ティナという兎
水滴がポタンと湯船に落ちる音がやけに大きく響いた。
二人で入るには広すぎる大浴場の浴室に、蓮は何故か兎と二人で風呂に入っていた。それも、向き合って。
お互い体にタオルを巻いていたが、それでも心のどこかでいけないことをしている気持ちがあり、今すぐに逃げ出したかった。
蓮は平常心を保つために、頭の中で自分のことを心配する母親のことを考え続けた。
未彩へ。こんな息子でごめんなさい。あなたが俺を心配してる間に、俺は兎の女の子と風呂に入ってます──どうしてこうなったんだろう。
蓮の数センチ先にいるティナは、ふぅと気持ちよさそうに湯船に浸かり、目を閉じながらゆっくりと深呼吸をした。水面が静かに揺れ、湯気が薄く立ち上る中、彼女の声が蓮の耳に届く。
「手を出してもらえませんか?」
蓮は息を呑み、彼女の足や体に触れないように、身体を小さく丸めながら手を差し出した。その手は僅かに震え、目線を極力避けるように、湯船の縁や天井に視線を移す。
ティナは蓮の手を握ると、優しくその手を自分の胸元まで導いた。蓮の手が触れるその部分から、ふわりと柔らかな感触が伝わってくる。
「僕、生まれつき心臓が悪いんです。いつ止まってもおかしくないみたいで」
その言葉に、蓮の心臓が一瞬で止まりそうなほどの重みを感じる。手のひらを通して、ドクドクと不規則に震える心臓の音が耳に届き、蓮の手も微かに震え始めた。
「この心臓が、僕らを支えてくれています」
ティナは、ゆっくりと白い手袋を外した。その動作が何故か、蓮の心をさらに不安定にさせた。すると、突然、ティナが顔を赤くして叫んだ。
「あたしの胸がそんな好き? 変態!」
蓮は驚き、思わずその手を引っ込める。その瞬間、ティナから平手打ちを食らう。彼の顔に痛みが走り、言葉を失う。
「い、痛い! 急になんですか!」
ティナの目が鋭くなり、蓮は思わず息を呑んだ。彼女の視線が、脱衣所で出会った時と似た冷たいものであることに気づく。
「ったく! ティナのやつ信じらんないわ! 面倒事は全部あたしに押し付けるんだもの!」
ティナはぷくっと頬を膨らませ、蓮を睨んだ。その後、深い息をついてから、顔をそむけて口を開いた。
「あんたの感がいいなら、もう分かってると思うけど、あたしたち二重人格なの。私の名前はリリス。ティナの妹よ」
リリスと名乗るその人物は、苛立ったようにそっぽを向いた。
「生まれた時は双子だったのよ。でも、ハイリスク出産でお母さんはあたしたちを産んで死んじゃって。まあ色々あって、残されたあたしたちも精神疾患抱えちゃって今に至る──ってわけ」
リリスは両手を大きく上に伸ばし、気持ちよさそうに背伸びをした。
「それにしても、ティナってばいつもあたしの体を勝手に使うんだから。ちょっとはこっちの気にもなってほしいわよね」
蓮は混乱した頭を抑えつつ、目の前にいるリリスを見つめる。
「えっと、ティナはリリスさんで、リリスさんはティナで……? んん?」
リリスは不快そうに笑った。
「ふふ、人間ってもっと賢いもんだと思ってたけど──蓮って意外とおバカ?」
リリスは冷笑を浮かべながら、蓮を見下ろす。
「まあ、なんていうか。この体はリリスのものよ? だから本来は主格もあたし、リリスになるはずなんだけれど──何故かティナが主格で前に出てるってわけ。あたしが出てくるのはティナが一人でいる時か、戦いでピンチになった時だけなの」
リリスはそう言いながら、手袋を蓮に見せた。
「これがティナとあたしの人格を切り替えるトリガーよ。手袋をはめている時がティナ、外している時があたし──ってところかしら?」
リリスは試すように手袋を手にはめる。すると、リリスの体が一瞬、微かな痙攣を起こし、再び目付きが変わる。
「リリスと話せましたか?」
紳士的でおだやかな口調のティナが、蓮の顔色をうかがいながら尋ねる。
「話せたけど──すみません。まだ、整理がつかなくて。ティナとリリスさんは、直接やり取りができるんですか?」
ティナは首を横に振った。
「僕の意思ではせいぜい手袋に頼る事くらいでしかリリスとのやりとりができません。けれど、リリスが望めばやり取りすることができます。現に以前、初めて蓮と出会った時にリリスが少し前のめりで出てきました。リリスの目は他者を虜にしますから、蓮にも違いがわかるのではないでしょうか?」
蓮は初めて会った日のことを思い出し、リリスが見せた吸い込まれるような瞳を思い浮かべた。それが、彼女の能力の一部だったのだろうと。
「なるほど。じゃあもしかして、俺のことをたまに揶揄ってくるのもティナじゃなくてリリスなんじゃ……」
「ああ、あれは僕の時もあればリリスの時もあります。意気投合してますから」
ティナは楽しげに笑うと、蓮に手を差し出した。
「改めて、仲良くしてくれますか?」
蓮はこくりと頷き、ティナの手を握った。その手の感触が、最初の握手の時とは違って、力強く、二人分の温もりがずっしりと伝わってきた。
