妖精国イシュタル
新しい風が、頬をかすめる。
背後では、町の朝市が賑やかな声を上げながら、活気を帯びてきていた。舟のこぐ音、鳥のさえずり、そんな穏やかな音を背に、彼らは次の地へと足を向けていた。
水の匂いが遠ざかり、道が緑に変わる。森の入口が近づいてきたそのとき──
歩きながら、蓮はふと隣を歩くホクトに問いかける。
「……イシュタルって、どんなところなんだ?」
ホクトはしばし無言で歩を進めたが、やがて少しだけ口を開いた。
「山に囲まれた、妖精族の国だ。古くからの魔法と、自然との調和を重んじる文化がある。──まあ、静かな国だ」
それ以上は語らない。言葉の端に、どこか壁のようなものを感じる。
その時、美穂が口を開く。
「イシュタル災厄……あれからもう何年経ったかな? 復興が進んで、今じゃ元通りの国だって聞いたけど」
ホクトの足が、ほんのわずかに止まる。だがすぐに、何事もなかったかのように歩き出した。
「ああ」
それだけ。
ホクトの返答に、違和感を覚える。
蓮はホクトの背中を見つめながら、そして勇気を振り絞って、そのことを尋ねる。
「あの、イシュタル災厄って……?」
いつもならすぐに説明してくれるミネルが珍しく黙っている。代わりに、美穂が口を開く。
「……燃えたのよ。イシュタルのほとんどが。跡形もなく、燃え尽くされたの。あの災厄をきっかけに、長寿と言われていた妖精族の数も減少した」
蓮は息を呑んだ。
「それって……どうして?」
「分からないわ。火事が広がったんじゃないかって……そう言われてるけど、真実は誰にも分からない。悲惨な事件だった」
その場にいた誰もが、何かを言いかけてやめるような、重たい沈黙が流れた。語られなかった言葉の奥に、ただの火災ではない何かが潜んでいる──そんな感覚が蓮の胸をざわつかせる。
「そのとき、イシュタルの女王アンネも命を落としたそうよ。国を治めていた女王が亡くなって、いろんな記録が燃えて、真相もなにもかも、闇の中」
続けてホクトが言う。
「いまの姫様は、アンネの一人娘。名を、イリアと言ったか」
ホクトはそこで言葉を切り、沈黙が続いた。
蓮は、ザワザワ落ち着かない心にぎゅっと力を込めると、再び歩き出した。
(やっぱりイシュタルには、何かが隠されてる)
前方の風景が徐々に変わっていくのを感じながら、蓮は無言で歩き続けた。
道の先に、白く光る城壁が見えてきた。
まるで森と一体になっているかのように、自然と溶け込むその城壁は、石ではなく大樹の皮や蔓、鉱石を組み合わせたような独特の素材でできている。
「……着いたんだね」
美穂がぽつりと呟く。
妖精国イシュタル。
かつて“災厄”で焼き尽くされたこの国は、いまや少しずつ息を吹き返していた。
街はネイトエールのような王都ほどの規模はないが、そのぶん空気が澄んでいて、人の気配も柔らかい。
並ぶ建物はどれも新しく、焼けた過去を感じさせない。それでいて、どこか懐かしさを含んだ温かいデザインだった。木や花の模様があちこちにあしらわれ、妖精族の文化と感性が随所に息づいている。
城門を守る衛兵の鎧も、金属ではなく植物の繊維や光る石を編み込んだもの。
ただの見た目ではなく、自然と共に生きる種族の“再出発”が、国の隅々にまで沁み込んでいるようだった。
けれど──どこか、落ち着かない。
綺麗すぎる街並み。整えられた道。新築の家々から漏れる穏やかな笑い声。
ここで本当に、国が燃えるほどの災厄があったのか──
そう思ってしまうほどに、あまりにも穏やかで、澄んでいる。
(……何も知らずに生きている。そんなふうにも、見える)
蓮の胸の奥に、言葉にならないざわめきが広がっていく。
それは、この国が悪いわけでも、誰かが何かを隠しているわけでもない。
ただ、あまりにも静かすぎて──「空白」が浮かび上がってくるような感覚だった。
そんな蓮の胸のざわつきをよそに、旅の一行は街の中心へと足を進めていく。
石畳の道を抜けると、やがて白く輝く城が姿を現す。
周囲の建物より少しだけ高く、それでも決して威圧的ではなく──どこか妖精らしい、優美で温かな雰囲気を纏っていた。
門番たちはホクトの姿を見ると、すぐに扉を開けて迎え入れる。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
城内は外よりもさらに静かで、風の音すら優しく感じる。
案内された広間には、すでに数人の姿があった。その中でひときわ目を引く存在──玉座の横に立つ、年若い女性がいた。
柔らかな金色の髪は陽光を含み、緩やかに波打っている。
その瞳は薄い翡翠を思わせる色で、どこか透き通っていて、それでいて芯の強さを秘めていた。
年齢は蓮たちとそう変わらないだろう。けれど、その立ち姿には堂々とした風格があり、誰もが自然と彼女に目を向けてしまうような、そんな気品があった。
蓮は思わず立ち止まり、目を見開いた。
(……スミレ、?)
