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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第3章 魔法の光は過去を映す
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湖上都市メモリア

 

 重たくきしむ音とともに迷宮の石扉が開き、冷たい空気が一気に押し寄せる。途端に肌をなでる風が、微かに湿り気を含んでいた。迷宮の中とは違う、どこか懐かしささえ感じる空気。


「うわ……」


 蓮が思わず息を呑む。

 空は茜色に染まり、遠くの山の稜線の向こうに、静かに広がる湖が見えていた。

 水面はまるで鏡のように空を映し出し、光が波紋とともにゆらゆらと揺れている。


「陽が落ちる前に、寝床を確保するぞ」


 ホクトが眉をひそめて、周囲を見回す。長い迷宮の試練を越えて、仲間たちの足取りにも疲労がにじんでいた。


「……あれを」


 ミネルが無表情なまま、遠くを指さした。


 その先——湖の中央、霧の帳に包まれるようにして、幻想的な都市が浮かんでいた。建物はすべて湖面に浮かび、ボートがゆっくりと行き交っている。

 灯りがぽつぽつと灯り始め、まるで星が湖に舞い降りたような美しさ。


「……湖上都市メモリア。懐かしい」


 美穂の声が、感嘆とどこか切なさを帯びていた。


「記憶の街、とも呼ばれるな。静かに見えて、何かが眠っていそうな場所だ」


 ホクトの声にも、ほんの少しだけ感情が滲む。彼にとっても、記憶は決して軽いものではないのだろう。


「記録に基づくと、あの街には“鏡池”と呼ばれる場所が存在する。過去の記憶を映し出す、と……」


 ミネルは淡々と言うが、その視線はどこか遠くを見ていた。

 蓮は仲間たちを見渡し、穏やかに微笑んだ。


「行こう。今夜は、あの街で休もう」


 そう言うと、誰もが小さく頷いた。


 やがて霧の中、「夢の回廊」と呼ばれる白い橋が静かに姿を現す。橋の先には、癒しと記憶の街。まだ見ぬ真実が、そこに眠っている。


 旅はまだ終わらない。

 でも今はこの瞬間を抱いて、湖上の光の都市へと、一行は歩みを進めていった。


 夢の回廊──蓮たちはその橋の前で一度足を止め、ゆっくりと息を吐く。足元には、湖面がまるで呼吸するように波をたゆたわせている。


 橋は白い石でできており、ところどころに淡い光を灯す水晶が埋め込まれていた。光は霧に溶け、ぼんやりと浮かぶように橋を照らしている。踏み出せば、石の下からかすかに水音が響いた。足音すら吸い込むような静寂の中、一行は橋を渡ってゆく。


 やがて湖上都市メモリアの入口が見えてきた。

 水に浮かんだ島々が寄り添うように連なっていた。ひとつひとつの家には水路が張り巡らされ、移動には小舟か、水上を歩く魔法が使われているらしい。水の上に揺れる建物は、木や石、青く光る金属で作られており、どれも丸みを帯びた形をしていた。どこか柔らかく、懐かしい印象を与える。


