狭間の中で出会ったのは、 後編
はるか昔、人間と架空ノ者は一つの世界で共存していました。しかし神は、異なる種族の共存は難しいと考え、世界を人間界と架空界の二つに分けました。神はこの二つの世界が二度と交わらないよう、狭間を作ったのです───『架空説』より。
「えっと、スミレさんは、妖精なんでしょうか?」
蓮が真剣な表情でそう尋ねると、蓮の横に座っていたスミレは、突然吹き出すように笑い出した。
「ふふっ、それ以外何に見えるの? 蓮って面白い子ね」
スミレの笑顔は、無邪気な少女のようで可愛らしく、蓮は一瞬その笑顔に心を奪われた。口元を隠して笑う手の隙間から、白くて綺麗な歯がちらりと見え隠れする。
「いや、なんだかまだ信じられないです。妖精って、現実にいるんですね」
蓮がそう言うと、スミレは少し首を傾げる。
「現実って、あなたが言う『人間界』のこと?」
「そうです。昔、オカルト好きな友人がよく架空界や架空ノ者の話をしていたんですが、まさか本当に妖精が存在するなんて」
蓮は、小学生の頃に図書室で借りた『架空説』の内容を必死に思い出そうとした。しかし記憶があまりにも昔過ぎるせいか、うまく思い出せなかった。
「架空……ね。なんだか酷い言い方よね。でも、私は今、こうして蓮の目の前にいるんだから現実よ。だってほら、ちゃんと存在してるでしょ?」
スミレはにっこり笑ってそう言いながら、蓮の手を取って、自分の胸元にその手をそっと当てた。
「ね?」
スミレの瞳は、まるで蓮を試すようにじっと見つめている。彼女の手のひらに触れると、蓮の心臓がドキリと鳴った。指先に伝わる柔らかい感触に、蓮は思わず息を呑んだ。このまま触れていたら、何かを失いそうな気がして、慌てて手を引っ込める。手のひらからは、じんわりと汗が滲み出ていた。
「あの、架空だなんて失礼な言い方をしてごめんなさい。スミレさんから見たら、俺はどういうふうに見えてるのでしょうか?」
「どうって────人間、でしょう?」
スミレは、蓮の問いに少し笑いながら答えた。彼女の瞳は冷静で、どこか優しさを帯びていた。
「あなたが言いたいこと、わかるわ。どうして私たちが出会ったのか、今ここで見ているのが夢なんじゃないか、そんなふうに思ってるんでしょう?」
スミレには、蓮が考えていることが手に取るようにわかっているようだった。蓮がコクリと頷くと、スミレは小さくクスっと笑った。
「実はね、どうしてあなたと出会えたのか、私にもよくわからないの。でも、私たちは今ここにいる。それが真実よ」
スミレはそう言うと、その場を立ち上がり、蓮に向かって手を差し伸べた。
「行きましょ、蓮」
蓮は何も言わず、スミレの手をそっと握った。出会ったばかりの彼女の手は、白く細く、少し温かかった。
ふと彼女の顔を見て思った。スミレは、どうしてあの時泣いていたのだろう? 彼女の瞳に映るのは、俺ではなく、過去の誰かだったのだろうか? そんな疑問が湧いてきたが、蓮はそれを口にするのをやめた。今、隣で笑っている彼女に、そんなことを尋ねるのは失礼だと思ったからだ。
それに昔、はな美が言っていた言葉を思い出した。「女に泣いている理由は聞いちゃだめ、黙って抱きしめるのが男だ」なんて。
蓮はその言葉を思い出し、ふと自分の胸にこみ上げる感情に気づいた。スミレを今この場で抱きしめたい、そんな想いが頭をよぎった。しかしすぐに、その思いを押し込めた。出会ってまだ一日も経っていない相手で、しかもその相手が架空ノ者──妖精だ。蓮は不安を胸に抱きながらも、彼女の横顔を見て微笑んだ。
「あ、スミレさん、そういえば行くってどこに?」
蓮はスミレに連れられて外に出ていたが、目的地を聞いていなかった。
「ごめんなさい、言ってなかったわね。ここにいても何も無いし、私の家に行こうと思ったの。そこでお礼でもさせてちょうだい」
「えっ……スミレさんの家はあそこじゃなかったんですか?」
蓮は家があったはずの場所を振り返る────あれ。
「家、ここにありましたよね?」
突然の出来事に体が硬直して動けなかった。背筋が凍るという表現がぴったりだと、蓮は思った。
「蓮、大丈夫よ」
スミレはそう言って蓮の腕を引き、森の奥へ進んでいった。蓮は喉が渇くような感覚を覚えながらも、無理にスミレの後を追った。元々家など存在しなかったのだ、と自分に言い聞かせながら。
───間。
森の中、蓮とスミレの足音だけが静かに響く。蓮はその音に紛れさせるように口を開いた。
「そういえばスミレさん、この森にはいつから? 俺、物心ついた時から気づいたらここに来てて。風の音とか自然の音がすごく心地よくて……」
