表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
序章 妖精に導かれて
2/111

狭間の中で出会ったのは、 中編

  それはまるで、心の奥を誰かに直接揺さぶられたような感覚だった。

 蓮は衝動的に立ち上がり、その声が聞こえる方へと走り出した。

 耳に流れる歌声が身体の隅々を熱くし、心を震わせる。

 この歌を歌っているのは、いったい誰なのだろうか。

 どんな顔をして、どんな姿で歌っているのだろう──。

 蓮の足は止まらなかった。

 まるで誰かに導かれているかのように、歌声が響く森の奥へ、どんどんと進んでいった。



──どれくらい走ったのだろう。

 気づくと、さっきは遠くに感じた川の音が、今ではすぐ側から聞こえてきた。

 周囲には見たこともない綺麗な花が咲き乱れ、神秘的な蝶がひらひらと舞っている。

 そして、あの女性の歌声も、今ではすぐ近くから響いてきた。


「そこに、いるんだな」


 蓮は目の前の樹木に手を当て、深呼吸した。

 間違いない、この木々の奥に彼女がいる。ゆっくり、慎重に木々の隙間を抜けていく。歌声に魅了されながら、さらに奥へと進んだ。

 そして、蓮は目の前の光景に息を呑んだ。


(これは、どういう──)


 白く光り輝く大きな羽。

 それは間違いなく女性の背中から生えていた。

 神秘的に輝くその姿は、まるで童話に出てくる妖精のように美しい。

 蓮は目を奪われ、その不思議な光景から離れられなかった。


 彼女は蓮の存在に気づかず、歌を歌い続けている。

 その歌声は不思議と森を包み込み、蝶や小動物たちが彼女の周りに集まっていた。

 こんなにも美しいものが、この世に存在していいのだろうか──。

 蓮はその思いを抱きながら、ただ彼女を見つめていた。

 歌が終わりに近づくと、女性はゆっくり顔を上げ──

 その瞬間、蓮と目が合った。


「あっ──」


 蓮は驚きの声を漏らした。

 彼女の瞳から、一筋の涙が流れていた。

 その涙は、どこか切ない祈りのように見えた。

 女は細い腕を蓮の方へ伸ばす。

 今その手を掴まなければ、もう二度と彼女に会えないような気がした。彼女の存在そのものが、今にも消えてしまいそうだった。

 蓮は急いで彼女の元へ駆け寄り、優しく抱き寄せた。


「あ、あの──」


 自分でも驚くほど動揺している蓮は、言葉を詰まらせた。

 彼女を見つけ、触れた今、何も言葉が出てこないのだ。

──でも、どこか懐かしい。

 蓮は自分の中の何かが、微かに軋むような感覚を覚えた。

 彼女は震える手で一つの方角を指さした。

 蓮の顔を見ると、安心したように目を瞑った。


「あ、ま、まって!」


 彼女からの返事はなかった。

 その代わり、小さな寝息が聞こえてきた。


「寝てる──のか?」


 蓮は彼女の顔を覗き込んだ。

 毛穴一つない白い肌、ぷるんとした唇、長いまつ毛。

 そして、三角に尖った耳──。

 その容姿は、蓮が今まで見たどんな美しい女性とも違っていた。

 それはまるで夢に現れる「異世界の存在」そのものだった。

 しかし──あまりにも静かすぎる。

 胸の上下する気配もほとんどなく、かすかな吐息すら聞こえない。


(……本当に、生きているのか?)


 ざわり、と胸の奥が騒いだ。

 気づけば、蓮は彼女のふっくらした胸元にそっと耳を寄せていた。

 そこから伝わってきたのは──小さく、けれど確かに響く鼓動。


「……生きてる」


 自分の体がじんわりと熱を帯びていくのを感じた。


 ああ、もう──自分がおかしくなりそうだ。


 ドクドクと聞こえる心音が、彼女の「今」を確かに証明していた。


 やがて、蓮は彼女をそっと抱き上げ、ゆっくりと歩き出した。彼女の身体は驚くほど軽かった。普段あまり運動をしていない蓮でも、腕に負担を感じることなく抱きかかえることができた。

