旅人の寄り道
急激に闇が広がっていた。気づくと空は次第に紫を帯び、星々がぽつりぽつりと姿を現し、夜の静けさが訪れていた。風も冷たさを増し、昼の喧騒が遠ざかるように、景色は静かな夜へと移り変わっていった。
「おかしいな、そろそろのはずなんだけど……」
王都ネイトエールまでの道のりが長いことは、行路で既に把握済みだ。蓮の足で向かえば、おそらく今頃の到着になることも把握済みであった。
しかし、完全に日が暮れてしまったようだ。アスト街道には街灯がなく、月と星の光を頼りに進んでいかなければならない。蓮の足取りは重くなっていた。歩く度に腰に下げた剣が少し揺れ、さらに蓮の足取りを重くさせる。疲れが限界値のようだ、ぐぅ……と腹の鳴る音が響く。
「ん、お腹空いた」
空腹の感覚が頭の中を支配していく。歩幅が狭くなり、歩きながら思わずお腹を押さえた。遠くの方にぼんやりとした光が見えるが、それが食事を提供してくれる場所かどうかはわからない。心の中でその光にすがるようにして、何とか足を前へ進めていく。
「おーい、誰かいますか?」
ゆっくり、少しずつ光の方へ歩いていった。そこには小さな焚き火が赤く輝き、まるで見知らぬ者を歓迎するようにその温もりを放っていた。歩みを速めると、火の周りには旅人が座っているのが見えた。旅人は静かに焚き火の炎を見つめ、時折木をくべては火を大きくしている。
「ん、暖かい……」
近づくにつれて、薪がパチパチと音を立て、焚き火の温もりが肌に伝わってきた。火の光が旅人の顔を照らし、その表情が柔らかく浮かび上がる。背中を丸めていた体も、火の温もりを感じて少しずつほぐれていくようだ。煙がほんのりと鼻をくすぐり、冷えた体に暖かさが浸透していく。
「こんばんは」
声をかけると、旅人はゆっくりと顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべてこちらに目を向けた。
「一人かい? 夜道は危ないよ、暖を取っていきな」
そう言って、焚き火の近くの空いている場所を指で示す。火の温もりと共に、長い旅の疲れが少しずつ解けていくように感じた。
空いてるところに腰掛けると、お腹が「ぐぅー」と大きな音を立てて鳴った。その音は、周囲の静寂を引き裂くように響き、恥ずかしさが一瞬胸に広がる。
「あんた、腹が減っているんだね。これでもお食べ」
旅人はそう言うと、焚き火の中で串刺しにして焼かれた野鳥の丸焼きを差し出す。皮がついたままの、黄色い鳥であった。
「すみません、ありがとうございます」
その肉を手に取るために、手を伸ばすと指先がわずかに震える。心の中では、思わず反射的にためらいが生まれる。しかし、すぐにその思いを押し込め、冷静に焼け具合を確認する。口に入れる瞬間の緊張感が、まるで初めての冒険に踏み出すような不安を呼び起こす。
「いただきます」
肉を一口、噛んでみると、その温かさが舌に広がり、香ばしさとともに何とも言えない味わいが口いっぱいに広がった。それでも、心の中でどこかに残る躊躇いが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「カナリアだよ。皮もパリッとしていて、美味しいだろう?」
「はい、美味しいです」
蓮はそれだけ言うと、味わうようにしてカナリアを食べた。そんな姿を、旅人は頷きながら見ていた。
「あんた、これからどこへ?」
旅人は不思議そうに蓮の方を見て尋ねた。
蓮は顔を上げて、旅人と目を合わせる。炎に照らされたその顔は、珍しくも緑色の肌をした女性だったことに気づく。
「えっと、ネイトエールに」
蓮はそう答えると、女性の姿をもう一度目に移す。綺麗な顔立ちをした女だった。目と眉がつり上がっていて、彼女の顔を引き締めて見せる。青紫色の唇がゆっくり動く。
「ネイトエール……? あんた、もしかして迷子だね。途中で方向を間違えたろ」
女性が首を傾げると、高い位置で結ばれた髪が揺れる。細かく編み込まれた髪の毛から、彼女の器用さが伝わってくる。
「そんなはずは! 行きと同じ道を辿ってただけなのに……」
