初任務
マアト村の夜はとにかく静かだった。物音一つせず、街灯だけが薄暗くチカチカと光っている。風の音もなく、周囲は完全に沈黙に包まれていた。そんな中、蓮とタオは畑の近くにある物置小屋の裏に身を忍ばせていた。薄い月明かりが二人の影を長く伸ばしている。
「なあ、本当に魔物が出るのかよ」
蓮は声を潜めて、少し不安げに尋ねた。
畑を見張り始めてから数時間が経っていたが、一向に魔物が姿を見せる気配はなかった。辺りに漂うのはただの静けさだけで、予想していたような緊張感は感じられなかった。
「もう少し待とう。ヌトの話じゃ、確かにここの畑が朝方荒らされてたらしい」
タオは冷静に答えながら、じっと畑の奥を見つめている。彼の視線は鋭く、夜の闇に慣れているようだった。
「とは言ってもなあ。もしかしたら魔物のやつ、俺たちの姿を見てビビって逃げたんじゃね?」
蓮は肩をすくめ、苦笑いを浮かべると、ふぁあと大きなあくびをした。眠気もピークで、目の前の任務がどうでも良くなってきていた。普段なら眠気に打ち勝って仕事をこなすことができるが、この静かな夜には心が折れそうだった。
そんな中、タオが急に反応を見せた。ピクリと耳を動かし、その場で姿勢を低くする。
「蓮、よく聞け」
「ん……?」
蓮がすぐに反応して耳を澄ますと、遠くからブタのような低い鳴き声が聞こえてくる。獣のような、威圧的で不快な音だ。蓮は息を呑んで、その声の方向を見つめた。気づけば、恐る恐る影から一歩踏み出し、目を凝らして周囲を探る。
「タオ、あれは?」
畑の奥にある小さな森──そこから、大きくて鋭い牙を生やした得体の知れない化け物が、斧と棍棒を振り回してこちらに向かってきていた。夜の闇に浮かぶその姿は、まるで悪夢から出てきたようだった。その見た目はイノシシに似ているものの、大きさはイノシシより一回りほど大きく、体も一層がっしりとしていた。そのうえ、蓮の知っているイノシシとは違い、それは二足歩行で歩いている。背中にはボコボコと岩のようなものが無数に突き出ており、暗闇の中でもその異常な大きさがはっきりと分かった。
「オークだ、イノシシの一種だよ。おそらくあれが畑を荒らしている正体だろう」
タオは冷静に呟いた。顔には微かな興奮とともに、冷徹な目つきが浮かんでいる。
「蓮、お前の任務だ。俺はここで見ているから、行ってこい」
タオは無駄な言葉を発せず、ただ言い放った。その言葉の後、蓮の背中を突然押した。
「ち、ちょっと……!」
蓮の目にオークの姿がはっきりと映る──その瞬間、オークが不意に目を合わせた。大きな唸り声をあげ、獣のように威嚇する。その眼差しはただならぬ迫力を持ち、蓮の背筋が一瞬にして凍りついた。
「ちょ……待って! 正面戦闘!? 聞いてないよこんなの……!」
蓮は慌てて背を向け、足元の不安定な土を蹴るようにして走り出した。追いつかれたら終わりだ、という本能的な危機感が全身を駆け巡る。振り返る暇もなく、ただひたすらに走る。だが、後ろから聞こえてくるドスドスとした足音が、追ってきていることを示していた。
蓮は必死に足を速め、物置小屋の裏手を曲がりながら、走り続けた。
「くそっ、どうすればいいんだよ……!」
焦燥感にかられ、蓮は頭の中で必死に対策を練ろうとするが、次第にオークの足音がますます近づいてくる。その時、背後から一気に突進してくる気配を感じて、蓮は思わず足を止め、体を横に避けた。
「ぐはっ!」
オークの体が横をかすめ、強烈な衝撃が蓮の肩を打つ。蓮はよろけて、地面に膝をついて転びそうになる。瞬間的にオークの鋭い牙が目の前に迫り、蓮はそれを避けるために身体をひねりながら立ち上がった。
「なんでこんなときに限って……!」
蓮は無意識に呟き、必死に剣を取り出してオークに向けて振り下ろした。
「なんだ、この硬さは……!」
剣がオークの岩のような皮膚に当たり、ほとんど効果がない。オークはまた唸り声を上げ、棍棒を振りかざして蓮に向かってきた。
「そんな……! 簡単に倒せる相手じゃないのかよ!」
蓮は後ろに飛び退きながら、剣をしっかり握り直して再び振り上げた。オークの動きを止めるため、剣の先をオークの脚に向けて振り下ろす。しかし、岩のような硬い皮膚がそれを防ぎ、思うように切れない。オークはその巨体で地面を揺らしながら、再び蓮に向かって猛突進してきた。蓮は焦りを感じながらも、なんとか避けるが、オークの棍棒が地面を叩く音が耳に響く。
「まじで勘弁してくれ……!」
蓮はとにかく逃げようとするが、足元が重く感じられ、すでに体力の限界が見え始めていた。その時、背後から突然、タオの冷静な声が響いた。
「蓮、よく見ろ。相手の弱点はその体の中心だ」
