狭間の中で出会ったのは、 中編
それはまるで、心の奥を誰かに直接揺さぶられたような感覚だった。
蓮は衝動的に立ち上がり、その声が聞こえる方へと走り出した。
耳に流れる歌声が身体の隅々を熱くし、心を震わせる。
この歌を歌っているのは、いったい誰なのだろうか。
どんな顔をして、どんな姿で歌っているのだろう──。
蓮の足は止まらなかった。
まるで誰かに導かれているかのように、歌声が響く森の奥へ、どんどんと進んでいった。
──どれくらい走ったのだろう。
気づくと、さっきは遠くに感じた川の音が、今ではすぐ側から聞こえてきた。
周囲には見たこともない綺麗な花が咲き乱れ、神秘的な蝶がひらひらと舞っている。
そして、あの女性の歌声も、今ではすぐ近くから響いてきた。
「そこに、いるんだな」
蓮は目の前の樹木に手を当て、深呼吸した。
間違いない、この木々の奥に彼女がいる。ゆっくり、慎重に木々の隙間を抜けていく。歌声に魅了されながら、さらに奥へと進んだ。
そして、蓮は目の前の光景に息を呑んだ。
(これは、どういう──)
白く光り輝く大きな羽。
それは間違いなく女性の背中から生えていた。
神秘的に輝くその姿は、まるで童話に出てくる妖精のように美しい。
蓮は目を奪われ、その不思議な光景から離れられなかった。
彼女は蓮の存在に気づかず、歌を歌い続けている。
その歌声は不思議と森を包み込み、蝶や小動物たちが彼女の周りに集まっていた。
こんなにも美しいものが、この世に存在していいのだろうか──。
蓮はその思いを抱きながら、ただ彼女を見つめていた。
歌が終わりに近づくと、女性はゆっくり顔を上げ──
その瞬間、蓮と目が合った。
「あっ──」
蓮は驚きの声を漏らした。
彼女の瞳から、一筋の涙が流れていた。
その涙は、どこか切ない祈りのように見えた。
女は細い腕を蓮の方へ伸ばす。
今その手を掴まなければ、もう二度と彼女に会えないような気がした。彼女の存在そのものが、今にも消えてしまいそうだった。
蓮は急いで彼女の元へ駆け寄り、優しく抱き寄せた。
「あ、あの──」
自分でも驚くほど動揺している蓮は、言葉を詰まらせた。
彼女を見つけ、触れた今、何も言葉が出てこないのだ。
──でも、どこか懐かしい。
蓮は自分の中の何かが、微かに軋むような感覚を覚えた。
彼女は震える手で一つの方角を指さした。
蓮の顔を見ると、安心したように目を瞑った。
「あ、ま、まって!」
彼女からの返事はなかった。
その代わり、小さな寝息が聞こえてきた。
「寝てる──のか?」
蓮は彼女の顔を覗き込んだ。
毛穴一つない白い肌、ぷるんとした唇、長いまつ毛。
そして、三角に尖った耳──。
その容姿は、蓮が今まで見たどんな美しい女性とも違っていた。
それはまるで夢に現れる「異世界の存在」そのものだった。
しかし──あまりにも静かすぎる。
胸の上下する気配もほとんどなく、かすかな吐息すら聞こえない。
(……本当に、生きているのか?)
