狭間の祝福
城の廊下を静かに歩いていた蓮たちは、途中で立ち止まることなく、しばらく歩みを進めていった。
「この先に、会わせたい人がいますの。少し待っててくださる?」
イリアの言葉に従い、蓮はそのまま黙って歩き続ける。目の前に現れたのは、一見、普通の扉だったが、その向こうに何が待っているのか、蓮には全く予想がつかなかった。
イリアが扉を開けると、そこには思わず息を呑むような光景が広がっていた。
「まって……うそ、だろ……」
蓮の胸が締め付けられるような感覚に包まれた。目の前に現れたのは、見慣れた顔。懐かしい顔。信じられないほど、会いたかった顔。
「……快人、はな美?」
その声が、自分のものだとは思えなかった。蓮はただ立ち尽くし、目の前の二人を呆然と見つめる。信じられない、心が置き去りにされるような感覚。まさか、この瞬間が訪れるなんて。
部屋の中央に、かつて蓮が一緒に遊んだ、あの二人が立っていた。快人は、いつもの陽気でおおらかな笑顔を浮かべ、はなみ美はその優雅な微笑みで彼を迎えていた。
しばらくの間、蓮は動けなかった。過去と現在が交錯し、心が混乱する。何もかもが信じられない。
「おいおい、蓮! まじか!」
「蓮っ……信じられない!」
快人とはなみ美が駆け寄り、蓮を強く抱きしめる。涙が滲んだ瞳で彼を見つめるその姿に、蓮は胸の奥で何かが崩れるような感覚を覚えた。
「お前、どこに行ってたんだよ……!」
「蓮……本当に、無事だったんだね……!」
二人の温かい声と力強い抱擁に、蓮の心は急激に溢れだす感情でいっぱいになった。震える声で言葉を紡ぐこともできず、ただ目を閉じて、その手に包まれた。
温かさが、ずっと忘れていたものが、一気に押し寄せてきた。全てがあまりにもリアルすぎて、心が追いつかない。けれど、それでも、ここにいる二人が本物であることは、確かだった。
「二人とも……ずっと、会いたかった……」
言葉が喉元で詰まる。蓮はようやく、その震える声で言葉を吐き出した。
その瞬間、彼の心の中に何かが解けるような感覚が広がった。
快人とはなみ美の再会の余韻がまだ残る中、少し後ろで微笑んでいたイリアが、そっと声をかけた。
「やはり……あなた方がお探しになっていたご友人は、蓮さまだったのですね。こうして再会が叶って、本当によかったですわ」
その声には、ただの驚きや感謝では言い表せない、安堵と温かさが滲んでいた。
「きっと、三人でお話ししたいことがたくさんおありでしょう? 私はこれで失礼いたしますわ」
イリアは優しく微笑むと、くるりと踵を返しかけて、ふと思い出したように振り返った。
「……ああ、そうでした。蓮さまのお仲間方──ホクトさまたちも、今宵はこちらにご滞在なさるそうですの。ですから、安心してお過ごしくださいね」
やわらかな微笑みを残して、イリアは静かにその場を後にした。
扉が閉まる音が遠くで響いた。
イリアの気配が去ると、部屋に静寂が降りる。
誰も言葉を発さないまま、三人の間にじんわりと、かつての空気が戻ってくる。
はな美が、そっと一歩、蓮に近づいた。
「……本当に、蓮、なの?」
その声に、蓮はゆっくり頷いた。
「……うん。二人とも無事だったんだな……っ」
次の瞬間、快人が豪快に笑いながら蓮の肩を思いきり叩いた。
「生きてやがったか、バカヤロウ! どんだけ心配させたと思ってんだ!」
その勢いに押されて、蓮はよろめきながらも──泣き笑いのような表情を浮かべた。
「俺だって……! ずっと、会いたかったよ……!」
抑えていたものが一気にあふれ出す。
はな美が、そっと蓮の手を握った。
「……あの日、蓮が行方不明になった日、本当にどれだけ心配したか……」
蓮の目にも、涙が浮かぶ。
気づけば三人は自然に円をつくるように向かい合い、同じ空気を吸い、同じ時を取り戻していた。
しばらく誰も言葉を発さず、ただ、そこにいることを確かめるように見つめ合っていた。
やがて快人がふと、空を見上げるような表情でつぶやいた。
「なあ、俺たち、また一緒に笑えるのかな」
その問いに、蓮は迷わず頷いた。
「笑えるさ。絶対、笑おう。前みたいに……いや、それ以上にさ」
言葉が、胸に深く染みた。
三人の再会は、ただの再会ではなかった。
それは、心の空白を埋める時間だった。