似ている、と思った。
もちろん、顔立ちは異なる。声も、所作も、性格も違うのだろう。
だが、それでも──彼女が放つ空気に、確かにスミレを重ねてしまう自分がいた。
「お待ちしておりましたわ」
その女性──イシュタル王国の姫、イリアが微笑む。
明るく澄んだ声でそう言いながら、蓮たちに向かって優雅に一礼した。
「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。どうぞ、こちらへ」
その隣には彼女に仕える召使いや、書記らしき人物、そして一人、立ち姿の端正な青年が控えていた。
城内の空気は凛としていて、けれどどこか暖かさもあった。蓮たちは広間の長いテーブルを囲むようにして腰を下ろす。
イリアの隣には秘書のような妖精たちが静かに控え、ホクトとミネルも無言で椅子を引いた。
「今日はこのイシュタルに来てくださって、本当に嬉しく思っていますわ。異種族との交流の機会は、我々にとっても大きな前進ですもの」
イリアはにこやかに言った。
「改めまして──わたくしが妖精国イシュタルの姫、イリアです。こうしてまたお目にかかれて嬉しいですわ。今日は、より良い話し合いができますように」
“また”という言葉に、蓮は小さく首をかしげた。ホクトが以前から姫と面識があったとは──。
イリアは手を差し出すと、ホクトに握手を求める。その細く優雅な手を、傷だらけの大きな手がしっかりと包んだ。
「王都ネイトエール、騎士団のホクトだ。姫様、その節はどうも」
「ふふっ、お変わりなさそうで何よりですわ」
二人のやりとりはあくまで端的だったが、そこには確かに、過去のやりとりをにおわせる温度があった。
そしてイリアは、蓮たちに向き直り、柔らかな笑みをたたえたまま言葉を継いだ。
「ご紹介しますわ。こちらは私の側近、ザイラス。普段から国政を支えてもらっている頼もしい存在ですの」
名を呼ばれた青年──ザイラスは、無言のままゆっくりと頭を下げた。
その動作は一分の隙もないほどに整っていたが、どこか温度のない所作だった。
銀灰の瞳は冷ややかで、誰の顔を見るでもなく、空間そのものを計測するように流れていく。
蓮はその視線に、思わず背筋を伸ばした。冷たいというより、何も映さない鏡のような印象だった。
(……この人が、側近?)
そう思った瞬間、ザイラスの瞳がわずかに蓮をとらえた。
一瞬だけだが、その無機質な視線とぶつかる。何かを見透かされるような、妙な息苦しさがあった。
イリアが微笑を絶やさず続ける。
「それでは……まずは、状況の整理から始めましょうか」
話し合いの幕が、静かに開かれる。
「ご用件は──?」
ホクトが静かに口を開く。
「我々は、各地の種族間をつなぐ『共存同盟』の旗印の下、協力と情報の共有を望んでいる。イシュタルの協力を、ぜひとも仰ぎたい」
「共存、ですか……素敵な響きですわね」
イリアはそう呟いた後、少しだけ瞳を伏せ、考えるような仕草を見せた。
その仕草は、まるで過去の記憶が心の中でちらついたかのようだった。
「もちろん、イシュタルとしても協力は惜しみませんわ。ただ、ひとつだけ……」
イリアは、ほんの少し言葉を探すように視線を泳がせた。
その視線には、何かを隠しきれないような、微妙な気配が漂っていた。
「……王城の北側にある区画。今も整備されておらず、人の手もあまり入っていませんの。できれば、その一帯には……近づかないでいただけると」
「ほう、それは……?」
「私自身も、詳しくは知らないのです。昔の記録もほとんど残っていなくて。『触れてはいけない』、ただそれだけが伝えられてきましたの」
その言葉には、誰かが意図的に隠したというより、“空白”として扱われているものの気配があった。
その“空白”が何を意味するのか、蓮には掴みきれない。だが、イリアがそれを語ることにためらいを感じているのは、間違いなかった。
ホクトは黙り込んだまま、頷いた。
「わかった。そこには触らないようにしよう」
「ありがとうございます。では、異種族の受け入れを少しずつ始める方針にしていきます」
イリアの声は明るいが、その瞳の奥に、一瞬だけ迷いが過った気がした。
この国を背負う者としての責任と、未知の未来への不安が、交差しているようにも見える。
「状況が整い次第、貴国の王トーカルにも報告します。その後、共存同盟を結んでいただけますか」
ホクトのその言葉に、イリアは快く頷いた。
そして、話し合いは一応の合意に至り、場は一度解散となった。
想像よりもあっけなく目標に辿り着けそうだったが──どこか、蓮の胸には引っかかるものが残った。
イリアの微笑みの奥に潜む、本人すら気づいていないような不安が、彼には確かに感じ取れたのだ。
皆が会談室を後にする中、蓮はふと足を止め、イリアの背中を見つめた。
「……やっぱり、似てる」
思わず漏れた小さな声に、イリアが振り返る。
「え?」
「あっ……いや、なんでもないです」
「ふふっ、不思議な方ですのね。なぜか……とても話しやすい気がしますわ」
その屈託のない微笑みが、またスミレを思い出させる。蓮は言葉を失ったまま、視線をそらした。
「そうだわ。あなた、お名前は?」
「──峰野蓮って言います。あんまり、こっちにはいない見た目ですよね……」
蓮がどこか気後れしたように答えると、イリアはふっと目を細め、何かを思い出すように言った。
「そう、蓮さま。今、なぜあなたに違和感がないのか分かりましたわ。
ちょっと、着いてきて。会わせたい人がいますの」
突然の言葉に戸惑いながらも、蓮はその背を追って歩き出した。