女性は楽しそうにケラケラ笑うと、懐から地図を取り出して蓮にみせた。
「今あたしらがいるのは、多分だいたいここら辺。ここからだと、交易都市・テルヴァンが近いね」
女性が指さした現在地は、ネイトエールから西にずれたところだった。
「そ、そんな……」
蓮は独り言のようにそう言うと、頭を抱えた。
「まぁ、大丈夫さ。テルヴァンまで行けば、馬車を出してもらえるはず。そうしたら歩かなくとも、ネイトエールまですぐ着けると思うよ」
女性はそう言うと、焚き火の中からもう一本の鳥の串刺しを取り出し、蓮に渡した。
「ほら、お食べ」
「でも、それじゃあ、あなたのが……」
「あたしはもうフェレットを食べたよ。だから気にしないで、さあ」
まるで年の離れた姉ができたような感覚だった。
蓮はぺこりと頭を下げると、もう一羽のカナリアを貰う。二度目は先程より味わって食べる。焼き鳥に近い食感と味だった。命に感謝しなくては。
「そうだ、あんた名前は?」
「蓮です。あなたは?」
「あたしはグリンダ。ドワーフ族の商人さ。明日テルヴァンに行って、物資を調達する予定でね。もしあんたがついて来るっていうなら、道案内をするよ」
グリンダはそう言うと、傍に置いてあった木をくべて火を大きくした。
ドワーフ族と言えば、勝手に背が低くて鼻が大きな男ばかりをイメージしていたが、どうやら偏見だったらしい。
「グリンダさん、お願いします」
蓮は再び頭を下げたあと、パチパチと燃える焚き火にあたった。
その間、グリンダは蓮の容姿に興味がないのか、何も詮索してこなかった。人は見た目で決めるものでは無いと、彼女から教えられているようだった。
「蓮、疲れてるでしょ。少し目をつぶってていいよ」
グリンダはそう言うと、鞄からブランケットを取り出して蓮の肩にかけた。カッコよすぎる振る舞いであると同時に、自分の男としての情けなさに恥ずかしさを覚える。
「色々すみません。見ず知らずの奴にこんな優しくしてくれて、ありがとうございます」
「いいよ。旅人は助け合いだからね。蓮、また明日ね」
温かさを感じながら、ゆっくり視界がぼやけていく。心地よい感覚だった。焚き火の温もりに包まれ、いつの間にか意識が遠のいていった。炎の跳ねる音と、木がパチパチと弾ける音が、まるで心地よい催眠のように耳を撫でる。ただ無意識のうちに、身体はその温もりに委ねていた。
***
やがて、近くで弓の弦を弾く音と、矢が空を切る鋭い風音が蓮の意識を引き戻す。冷たい朝の空気が頬に触れ、蓮は目を覚ました。
火はすでに弱まり、灰色の煙がわずかに立ち上っている。周囲は薄暗く、夜の名残がまだ消えきらない。目をこすりながら体を起こし、ぼんやりとあたりを見渡すと、空がほんのりと白み始めていることに気づいた。矢が何かに命中する鈍い音が再び聞こえ、その音が次第に近づいてきていた。
寒さに身震いしながら立ち上がり、焚き火の跡を見つめる。まだ残る温もりを手に感じながら、何もかもが静かな朝の幕開けであることを実感する。
そして、狩りの音が続く中、蓮は足元を確認しながら、少しずつその音の方向へと足を向ける。
その先には、弓を構えたグリンダの姿があった。矢筒には数本の矢が残っており、足元には仕留めた獲物の影がある。
「グリンダさん、おはようございます」
グリンダは蓮の方を振り向くと、弓を下ろした。
「やあ、蓮。少しは眠れたかい?」
「はい、おかげさまで。朝から狩りですか?」
「ああ。テルヴァンに住む知人が、烏の羽を求めてるんだよ。せっかくだから、一羽持っていこうと思ってね」
グリンダはそう言うと、地上に転がる烏の死体を拾い上げた。その瞳はピクピクと痙攣していて、まだ生きているけれど、まもなく死を告げることを知らせていた。グリンダは懐から袋を取り出すと、そこに烏を入れて肩に背負った。
「朝食はテルヴァンで食べようか。今から向かえば、昼前には着くはずだからね。さあ、行こう」
グリンダに言われるまま、蓮は彼女の背を追いかける。蓮よりも少し身長が高い彼女は、まるで本当のお姉ちゃんのように頼もしく感じるのだった。