涙を拭い合いながらも、ようやく落ち着きを取り戻した三人。
けれど、蓮の中にはまだ解けぬ疑問が渦巻いていた。
「……でも、どうして二人が架空界に? いつ? どうやって……?」
その問いに、快人が小さく笑い、肩をすくめる。
「お前がいなくなってからさ。俺たち、必死でお前を探し回ったんだよ」
はな美が、そっと記憶をたどるように言葉を重ねる。
「……気づいたら、知らない場所にいたの。不気味な森で……まるで、霧に包まれてて何も見えなかった。でも、歩いて歩いて……その先に、妖精国イシュタルがあったの」
「マジでホラーだったな、あれは……」と快人が苦笑する。
「で、わけも分からずイシュタルにたどり着いて、そこで姫さん──イリア姫に助けられたんだ。飯も住むとこも用意してくれてさ。けど……」
そこまで言って、彼は気恥ずかしそうに後頭部をかいた。
「帰り方も分かんねえし、生き抜くほどの力もねえ。完全に、ニートだよ俺ら」
「快人……」
蓮は、苦笑いと共に目を細めた。
でもその裏にある想いは、痛いほど伝わってくる。
──探してくれていた。
自分が消えたあの瞬間から、必死に、ただそれだけを想って、ここまで来た。
それが、どれほどのことか。
蓮は胸の奥で、熱いものがじわりとこみ上げるのを感じた。
快人が腕を組み、じっと蓮の顔を見つめた。
「……で、そんで? お前はどうなんだよ。なんでこんなことに、なっちまってんだ? 騎士団長ホクト? と一緒に行動してるなんてなあ」
その問いに、蓮はふっと息を吐き、小さく笑った。
「……うん、話すよ。全部」
そう言って、蓮はこれまでの出来事をゆっくりと語り始めた。
あの日、森の向こうに立っていた、妖精の少女──スミレに心を奪われた瞬間。
そして気づいたら、架空界へ迷い込んでいたこと。
王都ネイトエールで拾われ、ホクトに助けられ、気づけば騎士団に入っていたこと。
戦いの中で出会った仲間たち。守りたいと思ったもの。託された想い。
二人は、真剣なまなざしで、黙って彼の話に耳を傾けていた。
ときに驚き、笑い、そして少しだけ、眉をひそめて。
全てを話し終えたとき、蓮の胸には、ほんの少しだけ、肩の荷が下りたような気がしていた。
その静かな間を破るように、快人が吹き出す。
「……って、なんだお前。結局、一目惚れから全部始まってんじゃねーか!?」
そのツッコミに、はな美が思わず吹き出し、蓮の頬がカッと赤くなる。
「なっ! そ、そりゃ確かにそうだけど……その言い方やめろっての!」
「いやいや、お前、すげぇなあ。恋がきっかけで異世界入りして、騎士になって……まるでラノベ主人公じゃん」
「バカ、それ言うな!」
久々に交わす、他愛もない言葉。
どこか懐かしくて、あたたかい。
幼なじみの前だからこそ見せられる、そんなラフな表情を、蓮は久しぶりに取り戻していた。
ひとしきり笑って、場の空気が落ち着いたところで──
快人がふと真剣な目で蓮を見つめた。
「なあ、蓮」
いつものおどけた口調とは違う、低く落ち着いた声だった。
「……俺たちなりにさ。人間界に戻る方法を、ずっと考えてたんだ」
その言葉に、蓮はわずかに息をのむ。
快人は、少し視線を伏せながら続けた。
「そしたら、“狭間”って言葉に辿り着いたんだ。お前、覚えてるだろ? 図書室で読んだ“架空説”ってやつ」
「ああ……神様が人間界と架空界を分けて、そのあいだに“狭間”を作ったって話だったな。都市伝説みたいなもんかと思ってたけど……本物っぽいよな」
蓮のその言葉に、快人は小さく頷いた。
「あの話には、続きがある」
そう言って、快人はどこか遠くを見るように語り始めた。
「架空説によれば──狭間ができてしばらくした頃、誰かの深い悲しみが原因で、その狭間に歪みが生まれたらしい」
ーー放っておけば世界の秩序が崩れてしまうため、神は歪みを修復しようとした。だがそのためには、“誰かの時間”を代償に差し出さなければならなかった。神は時間を差し出してくれる誰かを待つことにしたのだ。
──『架空説』より
静かに語り終えた快人が、再び蓮を見る。
「なあ、どう思う?」
「どうって……わかんねぇよ。俺たちは、その“狭間の歪み”ってやつが原因で、こっちに飛ばされた可能性が高い……」
蓮は顎に手を添え、眉を寄せて考え込む。
