきそうな気配すら感じる。
──あれが、北区画。
「あの場所には、決して触れてはならないものが眠っているような気がして……けれど、それでも……」
イリアはゆっくりと指先を窓辺に伸ばし、かすかに北の方角を指さした。
「誰かが、忘れたくなかった“想い”が、確かにそこにある気がするのです」
その横顔は、まるで遠い昔を見つめるかのように静かだった。
しばしの沈黙が、部屋の空気に溶け込む。
やがてイリアは、そっと視線を逸らし、部屋の壁の一角を見つめた。蓮もつられるように、同じ方向へと目を向ける。
そこには、一枚の古びた写真が飾られていた。窓の景色から見えたものと同じ、紫の花々を背景に──小さな少女たちと、その後ろに立つ男女。
あの、不気味なほど静かに咲き乱れていた花が、そこではまるで別物のように、どこか優しく見えた。
自然と目が、白髪の少女に吸い寄せられる。
「スミレよ」
背後から聞こえたイリアの声に、心臓が跳ねた。
「……え?」
「この写真に咲いている花の名前。“スミレ”というの」
「ああ、花の……名前、ですか」
蓮は写真に映る紫の花に目を留めながら、静かに呟いた。
「……スミレの花、人間界でも見たことがあります。まさか、架空界にも咲いてるなんて思いませんでした」
イリアが少し目を細め、微笑を浮かべる。
「まあ、そうなの。……不思議ですわね。二つの世界を越えて、同じ花が咲いているなんて」
「……境界を越えて咲く花、ですか。なんだか、ロマンチックですね」
イリアは、ふっと視線を落として続けた。
「子供の頃の写真ですの。……もう随分昔になりますけれど」
蓮は黙ったまま、写真を見つめた。
──まさか。
目の前の少女。その笑顔。その雰囲気。どこかで──いや、何度も見た気がする。
「……きれいな写真ですね」
喉がひどく乾いていた。蓮は紅茶に手を伸ばし、ひと口だけ流し込む。
しばらくの沈黙のあと、イリアはふっと目を細めて言った。
「……あなたと話していると、なぜか昔の夢を見ているような気持ちになりますわ」
「夢、ですか?」
「ええ。……大切な誰かが、もう一度会いに来てくれたような……そんな気がして。だからあなたに、話しましたの」
蓮は何も言えなかった。
ただ心の中で、“スミレ”の名をもう一度、そっと呼んだ。
静寂を破ったのは、イリアの穏やかな声だった。
「……今日が、旅立ちの日ですわよね?」
蓮は、はっとして振り返る。
「ホクトさま方、きっと今ごろ城門のあたりでお待ちになっているかと。ふふ、私にあなたを引き止める時間は、あまり残されていないみたい」
蓮はゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
イリアは優しく微笑んで、頷き返す。
「また、いつでも来て。あなたと話すと、なぜか心がほどける気がするの。……不思議ね」
イリアの部屋を後にした蓮は、ゆっくりと廊下を歩いていた。
扉が閉まる音が遠くで響いた気がした。だが、それすらも曖昧になるほど、頭の中はさっきの写真でいっぱいだった。
──白髪の少女。あの笑顔。あの目。
蓮は、心の中に確かに刻まれている“スミレ”の姿を思い浮かべた。静かに微笑む彼女。どこか哀しげで、でも優しさに満ちた表情。
──似ていた。あの少女は……。
蓮は立ち止まり、手すりに寄りかかって空を見上げた。
「……まさかな」
そう呟いてみたが、自分の中で何かが確かに震えていた。偶然の一致にしては、出来すぎている。
だが、スミレが妖精国の王族だった? 本当に? そんなはずは──
「……でも、イリア姫……どこか、似てるんだよな」
見た目も、声も違う。けれど、ほんの時折に覗くあの表情や口調の端々に、スミレを思い出させる何かがある。
蓮は胸を押さえた。妙な高鳴りを、無理やり落ち着けるように。
「……会いたいな、スミレ」
ぽつりと漏れた声が、春の風にさらわれていった。
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。朝市の活気が城の外から届いてくる。
だが蓮の心は、どこか遠くへ引き寄せられていた。
──もし、あの写真の中の少女が本当に“彼女”だったのだとしたら──
そう思った瞬間、胸が痛くなった。
「……まさかな」
──もう一度そう呟いたが、心の奥に生まれた小さな確信は、静かに、しかし確かに根を張っていくようだった。
「……あの場所をご覧になったようですね」
突如、背後から静かな声がした。蓮がはっとして振り返ると、そこには長い廊下の端に佇む一人の男がいた。
まるで最初からそこにいたかのように、微動だにせず、ただこちらを見ている。
──ザイラス宰相。
冷ややかな双眸と、無表情の面差し。気配すらなかったはずなのに、その存在は確かにそこにあった。
「……あなたは、ザイラス宰相」
「はい」
彼は一歩、ゆっくりと蓮の方へと足を運ぶ。靴音が石造りの廊下に、乾いた音を刻んだ。
「姫とは、何を話されました?」
「……ただ、少し、昔のことを」