スミレは少し驚いたように目を見開き、蓮に続いて答えた。
「私も、子どもの時からこの場所が好きだったの。もしかしたら私たち、昔どこかで会ってたりしてね」
「へえ、スミレさんも! たしかに、会っててもおかしくないですね──」
───言葉と言葉を繋げる。蓮は頭の片隅で浮かんだ矛盾を解こうとしながら、言葉を整理して伝えた。
「でも、不思議ですね。その、俺とスミレさんは住んでる世界が違うのに、お互いが知ってる同じ場所があったなんて」
「確かにそうね。こんな綺麗な場所なかなかないわよね。ほら、見て! 蓮、知ってる? シルフよ」
蓮はシルフと呼ばれる小さな蝶のような、生き物の姿を見た。それはまるで精霊のように、透明感のある美しい存在だった。
「綺麗ね。シルフはよく道に迷った子を助けてくれるの。とても優しい子なのよ」
スミレはそう言ってシルフに手を伸ばした。蓮はふと、違和感を感じ立ち止まる。
「蓮、どうしたの?」
スミレは心配そうに蓮の顔を見つめる。蓮は無言で、頭を抱え、独り言のように呟いた。
「この花はなんだ? この実は? この鳥は、この生き物は────なんなんだ?」
周囲には見たこともない生き物や植物で溢れていた。蓮の違和感が間違っていなければ、森の奥へ進むにつれて──いや、森を出ようとすればするほど、周りの生き物たちが蓮の知らない姿に変わっていった。
蓮は吐き気を感じ、突然視界が暗くなる。───何も、見えない。
その時、スミレが蓮の両耳を塞ぐ。
「蓮、落ち着いて。まずは森を抜けましょう。家に着いたら、たくさん話をしましょう。大丈夫、大丈夫だからね」
目の前にスミレの顔が映る。蓮は必死に、視界が閉ざされないようスミレを見続けた。
スミレは震える蓮の手をぎゅっと握り、再び歩き出す。
「蓮、あと少しだから、大丈夫よ」
スミレの声、優しく、安心させる声。蓮はふと、思い出したかのように呟いた。
「────狭間」
その言葉が口をついて出たとき、森を抜けて辺りが明るくなり、蓮は目の前に広がる景色を見て息を呑んだ。
「なんだ……? ここ」
視界には、まるで童話の王族が住んでいそうな城がそびえていた。その城を囲むように大きな城壁が街全体を取り囲んでいる。その光景は、人間界を知る蓮にとって、あまりにも異様に見えた。
そして、それだけではなかった。その景色の中には、人間がいないのだ。
獣耳が生えている者、全身が毛むくじゃらな者、鱗をまとった者、羽が生えて空を飛ぶ者────。
蓮はその奇妙な光景を見て、信じたくなかった────しかし、信じざるを得ないことを確信した。
「スミレさん、ここは、架空界ですね?」
スミレが答える前に、蓮は反射的に、本能的に来た道を戻って走り出す。
「待って、蓮!」
スミレの足音が追ってきたが、蓮はそれに気づかないふりをして必死に走り続けた。周りの景色がいつもと違っていても、知らない生き物の鳴き声が聞こえても、ただ前へ、前へと走った。
違う、違う、違う──ここは架空界じゃない。俺は人間だ。架空界に来れるわけがない!
そう自分に言い聞かせながら、蓮は走る。走って、走って、息が出来なくなるほど走り続けた。
木々の影が揺れ、ざわめく風が頬をかすめる。だが、ふとした瞬間、胸に奇妙な違和感がよぎる。
「……この道、さっきも通った?」
周囲を見渡すと、どこかで見たことのある木が目に入る。特徴的な節のある幹、斜めに伸びた枝。その隣にある岩も、ついさっき横目に捉えた気がする。だが、そんなはずはない。ただ前に進んでいただけなのに——。
背後から響く足音に、蓮は歯を食いしばる。考えている暇はない。とにかく走るしかない。
しかし、次の瞬間——彼は足を止めた。
「——行き止まり、だと?」
目の前には、黒く湿った岩肌がそびえ立ち、道を塞いでいる。回り込む道はない。蓮は息を詰まらせた。
その時、視界の隅でひらりと光が舞う。
蝶だ。
青白く透ける翅が、ぼんやりと光を放ちながら、ゆっくりと揺れた。まるで、蓮を歓迎するかのように。
心臓が嫌な音を立てる。そうだ──スミレと出会った場所は、初めからこんな風に、美しく、不気味だった。
「快人! はな美! 母さん!」
蓮は叫んだ。森の奥へ向かって。しかし、返ってくる声はない。吸い込まれるように、音は消えた。
奥など────初めからなかった。
「蓮!」
背後からスミレの声が響く。蓮は咄嗟に耳を塞ぎ、叫んだ。
「来るな!」
体が震える。膝が崩れ、その場に座り込んだ。
何も見えない。何も見たくない。膝を抱えて頭を埋めると、今日あったことがすべて夢であってほしいと願った。