タオの言葉に、蓮は一瞬驚いた。どうしてそんなことを知っているのか──しかし、蓮はすぐにその言葉を信じ、再度オークを見据えた。オークの体は巨大で、岩のような皮膚に覆われているものの、その真ん中にはまだ弱点があるはずだ。
「待てよ、もしかして……」
蓮は思い切ってその場で立ち止まり、オークが近づいてくるのを待った。オークが槍のような棒を振り上げる瞬間、蓮は急に横に跳び、オークの背後に回り込んだ。オークはその勢いのまま目の前に何もないことに気づき、振り向くが、蓮はすでに再び剣を振り上げていた。
「これだ!」
蓮は一気に剣をオークの背中の隙間に突き刺す。オークがびくりと震え、痛みにうなり声を上げたが、剣は岩のように固い皮膚に深く食い込んだ。
「やった!」
オークは両手を地につき、そのまま動かなくなる。蓮は剣を抜いてトドメを刺そうとするが、突然オークが四足歩行に変わり、地面を踏みしめて猛スピードで突進してきた。
「ぐはっ!」
オークの角が蓮の腹に突き刺さり、蓮は息を呑む。鋼のように硬い角が食い込み、背中が地面に叩きつけられる感覚が走った。体が縮み、痛みで動けなくなる。
オークはさらに圧力をかけて押しつぶそうとする。蓮は必死に後ろに転がり、攻撃を回避しようとするが、腹の痛みで動きが鈍い。オークの足音が再び近づく。
「まずい、どうにかしないと!」
オークは鋭い爪で威嚇し、再び襲いかかる。蓮は冷静に後退して回避。オークの体にはまだ剣が突き刺さったままだが、痛みを感じることなく再度突進してきた。蓮はギリギリで危機を回避し、素早く立ち上がる。
「俺の知ってるイノシシじゃない!」
蓮は剣を引き抜こうとするが、オークの皮膚が固くて簡単には抜けない。力を込めてようやく剣が抜け、血が飛び散る。
「やっと抜けたか…。次は絶対に負けない!」
蓮は息を整え、オークの心臓を狙い定める。オークが再び突進してくる。蓮は待機し、剣を握りしめる。
──ドン!
音が耳を貫き、オークの胸に剣が深く突き刺さった。オークは大きな声を上げ、衝撃でその場に崩れ落ちる。血が地面に広がり、動かなくなる。蓮は冷静に歩み寄り、オークの死を確認する。
「殺った……のか…?」
蓮は剣を引き抜き、鉄の匂いが漂う中、深く息を吐く。心の中の雑音が静まり、ようやく一息つける。
その瞬間、背後から声が響いた。
「何を突っ立っているんだ。早く処理するぞ」
その声に、蓮は身体を震わせることなく反応し、振り返る。蓮の背後に立つタオは、手に魔力を宿していた。その魔力は、薄く光る青いオーラのように、タオの指先からじわりと広がっている。
「タオ、どうするつもり?」
タオは何も言わずに、その魔力をオークの死体に向けて放った──直後、オークの周りを囲うように炎が燃え上がった。炎は瞬時に広がり、死体を包み込み、あたりにパチパチと音を立てながら燃え続ける。
「魔物の死体は放置しない方がいい。やつらはすぐ群れる、仲間がやってきたら面倒だからな」
タオはそんなことを言いながら、火が揺れるのをじっと見つめていた。炎の周囲に温かさが広がり、戦い終わりの静けさを和らげるようだ。夜風が冷たく吹いているが、火の前に立つと、ほんのりと温もりを感じられた。
「タオが魔法を使えるなんて初めて知った」
蓮は少し驚いた様子でタオを見た。タオの魔力の扱いが、意外にも安定していることに驚きつつ、少し興味を引かれている。
「今のは生活魔法。火を出す基礎的な魔法だ」
「へえ……他にはどんなものがあるの?」
「火、水、風、光──この四つの魔法は架空ノ者の誰もが最低限持っている。ただし、獣人族は生まれ持った魔法適性能力が低い。今みたいに火を出すだけなら問題ないが、威力を増したり、攻撃魔法として進化させるのはなかなか難しい」
タオは悩むように小さなため息をついた。その言葉には少しの無力感も含まれているように見える。
「じゃあタオはいつも無魔力で戦っているの?」
蓮の質問に、タオは少し苛立った様子で答えた。
「獣人は自分の体や使っている武器に魔力を込めて戦うことが多い。俺が変異するのも、一種の魔力みたいなもんだしな。ついでに言うと、無魔力はお前みたいなやつが言うことだ」
タオはそこで言葉を切ると、ふと我に返ったように蓮を睨みつけた。
「そもそも、なんでお前にそんなこと話さなきゃいけないんだ?」
「いやあ、俺もいつか魔法が使えたりしないかなあって思ってさ」
蓮が冗談交じりでそんなことを言うと、タオは呆れた顔をした。
「お前は馬鹿か? 人間がいくら魔法を練習したって、適性能力がなきゃ一つも唱えられやしない」
「そんなこと分かってるよ、ほんとタオってつまんないよな」
タオは小さな舌打ちをすると、ぶっきらぼうに言った。
「黙れ。お前の初任務は終了だ、宿に戻るぞ」
蓮は「了解」とだけ言って、タオの後に続いた。足音だけが静かな夜に響いた。