ざわり、と胸の奥が騒いだ。
気づけば、蓮は彼女のふっくらした胸元にそっと耳を寄せていた。
そこから伝わってきたのは──小さく、けれど確かに響く鼓動。
「……生きてる」
自分の体がじんわりと熱を帯びていくのを感じた。
ああ、もう──自分がおかしくなりそうだ。
ドクドクと聞こえる心音が、彼女の「今」を確かに証明していた。
やがて、蓮は彼女をそっと抱き上げ、ゆっくりと歩き出した。彼女の身体は驚くほど軽かった。普段あまり運動をしていない蓮でも、腕に負担を感じることなく抱きかかえることができた。
どこへ向かうかもわからず、ただ──彼女が指さした方向へと、蓮は足を進める。
彼女の寝顔は安らかだった。たとえ答えを聞けなくても、このまま置いていくなんて考えられなかった。
歌声に導かれて、出会ったのだから。
「……ん?」
森を抜けた先に、小さな家がぽつんと建っていた。木の香りが漂う、ログハウスのような作りだ。手入れはされているようで、壁は新しく、扉には蔦が絡んでいる。
蓮は扉の前まで行き、コンコンとノックする。
「すみません、どなたかいませんか?」
返事はない。人の気配もしない。
蓮が恐る恐るドアノブに手をかけると──ギィィと軋んだ音が鳴った。鍵は、かかっていなかった。
ほんの少しだけ扉を開き、中を覗き込む。……そこには、何もなかった。家具も装飾もなく、まるで誰かがいた痕跡すら消し去られたような、空っぽの空間が広がっている。
「……失礼します」
蓮は声をかけてから、そっと足を踏み入れた。
奇妙な静寂が支配していた。風も音もないのに、空気だけがかすかに揺れている。まるでこの部屋だけが別の時間、別の世界に存在しているかのように。
蓮はそっと彼女を床に下ろすと、自分のジャケットを脱いで、彼女の肩にかけた。
一瞬、彼女のまぶたがぴくりと揺れた気がしたが、すぐにまた規則正しい寝息が戻ってきた。
「……こんな状況で、よく眠れるな」
蓮は彼女のそばに座り、耳を澄ます。寝息のリズムが、不思議と自分の鼓動と重なった気がした。
心のどこかが、彼女と繋がったような──そんな錯覚。
その耳、その羽──彼女の姿は、どう見ても人間とは異なっていた。
妖精──そう呼ばれる存在が、もし本当にいるのだとしたら。
……小学生の頃、オカルト好きなクラスメイトが「妖精を見た」と言っていた。あの時は笑い飛ばしたけれど、今はもう笑えなかった。
「……ふぁぁ」
眠気がゆっくりと襲ってくる。彼女の隣に横になると、ふわりと甘い花の香りがした。桜のようでいて、ラベンダーのような──どこか懐かしい香りだった。
もし本当に彼女が妖精なら、妖精って……こんなにあったかいんだな──。
そんなことをぼんやり考えながら、蓮の意識は静かに沈んでいった。
──見慣れない天井が、目の前に広がっていた。
「……ここは……?」
ぼんやりと目を瞬かせた蓮の横に、誰かが座っていた。
女性──あの彼女だ。
目が合った瞬間、彼女はふわりと微笑んだ。
「目が覚めたのね?」
その声が、あまりにも穏やかで──蓮の胸の奥が不思議と熱を帯びる。
まるで人形のような大きな瞳に見つめられて、蓮は言葉を失った。
……いや、きっとずっと前から、彼女に心を奪われていた。
「ねぇ、聞いているの?」
くすっと笑って、彼女は蓮の顔を覗き込んだ。
蓮は慌てて上体を起こし、目をそらした。
「す、すみません。俺、つい……」
心の準備もできていないまま、蓮の頭の中はぐるぐると回り続けていた。聞きたいことは山ほどあるのに、何から聞けばいいのかわからなかった。
そんな蓮を見て、彼女は柔らかく言った。
「助けてくれて、ありがとう」
そして、ほんの少し顔を近づけてくる。
「それより……あなたはどうして、あんなところに?」
「えっと……歌が、聞こえて……それで……つい……」
正直に話すしかなかった。彼女の瞳は、何もかも見透かしてくるようだった。
嘘をついても、きっと意味がない──そう思わせる瞳だった。
「……そうだったのね」
彼女は小さく頷いて、蓮の頭を優しく撫でた。
その仕草に驚きつつも、蓮の心はふっと軽くなる。不思議なほど、安心できる触れ方だった。
「ねぇ、あなたの名前は?」
「……峰野蓮です」
「蓮。ふふ、いい名前ね」
そう言って、彼女はまた微笑む。花が咲くような、優しい笑顔。
「あなたの……お名前は?」
蓮がそう尋ねると、彼女は少しだけ思案してから、静かに口を開いた。
「スミレ──とでも、呼んでちょうだい」
──これが、蓮とスミレの出会いだった。
そしてこの瞬間から、静かに、けれど確実に──運命の歯車は回り始めていた。