「あの、最後に一ついい? 俺はティナのことを男とも女とも見ない──っていう判断でいいのかな?」
ティナは少し考え、穏やかな笑みを浮かべた。
「うーん、僕は男として見てもらいたいのですが、リリスは女として見ないと怒るでしょうね。ですから、今まで通りに関わってもらえればいいですよ。それと、この事を知っているのは蓮だけです。蓮だから、秘密を話せたんです」
「なんで俺に?」
「だって、蓮は優しいじゃないですか」
ティナは照れくさそうに笑いながら、目を逸らす蓮を見ていた。蓮は少し恥ずかしそうに、顔を赤らめた。
「それにしても、今までよくバレなかったよな。脱衣所で裸を見られでもしたら、性別がバレてもおかしくなさそうだけど……」
「ああ、それなら心配いりません。今日みたいに人が少ない時間を狙って一人で入っているんです。だから、僕の裸を見たのは蓮だけしかいませんよ」
ティナは、何かを思い出したように耳をピクッと立てた。
「そういえば、今日の反応からして蓮は童貞……でしょうか? 僕の裸を見て興奮していましたよね? 少し慣れておかないと、シェリーとそういう関係になった時、大変ですよ」
ティナはにやりと笑いながら、自分の足を蓮の足に絡めた。蓮は心臓が跳ね上がり、思わず頭を掻きながら声をあげた。
「今のはリリスの発言だろ! すぐに揶揄うのやめろ。俺とスミレはそういう関係じゃあるまいし……」
「へえ、じゃあこのままタオとシェリーがくっついても文句言えませんね」
「なっ!」
蓮は言葉を失い、思わず沈黙する。
「シェリーはみんなに優しいんです。それは蓮やタオだけじゃなくて、僕にだってそうですよ。だけど、タオは違う。タオは、シェリーの存在を必要としているし、彼女に執着しています。時間との問題で、あの二人が引っ付いてもおかしくないです」
ティナは一度うーんと悩んだ後、ぱっと思いついたように言った。
「明日の朝、タオの様子を見に行くんですが、蓮もよかったらどうですか? 少しずつでいいので、タオのことを知る努力をしてみて下さい。そしたら何か、シェリーとの関係で見えなかったことが見えてくるかも……」
ティナはその場で立ち上がると、湯船を上がりながら言った。
「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
そう言って、ティナは大浴場を後にするのだった。
***
翌朝、治療室の扉を静かに開けると、そこにはベッドに座り込んでいるタオと、その様子を心配そうに見守るティナの姿があった。タオは少しうなだれている様子で、ティナは彼の状態をじっと観察している。空気が少し張り詰めているような気がした。
「タオ、具合はどうですか?」
ティナが優しく声をかけたが、タオはあまり反応せず、無愛想に答えた。
「まだ体が動かない。今日は一日寝て過ごす」
タオはぶっきらぼうにそう言うと、小さなあくびをひとつした。その仕草が少しだるそうで、ティナは心配そうに彼を見つめた。
蓮はゆっくりとその空間に足を踏み入れると、戸惑いながらも声をかけた。
「おはようございます」
蓮の声はいつもよりも小さかった。
「あ! 蓮、おはようございます。ほら、タオも挨拶してください」
ティナは明るく返すが、タオは少しだけ蓮の方をちらりと見ただけで、またすぐにそっぽを向いた。無言のまま目を閉じて、再び体を横にして寝かせる。
「蓮、すみません。タオは人見知りなので……」
ティナが申し訳なさそうに説明を加えた。蓮はその言葉にうなずき、内心では「存じ上げております」と感じながらも、軽く愛想笑いを浮かべた。
蓮の心の中では、タオという男との距離の縮め方が全く分からなかった。ティナとはそれなりに話せるが、タオはまるで壁のように感じる。もっと知りたいと思っても、彼から真っ向から拒絶されると、どうしたら良いのか全く見当がつかない。
「タオさん、あの、もしよければ今度、俺に剣の使い方を教えてもらえませんか? ティナだけじゃなくて、いろんな人のやり方を参考にしたくて」
蓮は少しでも話題を広げようと意を決して言ってみた。だが、タオの反応は冷たかった。
タオは蓮の言葉を聞いた後、眉間にしわを寄せて一瞬黙った。そして、ぽつりと一言だけ発した。
「なんで俺が人間なんかに教えなきゃいけない? 他を当たれ」
その声は少し厳しさを帯びていた。蓮は内心で「当たって砕けろとはこのことか」と感じ、少しだけ肩をすくめる。
「ですよね……」
蓮は気まずさに耐えきれず、視線をうろうろとさせながらティナに助けを求める。しかし、ティナは蓮の目を一切見ないまま、ひたすらタオを見つめていた。何か言いたそうな様子だが、結局何も言わずに黙っている。
「では、俺はこれで失礼します」
蓮はそう言うと、ぎこちなくお辞儀をして、治療室を後にした。あまりにも空気が重すぎて、逃げるようにその場を離れた。
その蓮の背中を見送るタオの視線は、依然として蓮に向けられることはなかった。返事をすることもなく、無言でベッドの上に横たわり続けた。