「でも今、狭間はどこにも見当たらない。ってことは、もう誰かが“時間”を差し出して、歪みを修復したってことか……?」
自分の口から出たその言葉に、思わず背筋が寒くなる。
架空説の内容でいけば、狭間はまだどこかに存在していてもおかしくないはずだった。
「分からない。けど……可能性はある。誰かがもう差し出したのか、それとも俺たちが気づいてないだけで、まだどこかに……」
快人は少し目を細め、静かに言った。
「俺たちは狭間がまだ残っていると信じて、帰り道を探し続けている」
そして、言葉を切って、少し間を置く。
「もし──もし、帰る方法がわかったとしたら。
……お前は、どうする?」
言葉に詰まりかけながらも、快人はまっすぐに問うた。
蓮は、少しだけ視線を落とし、そして答えた。
「……俺は、ここでやらなきゃいけないことがあるんだ」
短く、それでも確かな決意をこめて。
快人は、それを聞いて、ほんの少し目を伏せ──
そして、肩をすくめるようにして、笑った。
「ははっ……やっぱそう言うと思ったよ」
その笑顔には、どこか寂しさが滲んでいた。
けれど、続く言葉は温かかった。
「でもさ。俺はお前と帰りてぇんだよ」
その一言に、蓮は少しだけ目を見開いた。
「だから……お前の“やらなきゃいけないこと”? それが終わるまで、待っててやらなくもない」
快人がそう言って、茶化すような笑みを浮かべる。
けれど、その瞳に宿るまっすぐな光が、蓮の胸を静かに打った。
すると隣で、はな美がふっと笑みを浮かべた。
「私もね……正直、帰りたいって思ってる。お母さんや、昔の友達、日常のことも全部……恋しいよ」
言葉の端々に滲む、懐かしさと寂しさ。
けれどその目は、どこか優しくて、強かった。
「でも蓮。あんたがここで何かを背負ってるの、少しだけ分かる気がするんだ。 だから私も、待ってるよ」
笑ってるのに、目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「……勝手に来て、勝手に待つけどさ。でも、それくらいのこと、させてよ。幼なじみでしょ?」
蓮は何も言えず、けれど力強くうなずいた。
涙が出そうになるのを、必死でこらえながら。
蓮は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがとう」
その一言に、これまでの想いがすべて込められていた。
「ほんとに、会えてよかった。二人が無事で、本当に……」
言葉が途切れそうになって、蓮は少し顔を伏せる。
快人が気まずそうに頭をかいた。
「な、泣くなよ? 蓮が泣いたら、俺も泣く」
はな美は笑って、でもその笑顔の奥にある優しさが、痛いほど伝わってきた。
「昔さ、三人でよく河原に行ったの覚えてるか? 石積みして、すぐ崩して、また積んで」
「うわ、あれ……快人が積み上げたのを、私が蹴り倒して怒られたやつでしょ」
「お前がやったのかよ! ずっと蓮の仕業だと思ってた!」
「ちげーよ!」
思わず声をあげて笑う三人。
あの頃に戻ったような、くだらないやりとりが、こんなにも尊く感じる。
そして蓮は、改めて思う。
──帰る場所があること。待ってくれる人がいること。
それが、どれほどの力になるかを。
「……あー、なんか風呂入りたくなってきたわ」
快人がそう呟くと、体を伸ばして立ち上がる。
「蓮、疲れただろ。風呂行こうぜー」
まるで自分の家のように振る舞いながら、快人は蓮を大浴場へと案内するのだった。
☆快人、はな美って誰だっけ…?の人へ
序章第3話のあとがきに二人の紹介載ってます!
参考にどうぞ!
☆架空説
はるか昔、人間と架空ノ者は一つの世界で共存していました。しかし神は、異なる種族の共存は難しいと考え、世界を人間界と架空界の二つに分けました。神はこの二つの世界が二度と交わらないよう、“狭間”を作ったのです。
やがて、誰かの深い悲しみによって、その狭間に歪みが生まれました。放っておけば世界の秩序が崩れてしまうため、神はその歪みを修復しようとしました。けれど、その修復には――誰かが自分の“時間”を代わりに差し出す必要がありました。神は、時間を差し出してくれる誰かが現れるのを、静かに待つことにしたのです。