「……音がないね」


 美穂がぽつりと呟いた。


 確かに、街に入っても喧騒は聞こえない。静けさが街全体を包んでおり、聞こえるのは水のさざ波と、遠くで鳴る風鈴のような音だけ。

 家々の軒先には、透明な水晶の風鈴がぶら下がっていて、風に揺れるたびに優しく鳴った。音も光も、すべてが控えめで、まるで誰かの記憶の中に入り込んだような感覚だった。


「街全体が、記憶と感覚を結ぶ構造になっている。感情の波が、波紋のように広がってるんだ」


 ミネルは街を見回しながら、淡々と分析する。


「空間の歪みも検出される。幻覚系の魔法ではなく、構造そのものが記憶に同調している可能性が高い」


「つまり……街全体が“夢のようなもの”ってこと?」


 蓮が首をかしげると、美穂が静かに頷いた。


「でも……私は嫌いじゃない、こういうの」


 静かな水の都市。

 それはただの休息地ではなく、誰かの記憶が息づく場所だった。


 街の奥へ進むにつれて、霧は次第に晴れていった。

 白く霞んでいた景色の輪郭が少しずつはっきりとし、湖面に浮かぶ回廊の先に、開けた広場のような場所が見えてくる。


 そこが、「鏡池」と呼ばれる場所だった。


 静まり返った空間。円形に囲まれた水辺は、まるで風ひとつない泉のように、ただ静かに佇んでいた。

 水は透き通り、湖の水面とは違って、まるで底がないかのように深く黒く見える。それでいて、空や人影を鏡のように正確に映し出していた。


「……これが、鏡池か」


 蓮が呟き、池の縁にゆっくりと歩み寄る。


 水面に映ったのは、自分たちの姿。けれどどこか、少しだけ違って見えた。

 それは髪の揺れ方か、光の反射か。あるいは——映された“自分”の表情か。


「感情を映す水だな」


 ホクトは池を覗き込んだまま言う。


「記憶だけじゃない。おそらく今の内面、隠しているものまでも……」


「嘘みたいに静か。でも、落ち着かないの……」


 美穂が、そっと水辺に立つ。

 足元の板がきしむ音すら、この場では異物のようだった。

 水面に、美穂の姿が映る。

 けれどその影は、ほんの一瞬、別の誰かと重なった気がした。

 長い髪。凛とした瞳。けれど美穂よりも年上で、どこか——母に似ているような気がした。


「……!」


 美穂が息を飲む。

 その瞬間、池の中心にさざ波が走った。

 何も触れていないのに、まるで彼女の心の波が水面を震わせたようだった。


「見えたのか?」


 ホクトがそっと声をかける。


「……ううん、わからない。でも……懐かしい匂いがした。魔力の匂い、あの人の……」


 ミネルが少しだけ表情を動かし、美穂に目を向けた。


「記憶の干渉を受けた可能性がある。鏡池は、意識と深層記憶をつなぐ媒体。一定の条件が重なれば、記憶と再接触するかもしれない」


「条件……?」


 蓮が尋ねると、ミネルは一度考え、そしてぽつりと口にする。


「——“願い”の強さ、だと思う」


 その言葉に、美穂はもう一度、池を見つめる。

 水面には自分が立っていた。けれどその奥には、まだ触れられていない何かが、確かに眠っている。


「……もう少し、ここにいていい?」


 蓮は頷いた。ホクトも、何も言わずに広場の縁へと歩いていく。


 夜の霧がまた静かに立ち上り始めていた。

 水の都市メモリアが、その姿をゆっくりと閉ざしながら、けれど確かに、誰かの心を開こうとしているようだった。


 美穂は池のふちに足を運ぶ。

 ひざをつき、そっと水面を覗き込む。先に映るのは、今の自分の顔だった。

 どこか強がった目と、少し震える口元。そしてその奥で、言葉にならない何かが揺れている。


 水面が、ふるりと波打った。


 ——映像が変わる。


「立ちなさい、美穂」

「そんなことで泣くなんて、みっともない」


 厳しく、冷たく、情の見えない声。

 母の瞳には、涙に滲む娘の姿すら映っていない。


「あなたは、選ばれたんだから。もっと強くなりなさい。誰よりも、私を超えて。……それがあなたの使命よ」


 幼い自分が、震えながら母の背中を追っている。

 何かを訴えたくて、でも、何も言えなかった。

 言えば──捨てられてしまう気がして。


「……違うよ、ママ」


 水辺に立つ現在の美穂が、ぽつりと呟く。


「そんなの……私が信じたいママじゃない……」


 なのに──

 心の奥に確かに残っている、あの視線、あの言葉。

 いつも、美穂を突き動かしてきたのは、この“厳しさ”だった。優しさなんて、いつだって遠くにあって、届かなかった。


「……どっちが、本当のママなの?」


 水面の母が、美穂を見下ろすように微笑んだ。

 その笑みには、温かさも、情も、なかった。


 水面がまた、静かに揺れる。

 映像は波紋の中に沈み込み、やがて美穂の現在の顔だけがそこに戻ってくる。

 その目元には、ひとすじの涙がつたっていた。


 自分が覚えていた母の姿と、今見たもの。

 どちらが嘘で、どちらが本当なのか。

 それとも、両方とも、本当なのか。


 美穂はそのまま立ち上がることもなく、静かに膝を抱いた。

 蓮がそっと隣に立つ。


「大丈夫か?」


「……わからない。迷宮で“信じる”って決めたのに……でも、ここに映るのは、私の“記憶”で……」


 言葉が詰まる。

 苦しかった記憶。優しさが欲しかった日々。

 でも、その中でたしかに、自分はここまで生きてきた。


「私……もう、わからないみたい。ママを信じたかったけど、本当はずっと怖かったのかも。捨てられたことも、言葉をくれなかったことも……ずっと」


 蓮がそっと、美穂の手を握る。


「怖くてもいい。揺らいでも、信じたままでいい。

 どっちも“本当”だったんだと思うよ」


 その言葉に、美穂ははっとする。


 母の厳しさも、笑顔も。

 全部ひっくるめて、母であり、自分の記憶であり──そして、乗り越えるべき過去。


「うん……ありがとう。私は……やっぱり、前に進みたい。たとえママに嫌われてたとしても。信じた“愛”を嘘にはしたくないから」


 美穂はそう言うと静かに立ち上がり、水面から目をそらす。涙の痕はもう乾いていたけれど、心の中にはまだ、波紋がゆっくりと広がっている。


「この後はどうする? ホクトとミネルは先に宿に向かったけど……」


 美穂は、ゆっくりと首を振った。


「……少し寄りたいところがあるの」


 蓮はそれ以上何も聞かず、うなずくと、美穂に着いていった。

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― 新着の感想 ―
美穂は、自分の内面と正しく向き合えたんですね。 鏡のような湖面は美しくもあり、覗き込むのがちょっぴり怖くもなる、そんな幻想的風景に感じました。
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