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墜落の王宮 前編

 

 蓮はそっと目を閉じ、深く息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たし、澄んだ風が頬を撫でた。木々の葉がかすかに揺れ、乾いた音を立てる。

 すぐにでも足を踏み出したい衝動を胸の奥で押し留めながら、彼は一歩、また一歩と歩き始めた。


 背後から、スミレがそっと声をかけてくる。


「気をつけましょう、墜落の王宮……何が起きるか分からないわ」


「うん、そうだね」


 蓮は振り返らずに返事をし、そのまま前を見据えたまま進んだ。


 森へと踏み入った一行を、静寂が包み込む。

 道は徐々に険しさを増し、木々は密集して視界を遮っていく。足元はぬかるみ、湿った土に靴が沈み込む。転がる岩や枝を避けながら、一歩一歩に神経を尖らせた。

 時折、小動物の鳴き声や木々を駆け抜ける気配が耳に届き、そのたびに張りつめた空気が肌を撫でる。森はまるで、生き物のように呼吸していた。


「マアト村の奥の森に、こんな場所があったなんて。今まで知らなかったよ」


 タオが小さく息を吐きながら、前方を指さした。


「ヌトの話じゃ、マアト村から北西に進んだところって言ってたけれど……本当に、王宮なんてあるのか?」


 蓮は訝しむように問いかけた。口に出した瞬間、自分の中にあった不安が輪郭を持ち始める。


 やがて、森の景色が静かに変化し始める。

 足元の草は枯れ、木々の葉は色を失い、空は淡く曇って陽の光を遮った。風の音すら消え、周囲に不自然な静けさが立ちこめる。空気が張りつめ、呼吸さえ重たく感じるほどだった。


「この辺り……なんだか異常な気配がする」


 美穂が小声でつぶやいた。その声には、森の空気に対する本能的な警戒が滲んでいた。


「気のせいだよ」


 タオが冷静を装うように返す。しかしその声音には、わずかな揺らぎがあった。

 蓮はその微細な違和感を確かに感じ取った。けれど、自分の胸にも同じ不穏な感覚があったからこそ、言葉にはしなかった。

 膨らむ不安を胸の奥で押し殺し、ただ前を見据えて歩を進める。


 時間が経つにつれ、森の空気はさらに冷え、木々の背はさらに高く伸びていく。陽光すら地面に届かず、足元には苔が広がっていた。踏み込むたびに、ぬめるような音が靴の底から響く。


「マアト村を出て、もう小一時間は進んでる。そろそろ見えてきてもおかしくないはずだ」


 タオが呟いた。


 その言葉通り、やがて木々の密度が徐々に薄れ始める。そしてふいに、視界が開けた。


「……見えてきた」


 スミレの静かな声に、一行が足を止める。


 目の前には、森の深奥に沈むように存在する巨大な構造物が姿を現していた。崩れ落ちた塔、朽ちた石段、半ば埋もれたアーチ。どれもが、時の重みに耐えながら、今なおこの地に留まっている。


「ここが……墜落の王宮」


 タオが呟いた。その声には、懐かしさとも恐れともつかぬ震えが混じっていた。


 その瞬間、森を包んでいた沈黙がわずかに揺らぎ、風が木々をざわめかせた。

 王宮は、マアト村から幾重にも森を越えた先に、まるで意図的に人の目から隠されたようにひっそりと佇んでいた。

 地図にも記されぬ、存在すら忘れられた遺構。

 その姿は、まさしく「墜落」という言葉がふさわしいほど、圧倒的な終焉の美しさを宿していた。


 王宮の入り口に足を踏み入れると、まず感じたのは、まるで世界が息を潜めたかのような静けさだった。風も止んだように森の音が消え、ただ空気だけがひんやりと冷たく、肌に触れてくる。


 周囲の風景が奇妙に歪んで見える。王宮の存在そのものが、自然の流れを逆さにしたような、異次元のような不気味さを放っていた。まるでこの場所が、時間の流れから切り離されてしまったかのようだ。崩れた塔、ひび割れた石の壁、そこに立っているだけで、誰もが過去の忌まわしい記憶を目撃したような気分にさせられる。


 蓮たちは足を踏み入れるとすぐに、その暗い空気に圧倒されるような感覚を覚えた。ティナとリリスの姿を追い求めながら、足音が沈黙に飲み込まれていく。


「すごい圧だな……」


 タオが呟いた言葉に、周囲の空気が一層重く感じられる。王宮の構造物は、まるで時代に取り残された廃墟のようだった。朽ち果てた石材と蔦に覆われた壁が、まるでそれ自体が生きているかのように、無言で語りかけてくる。


 王宮の中央には広大な広間があり、その床には無数の裂け目が走っていた。天井が崩れ落ちている部分もあり、空から光がわずかに漏れている。しかしその光は、どこか冷たく、不自然に感じられた。


