黒猫の住処 後編
「クロネが──あたいの妹がごめんにゃー」
ミーニャはそう言うと、黒猫・クロネが持っている鞄をスミレに手渡す。クロネは一瞬、恥ずかしそうに顔を下げて、ミーニャの後ろに隠れるようにして立っている。
「シロ、あなたの妹さんだったのね。反省してくれたならいいの。でも、どうしてこんなことを?」
スミレがそう言いながら、優しくクロネを見つめると、クロネは耳をピンとしぼませながら、口を開いた。
「その鞄、価値がある。だから、売れると思ったにゃ」
クロネはそう言った後、ミーニャの後ろに身を隠すようにして縮こまった。ミーニャは軽く咳払いをした後、クロネに続き、低い声で口を開く。
「盗みをしなきゃ生きていけない、そういう群れもいるにゃ。ただまあ、妖精と人間のあんたらには──いや、間違えた。妖精と亜人族のあんたらには分からない話だろうけどにゃ」
ミーニャは少し眉をひそめながら言うと、ふっと舌を出して、ぺろりと体を舐めて毛並みを整えた。彼女の柔らかな毛並みが月明かりの下で光っているのが、なんだか不思議な光景だった。
「森の奥にあたいらの集落がある。亜人族の兄ちゃんと妖精の姉ちゃん、着いてくればいいにゃ」
ミーニャはふんわりと尻尾を揺らしながら進んでいく。それに、クロネもおとなしく従って歩き出した。
「スミレ、どうする?」
「うーん、猫の集落、気になるわね! 行ってみましょう!」
蓮は少し躊躇いながらも、スミレの後に続いた。
「そういえば、シロもスミレもだけど、森で迷うことはないの?」
「あたいたちは人間と違って嗅覚や視覚がいいから、森で迷うことはないにゃ。それは妖精の姉ちゃんも一緒」
ミーニャは悠々と歩きながら、リズムよく尻尾を振り続けている。歩くたびにフリフリと揺れる尾に、蓮は思わず感嘆の声を漏らす。
「へえ、すごいなあ」
お尻と尾を眺めながらそう言った。つい目が引き寄せられてしまう。
「シロとクロは基本四足歩行なの?」
「シロとクロって!」
ミーニャは少し頬を膨らませると、怒ったように言った。彼女の表情が、愛らしくも面白い。
「二足歩行もできるけど、こっちの方が楽にゃ」
クロネはミーニャに代わって、それだけを冷静に言うと、テクテクと前を歩き続けた。
「そういえば、亜人族の兄ちゃんと妖精の姉ちゃん。名前はなんて言うにゃ?」
「スミレよ。こっちが蓮。シロ、クロネ、よろしくね」
「もう好きに呼べばいいにゃ」
ミーニャは呆れたように肩をすくめ、「やれやれ」と言いながら歩き続ける。
「スミレ、それから蓮。着いたにゃ、ここがあたいらの集落にゃ」
森の中に隠れた小さな集落──通称『キャッツリー』。目の前に広がるその景色に、蓮は驚きの声を上げた。木々の間にいくつもツリーハウスが建っており、それらをつなぐ橋やハシゴがいくつも掛かっている。まるで秘密の基地のような、そしてどこか懐かしい雰囲気の漂う空間だった。
「すごい……! この木って全部家? 迷路みたいだ!」
蓮は目を輝かせながらその景色に圧倒されていた。木の上にある家々は、まるで自然と一体化しているかのようだ。
「シロ、ここは猫の集落──ってことでいいのかしら」
「にゃ。ここに住む種族のほとんどが猫人にゃ。中には年老いた虎やチーターの先住民もいるけど──まあ基本は、肉食獣の弱者が集まる場所にゃ」
ミーニャは軽く肩をすくめながら答え、そのまま突然助走をつけて大きな木を登り始めた。そしてあっという間にツリーハウスの上に到達し、声を張り上げる。
「あんたらはあっちのハシゴと橋を渡ってこっちに来るにゃ! 先にあたいらは部屋で待ってるにゃー」
スミレは微笑みながら頷き、歩き出した。蓮もそれに続いて歩いた。途中、リスや小鳥たちがスミレの肩や頭に次々と乗ってきた。不思議なことに、蓮には一匹も寄ってこない。
「スミレは動物からも人気だよな」
「そんなことないわよ。たまたまちょうどいいところに肩があっただけ」
スミレはそう言いながら、肩に乗ったリスを優しく撫でた。その笑顔はまるで天使のようで、蓮の心が温かくなる。まるで自然の中で一番心地よい場所にいるような、そんな不思議な安らぎを感じる瞬間だった。
「あ、そういえばさ。さっきシロが言ってただろ、ここが肉食獣の弱者の集まりだって。あれって、どういう意味?」
スミレの肩に乗っているリスが居心地のよさそうに目を閉じ、ぬくもりを感じているかのようにくつろいでいる。スミレはリスを撫でながら、少し考えるように言った。
「同じ獣人族でも、草食と肉食の種別があるのは知っているでしょう? 身近で例えるなら、ティナが草食獣のうさぎで、タオが肉食獣の狼ね」
蓮はうんうんと頷きながら、スミレの言葉に耳を傾ける。
「肉食獣の中でも、種族ごとに習性が大きく違ってくるの。例えば猫は、肉食獣の中でもカーストは低いのよ。豹や虎には力で勝てないし、だからといって草食獣とも距離が掴めず、仲良くできるわけでもない。そうなると、どうしても生きづらくなってしまうの」
スミレが話を続けながら、歩みを止める。ふと見上げると、目の前に長いハシゴがかけられていた。まるで人間界でいうところの、マンション三階建て以上の高さがある。
「ス、スミレ。これを登るの?」
蓮は目を大きく見開き、思わず足を止める。その高さに少しひるみながらも、スミレは微笑んで答えた。
「まあ少し高いけれど──蓮なら大丈夫よ。それじゃ、私は先に上で待ってるわね」
「え、おいおい、ちょっとまって──」
スミレは軽やかに羽を広げ、風を切って一気に上へと飛び立つ。その動きの速さに、蓮は一瞬目を見張った。すぐに、スミレの声が下から響いてきた。
「早くー!」
「ま、まじか」
蓮は思わず、苦笑いを浮かべながらも、心の中で覚悟を決める。ゴクリと唾を飲み込み、足を一歩ずつはしごにかける。下を見てはいけない。ただひたすら、上を見続けるのだ。その瞬間、蓮は自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
階段やエレベーターではなく、こんな原始的な方法で上がることに少し戸惑いを感じる。しかし、振り返ればその選択肢が他になかったことも理解していた。
一歩、また一歩と登るたびに、木がきしむ音が耳に響く。「お、折れないよな?」と思いながらも、蓮は気を引き締めて登り続ける。その不安を感じる一方で、目の前にはスミレが待っているという励ましがあったからこそ、なんとか登り切ることができた。
息を整えた蓮が上に顔を上げると、スミレはすでに腕を広げて待っていた。
「行きましょ、蓮」
スミレが優しく腕を引っ張り、蓮は心臓の鼓動を抑えるようにふぅと深呼吸しながら、スミレの後を追って歩き出した。