 どこへ向かうかもわからず、ただ──彼女が指さした方向へと、蓮は足を進める。

 彼女の寝顔は安らかだった。たとえ答えを聞けなくても、このまま置いていくなんて考えられなかった。

 歌声に導かれて、出会ったのだから。


「……ん?」


 森を抜けた先に、小さな家がぽつんと建っていた。木の香りが漂う、ログハウスのような作りだ。手入れはされているようで、壁は新しく、扉には蔦が絡んでいる。

 蓮は扉の前まで行き、コンコンとノックする。


「すみません、どなたかいませんか?」


 返事はない。人の気配もしない。

 蓮が恐る恐るドアノブに手をかけると──ギィィと軋んだ音が鳴った。鍵は、かかっていなかった。

 ほんの少しだけ扉を開き、中を覗き込む。……そこには、何もなかった。家具も装飾もなく、まるで誰かがいた痕跡すら消し去られたような、空っぽの空間が広がっている。


「……失礼します」


 蓮は声をかけてから、そっと足を踏み入れた。

 奇妙な静寂が支配していた。風も音もないのに、空気だけがかすかに揺れている。まるでこの部屋だけが別の時間、別の世界に存在しているかのように。

 蓮はそっと彼女を床に下ろすと、自分のジャケットを脱いで、彼女の肩にかけた。

 一瞬、彼女のまぶたがぴくりと揺れた気がしたが、すぐにまた規則正しい寝息が戻ってきた。


「……こんな状況で、よく眠れるな」


 蓮は彼女のそばに座り、耳を澄ます。寝息のリズムが、不思議と自分の鼓動と重なった気がした。

 心のどこかが、彼女と繋がったような──そんな錯覚。

 その耳、その羽──彼女の姿は、どう見ても人間とは異なっていた。

 妖精──そう呼ばれる存在が、もし本当にいるのだとしたら。

 ……小学生の頃、オカルト好きなクラスメイトが「妖精を見た」と言っていた。あの時は笑い飛ばしたけれど、今はもう笑えなかった。


「……ふぁぁ」


 眠気がゆっくりと襲ってくる。彼女の隣に横になると、ふわりと甘い花の香りがした。桜のようでいて、ラベンダーのような──どこか懐かしい香りだった。

 もし本当に彼女が妖精なら、妖精って……こんなにあったかいんだな──。

 そんなことをぼんやり考えながら、蓮の意識は静かに沈んでいった。


 ──見慣れない天井が、目の前に広がっていた。


「……ここは……?」


 ぼんやりと目を瞬かせた蓮の横に、誰かが座っていた。

 女性──あの彼女だ。

 目が合った瞬間、彼女はふわりと微笑んだ。


「目が覚めたのね?」


 その声が、あまりにも穏やかで──蓮の胸の奥が不思議と熱を帯びる。

 まるで人形のような大きな瞳に見つめられて、蓮は言葉を失った。

 ……いや、きっとずっと前から、彼女に心を奪われていた。


「ねぇ、聞いているの?」


 くすっと笑って、彼女は蓮の顔を覗き込んだ。

 蓮は慌てて上体を起こし、目をそらした。


「す、すみません。俺、つい……」


 心の準備もできていないまま、蓮の頭の中はぐるぐると回り続けていた。聞きたいことは山ほどあるのに、何から聞けばいいのかわからなかった。

 そんな蓮を見て、彼女は柔らかく言った。


「助けてくれて、ありがとう」


 そして、ほんの少し顔を近づけてくる。


「それより……あなたはどうして、あんなところに?」


「えっと……歌が、聞こえて……それで……つい……」


 正直に話すしかなかった。彼女の瞳は、何もかも見透かしてくるようだった。

 嘘をついても、きっと意味がない──そう思わせる瞳だった。


「……そうだったのね」


 彼女は小さく頷いて、蓮の頭を優しく撫でた。

 その仕草に驚きつつも、蓮の心はふっと軽くなる。不思議なほど、安心できる触れ方だった。


「ねぇ、あなたの名前は?」


「……峰野蓮です」


「蓮。ふふ、いい名前ね」


 そう言って、彼女はまた微笑む。花が咲くような、優しい笑顔。


「あなたの……お名前は?」


 蓮がそう尋ねると、彼女は少しだけ思案してから、静かに口を開いた。

「スミレ──とでも、呼んでちょうだい」


 ──これが、蓮とスミレの出会いだった。

 そしてこの瞬間から、静かに、けれど確実に──運命の歯車は回り始めていた。 

スミレのイメージです。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