傷口 前編
ふぅ……と、まるでサラリーマンが休憩中に吐くようなため息が響いた。蓮は剣を片手に、訓練所の端で座り込んでいた。
ティナが部屋を出てから数時間、蓮は真面目に剣の練習に励んでいた。しかし、今までろくに運動をしてこなかった蓮にとって、連続で剣を振ることは体力的に厳しいものがあった。筋肉がうまく動かない感じがして、肩や手に重い疲労が蓄積していくのがわかる。腕の震えが収まらず、剣を握る手が少しずつだるくなってきた。
蓮は床に転がるいくつもの木の的を目で数えながら、自分があと何回振れば的に当たるようになるのかを考えていた。今の自分の精度では、まだ遠く及ばないと感じていた。目を閉じると、剣を振るたびに心臓がドキドキと音を立てるのを感じ、心の中で焦りが広がる。
「うーん、ただ振ればいいってわけじゃなさそうなんだよな」
ポツリと呟いた独り言が、誰かに拾われることで独り言ではなくなる。
「確かに、ただ振っても意味がないかもしれないわね」
背後から聞こえる声に、蓮は目を丸くさせて振り返った。
「スミレ! いつの間にいたの?」
ドアに寄りかかるようにしてこちらを見ていたスミレは、長い髪をかきあげると蓮に近づく。
その足取りは軽やかで、まるで風に乗って歩いているかのようだった。蓮の心は、無意識のうちにその姿を追ってしまう。彼女の髪の先端が揺れ、柔らかな光に包まれている。
「訓練お疲れ様、苦戦してるみたいね」
「ありがとう、なかなかうまくできなくて。手がすぐに痛くなっちゃうし、自分がすごく情けないよ」
蓮の声には、少し疲れたような、弱気な響きがあった。自分でもそのことに気づき、恥ずかしさが胸を締め付ける。
「そんなすぐにできるものじゃないわ、息抜きも必要よ?」
スミレはそう言うと、蓮の頭をぽんぽんと撫でる。その温かな手のひらに、蓮は一瞬、安堵と恥ずかしさが入り混じった感情を抱いた。
「そういえば、ティナとタオさんはサタンとの交戦に行くって言ってたけど、スミレは行かないの?」
「私は行かないわ。万が一共倒れした時のカバーが必要でしょう? それに今日はホクト様も留守にされてるしね」
スミレは蓮の横におしりをつけて座ると、両手を広げて伸びをした。彼女からほのかに香る花の匂いが、今日もまた蓮の鼻をくすぐる。その香りは、まるで春の風のように優しく、蓮の心をどこか温かくさせる。
「ねえ、人間界ってどんなところ?」
なんの前触れもなく、スミレがそう言った。その言葉に、蓮は少し驚きながらも、スミレの目が期待と好奇心に輝いているのを見て、なんだか無性に答えたくなった。
「どんなところ……かあ。俺の住んでるところは田舎町だからそんなにすごいものとかはないんだけど。うーん、難しい質問だな」
蓮は眉間に皺を寄せて少し考えたあと、どうして? と尋ねる。
「私ね、人間界のことを本で調べたことがあるの。人はみんな、勝手に動く馬車に乗って街を移動するのでしょう? それに、四角くて大きな建物が沢山あるって」
スミレはそう言うと、楽しそうに話を続ける。その声には、夢見るような輝きが満ちていて、思わず蓮も引き込まれてしまう。
「それにね、びっくりする話も聞いたの! 人間界では猫やうさぎをペットにするんですって? ティナが聞いたらきっと驚くわ!」
あまりに楽しそうな彼女の横顔を見て、自然と蓮も口元が綻ぶ。その表情の一瞬の輝きが、蓮の胸を温かく包み込むようだった。
「スミレは、人間界に興味があるの?」
「ええ、人間界は恐ろしいところだってホクト様は言うわ。でも私は、そんな風には思わないもの」
スミレは少し頬を膨らませたあと、なにか思いついたように蓮の顔を覗き込んで言う。
「架空界は私が案内してあげる! だからそのかわりに、いつか人間界を蓮が案内してちょうだい!」
蓮はスミレが人間界に来たことを妄想する。車や電車に乗って、都会の高層マンションを見に行くのだ。そこで夜景を見たりして。彼女が嬉しそうに笑っている顔が脳裏に浮かび、胸の奥に小さな温かな期待が芽生える。
「ん、いいよ」
蓮が照れくさそうに返事をすると、スミレは嬉しそうに笑った。その笑顔が、蓮の心の中にまるで春の陽気が広がるような温かさをもたらした。
「じゃあ明日は出かけましょう。ちょうどホクト様がいないし、大チャンスよ」
「え、ほんとに? でも剣の練習が──」
「それなら大丈夫、私も教えるわ。ティナほどじゃないけれど、一応剣の使い方は慣れているの」
スミレは蓮が持っている剣に手を伸ばすと、シュッと抜き取る。そしてその剣を的の方へと向けた。その姿は、どこか凛とした強さを感じさせる。
「私がもし心臓を貫けたら、私の言うことを一つだけ蓮がきく──なんてのはどうかしら?」
スミレがこちらを振り向くのと同時に、蓮の心臓がドキリと飛び跳ねる。蓮は迷うことなく、流れに身を任せてこくりと頷いた。
「ふふっ交渉成立ね」
スミレはそう言うと、ゆっくりと大きく深呼吸をした。その息遣いが、まるで一枚の葉っぱが風に吹かれて舞い落ちるみたいに、蓮の体に伝わってきた。呼吸が落ち着き、周りの空気が静まる。ああ、心地いい。この音をずっと聴いていたい。
蓮はゆっくりと目を閉じた。その刹那、溜め込んでいた力がやっと的に当たったような、あるいは大きな鳥が長旅を終えて地に着地したような──そんななめらかで芯のある音が響く。
その音はまるで、剣の一振りとは思えないほど美しく綺麗だった。蓮はそっと目を開ける。彼女の姿をこの目で焼き付けるために。
「ふぅ。ちょっと惜しかったわ。やっぱりずっとやっていないと腕が落ちるわね」
スミレはそう言うと、蓮の方を見て恥ずかしそうに笑った。
剣は心臓ではなく、頭を突き刺していた。
「なにを俺に、言おうとしたんですか?」
スミレは蓮と目を合わせると言った。
「んー、秘密!」
窓から夕日が差し込む。
スミレの頬がオレンジ色に染まっているのは、この光のせいだろうか。蓮はしばらくの間、夕日とスミレの姿を眺めていた。