「ここの空気、普通じゃない……」


 美穂の言葉に、蓮は頷く。周囲の異常な静けさと、どこか湿った空気が肌に張り付いてくるようだった。王宮の奥から、どこかでかすかな音が響く──それは、時間が遅れて響いているような音で、誰もいないはずの場所からの音に、思わず警戒心を強める。


 王宮の深部へと進むにつれて、歩くたびに足元の石がギシギシと軋み、まるで自分たちが踏み入れてはいけない場所にいることを告げているかのようだ。


「行くしかない……」


 タオがつぶやくと、蓮たちは一歩踏み出す。だが、その瞬間、目の前に現れるのは、さまざまな彫刻と絵が描かれた壁であった。その絵は、どれも暗い色合いで、血のような赤い色がところどころに点在している。それはまるで、過去にここで起こった残酷な出来事を描いたかのようだった。


 蓮は思わず足を止め、絵に目を凝らす。そこには、血塗られた儀式や、無数の手が祈りを捧げる様子が描かれていた。その一つ一つの絵が、過去のサタンの犠牲者を象徴しているように思えた。異形の者たちが描かれ、その目には絶望と苦痛が色濃く映し出されている。


「これ……全部、犠牲者か?」


 蓮は呟いた。その背後で、タオがしばらく黙ってから答えた。


「ああ、信じたくはないが──おそらくそうだ。リリスとティナも……ここで何かが起こったんだろうな」


 その言葉が、さらにその場の空気を重くした。王宮は、ただの廃墟ではなく、何かを隠し持っている──そんな気配が満ちていた。


 しばらく歩を進めると、突然、足元の石の床が揺れ、重い音が響いた。それはまるで、王宮自体が呼吸をしているように感じられた。


「……何かが近づいてくる」


 スミレの声に、蓮たちはぴたりと足を止めた。

 暗闇の先に、血にまみれた壁が見える。その前に、二つの影。──ティナ。そして、彼女に酷似した少女。


 胸の奥がざわめく。

(ティナ……リリス……?)

 確かに知っているはずの顔が、記憶の靄の中で滲む。


 ──ティナ(リリス)が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 虚ろな目、血のような唇。その姿に、蓮の背筋が冷たくなる。


「リリス、目を覚ましてくれ……!」


 タオの叫びが響いた。

 だが、ティナはふっと笑い、自らの左腕を切り裂いた。

 滴る血が唇に触れた瞬間、王宮全体が揺れる。──それが、最後の引き金だった。


 青白い鬼火が噴き上がる。

 ティナとリリスが、ひとつの存在へと変貌していく。髪が逆立ち、爪が黒く伸び、白く濁った目の奥に、何かがうごめく。

 ──目の前の存在は、もはや“あの二人”ではなかった。


 タオが駆け出す。

 だが──


「来ちゃ、ダメ……来ちゃダメです……タオ!」


 二重に重なる声が、黒い霧となってタオを拒む。

 力なく弾かれたタオは、その場に崩れかける。


 ──空気が凍った。


 蓮は、動けずにいた。

 タオの背中を見つめる。震える肩。剣を握る手が、地面を掴むように震えている。


「タオ……」


 声をかけるが、返事はない。

 ただ、呆然と、あの姿を見つめていた。


(絶望……してる)

 幼い頃から、共にいた二人。

 失ったのは、ただの仲間じゃない。

 タオの苦しみが、胸に突き刺さる。


 同時に──

 胸の奥に疼くような感覚が生まれた。

 訓練の日々。笑い合った時間。ティナとリリスの声。


(ああ……俺は……知ってる)

 失われた記憶が、少しずつ形を取り戻していく。

 もう、ぼやけていない。あの笑顔も、声も、そこにある。


「……ティナ……リリス……」


 知らず、声に出ていた。

 気づけば、目頭が熱くなっていた。

 自分も、彼女たちと過ごした一員だったのだ。

 忘れていた大切な時間が、心に流れ込んでくる。


(大丈夫だ、タオ……お前も、俺も……まだ、ここにいる)


 蓮は、そっとタオの肩に手を置いた。


「大丈夫だ。俺たちは、まだ諦めちゃいない」


 その声に、タオがわずかに顔を上げた。

 瞳の奥、消えかけた光が、かすかに瞬きはじめる。


☆情報整理したい人向け☆


ティナ(リリス)

ネイト騎士団所属。

本当の人格はリリスだが、二重人格状態、

表にティナの人格/裏にリリス本人の人格


ティナ

昔亡くなったと思っていたティナ本人。サタンを連れて現れた。


リリス=ティナ

ティナの力により二人が一つになった新たな人格者。



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― 新着の感想 ―
ウィルのところで失った記憶は取り戻せたんですね。 良かった良かった。 でも、この後が本番ですね〜! す、すみません!読み返していたエピソードの方に感想を出しちゃっていました。 。:゜(;´∩`;)゜…
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