スミレはゆっくりと、震える蓮に近づき、言った。
「怖かったわね。大丈夫よ」
スミレは蓮の横に座り、背中を優しく撫でた。まるで子どもをあやすように。
「大丈夫よ、大丈夫」
どうしてか、涙は出なかった。人間は本当の恐怖に直面すると、涙が出ないものだと、蓮は知った。
「どうして……」
蓮は小さな声で言った。
「どうして、俺なんだよ。スミレさんが、人間界に来るっていう選択肢だってきっとあっただろ。なのに、なんで俺が架空界に来ちゃったんだよ」
スミレはゆっくりと頷きながら、蓮の話を静かに聞いていた。
「俺、もう帰れないのかな。母さんや快人、はな美にもう会えないのかな」
スミレは何も言わず、蓮の頭を優しく撫でると、深く息を吸って歌い始めた。
スミレの歌声は華やかで澄んだものだった。誰が聞いても美しいと感じるだろう。その歌声に、蓮はつられて来たのだ。
「やめろ……その歌を歌うな!」
蓮は目をつぶった。しかし、耳を塞ぐことはできなかった。鳥のさえずり、小動物の鳴き声、川のせせらぎ、そして蓮自身──この森の全てが、彼女の歌声に魅了されていた。
気づけば、スミレの周りには多くの動物や精霊シルフが集まっていた。森の隅から隠れていた者たちが、スミレの歌声に導かれて集まったのだろう。
「ずるい。こんなの、ずるいだろ……」
蓮は顔をあげ、言った。
目の前には、怖くなるほど美しい景色と、その景色を支配するように歌を歌うスミレがいた。蓮はその美しい姿から目を離すことができなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。空の色はすっかりオレンジ色に変わり、蓮はその最後の光が雲に消えるのをじっと見つめていた。肌寒ささえ忘れるほど、空は美しく輝いていた。
薄暗くなった周りには、シルフたちがまるで蛍のように光を放ち始めていた。
「シルフはね、夜になるとこうやって光るのよ。自分たちが美しく生きてきた証だとも言われているの」
スミレはそう言いながら、手を伸ばして羽ばたくシルフを招く。
「おいで」
スミレの優しい声に応え、シルフが彼女の手のひらにちょこんと座った。蓮はその光景をじっと見つめた。
シルフがその手のひらで光を放ちながら、ますます明るくなっていった。しかし不思議と、まったく眩しくないその光は、蓮とスミレを温かく包み込んでいた。
蓮は、シルフに照らされたスミレの方に自然と目を向けた。
なんて美しいのだろう──蓮は改めてそう感じた。彼女の白く長い髪が風になびいている。その毛先が少しくるりと巻いているのも印象的だった。彼女が人間離れして見えるのは、確かに妖精だからかもしれない。でもそれ以上に、彼女の姿が純白で美しすぎたからだ。蓮と全く違う高い鼻筋、壊れそうなほど美しい輪郭、その顔立ちをさらに際立たせるように白い髪が揺れていた。
蓮はそんな彼女の横顔をなぞるようにして見つめた。エルフの耳と呼ばれる尖った耳に、小さく揺れる花のピアスが飾られていた。そのピアスはドレスと同じ薄紫色だった。
「ねえ、そんなに妖精の姿が面白いかしら?」
スミレがクスッと笑って蓮と目が合った。その瞬間、何度目だろうか、蓮はまた目を奪われてしまった。
スミレの瞳は、紫にも青にも見える深海の宝石のような、魅惑的な色をしていた。
「スミレさん。あなたは一体」
蓮は再び問う。初めて出会ったときと同じように。
「私のことを知りたい?」
スミレはそう言って、蓮に手を差し伸べた。
きっと、この手を再び握れば、もう二度と逃れられないだろう。甘い毒のように、彼女の罠にかかってしまうに違いない。それでも、蓮はどうしようもなく彼女に引き寄せられていた。
「はい」
蓮はスミレの手を握った。大丈夫。きっと大丈夫だ。
蓮は呪いのようにそう心の中で唱えると、一歩ずつ進んでいった。
《人間界 人物紹介》
峰野 蓮
普通の高校三年生。人付き合いが苦手で信頼している人間にしか心を開かない。帰宅部のため休日は一人で森へ行くことが日課だが、幼馴染である快人とはな美にはその場所を教えており、一緒に行くことを許している。
岡山 快人
蓮と同い歳の幼馴染。保育園から高校の今までずっと蓮と一緒の環境で育ってきたが、その性格は蓮と対象的である。サッカー部で、運動が得意である。蓮とは家が近所で、部活動がない日はお互いの家に遊びに行くことが多い。
神尾 はな美
蓮と快人の幼馴染。蓮より一個上で、今は美容の専門学生をしている。高校時代は同じ学校であり、よく蓮や快人にちょっかいを出していた。多趣味で気さくな性格をしており、蓮とは違って友達が多い。