蓮の言葉に、ザイラスの目がわずかに細められた。その奥で、何かがかすかに揺れたように見えた。
「過去は、残すべきではありません。特に北区画──あのような場所の記憶は」
「……あなたは、あそこに何があると思ってるんですか?」
蓮が問いかけると、ザイラスは一拍の間を置いてから、低い声で応えた。
「あそこは、いわば地獄のような場所です。……手を触れれば、きっとまた火がつく」
「それでも、姫は言っていました。あそこには、誰かの想いがあるかもしれないって」
ザイラスはふと足を止め、ほんのわずかに視線をそらす。だがすぐに、蓮に向き直り、低く囁いた。
「──それが厄災を呼ぶのです。“信じる”という行為が、時に取り返しのつかない扉を開く」
それきり彼は踵を返し、無言のまま歩き去っていった。
その背中からは、感情も気配も感じられない。ただ冷たい風のように、通り過ぎていっただけだった。
蓮はその場に立ち尽くす。
まるで、自分の思考が読まれていたような──そんな不気味な感覚だけが、胸に残っていた。
***
数時間後、出発の準備を終えた蓮は、城門へと向かっていた。
澄み渡る空の下、イシュタルの街はいつものように活気に満ちていたが、蓮の胸には静かな余韻が残っていた。イリアの言葉、あの写真、そして、あの少女の面影。
──スミレ。
名前を心の中で繰り返しながら、蓮は足を止めることなく歩き続けた。
やがて城門が見えてくる。そのすぐ外には、見慣れた三つの影が立っていた。
ひときわ背の高いホクト。その横で姿勢よく立つミネル。そして、その隣には魔法の杖を手にした美穂の姿があった。
「おーい、おまたせー!」
蓮の声が風に乗って届く。彼は軽く手を振りながら、そのまま駆け寄っていった。
「遅い。何をしていた」
腕を組んだままのホクトが、淡々とした口調で言う。
「いや、ちょっといろいろあってさ……」
蓮が曖昧に笑うと、美穂が小さく首をかしげながら近づいてきた。
「蓮、少しいつもと雰囲気が違う?」
「そうか?」
不思議そうに蓮が目を瞬かせると、美穂は一瞬だけじっと彼の顔を見つめ、ふっと微笑んだ。
「ま、いいや。後でゆっくり話したい」
「……うん」
そのやりとりを聞いていたホクトが、辺りをぐるりと見渡しながら声を落とす。
「……もう、ここに用はないだろう。そろそろ出るぞ」
その言葉に、蓮は自然と振り返っていた。背後にはイシュタルの城。あの姫の微笑みと、静かな部屋で見た一枚の写真が脳裏に浮かぶ。
──今はまだ話す時じゃない。
蓮は胸の奥に芽生えた思いをそっと押し込め、軽く息を吐いて皆に頷いた。
「うん、行こう」
その時だった。城の中から、聞き慣れた声が響いてくる。
「おーい! 蓮!」
「蓮!」
快人とはな美だ。
蓮は二人の姿を見て、胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。懐かしくて、愛しくて、だからこそ、別れが少しだけつらくなる。
快人は蓮にまっすぐ向き合い、真剣な眼差しで手を差し出す。
「蓮、生きて帰れよ。それでまた、必ず会おう」
「ん、わかった」
蓮は小さく笑い、しっかりとその手を握り返す。
「絶対だ。約束だぞ」
「ああ、約束だ」
そのやりとりの傍で、はな美がそっと近づいてきた。
「蓮、行ってらっしゃい」
そう言って、快人と蓮の握る手の上に、自分の手をそっと重ねた。
そのぬくもりが、言葉よりも深く、蓮の心に染み込んでいく。
三人の手がしばらく重なったまま、誰も何も言わなかった。
けれど、それだけで充分だった。
静かで温かい時間のあと、蓮は名残惜しさを胸に抱きつつも、ホクトたちの方へと向き直る。
「……行こう」
その背を、快人とはな美が見送る。
春の風が、三人の間をそっと通り抜けていった。
***
一行はイシュタルの城門を背に森の道を進んでいた。
誰もが次なる目的地へと気を向ける中、不意に、美穂が口を開いた。
「ねえ……寄りたい場所があるの。ちょっとだけ、いいかな」
その声に、全員の足が止まる。
「フェリリスの谷。……“オレンジの花が咲く場所”って、呼ばれてる場所なんだけど」
美穂はそう言って、視線を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「メモリアで見たママの姿が、忘れられないの。きっと……ママはそこにいる気がして」
彼女の声はかすかに震えていたが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
しばらく沈黙が落ちたのち、ホクトが口を開く。
「……フェリリスの谷、か。あそこは西の山沿いを越えて、森を抜けた先にある。遠回りにはなるが……悪くない選択だ」
ホクトが短くそう言うと、誰も反対の言葉はなかった。
「じゃあ、決まりだな」
蓮が微笑みながらうなずき、美穂の隣に立った。
「ありがとう……蓮」
美穂の呟きが、風に溶けて消えていく。
そして再び、旅の足音が静かに始まった。




